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コーヒークラウン

 カチ、カチ、と表示をクリックする。無機的な作動音。

 ただそれだけで、こなせる悪事が今や無数に存在する。そして隼太はその常習者だった。頭では怜悧な計算を働かせながら、暖房の効いた室内で紫陽花色のコートを脱ぎもせず、隼太は醒めた目を画面に滑らせていた。頭の端で別の思考が働く。

 恭司が、開花する花のようになっている。

 女であればさして珍しくもないが、そう見ない美形の恭司がそうした風情になると、ある種の色気さえ漂わせる。実際、道を歩いていてホストクラブへの勧誘を受ける頻度が最近、増したらしい。本人は煩わしがっている。

 原因は染まり切らぬ、いや、今では染まりつつあると言ったが事実に近いだろう、ひとひらの楓と察しがつく。

 作業を一段落させた隼太は、コーヒーを淹れる為に立ち上がった。いつの間にか朝日の昇る刻限だ。カーテンの隙間から曙光が剣先のように鋭く室内に切り込んでいる。そこに幻のように柔和を視認した隼太は、早春の訪れを知る。季節が巡り、再び春が来るのだ。そこに見出す感慨は残念ながらない。せいぜいが恭司の色恋沙汰と重ね合わせる程度だ。異性を想っても現を抜かすような男でなかったのは幸いだと、隼太は薬缶を火にかけながら思った。逆に距離を置くかもしれない。恭司は、そういう性格だ。成就すれば良いとは思わない。隼太の心境を言い表すなら一言、知ったことか、である。使えなくなるような男でなければそれで文句も不足もない。恭司が愚かではないことを、隼太はよく知っていた。そして恋というものが、愚かでない者をも愚かたらしめることもまた――――。愛飲するコーヒーの粉が入った容器を冷蔵庫から出して、セットしたコーヒーフィルターに四杯、入れる。コトノハに支障がなければニコチン中毒になっていたかもなと自虐する隼太は、そのぶんカフェイン中毒に近い。とりわけ集中したい考え、作業の時はカフェインを脳が欲しがり、逆に今のように一息入れたい時もまた、然りだ。冷蔵庫に貼った銀色のマグネットは翼を広げた鷲を模した物で、そこには「飲み過ぎ注意」と書かれたメモが挟んである。意外と繊細な恭司の字だ。変なところであいつは細かい、と思いつつ、隼太はそのメモを放置した。無論、内容を遵守する積りなどさらさらない。


 淹れたコーヒーを立ったまま飲みながら、先程のクリックの回数だけ起こる悲劇を想像する。火の手が上がり、母親が裸足のまま赤ん坊を抱いて逃げ惑う。何の感情の色も宿さない目をした男たちが銃を乱射し、血と肉塊が緑の大地に撒かれる。嘆き、怒り、怨嗟。醜く痛烈なコトノハが飛び交うだろう。幸福とは遠く隔たった地獄絵図が展開される。隼太はその一助となった。


 何も問題はない。

 自分は必要な時に必要なことをしているだけだ。全てはフォーゲルフライの理想に基づいて。隼太にとってコトノハの同胞足り得ない人間の幸不幸は視野の外だった。コーヒーの二杯目をポットからカップに注ぎ、空腹を感じて冷蔵庫を開ける。ベーコンと卵を取り出し、油を敷いたフライパンを熱する。香ばしい音と匂い。

 嗅覚は記憶と最も密接に結び付く感覚だ。


 隼太が食事の匂いと共に脳裏にある過去を思い浮かべたのも、その為だったかもしれない。それは一滴、垂らされて生じるミルククラウンのように。隼太の記憶を揺さぶった。柔らかく。


 嘗て隼太が愛した女が、一人だけいた。


 もう今では遠くて痛みすら朧げだ。器量は良いほうだったが隼太には見慣れたレベルであり、取り立てて特筆すべき美点もない、平凡な女だった。隼太を恐れなかった。それだけが他との違いだっただろうか。

 隼太は恐れた。自分がそこらの凡百同様に成り下がるのではないかと。崇高な理想もあらゆる計算も彼女の前では霞がかかったようになることに恐怖した。血に馴染んだ手で彼女を汚すことを危惧する自分が別の生き物のようだった。


〝どれだけ辛いか、お前は知らないんだ〟 


 恭司に言ったコトノハは失言だったと苦く思う。

 焼き上がったベーコンエッグを皿に移し、椅子に座って食べる。肉厚の上等なベーコンから旨味が凝縮した汁が沁み出し、卵の淡泊な風味と絶妙な組み合わせだ。


〝あんたは知ってるのか〟


 当然のように訊いてきた恭司には忘れたと言って一蹴した。

 真実だった。普段は記憶の奥底に沈殿して浮かび上がることはない。彼女を思い出すのは、隼太にとって非常に稀なことだった。最近になってその頻度が増したのは、恭司に触発された為だ。


 辛い。

 そんな言葉が自分の口から出るとは。


 辛かったのか、自分は。

 彼女にもっと触れたかったのか。あの平凡な女に。

 何も自分に益をもたらさないであろう女を、切望したのか。

 卵の黄身をぐちゃぐちゃに掻き乱す。感情が昂じてではなく普段からの隼太の癖だ。

 破り、壊し、乱して。

 そう在るのが常であった隼太に、彼女は温和過ぎた。ずっと一緒にはいられないと、彼女より先に目覚めて朝焼けを見ながら何度も思った。そうして、隼太は姿を消した。裏社会にあらゆる伝手を持ち、コトノハを処方し得る隼太が本気になればそうすることは容易だった。本気になるのが、遅きに失した感は否めなかったが。

 コーヒーを飲み干す。苦さが心地好い。

 手酷く傷ついたであろう彼女は、隼太を恨んだだろう。泣いて、慰められて、やがて相応の男と出逢う。それで良い。

 それで良いと思うのに、恭司と楓は別の道を歩めないものかと思う隼太がいて、我ながらその甘さに辟易する。

 ミルククラウンよりコーヒークラウンが似合う自分。

 愛情は似つかわしくない。求めてもいない。


 時折、胸に感じる寂寞は自分の弱さだ。

 そう断定するのが隼太という男だった。






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