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ソ連軍の対日参戦

「殺せ、殺せ。ドイツ民族は悪そのものだ。同志スターリンの教えにしたがえ。穴にひそむファシストの野獣どもを一匹残らずたたき出せ。暴力でドイツ女の民族的誇りをたたきつぶせ。合法的な戦利品として女どもを奪い獲れ。諸君は怒濤のように進撃するとともに、殺せ、殺せ。勇敢なる赤軍兵士よ」

 これは昭和二十年一月、東プロイセンに進撃するソ連軍兵士に配られた檄文です。みごとなまでにソビエト赤軍の本質を表現しています。ソビエト赤軍は、軍服を着た共産匪賊でした。

 そのソビエト軍が対日参戦して進撃を開始したのは昭和二十年八月九日早暁です。ソ満国境および内外モンゴル国境を侵してソ連軍と外蒙軍は侵攻を開始しました。その総戦力は兵員百五十八万名、大砲二万六千門、戦車五千二百五十両、航空機五千百七十機という圧倒的なものでした。

 ソ連軍は、満洲の東辺、北辺、西辺の三方面から怒濤のように侵攻しました。国境の関東軍守備隊は要塞陣地にこもって抵抗し、ソ連軍の進攻を一時的に止めるなど敢闘しましたが、やがて玉砕していきました。以後、ソ連軍はまさに無人の曠野をゆくがごとくに進撃しました。その侵攻地域に住んでいた在満邦人は、東プロイセンのドイツ人と同じように虐殺され、強姦され、強奪され、死んでいきました。

 ソ連の対日参戦を知った河辺虎四郎参謀次長は、その日記に「予の判断は外れたり」と書きました。


 蒙彊(もうきょう)は風前の灯火でした。蒙彊を目指して内外モンゴル国境から進撃したのは、ソ連第五十三軍とソ連第十七軍を主力とするソ連・外蒙連合軍です。その動きをいち早く確認し、通報したのは内蒙北方のラマクレ分派機関です。八月九日早朝、ラマクレ分機はソ連軍機の攻撃を受けました。

「ワレ、ソ連軍機ノ攻撃ヲ受ク」

 その後もラマクレ分機は定時交信でソビエト軍の進撃状況を後方の日本軍司令部に伝えました。同様に、アパカ特務機関の上空にもソ連軍偵察機が現れ、しばらく旋回を繰り返したのちに飛び去っていきました。

 内モンゴル各地に配置された特務機関および分派機関は直ちに撤退を開始しました。最終の暗号電報を発信すると直ちに電信機を破壊し、暗号書などの機密書類を焼き、トラックに人員を乗せて東を目指して走りました。ソ連軍機甲師団は足が速いのでボヤボヤしていたら追い越されてしまうのです。

 張家口(ちょうかこう)の駐蒙軍司令部通信隊は各方面の電信を傍受し、その暗号を解読し、司令部にとどけました。

(ついにきたか)

 ソ連軍の侵攻を知った根本博中将は、まず綏遠(すいえん)省にいる傅作義(ふさくぎ)軍の動きに注目しました。

(まさか、とは思うが)

 根本中将の危惧は、傅作義の軍勢がソ連軍に呼応して駐蒙軍に襲いかかってくる可能性でした。その可能性を完全には否定できなかったのです。

(わしと傅作義との義が、どこまで通用するか)

 数日後、傅作義軍に動きがないことを確認した根本中将はようやくひと安心しました。

(あとはソ連軍に集中すればよい)

 張家口に向かってソ連軍が南下していることは確かでしたが、その正確な位置や戦力などはまだ不明です。偵察機を飛ばせばよさそうなものでしたが、駐蒙軍には輸送機こそあれ、偵察機と戦闘機はまったくなかったのです。

 プリエフ大将の率いるソ連・外蒙連合軍は外蒙のサシン・ウデを発進し、張家口を目指して南下しつつありました。その戦力は戦車装甲車旅団、戦車連隊、騎兵師団、砲兵連隊など総勢四万二千名です。その火力は戦車・装甲車四百両、各種大砲六百門です。丸一(まるいち)陣地を守る独立混成第二旅団の二十倍に相当する戦力です。

 ソ連・外蒙連合軍の先遣部隊は、ソ連軍第二十七自動車化狙撃旅団、ソ連軍第三十オートバイ連隊、外蒙軍第七装甲旅団、外蒙軍第三砲兵連隊です。これだけでも丸一陣地を守る日本軍に数倍する戦力です。この先遣部隊は、ドロジンスキー大佐に率いられて急速に南下し、八月九日夜には内蒙チャガンオボスムを占領しました。さらに、蒙古連合自治政府の首府たる西ソニットを十一日に陥れ、十三日には徳化に達し、十四日には張北の北三十キロの地点に迫りました。張家口市街からおよそ七十キロの地点です。もはや指呼(しこ)の間です。

 駐蒙軍司令部には迫り来る敵軍の詳細がなかなか解りませんでした。やむなく根本博中将は自軍の態勢固めに専念します。全駐蒙軍に緊張を命じ、陣地補強を急がせ、鉄道警備を厳格にさせました。また、蒙彊居留民のなかから成年男子を動員し、兵站、陣地構築、警備などの任務につかせました。華北交通と蒙彊自治政府に対しては、居留民輸送をいつでも開始できるよう準備を命じました。

 そんなとき、支那派遣軍総司令部からありがたい知らせが届きます。援軍の予告でした。

「とりあえず歩兵第百十八師団を列車輸送で張家口に送る。状況によってはさらに増援する」

 第百十八師団は、去る二月の兵団長会議の決定によって駐蒙軍から上海へ抽出されていた部隊です。それをいまさらながら援軍として戻すというのです。文句のひとつも言いたくなるところですが、根本中将は余計なことは言いませんでした。ともかく援軍はありがたい。援軍の到着には五日ないし六日がかかると予想されました。根本中将は参謀に命じます。

「よいか、第百十八師団を載せた列車が張家口に着いたら、その車輌を決して返してはならん。乗務員ともども列車を張家口に留置せよ。これに居留民を乗せて北京に輸送するのだ」

「承知しました」

 そのとき、ひとりの参謀が確認のため質問しました。

「閣下、第百十八師団は丸一陣地にまわすのですね」

 すると、意外な返事が返ってきました。

「いや、ちがう。第百十八師団には、その全力で京包線の鉄道警備を命ずる。鉄道警備が最優先だ」

「しかし、閣下、それでは丸一陣地が」

「丸一陣地は独立混成第二旅団にまかせる。勝てとはいわぬ。三日間だけ持ちこたえてくれればよい」

 戦術とは非情なものです。


 ソ連が対日参戦しても張家口の治安に大きな変化はみられませんでした。だれもが普段どおりに生活しています。ただ、支那人の日本人に対する態度が変わりました。それまで日本人に笑顔を振りまいていた支那人が急に冷淡になったのです。支那人の庶民レベルの戦略が発動しはじめたのです。ソ連軍が張家口を占領すれば、支那人たちはソビエト人に笑顔をふりまくのです。古来より支那人はそうやって生き延びてきたわけです。


 ソ連軍が対日参戦した八月九日時点における駐蒙軍の配置はおおむね次のとおりでした。駐蒙軍司令部は張家口にあり、根本博中将とその幕僚が蒙彊全般の指揮に当たっています。駐蒙軍の主力たる独立混成第二旅団は主力を丸一陣地に置いて張家口の北を守っています。その司令部は膳房堡という集落に置かれました。膳房堡は、張家口市街の北およそ二十キロの地点です。旅団長渡辺渡少将と参謀辻田新太郎少佐は、予備軍たる第三大隊とともに膳房堡の司令部にありました。膳房堡の北側には外長城が東西に延びており、外長城の要所三地点に陣地が構築されています。敵がどの方面から攻めかかってきても膳房堡の司令部から予備隊をくり出せる態勢です。

 これら三陣地のうち最大のものは膳房堡の北およそ十キロにある丸一陣地です。張家口街道を扼する丸一陣地には第二大隊と第四大隊が配備されていました。さらに速射砲中隊一、砲兵中隊二、工兵中隊一も加わっています。この丸一陣地こそが張家口防衛の要です。丸一陣地の守備部隊は中地区隊と呼称されました。

 丸一陣地の西方およそ二十キロにある春墾という在所にも小規模な陣地が構築されていました。ここには第五大隊が配備され、左地区隊と呼称されました。

 丸一陣地の東方およそ四キロにある二道辺と呼ばれる集落にも小規模な陣地が築造されています。ここには独立混成第八旅団独立歩兵第三十三大隊が配置され、右地区隊と呼称されました。

 これらの三陣地は、いずれも外長城の地形を活用し、補強したものです。古来、「万里の長城は無用の長物」といわれましたが、寡兵の駐蒙軍にとっては頼りになる防塁です。

 丸一陣地から張家口街道を北へ十五キロほど行ったところに張北という小さな城市があります。ここには独立混成第二旅団第二大隊の第一中隊が抽出され、配備されていました。中隊長は増田利喬中尉です。この部隊は駐蒙軍の斥候です。

 独立混成第二旅団第一大隊は京包線の鉄道警備任務についていました。第一大隊は、わずかな兵力で張家口から北京に至るまで百五十キロ以上の鉄道沿線を警備せねばなりませんでした。第百十八師団の到着が待たれました。京包鉄道を共産匪賊に爆破されてしまったら民間邦人の後送ができなくなり、根本中将の撤退戦略が根底から瓦解してしまいます。ですから根本中将は鉄道警備をもっとも重視していました。

 鉄道警備には、この第一大隊のほか、華北交通警備隊も全力動員されています。華北交通警備隊は軍隊ではなく警察隊でしたが、それでも小銃で武装しており、軌道上を走行するモーターカーや人力のハンドカーを装備しています。

 二十六両からなる戦車隊は駐蒙軍司令部の直轄部隊となり、状況に応じて機動偵察、鉄道警備、陣地防衛などに任ずることになっていました。

 以上、「軍」と呼ぶにはあまりに貧弱な戦力でしたが、精一杯の態勢をとりました。


 八月十一日午後、ソ連軍の爆撃機群が張家口の上空に飛来し、市街を爆撃したほか宣伝ビラをまいて去っていきました。幸い死傷者はなく、火災も発生しませんでした。しかし、住民には動揺が広がりました。

 その夜、西ソニットの特務機関から発信された電文が解読され、根本博中将のもとに届けられました。

「戦車、装甲車、貨物車、合計六百両ほどの大集団が、本日正午頃、西ソニットに侵入。時速四十キロほどのスピードで南下中。貨物車百両は歩兵を満載している」

 この電報を発信した諜報員は命がけだったに違いありません。よくぞ敵情を知らせてくれた、と根本中将は感謝しつつ電報を読みました。まったく手がかりのなかった敵情の一端がこれでようやく明らかとなりました。


 八月十二日、憂うべき事態が発生しました。京包鉄道が爆破されたのです。それも二ヵ所です。張家口~北京間と、張家口~大同間とが同時刻に爆破されました。これは明らかに計画的破壊活動であり、共産ゲリラの仕業と思われました。報告を受けた根本博中将は色を成し、声を荒げました。

「なにっ。直ちに復旧作業にかかるよう華北交通に命令しろ。鉄道が生命線なのだ。復旧の見通しを技師に見積もらせろ」

 根本中将は命じました。この切所にあって京包鉄道が不通となれば援軍は来ないし、撤退もできない。駐蒙軍も蒙彊居留民も暴虐ソ連軍の餌食となるほかはないのです。

 その日のうちに鉄道復旧の見通しが報告されました。吉報と凶報です。

「張家口~北京間は明日未明までには復旧できる見通しであります。しかし、張家口~大同間については鉄橋が爆破されたため復旧の目途は立たないとのことであります」

「わかった。ご苦労」

 大同~張家口間の鉄道が分断されたことは大きな痛手でした。傅作義の軍勢を京包線で張家口に引き入れてしまえば、ソ連軍は戦う意味を失います。血を流すことなく居留民を避難させ、駐蒙軍も撤退することができるはずでした。しかし、この戦略は諦めざるを得なくなりました。大同および包頭には数千名の居留邦人がいます。これを避難させる方法が司令部で検討されました。

「自動車で移動させる手段もあるが、駐蒙軍の貨物自動車と華北交通のバスをかき集めてもたいした台数にはならない。それに鉄橋が爆破されたとなると、共産ゲリラは道路にも出没するだろう」

 大同と包頭の居留民を張家口まで安全に移送する手段がありませんでした。根本中将は思い切ります。大同および包頭方面のことは第四独立警備隊長坂本吉太郎少将の判断にすべてまかせると電信で命令しました。


 八月十三日、駐蒙軍通信隊は関東軍第三方面軍の通信を傍受し、これを司令部に報告しました。

「関東軍第三方面軍の各部隊は、ハルビンと大連を結ぶ鉄道沿線まで総退却する模様」

 関東軍第三方面軍司令部は麾下兵団に退却を命令していました。これは予定の行動です。関東軍第三方面軍は満洲西部国境を守っていましたが、ソ連軍の突破を防ぐ力がありません。そのため後退して戦線を圧縮し、防御に徹する計画です。

(これでは熱河省が空白になる)

 これが根本中将の懸念です。熱河に侵攻したソ連軍が長城線を越えて北支に侵入し、駐蒙軍の背後を突く可能性があります。根本博中将は関東軍司令部にあて発信します。

「第三方面軍の撤退はいましばらく待たれたし」

 同時に北支那方面軍司令部と支那派遣司令部にも意見具申伝を発します。

「関東軍司令部と交渉されたし」

 熱河省を空白にせぬよう配慮してほしいという要望です。この根本中将の意見具申は戦術的には当然の懸念でした。しかし、関東軍第三方面軍は圧倒的なソ連軍の攻撃を現に受けており、撤退せざるを得ませんでした。

 根本中将の熱河省に対する懸念は結果的には杞憂に終わります。幸運だったことに、連合軍はあらかじめ占領区域を決めており、アメリカが日本を、ソ連が満洲を、蒋介石が支那を占領し、所在日本軍の武装解除を実施することで合意していたのです。ですからソ連軍が支那を侵すことは基本的になかったのです。これは、駐蒙軍と蒙彊居留民四万人にとっての幸運でした。もし、ソ連軍が北支まで占領する取り決めになっていたなら、駐蒙軍も蒙彊居留民も北京に脱出したところをソ連軍に抑留されたに違いありません。


 この日、張家口市街の北およそ四十キロにある張北では、増田利喬中尉の指揮する一個中隊がソ連・外蒙連合軍の様子を視界にとらえていました。増田中隊は、張北の小さな城郭に立て籠もって息をひそめ、ソ連軍の様子を有線電話で膳房堡の独立混成第二旅団司令部に伝えつづけていました。その夜、旅団司令部は増田中隊に退却命令を出しました。

「よくやった。もうよい。直ぐに撤退せよ」

 しかし、増田中尉は命令を聞かず、張北に踏みとどまります。増田中尉は玉砕の覚悟を固めていたのです。闘志満々の増田中尉にとって意外だったのは、ソ連軍の動きです。ソ連軍は圧倒的な戦力を持っていながら、なかなか張北に近づいてきませんでした。慎重に警戒している様子でした。


 八月十四日朝、ソ連軍の装甲車五台が日本軍の主陣地たる丸一陣地の正面に現れました。装甲車はいずれも白旗を掲げており、軍使であることがわかりました。交渉のため膳房堡の旅団司令部から参謀の辻田新太郎少佐が派遣されました。辻田少佐は、丸一陣地の正面にある戦車壕中央の木橋上でソ連軍の軍使と対面しました。ソ連軍の軍使は見上げるような大男で、その態度は傲慢無礼でした。辻田少佐が敬礼しても答礼すらしません。その傲岸なソ連軍軍使は辻田少佐を侮蔑するように見おろすとなにか言いました。それをロシア軍の通訳官が翻訳します。

「降伏せよ」

 辻田少佐は通訳官に「待て」と言い、丸一陣地内の有線電話を使って旅団長の渡辺渡少将に事情を伝えました。

「拒絶せよ」

 渡辺少将は命じます。この日の段階では日本軍が降伏する理由はまったくありません。辻田少佐がソ連軍軍使に降伏を拒絶する意思を伝えると、ソ連軍軍使はだまって帰っていきました。その後、しばらく丸一陣地には何事も起こらず、敵軍は姿を見せませんでした。

 その日の午後、膳房堡の独立混成第二旅団長渡辺渡少将は張家口の駐蒙軍司令部からひとつの指示を受けとりました。

「明日十五日の正午、陛下の玉音放送がある。これは重大な放送であるから、貴旅団は積極行動をひかえるようにせよ」

 この指示を守るため、渡辺少将は張北の増田中隊にふたたび撤退命令を出しました。しかし、増田中尉はこれを再び無視し、あくまで張北にとどまりつづけました。

 

 八月十五日の朝、丸一陣地の前面に再びソ連軍の軍使が現れました。その口上は次のとおりでした。

「日本国政府はすでに降伏した。ソ蒙軍は日本軍の武装解除を要求する」

 これを聞いて、辻田新太郎少佐は驚きました。

(降伏とはどういうことだ)

 辻田少佐は、日本が降伏することをまだ知りません。さっそく陣地内の有線電話でソ連軍軍使の要求を渡辺少将に伝え、指示を仰ぎました。

「降伏だと?」

 渡辺少将も大いに驚き、張家口の駐蒙軍司令部に事情を伝え、指示を請いました。このとき、根本博中将は直ちに次のように指示しました。

「ソ連軍軍使には次のように伝えよ。日本政府からも上級司令部からも武装解除の命令は受けていない。したがってソ蒙軍の要求に応ずることはできない。日本軍は積極的にソ蒙軍を攻撃することはない。しかし、ソ蒙軍が我が陣地を攻撃する場合には、断乎として抵抗し、これを撃退する。独立混成第二旅団長に命令、陣地を越えてソ蒙軍を攻撃してはならない。ただし、ソ蒙軍が我が陣地に侵入する場合には必ず反撃し、死力を尽くして陣地外に駆逐せよ」

 この命令は、渡辺渡少将から辻田少佐へ伝達されました。辻田少佐が降伏の拒絶を伝えると、ソ連軍の軍使は黙って引きさがりました。不気味な沈黙でした。


 同じ頃、丸一陣地の北にある張北は霧雨に包まれていました。ソ連軍の装甲車三十両が増田中隊のひそむ城砦に接近しつつありました。ソ連軍の装甲車は地形の起伏を利用して車体を隠しつつ、砲塔だけを露出させ、照準を城砦に向けました。これに対して城砦内の増田利喬中尉は「命令あるまで撃つな。敵を引き付ける」と中隊に命じました。

 ソ連軍は、装甲車による掩護射撃態勢を整えると、歩兵部隊を前進させてきました。ソ連軍の歩兵はおよそ百メートルまで城砦に近づきましたが、城砦の方はまったくヒッソリしています。ソ連兵は安心したらしく雑談を交わしながら接近しはじめました。三十メートルほどにまで近づいたとき、増田中隊の機関銃手が我慢できなくなって引き金を引いてしまいました。ダッ、ダッ、ダッと発射音が唸り、ソ連兵が薙ぎ倒されました。

(まだ早い)

 増田中尉は思いましたが、こうなったらしかたがありません。増田中尉は全中隊に射撃を命じました。ソ連軍は戦死した兵士の屍体を遺棄したまま射程外へと撤退していきました。

「射撃やめ」

 増田中尉が命ずると、砲火はいったんおさまりました。しかし、しばらくするとソ連軍装甲車の砲撃が始まりました。分厚い城砦の壁が増田中隊を守ってくれましたが、それも時間の問題と思われました。増田中尉は玉砕を決意していたのでまったく動じません。そんなとき有線電話が鳴りました。膳房堡の旅団司令部からです。

「直ぐに撤退せよ」

 旅団参謀の辻田少佐が命じます。しかし、増田中尉は従おうとしません。

「そんなことはできません。いま敵の砲撃が盛んです。この音が聞こえるでしょう。敵は正面に迫っているのです」

 増田中尉は電話を切りました。しかし、旅団司令部はしつこく電話して撤退命令をくり返しました。そのたびに増田中尉は抗命していましたが、ついに激して暴言を吐きます。

「そんなにおれを撤退させたかったら旅団長以下がん首そろえて張北まで出てこい。うるさいぞ」

 増田中尉は言い終わると電話線を引き千切ってしまいます。血気に逸る増田中尉は本気で玉砕する覚悟でした。

 ところが問題が発生しました。城砦内にふたりの邦人女性がいるとわかったのです。いずれも電話交換手としてとどまっていたのです。

(まいったな。女を殺すわけにはいかん)

 増田利喬中尉は獅子翻擲し、撤退を決意します。機関銃手に命じて掃射で敵を追い払わせると、そのすきに増田中隊は城砦を逃げ出しました。トラック三台と騎馬隊は張家口を目指して一目散に駆けました。

 一方、膳房堡の旅団司令部では辻田新太郎少佐が増田中隊を撤退させるためトラック二台と機関銃小隊からなる部隊を編成し、これに九〇式機動野砲を与えて張北へ出発させていました。

「増田のバカをしょっぴいてこい」

 この増援部隊と増田中隊は、丸一陣地と張北の中間点で遭遇し、ともに無事に撤退することができました。


 正午になると昭和天皇の玉音放送がはじまりました。このとき駐蒙軍司令官根本博中将は張家口放送局のスタジオにいました。玉音は、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏することを伝えました。そして、玉音放送が終わると、根本中将がマイクの前に立ち、蒙彊全土に暮らす人々に呼びかけました。

「わたくしは駐蒙軍司令官根本博であります。ただいま陛下の玉音をお聞きになったと思いますが、わたくしは陛下のお考えを承けて駐蒙軍司令官としての覚悟を聴いていただきたいと思う。我に利あらず、戦いに負けて降伏することになったが、わたくしもわたくしの部下将兵も健在である。わたくしの命令のないかぎり、勝手に武器を棄てたり、任務を放棄したりするような者はひとりもいない。彊民および邦人は決して騒ぐ必要はない」

 根本中将はていねいにゆっくりと話します。小難しい漢語を避け、わかりやすく語りかけました。

「わたくしは、上司の命令と国際法規にしたがって行動するが、わが部下および彊民邦人の生命は、わたくしの命をかけて保護する覚悟である。駐蒙軍の指導を信頼し、その指示にしたがって行動するよう切望する」

 この根本中将の呼びかけは、人心の動揺を未然に防ぎました。放送後、司令部にもどった根本中将は全駐蒙軍に命令を発します。

「別命あるまで従来の任務に邁進すべし。命令によらず勝手に任務を放棄したり、守備陣地を離れたり、敵軍からの武装解除要求を受諾した者は軍律に従って厳重に処断する」

 こうして軍紀を引き締めた根本中将は、丸一陣地守備隊に対して次のように訓示しました。

「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ蒙軍は断乎これを撃退せよ。それによって起こる責任は一切あげて本官が負う」

 しばらくすると、綏遠省の傅作義軍から駐蒙軍司令部に連絡が入りました。

「綏遠、チャハル、熱河は第十二戦区の作戦区域であり、この地域内における日本軍の武装解除は本官が責任を持って実行するよう中国政府から正式に命令された」

 これは根本中将にとって朗報でした。このとおりになれば、駐蒙軍も蒙彊在留邦人もソ連軍の毒牙を免れることができます。さらによいことに、第百十八師団の先遣隊が張家口に到着しました。

「やっときたか」

 待ちに待った援軍です。この援軍を根本博中将は丸一陣地には向かわせません。

「第百十八師団は京包鉄道の守備につけ」

 このあたりが根本戦略の妙だったといえるでしょう。人情からいえば、丸一陣地に援軍を送りたくなるところです。ですが根本中将は戦略目的に徹したのです。目的はあくまでも撤退です。蒙彊在留邦人を北京と天津へ逃がすことです。したがって、最優先の戦略要素は京包鉄道の守備でした。京包鉄道を共産匪賊に破壊されてしまえば、すべての作戦目的が虚しくなるのです。この目的のためならば、たとえ丸一陣地を守る独立混成第二旅団が全滅してもよいのです。その全滅とひきかえに、在蒙邦人四万人が撤退する時間を稼ぐことができれば、その全滅には戦略的な意味が生まれます。

「ところで何度も言うが、第百十八師団が乗ってきた汽車は張家口に止めておけよ。北京に戻してはならん」

 根本中将は高級参謀の田村清中佐に念をおしました。

「はい。承知しております。さきほどから北支那方面軍の野戦鉄道部からガミガミ文句の電話がきておりますが、とぼけております」

 そう言って田村中佐は笑いました。

「苦労をかけるね。ところで列車は足りているか」

「はい。まあ、ギリギリというところです。現在、機関車が三十一両、貨車が五百両ほどあります。貨車には軍馬輸送用の有蓋貨車、石炭運搬用の無蓋貨車も含まれています。無蓋貨車の一部には石炭が満載されていますが、この石炭は棄ててしまうほかありません。客車と車掌車を加えれば、なんとか間に合うでしょう。すべての貨車と客車を利用すると、三十五編成が可能です。ただ、機関車が四両たりません。故障中の機関車が四両ありますので、これを修理して使いたいと思います」

「よろしくたのむ」

 この日の夕刻、ソ連軍の先遣隊が丸一陣地の正面に姿を現しましたが、攻撃はしてきませんでした。


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