満洲から蒙彊へ
昭和十六年三月、根本博中将は第二十四師団の師団長に親補され、満洲国東安省へ赴任しました。第二十四師団は関東軍隷下にあり、沿海州のソビエト極東軍と対峙していました。
同年十二月に大東亜戦争が始まりましたが、満洲は静かです。日ソ両国は中立条約を守っていましたし、関東軍は満洲の静謐を第一目的として守りを固めていたからです。
とはいえ、日ソ両軍とも油断はしていません。参謀本部は関東軍を充実させてソ連軍に対する備えを万全にしていました。昭和十七年後半から昭和十八年前半にかけての関東軍の充実ぶりはまさに「無敵関東軍」の名にふさわしいものでした。総兵力八十万の精鋭部隊がソ満国境の護りをかため、北辺の静謐を維持しつづけました。根本中将の指揮する第二十四師団はその中核師団でした。
しかしながら、昭和十八年後半から関東軍の兵力は次第に減少していきます。南洋ソロモン諸島方面の戦闘が激化し、兵力が不足したため関東軍から兵力が次々に抽出されていったのです。
根本博中将が第三軍司令官となった昭和十九年二月ともなると、関東軍の戦力は最盛期の二分の一にまで低減していました。充分に訓練され、強固な団結を完整させていた精鋭戦略師団は、兵器弾薬糧秣とともに南方へ転出してしまいました。関東軍には補充兵が充当され、満洲で新設された新規師団が編入されましたが、訓練、団結、兵器、弾薬、兵站のいずれもが未熟です。
戦力の低下に伴い関東軍総司令部は対ソ作戦を根本から改定する必要に迫られました。もはや対ソ進攻作戦など夢のまた夢です。それどころかソ満国境における防衛戦にも自信が持てません。
「戦線を圧縮せざるを得ない」
いざ日ソ開戦となった場合、関東軍は後退戦略をとることとなりました。ソ満国境を越えて侵攻してくるソ連軍に打撃をあたえつつ後退し、朝鮮半島の付け根にあたる地域に戦力を集中させ、持久を図るのです。その持久圏域は新京、大連、図們をむすぶ範囲であって、その中央に位置する通化に司令部が置かれることとなりました。要するに満洲の四分の三を放棄し、四分の一の地域に立て籠もるのです。
兵団長会議の席上、第三軍司令官根本博中将は、この作戦変更に反対はしませんでした。もはや往年の精鋭関東軍は存在していません。優勢な極東ソ連軍と戦うためには後退し、戦域を縮圧して持久するほかはありませんでした。ただ、根本中将はひとつの献策をしました。
「いまのうちに作戦放棄地の居留民を避難させておかねばならない。ひとまず奉天、大連などに収容しておき、いざ日ソ開戦となったらすみやかに本土に送り出すべきだ。その準備はただちに開始せねばならない」
根本中将の意見に対して反対意見が出ました。
「そんなことはできない。機密が漏れるではないか」
在満邦人に避難を呼びかけたりすれば、敵にこちらの意図を察知されてしまいます。ソ連軍のスパイは満州国内に深く浸透しており、わずかの動きも見逃さないはずでした。だから、機密保持を優先すべきであるという意見です。
「そんな悠長なことを言っておる場合か。ソ連赤軍の暴虐は支那共産匪賊の幾層倍である。わが同胞の居留民をみすみす奴らの毒牙に供するのか」
根本中将は憤然として自身の認識を開陳しました。
「ソ連兵には日本人的心情は微塵もない。話してわかる相手ではない。どんな非常な行動も残虐な行為も平然とおこなう。強い者には手を出さないが、弱い者を見ればただちに残虐行為に及ぶ。それがソ連兵である。ただちに避難を開始させるべきだ」
それでも機密を優先するという関東軍総司令部の判断は変わりませんでした。根本中将はやむなく沈黙しました。
関東軍総司令部の対ソ軍認識は結果的にあまかったと言わざるを得ません。
「いかに暴虐なソ連軍といえども、まさか丸腰の民間人を虐殺はすまい」
関東軍総司令部は、民間邦人のことを無視していたわけではありません。万一の場合に備えて在満邦人には次のような指示を与えていました。
「一般邦人にとって無武装、無抵抗が最高の自衛手段である。安全な逃げ場があれば逃げるのもよいが、逃げ場のないときは現住地に無武装でしがみついているのがもっとも安全である」
日本軍の厳正な軍律を敵軍に投影して考えてしまうのが日本軍の通弊でした。この指示がいかに現実離れしたあまいものであったか、この一年後に関東軍総司令官は思い知ることになります。
昭和十九年十一月、第三軍司令官根本博中将に異動が発令されました。駐蒙軍司令官に任ぜられたのです。根本博中将は、満洲の牡丹江をはなれ、蒙彊の張家口へ向かうことになりました。張家口は、支那と蒙古を隔てる外長城線上の都城です。牡丹江からは直線距離でざっと八百キロほどもあります。
飛行機を使う方が早いに決まっていましたが、根本中将は鉄道で移動することにしました。満洲の南満洲鉄道と北支の華北交通を乗り継いでいきます。
まず牡丹江から浜綏線でハルピンへ出ます。ハルピンからは京浜線、奉山線、京山線を乗り継いで新京、奉天、山海関、天津、北京に至ります。そして、北京から京包線に乗り換えて張家口へと向かいます。
満洲の曠野はすでに極寒です。客車内の練炭ストーブがなければ凍死するほどの寒気です。副官はストーブの火が途絶えぬように練炭を足しつづけました。車中の根本博中将は書類に目を通したり、何も言わずに風景をのんびりと眺めたり、副官に思い出話を聞かせたりして過ごしました。根本博という人物は典型的な軍人でしたが、社交的な一面もあり、また茫洋とした風貌の持ち主でもありました。
ボンヤリと満洲の原野を眺めていた根本中将が表情をひきしめたのは、列車が天津駅を発車して北京へ向かう頃からです。根本中将は真剣な眼差しで車窓を眺めるようになりました。黒縁丸メガネをしきりに指で持ち上げつつ、鉄道沿線の地理状況を熱心に注視し、時に地図を眺めてメモを書き入れたり、座席をかわって反対側の車窓を眺めたりしました。列車は北京市内の前門駅に入ります。北京にはいくつかの駅があります。豊台駅に移動して京包線の列車に乗り換えました。ここからいよいよ張家口へ向けて北上します。豊台を出発すると、しばらくは平坦な地形がつづきます。やがて人家がとだえ、内長城線を越えるあたりから勾配が急になります。蒸気機関車は罐を限界まで焚き、濛濛たる爆煙を吹き上げながら進みます。急傾斜地ではスイッチバックをくりかえして難所を通過します。そののち緩やかな登り勾配がつづきました。
(蒙彊に暮らす居留邦人はおよそ四万。これを引き揚げさせるにはこの鉄道を利用するしかない。張家口から北京までおよそ百五十キロ、車輌は何両あれば間に合うだろうか。この京包線を守備するのに必要な兵力はどれほどか)
考えつつ根本博中将は沿線の様子を子細に観察しつづけます。やがて列車は張家口に到着しました。牡丹江から総延長一千六百キロの列車の旅でした。このさき京包線は大同を経て包頭までつづいています。
張家口は蒙彊の首都です。蒙彊というよりは内モンゴルというほうがわかりやすいでしょう。支那の北、満州の西、外モンゴルの南にある広大な草原地帯です。この過酷な自然環境のもとで生きてゆくには遊牧生活をするしかありません。遊牧民は羊や馬やラクダなどの家畜とともに移動しながらパオという家屋に暮らしました。都城は南部にしかありません。張家口、大同、包頭です。これらの都城は外長城によって結ばれ、古来、夷狄の侵入を防ぐ防衛拠点として機能してきました。いまは京包鉄道によって結ばれています。
この京包鉄道をふくめ北支那の鉄道は華北交通によって経営されています。華北交通は、北支那の鉄道事業、自動車事業、航空事業などを幅広く経営する会社です。会社としてはまだ若く、設立されたのは昭和十四年でした。その設立準備には、当時、北京特務機関長だった根本博大佐もかかわりました。根本大佐は日支双方が納得できる経営形態を模索するため奔走しました。支那人の面子を立てつつ、実益を日本軍が握らねばなりませんでした。結果的に、鉄道そのものは華北親日政府の所有物とし、その管理権を日本軍司令部が借り受け、その運営を華北交通に委託するという形式になりました。
華北交通は戦時下にあっても適切に鉄道事業を運営していました。そのことを自分の目で確認した根本博中将は、意を強くして駐蒙軍司令部に向かいました。
蒙彊を治めているのは蒙古連合自治政府です。日本軍の傀儡政権ではありましたが、徳王を盟主とする独立国家であり、独自の行政機構をもち、独自通貨を流通さていました。この点、満州国とよく似ており、防衛を日本軍にまかせている点も満洲国と同じでした。
日本本土とほぼ同じ面積の蒙彊を防衛するのが駐蒙軍の任務です。駐蒙軍が設立された当初、その兵力は二個師団および二個旅団でした。広大な領域にくらべると僅少と言うしかない戦力でした。その戦力は、根本博中将が張家口に赴任したときには、さらに減らされており、一個師団と一個旅団に過ぎませんでした。駐蒙軍の兵力は華中華南方面へ抽出させられていたのです。根本中将は、ほんの一握りの兵力で広大な蒙彊を守らねばなりません。
兵力僅少な駐蒙軍は兵力を張家口、大同、包頭に集中させていました。したがって、内蒙の広大な草原地帯には兵隊が配置されていません。広漠たる草原地帯に微々たる兵力を駐屯させても意味がなかったからです。さらに交通インフラのない草原地帯にまとまった部隊を配置させることは兵站上の制約から困難だったのです。
そんな事情から草原地帯は軍事的には空白でした。そのかわり草原の各地に特務機関が点々と配置され、諜報網が構築されていました。徳化、大同、厚和、包頭、アパカに特務機関がおかれ、さらに、その分派機関がノーナイ、ラマクレ、ダイラマ、西ソニット等に置かれていました。いずれも大草原の真只中に孤立していましたから、各特務機関は張家口からの兵站だけを文字どおりの命綱としていました。張家口の駐蒙軍司令部は定期的に兵站部隊を編成し、各特務機関に食糧や物資を運搬しました。運搬には貨物自動車のほか、馬やラクダからなる馬匹部隊も使われました。
これら特務機関に所属する特務機関員は、外蒙軍やソ連軍の動きを監視しており、ソ蒙軍に何らかの動きがあれば、いち早く情報をつかんで駐蒙軍司令部に連絡する手はずになっています。
張家口の駐蒙軍司令部には参謀長はじめ七名の参謀がいました。組織としては司令部のほかに兵器部、経理部、軍医部、獣医部、法務部があり、指揮系統では北支那方面軍の指揮下に入ります。
新任地に赴任した根本博中将は軍を掌握するため、蒙彊各地を視察し、また、各界の要人と会談して状況把握に努めます。根本中将は武辺一辺倒の軍人ではなく、社交も得意でした。人当たりのよい話術を使い、面白い冗談も言います。そして宴席になれば酒豪の本領を発揮して大酒を呑み、相手の心をつかみました。大人の風格をそなえた根本中将の風貌は支那人にもモンゴル人にも好かれたようです。
昭和二十年二月、南京で支那派遣軍の兵団長会議が開かれました。支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、北支那方面軍司令官下村定中将、第六方面軍司令官岡部直三郎大将、第十三軍司令官松井太久郎中将、第二十三軍司令官田中久一中将、そして駐蒙軍司令官根本博中将がその幕僚とともに参加しました。
支那派遣軍は、総兵力百万の大軍です。しかも支那大陸では負けたことがありません。太平洋方面の苦戦をよそに、その士気はきわめて旺盛でした。兵団長会議の議題はアメリカ軍の今後の動向と対処法です。
「アメリカ軍が支那大陸への上陸作戦を実施する可能性がある。ついては駐蒙軍より一個師団を上海に抽出されたし」
この要請に根本中将は色をなして反論しました。
「反対である。アメリカ軍の目標は日本本土である。日本が降参すれば台湾軍も支那派遣軍も関東軍も降参するほかはない。だからアメリカ軍が支那や台湾に上陸することはない。もしアメリカ軍が支那大陸に手をつけてくるならば、むしろ幸いである。本土決戦までの時間を稼ぐことができる。アメリカ軍を支那の内陸におびきよせ、おおいに翻弄し、消耗させてやれば良い。万一、アメリカ軍の上陸があるとしたら、それは日支の交通を遮断するためである。具体的には山東半島か、あるいは朝鮮半島になるだろう。だから上海への師団抽出には反対する。駐蒙軍は兵力不足に悩んでいる。蒙彊が手薄になったところをソ連軍に蹂躙されたら防ぎようがない。支那派遣軍はアメリカよりもむしろソ連軍に対する警戒を強化すべきである」
しかし、根本中将の意見は却下されました。
「大本営の方針である」
こうして駐蒙軍の配下から第百十八師団が抽出されることとなりました。駐蒙軍の兵力はわずかに一個旅団のみとなってしまいました。
(どうやって蒙彊を守れというのだ)
張家口にもどった根本博中将は数日のあいだ途方に暮れてしまいました。お手上げだったのです。第百十八師団の主力は上海へ向かいます。同師団の一部が第四警備隊として大同に残るとはいえ、戦力としては微弱です。駐蒙軍の主力は独立混成第二旅団だけになってしまったのです。その兵力は二千五百名であるにすぎません。これで日本と同じ面積を守るのです。
(いかにして守るのか)
考えつづける根本博中将の姿は、周囲の目には頼りなく愚鈍に見えました。恰幅がよく東洋的大人の風貌を持つ根本博中将でしたが、考えに熱中しているときにはむしろボーッと何も考えていない愚人のようにみえました。声をかけても反応しません。これは若い頃からの癖です。この癖のため「昼行灯」とか「暗闇の牛」などという仇名ができたほどです。分厚いレンズの黒縁丸メガネをかけた顔から表情が消え、言動にはまったく冴えがなくなるのです。
しかしながら、考え尽くして決心すると見違えるように溌剌と動き出します。
「独立混成第二旅団は丸一陣地を強化せよ」
根本中将は命令を発しました。
丸一陣地とは張家口の北郊にある野戦陣地の名称です。外長城の城壁の外側に出城のように築造された外郭陣地です。たとえるなら、大坂冬の陣に際して真田幸村が大阪城外に造った真田丸という出城のようなものです。その丸一陣地を強化し、ソ連軍が進撃してきた場合には、この陣地で迎え撃つと根本中将は決心したのです。
外蒙ウランバートルから張家口まで一本の道路が通じています。地元では張家口街道と呼ばれている道路です。ソ連軍が蒙彊に侵攻してくるとすれば、その主力は間違いなく張家口街道を南下進撃してくるはずでした。丸一陣地は、その張家口街道を扼しています。
張家口街道に直交するように延長四キロの戦車壕が掘られており、街道の部分にだけ木橋が架かっています。いざという場合にはこの木橋を爆破して敵軍の足を止めるのです。この戦車壕と外長城とのあいだが野戦陣地です。陣地内には地形の起伏を活用してトーチカ、交通壕、散兵壕、地雷原、砲台、機関銃座、弾薬庫等が配置されています。陣地の縦深はおよそ二キロです。そして、丸一陣地の最後方にある外長城の城壁上にも砲台と機関銃座が置かれ、丸一陣地を掩護しています。
この丸一陣地を可能な限り強化しておき、精強ソビエト機甲師団を三日間だけ足止めする。そして、この三日のあいだに蒙彊の民間邦人を京包線ですべて北京へ避難させる。それが根本博中将の作戦でした。
「およそ四万人の居留民を北京と天津に逃がすのに必要な車輌と機関車はどれほどか、見積もっておいてくれ。見積もったら、それだけの機関車と車輌を張家口に備蓄し、輸送計画を立案せよ」
命じられた司令部参謀は華北交通や蒙彊政府と相談して必要な車両数を見積もり、順次、その車輌を張家口駅のヤードに蓄積していきました。
さらに根本中将は事前避難の実施を命じました。
「蒙彊の僻地に居住している邦人を説得し、いまのうちに張家口か大同に避難させておけ」
ソ連軍の進攻が始まったら、僻陬の地に住む邦人に避難命令を周知させるような余裕はありません。だから、事前に避難させておくほかはないのです。これには参謀から質問が出ました。
「しかし、閣下、在蒙邦人は納得するでしょうか。彼らにも生活があるでしょう。それに機密保持の観点からも避難は先に延ばされてはいかがですか」
もっともな質問でした。
「構わん。やれ。責任はわしがとる。死にたくなければ避難しろと居留民に言ってやれ。駐蒙軍にはソ連軍を撃破する戦力がないのだ。包み隠さず話して説得せよ。機密保持も気にするな。ソ連軍は臆病だ。猪武者のような突進はしてこないよ」
根本中将は果断だったといえるでしょう。蒙彊に移住してきた居留民たちは人生を蒙彊の地に賭けるべく移民してきた人々です。曖昧な説得では納得するはずがありません。だから根本中将は事情を洗いざらい打ち明けさせたのです。
「そういうことなら、しかたがない」
僻陬の地に居住する居留民は駐蒙軍の説得に納得し、三々五々、張家口へと避難し始めました。
「特務機関に命じて敵軍の動きに対する警戒感度を上げさせよ」
根本中将は特務機関の諜報網を外モンゴルとの国境へ推進するよう指示しました。次いで根本中将が考えたことは京包鉄道をいかにして守備するかでした。支那各地では共産匪賊が策動し、破壊活動が頻繁に起きていました。共産匪賊による鉄道破壊事件は後を絶たない形勢です。根本中将は、この点をもっとも憂慮しました。
(いざ引き揚げというときに列車が動かぬようでは困る。いまのうちに討伐させるしかない)
根本博中将は唯一の戦力たる独立混成第二旅団に共産匪賊の討伐を命じました。旅団長の渡辺渡少将は三月と五月に討伐戦を実施し、京包線周辺地域から共産勢力を追い払いました。
六月、戦力不足に悩む根本博中将に朗報がとどきます。戦車二十六両が駐蒙軍に編入されるというのです。この戦車隊は戦車第三師団の一部であり、もともと駐蒙軍の主力でした。その戦車第三師団は支那派遣軍に抽出されて上海方面に配備されていましたが、このうち二十六両が駐蒙軍にもどされることになったのです。
(ありがたい)
この戦車隊を根本中将は戦力の薄弱な包頭に配備しました。すると翌七月、包頭周辺の情勢が悪化しました。張家口からおよそ五百キロはなれた茫漠たる包頭郊外の草原地帯に千名規模のソ連軍が突如として出現し、包頭東方の小駅を襲撃したのです。駐蒙軍司令部に入った情報によれば、アメリカ空軍がソ連兵を空輸したもののようでした。連合軍が得意とする空輸作戦です。ソ連兵はことごとくアメリカ製の兵器で武装しているという情報もとどきました。包頭所在の警備隊はもともと戦力不足ですし、新着の戦車隊も出動しましたが、苦しい戦いとなりました。
張家口の駐蒙軍司令部は状況を把握したものの、打つべき手段がありません。持ち駒たる予備隊がないのです。根本博中将にも参謀たちにも対応策が思い浮かびませんでした。
根本中将は事態を憂慮しました。包頭が危機に陥っているだけでなく、外モンゴル国境方面においては日本軍特務機関員が襲撃される事件が数多く発生していたのです。
(ソ連軍の動きが活発化している。ソ連の対日参戦が近いかもしれぬ)
根本中将の心配が最高潮に達していた頃、参謀本部から参謀次長河辺虎四郎中将が視察のため来蒙しました。ふたりは駐蒙軍司令部で懇談し、今後の見通しを協議しました。根本博中将は最近の状況を説明し、その憂慮を伝えました。
「軍中央はソ連をどう見ているか。ソ連はかならず対日参戦してくると私は見ている。それもかなり近い将来だ」
これに対して河辺虎四郎中将は楽観論を述べました。
「スターリンという男は一筋縄ではいかない。ドイツとの戦争でソ連の国力は疲弊している。あのスターリンが英米の言いなりになって動くとは思えぬ。かりにソ連が対日参戦するにしても、もっと先の話だろう。日ソ中立条約はまだ失効しておらぬ。条約に違反してまで、わざわざソ連軍が満洲や蒙彊にまで出てくるとは思わぬ」
根本中将は心の内で舌打ちしました。
(何たる甘い認識か)
政府も大本営もソ連軍に対する警戒心が甘いようでした。怒鳴りつけたくなる衝動を抑えながら、根本中将は語気を強めて言いました。
「この駐蒙軍にとっては身に降りかかる火の粉だから、そんな太平楽なことは言えない。いまの戦力では駐蒙軍は戦えない。ソ連軍がその気なら張家口を突破して一気に北支へと進入できる。せめて一個旅団でもいいから増援してもらいたい」
「苦しいのはわかるが、内地も本土決戦の準備で兵力が不足している。申し訳ないが増援のあてはない」
「アメリカ軍は沖縄に上陸した。次は日本本土だ。支那に上陸する心配はない。華中華南の兵力を蒙彊にまわしてもらいたい」
「その点は研究しよう」
「それからもうひとつ。熱河省だ。日ソ開戦となった場合、関東軍は大連とハルピンを結ぶ線まで撤退するのだろう。そのすきにソ連軍が熱河省に侵入し、北から長城線を越えて北支へ侵入してくる可能性が大きい。そうなったら駐蒙軍は孤立する。袋の鼠だ。そればかりではない。蒙彊居留民も逃げる場所を失う。できるなら熱河省を駐蒙軍の管轄にしてもらえないか。そうすれば一体的に指揮できる」
「それは、関東軍には関東軍の考えがあると思うから、相談はしてみるが、どうかなあ」
満洲国の熱河省は関東軍の管轄になっていましたが、関東軍の戦略は熱河省からの撤退です。根本中将の心配はもっともでした。しかし、河辺中将には伝わらなかったようです。根本中将は言葉を重ねます。
「河辺閣下、わしは縄張り争いをしているのではない。関東軍には熱河省防衛の意図がないのだから、それを駐蒙軍が引き受けるというのだ。これは作戦上の要請だ。わしは関東軍で第三軍の司令官をしていたのだ。関東軍のことは隅から隅まで知っておる」
「わかっている」
と河辺参謀次長は答えましたが、わかっていないような顔色でした。この会談は根本中将を暗澹とさせました。ソ連軍および共産主義に対する認識が実に甘いのです。
(参謀本部は当てにならない)
ここにおいて根本中将は大胆な政略的措置の実行に踏み切ります。根本中将は独断で蒋介石軍の傅作義将軍に連絡し、駐蒙軍の管区たる綏遠省を傅作義軍に明け渡し、その防衛をまかせてしまったのです。
これは駐蒙軍の守備範囲を圧縮するための措置でしたが、驚天動地の措置でした。なにしろ傅作義は国民政府第十二戦区司令官であり、日本軍の敵なのです。その敵に、根本博中将は綏遠省の明け渡しを提案して合意をつくりあげ、また蒙古連合自治政府の徳王を説得して納得させました。ただならぬ交渉力です。しかも、北支方面軍司令部にも支那派遣軍司令部にも無断の独断専行であり、問題化すれば軍法会議にかけられても不思議ではない蛮行でした。これは命がけの政略だったというべきでしょう。
根本中将のこの措置によって包頭周辺で暴れていたソ連軍は撤退しました。包頭は綏遠省に属していたからです。ソ支両国は連合国同士ですから戦う理由がなくなったのです。根本中将の見事な政略です。あるいは戦力不足の駐蒙軍としては窮余の一策であったというべきでしょうか。
このような芸当ができた理由は根本博中将の経歴に種があります。根本中将は、若い頃から一貫して支那畑を歩んできました。このため支那要人の知遇を得、広範な人脈を築くことができました。大佐時代には北京特務機関長として塘沽停戦協定の締結や華北親日政府の樹立に貢献した実績があります。支那における各種の任務を通じて培ってきた支那人脈がおおいに役立ったのです。根本博には東洋的な大人の風格があり、支那語をよくし、しかも酒量が底なしでした。この酒豪ぶりが支那人を魅了したらしいのです。
「酒量且多」
支那人は根本の大酒をもてはやしました。蒋介石をはじめとする国民党の要人ばかりでなく、中国共産党の幹部とも接触しました。支那への没入ぶりは極端なほどでした。
「根本は支那人ではないか」
そんな噂が軍内に立つほどでした。ついには「シナさん」という仇名までできました。むろん酒を飲むだけでは信頼を築くことはできません。根本博は、いかにして日支間の信頼関係を構築すべきかに腐心しました。根本博の経験によれは日本人と支那人とではどうしても情緒の合致しないところがあります。日本人はものごとを情緒的に判断する傾向がありますが、支那人は情緒をほとんど解せず、つねに戦略的に考えるのです。日本人にとって戦略などというものは日常生活に無縁のことです。偉い政治家や将軍たちだけが考えるものであり、一般庶民は戦略など知りもしないのです。そのかわり情緒豊かに生きています。ところが支那人はちがいます。支那人にとって戦略は常識です。市井の庶民でさえ戦略的に生きているのです。だから支那人には日本人の心情が理解できません。たとえば心中です。たとえ死んでも一緒にいたいというのが日本人の情緒です。しかし、支那人は、死ぬくらいなら愛人とも家族とも別れて生き延びる方がよいと考えます。支那人はあくまでもユーラシア大陸の掟の下に生きている人々なのです。
ただ、日支双方に共通する徳目がありました。根本博はそれを見つけました。「義」です。「義」という徳目には戦略性が含まれます。約束を守ったり、恩義に報いたり、契約を履行したり、ともに戦って利益を分かち合ったりするのです。「義」は日支双方で共有できる徳目でした。
(支那人とは義でつきあえばよい)
このことに気づいたおかげで根本博は支那人の知己を増やしていくことができました。ですが、どうしても解り合えぬ支那人もいました。それは共産主義者です。相手が共産主義者であると、いくら話し合っても酒を飲んでも義を結ぶことができませんでした。共産主義者は決して意見を変えないし、平気で嘘をつくのです。
陸軍屈指の支那通だったからこそ根本博中将は、その支那人脈と交際術を駆使して傅作義工作を実現させることができたといえます。
傅作義の軍勢が綏遠省に進駐すると、包頭に配備されていた駐蒙軍の戦車隊は張家口へ移動してきました。戦車隊は二個中隊、わずか二十六両です。モンゴルの大平原でソビエト機甲師団と大会戦を演ずるには少なすぎます。
(この戦車隊をどう活用するか)
根本中将は考えました。もし丸一陣地がソ連軍に蹂躙された場合、ソ連軍は張家口街道を南下して張家口市街を目指すことになります。丸一陣地から張家口市街までおよそ三十キロの距離があり、その途中には防御戦に適した山間部があります。そこでは道路が九十九折りになっています。
「丸一陣地が抜かれた場合には、この地形を利用してソ連軍を足止めしてほしい」
戦車隊の起山中隊長と内藤中隊長に根本中将は戦術研究を命じました。