グリーンスリーブス
猫のような奴だと、常々思っている男を隼太は眺め遣る。和製天使のように整った顔立ちからは、いつの間にか随分、険が取れた。
佐々木恭司。
隼太のアパートに自由に出入り出来る数少ない一人だ。
音ノ瀬の一族ではない身でありながら、コトノハを処方する。見た目は少年だが実年齢は三十路で、それは禁呪のコトノハの作用でもあった。その彼が、雪解け水が温むように、緩々と変化しつつあることを隼太は感じていた。
変化の最たるものは、止めていた肉体年齢を動かし始めたことだろう。
それはまるで、時計のゼンマイを巻き、作動を促すように。
その理由が、恭司と同じく、音ノ瀬ではない身でコトノハを処方し、それゆえに辛苦を味わった少女・水木楓にあることを隼太は知っている。
外は寒く、昼下がりである今でもまだ凍てついている。朝方まで降っていた雪が残っているだろう。恭司は寒そうにソファーの上で膝を抱えて背を丸めている。本当に猫のようだ。孤独な猫であったものを、と思う。いつの間にか番を見つける歳になったか。隼太自身には縁のない話だ。
ただ、雪解けに馴染む猫が、この先どこまで隼太の役に立つか。
それが肝要だった。
「恭司。呑みに行くか?」
「このなりで? 寒いし」
「『グリーンスリーブス』なら問題ないだろう。今の時間ならもう開いている」
伝統的なイングランド民謡を名に持つバーは、隼太の行きつけであり、隼太に対して大抵の融通は図ってくれる。恭司も何度か、呑みに行ったことがある。
顔を上げた恭司の、切れ長の鋭利な目が見える。隼太の目も切れ長だが、恭司のそれはやや吊り上っている。その僅かな角度の美麗が、彼を和製の天使たらしめる一因にもなっていた。
「仕事の話ならここですれば良い。店じゃ耳があるだろ」
「呑みに行きたい気分なんだ。付き合え」
どこか弟に接するような、甘さが恭司に関してだけは出てしまう。隼太はこれを悪癖と捉えていたが、改める積りもなかった。
アパートを出て鍵を掛けると、待っていたかのように、手摺りに留まっていた烏の隼太が、ひと声鳴いて隼太の肩に乗ってきた。隼太は嘆息し、案の定、まだ白い残雪を目に階段を下りた。恭司は大人しく後ろをついてくる。烏の隼太は心得たもので、人通りが多くなる前に隼太の肩から離れて飛び立った。
少し歩くと賑やかな街中に出る立地に隼太のアパートはあった。喧噪を抜けながら、自分と恭司の組み合わせが衆目を集めていることに気付いている。それをどこ吹く風と受け流すのが二人だ。自身の容姿を人がどう見るか、よく弁えていて、無遠慮な視線を無視する法も心得ている。ショッピングモールと書店の横を抜け、路地に入ると『グリーンスリーブス』はあった。きん、と冷えた空気と青空とは相反するような、どこか時代を逆流した感のある、セピア色の店構え。鉢植えに、雪を被った紫色のパンジーが咲いていて、寒そうだ。中に入ると物憂く気怠い空気が、決して不快でない程度に流れている。
マスターが隼太たちを見て、いらっしゃいませ、と言う。年輪を思わせる皺が無数に深く刻まれた顔。髪は意外に黒々として、体つきはひょろ長い。体型だけは、隼太の父である大海と似ているかもしれない。彼は華奢な少年、つまり明らかに未成年の外見をしている恭司にも礼儀正しく接した。他の客たちがちらりと二人に目を走らせるが、マスターが了承している様子を見て、また酒と歓談に戻る。
「オールドパー12年」
「いつもの」
カウンター席に着いた二人がそれぞれ注文する。
恭司は吉田茂や田中角栄も好んだとされる人気のスコッチウィスキーを。
隼太はいつも、ブランデーのレミーマルタン・ルイ13世を呑むことにしている。破格の値段のそれを、彼はこの店にボトルキープしていた。バーテンも隼太たちとは顔見知りで、注文を畏まって受ける。白熱灯の暖色の明かりが店内を朧に照らし、木材がふんだんに使われた落ち着きと趣のある空間に、グリーンスリーブスが流れている。
「水木楓は元気か」
「そうなんじゃないか」
「逢ってないのか」
「逢ってる」
それなら素直に元気だと答えれば良いものを、と隼太は失笑してしまった。恭司の癇に障ることを尋ねたのは事実だ。
ああ、私の愛した人は何て残酷な人
グリーンスリーブスの歌が流れる。隼太の脳内で歌詞が翻訳される。
私は長い間あなたを愛していた
側にいるだけで幸せだった
レミーマルタンの香りを鼻腔と口腔で楽しみながら、隼太は歌詞を繰り返す。
(傍にいるだけで幸せだった)
そう思える相手が出来た恭司に、グラスを傾けながら隼太は問う。
「警視庁に潜り込んで、鼠を一匹、殺してこい」
「鼠?」
「コトノハを処方する人間を危険視する政治家の、間諜だ。警察組織で妙な動きをされては困る」
グリーンスリーブスは私の喜びだった
グリーンスリーブスは私の楽しみだった
恭司が頷く。躊躇いは束の間。
隼太は冷淡に告げた。
「……無理だな。今のお前には出来ない」
「出来る」
「血に汚れた手で水木楓に触れられるのか」
グリーンスリーブスは私の魂だった
あなた以外に誰がいるだろうか
「触れられるか、恭司」
楓以外に誰がいるだろうか。
この孤独な猫を癒せる存在が。そして、そうなってしまったからには、恭司に人は殺せない。純真な少女を裏切ることが出来ない。
「その政治家は、ひいてはあんたや楓の存在を脅かすんだろう。それなら俺は殺る」
「手が汚れるぞ。触れられなくなるぞ。人を殺すとはそういうことだ」
「それでも。守る為なら触れられなくても良い」
「…………」
「隼太」
「どれだけ辛いか、お前は知らないんだ」
恭司のアーモンド型の目がふと見開かれる。
「あんたは知ってるのか」
「さあ。もう忘れた」
レミーマルタン・ルイ13世は最上級の畑から収穫した葡萄のみを使っている。芳醇でこくのある甘美。苦い思い出さえも連れ去ってくれるような。
カランと恭司の持つグラスの、氷が優しく鳴った。
「あんたの役に立ちたい。楓は、幸せならそれで、俺は良い」
「莫迦だな、お前は……。どこでそんな、自己犠牲を覚えた」
手を伸ばさなくても良いと暗に言う恭司に、隼太が目元を和ませた。
最初から、この役割は自分が務める積りだった。隼太は恭司を試したのだ。
グリーンスリーブスが流れている。