オセロゲーム
雪が浅く積もっている。名残の雪となるだろうか。
恭司は白い息を吐きながら、道を歩いていた。
隼太が自分に知らせず政治家の間諜を殺したことを、恭司は後から聴かされた。
青い空から、またちらほらと白いものが降ってきている。
〝どれだけ辛いか、お前は知らないんだ〟
寒い中歩き、血色の良くなった珊瑚のような唇を噛む。
隼太は自分の知る痛みを、恭司には味わわせまいとした。
ただでさえ、暗い過去を持つ恭司が、楓を前に後ろめたさを抱いていると察して。
触れられなくなるぞと、隼太は言った。別段、恭司はそれで構わなかった。
見掛けと違い、恭司と楓の歳の差は二十近い。彼女が自分に向ける思慕は、今、積もっている雪のように儚く融けるものに等しいと、恭司は考えていた。楔を打ち込まれたのは自分だけで良い。楓は、ことの大らかな庇護のもとで、相応の幸せを掴めば良いのだ。
そこに自分が介在する余地はない。
ではどうして、恭司は今、音ノ瀬ことの家に向かっているのか。
それは恭司自身にも測り兼ねる行動だった。
音ノ瀬一族の家にある時期から預かりの身となっている恭司は、今朝、起きると、小学校が休みの土曜日であることを確認し、手と顔を入念に洗ってから朝食を食べた。
とりわけ、手は執拗なくらいに洗う。
楓に会う日はいつもそうだ。嘗ては血に染めた手で、無垢な少女の前に出るには相応の心構えが必要だった。
音ノ瀬一族の本家に出向くという重圧より、そちらのほうが恭司には重い。
革のジャンパーのポケットに入れていた手を出して呼び鈴を鳴らす。
佳人の出迎えを受ける。
音ノ瀬ことだ。
ことは恭司を見ると微笑み、お上がりください、と言った。警戒心なく招き入れられる事実に、まだ慣れない自分がいる。客間は暖房が入り、暖かかった。
楓が漆黒の卓に着いてホットミルクを前にしていた。恭司が来た気配を感じたのだろう、マグカップから手が離れ、笑顔が咲く。
「恭司君、いらっしゃい」
「――――ガキ臭い飲み物、飲んでんな」
憎まれ口を叩き、そっぽを向く。とても楓に会いに来た態度ではない。
少女は日が経つにつれ、羽化する蝶のように綺麗になる。特に楓ぐらいの年頃の女子は、同じ年頃の男子より心身共に大人びている。つまりは、眩しくて正視出来なかったのだ。
楓が頬を膨らませる。突いてやろうかと思い、止める。ジャンパーを脱ぎながら、卓を挟んだ彼女の正面に胡坐を掻く。
楓と同じ年で、最近はよく一緒にじゃれる武藤悟のように、汚れない、清らかな手ではないから。
ことが恭司の前にはコーヒーを置いて行く。コーヒーの香りがホットミルクの甘い匂いを凌駕して、客間を満たす。
何となく、釘を刺された気がした。
ことにそんな積りはないのだろうが。
「恭司君は、いつも意地悪を言う」
「それは、俺が大人でお前がガキだからだ」
「大人は意地悪を言うの?」
「場合によってはな。意地悪と捉えるのも、ガキの視点だからだ」
「…………」
楓が萎れる。
それは恭司の本意ではないのだが、常に予防線を張っていないと、この少女はいつ、するりと恭司の領域に入り込んでくるか解らない。紅に彼女まで引き込む気は毛頭、なかった。長ずれば、さぞかし美しくなるのであろう、今はまだ幼い楓の葉を。
「隼太さんは元気?」
「――――どっちの」
人間か、烏か。解っていて、恭司は尋ねた。
「人間」
「すこぶる」
「良かった」
一度は自分を監禁し、脅した男の安否を楓は気遣う。隼太自身の為でもあり、恭司の為でもあった。コーヒーの黒い水面を見る。ホットミルクとは見事に対照的な色だ。
白と黒。
オセロゲームのように、楓が黒に挟まれて染まることのないよう、恭司は細心の注意を払う。ことがいれば余計な心配ではあるだろうが、そこは恭司の気持ちの問題だった。
ぽつりと落とした呟きは、黒の雫の良心だった。
「お前、幸せになれよ」
脈絡のない恭司の言葉に、楓が目を瞠る。恭司は笑って見せた。和製天使のような笑顔は、底まで見える湖のように澄んでいた。
「恭司君。どこかに行くの」
「行かない」
楓が誰かと添うのを見届けるまでは。
「どうして、他人事みたいに言うの」
「……」
「あたし、ずっと思ってた。恭司君が、あたしや悟君から、いつも距離を置いてるのはどうしてなんだろうって。いつか、遠くに行くんじゃないかって、怖かった」
楓の髪は初めて会った時より伸びた。いずれはもっと長くなるのだろうか。
ことと同じように長く伸びれば、ことと同じように相応しい伴侶を見つけるのだろうか。
昂ぶる楓を見ながら、恭司はそんなことを考えていた。
潮時だろうか。
まだ、先の話だと思っていた。
どこかで盤上のオセロが引っ繰り返される音が聴こえる。
「俺が人殺しだって言ったらどうする?」
「知らない、そんなの」
黒は白に、白は黒に。
「恭司君が、好きだよ」
染まってはいけないと言うのに。