あめのひ
「君は幸せ?」
真っ赤な傘をくるくると回しながら彼女は言った。まくりあげたセーターの袖からは、真っ白な手首がのぞいていた。天気にそぐわない軽やかな足取りは、膝丈のスカートをリズムよく揺らした。
僕は突然の問いかけに気をとられ、水たまりに足を突っ込んだ。思わず小さなため息が漏れる。昼過ぎに湧き出した白い雲は次第に黒みを帯びて、やがて雨を降らせた。僕は足元を気にしながら少し考えてみた。桜の白い花びらをさらった暖かい風が、いくらかの滴を連れて、頰を撫でた。アスファルトからはかすかに甘い匂いが漂っていた。
「普通、かな」
傘越しに見上げた空からは大粒の雨が太い線になって降り注いでいた。
「ふーん」
彼女は口を紡いだ。菩提樹から垂れた滴が道端の青い花を打つ。みると雑草に緑にまぎれて何輪かが青を映えさせていた。彼女はきれいだね、と呟いた。僕はまた水たまりに足を突っ込んだ。靴の中に水が染み込む。突然、彼女はさっきよりも勢いをつけて傘を回した。弾かれた雨が僕の肩に落ちた。ふたたびため息が漏れた。
「じゃあ君は幸せなの?」
赤い傘がピタリと止まった。瞬間、空に浮かぶ雨粒が凍りついた。水を含んだ傘の赤は深みをまし、鉛色の空に瞼しいくらいに輝いていた。
「わたし?」
彼女はゆっくりと僕の方を見た。聞いてはいけなかったのかもしれない。それでも僕の顔を覗き込んだ彼女の目は、少し笑っていた。僕は少しだけ後悔した。
雨は不規則なリズムで僕らの傘を打ち、彼女はゆっくりとまた傘を回し始めた。
「わたしはねぇ」
彼女は歩調を緩めた。それに合わせて僕も歩幅を狭める。
「どっちも、かな?」
彼女はふりきるように一歩飛び出すと、大きな水たまりを跨いだ。それから、くるりと向き直り、手前で立ち尽くす僕を見据えながら首をかしげてみせた。
「幸せって、なんなんだろうね?そもそもさ。」
水たまりは僕らに次々と幾何学模様を浮かべて見せた。期待していなかった答えに、僕は少し不貞腐れた。そんな僕にはお構いなしに、彼女ポケットの中身から何かを取り出すと、おもむろに親指で高くはじきあげた。コインだった。雨に打たれながら、厚い雲を抜けた微かな光を受けたコインが、明と暗を刻みながら彼女の手のひらへと吸い込まれた。
「どっちだ?」
彼女はコインを握った手を突き出して言った。
「おもて」
彼女はふふん、満足げにと勝ち誇ったような笑みを浮かべると、僕の手を取るとコインを握らせた。見るとそのコインにはなんの模様もなかった。
「なに、これ?」
「結構便利なんだよ。ほら、鍵穴回す時とかに。」
彼女は僕の手からコインを奪い返すと、さっきよりも高く弾き飛ばした。その時、彼女の髪が大きくなびいた。
「幸せかどうかなんて、どうでもいいことだよ。」
コインは待ち受けていた彼女の手をそれると、水たまりに落ちて、高い音を立てた。突然の言葉に、思わず彼女に目をやった。彼女は残像を見送るがごとく、どこか遠くを見ていた。遠くで雷の音がした。それは鼓膜をわずかに震わせると、すぐ後には砂をふるったような心地のいい雨音が、優しく耳の中まで包み込んだ。
「わたしはさ、さばかんを食べられて幸せだけど、君からしたらそれは幸せじゃないだろうし、ご飯を食べられない人なんかはわたしよりもずっと幸せなんじゃないかな。」
彼女はスカートを抑えながらゆっくりとしゃがみこむと水たまりの中からコインを拾い上げた。
「このコインと同じだよ。」
その時、胸に暖かいものが流れ込んできた。身体中に広がる心地よい温もりと、溺ぼれてしまいそうな息苦しさを覚えた。
「それでも、君は」
絞り出したような声だった。
「君は幸せなの?」
空が明るく、細く短い雨の航跡を写し出した。光が雲の切れ間から一筋の滝のように降り注いだ。彼女はわずかに目細めた。それから胸いっぱいに深呼吸すると、それから聞こえないくらいの声で呟いた。
「幸せでいいんじゃないかな」
そして雨がやんだ。西の空はオレンジ色に燃え、雨を降らせていた雲を照らし出した。濡れた桜の花びらが、西日を受けてそのピンクを際立たせた。青い花にはまだ滴がたれていた。こんなに暖かかったのか。澄んだ空には金星がガラスのように輝いて見えた。どこからかツバメが飛んで頭の上をかすめた。
「やんじゃった。」
ゆっくりと傘をたたむと、彼女はまた歩き出した。
いかがでしたでしょうか。一応以前書いた「さばかん」とつなげてはいますが、作品としたは完結しています。まぁよかったら合わせてそちらも読んでみてください。この「ひらがな四文字シリーズ」とでも言いましょうか?なんとなく大きなプロットで動かしていこうかななどとも考えています。まぁ一つ一つは短編ですが。そっちの方が書いてて楽しいので。




