ダークチョコレート
今日は殊更、冷える。
そのせいばかりでもないが、隼太は隠れ家の一つであるアパートの室内でも、紫陽花色のコートを着たまま、深緑のソファーに身を埋めていた。外気の冷えは、さして問題ではない。暖房を強めに入れれば済むことだ。
それでも冷えると感じる、自分の心が問題だった。
舌打ちし、シナモンやクローブ、カルダモンなどが入ったホットワインの硝子コップを傾ける。気休めだった。
幼少の隼太を、英才教育したのは祖父である音ノ瀬隼人だ。
隼人は隼太に語学、政治学、歴史、軍略までを叩き込んだ。だが隼人に教わった中で最たるものは、戦争の陰惨な体験だろう。悪逆非道、今の隼太であっても眉をひそめる行為を為したと隼人は幼い隼太に語って聴かせたのだ。
それは一種の拷問にも近かった。
なぜなら、隼人はコトノハを処方して、それらの事柄を隼太に服用させたからである。
隼太の精神が病み、蝕まれなかったのは奇跡と言えた。
父である大海は、度々、そんな隼人に苦言を呈していた。息子を庇い、盾となろうとした。
シナモン、クローブの異なる二種の甘味と、カルダモンの刺激的な香りが、熱と共に隼太の咽喉を滑り落ちてゆく。
銀色の正方形の紙に包まれた、ダークチョコレートを口に運ぶ。
苦く甘い。どこかの誰かの思い出のように。
(フォーゲルフライ)
鳥のように自由に羽ばたける、コトノハを処方出来る人間たちの理想郷を隼太は求めた。
現在、音ノ瀬一族の当主である音ノ瀬こととの間で、その話は緩やかに進行している。一族の聖地・隠れ山に彼らを移住させ、生活の糧を与える。
戦禍から利益を得ることまでは、ことは同意しなかった。同意されるまでもなく、隼太は紛争地域の軍需に喰い込んだ。知れれば叱責のコトノハが降るだろう。
「隼太。考え事かい?」
肩に烏の隼太を留まらせ、観葉植物のベンジャミンの葉を撫でていた大海が、振り向いて尋ねる。
狂気と紙一重に生きる彼の瞳は澄んでいて、その虚ろな澄み方が正常からの隔たりを感じさせる。
「ああ。お前も呑むか?」
「ホットワインか。温まりそうだね」
「残りが鍋に入ってる」
「頂こう。チョコも貰えるかな?」
「ああ」
大海との会話で、隼太の心の冷えは、多少、和らいだ。
隼人の戦争体験は、その大半が嘘だった。隼人はこうであって欲しいという願望をでっちあげ、孫息子に語って聴かせたのだ。
隼人はある年の終戦記念日に、花畑で切腹して果てた。
「美味しいな」
目を細めてホットワインを呑む自分の父親を見る。コトノハの禁呪の副作用で、実年齢よりはるかに若く見える大海は、隼太と並ぶと友人同士のようだ。兄弟ではない。兄弟と言うには、彼らの容姿は余り似ていなかった。
「大海」
「うん?」
「じいさんを殺したのはお前か?」
大海の硝子コップを持つ手が止まる。隼太は父親を名前で呼ぶ。
兼ねてからの疑惑を、隼太は淡々と口にした。大海の目は相変わらず澄んで、何を考えているのか測れない。
彼は微笑んだ。
「そうだよ」
隼太はすぐには反応せず、悠長に新しいダークチョコレートの包み紙を剥いだ。
祖父の暴力的なコトノハに、隼太は神経衰弱に陥り掛けていた。
「父さんに言った。〝貴方の理想は蜃気楼。この先には絶望しかない〟。そのコトノハを処方して、服用させた」
「それでじいさんは死んだのか」
「そうなんだろうね、きっと」
大海の答えは、鳥が空を飛び、魚が海を泳ぐといったように、ごく自然な口調だった。
何の良心の呵責もない。
息子を守る為に大海がそうしたことは明白だった。
大海の愛情はダークチョコレートだ。
甘くて苦い。
「お前が手を汚す必要はなかった」
「僕はお前を守りたかった。たった一人の息子。磨理の忘れ形見だからね」
隼太の母である磨理の名前を言う時だけ、大海の目が切なそうに揺らいだ。
硝子戸の向こうの空を見ると、白いものが散らつき始めていた。
紫陽花色のコートの胸元を掻き合わせるようにして、一層、深くソファーに身を沈め、為替レートを確認しなければと隼太は思った。