斜陽とシナプス
時代を形容するに斜陽という言葉を用いることがあるが、この建物にも斜陽の言葉は当て嵌まると隼太には思えた。忘れ去られ、朽ち果てるのを待つだけの建物。元は印刷工場だったと聴いている。人の意識とは無邪気な程に単純で、そうと聴けばそこはかとなくインクの匂いすら漂っているような気さえして、隼太は自身の安直さを嗤った。
目の前のパイプ椅子には若い男が一人座っている。
拘束具の必要性はない。
彼は隼太の「縛」というコトノハを服用してから、一切の身動きが取れなくなった。
どうして自分がこんな些末事にかかずらわないとならないと、隼太は苛立ち、傍に転がっていた何かの空き缶を蹴り飛ばした。
乾いた、けたたましい音を立てて空き缶が転がって行く。
隼太が空き缶を見る目も、男を見る目もさして変わらない。乾いた視線だった。
「お前の命は俺の気分次第だ。生き延びるも苦しみ抜いて果てるのも」
隼太は、彼にとって真実であるコトノハを男に服用させる。男の耳の穴からそのコトノハは滑らかに入り込み、外耳道、鼓膜を通して中耳、内耳、そして神経へと繋がる。コトノハが服用される道筋だ。コトノハを処方する者であれば、この服用の道筋を熟知している。逆に言えば、難聴の人間にはコトノハを服用させられないということになる。
建物の梁に留まった烏が隼太に同意するようにがあ、と鳴く。
いつの間にか隼太の行く先についてくるようになった烏には、父である大海が命名した隼太と言う名前がある。猛禽を好む隼太は、大海の名づけを今では甘んじて受け容れている。そう、隼太にも甘んじて受け容れるものはある。
他が看過出来ないものを看過することもある。但し、状況がそれを許さない場合もあった。
椅子に座る男は暴力団組織の構成員だ。最近、台頭してきたこの新しい組織は、古参の組織から疎まれていた。巷間にざらな話だが縄張りを侵害されること、度重なったからである。
組織にも横の繋がりがある。縦の繋がりがあるように。
組織同士、会合の席が設けられ、この新入りに灸をすえることとなった。まずは新参の組織が吸った甘い蜜を、掠め取ろうという、隼太からすれば小賢しい了見だった。
隼太の前に座る男はその新参の組織のトップに重用された金庫番だった。
一帯の暴力団には隼太も貸し借りがある。
この金庫番から、甘い蜜の在り処を訊き出すことが彼の受けた仕事だ。
「切」
隼太はこのくだらない仕事を手っ取り早く終わらせようとした。悲鳴が上がる。
男の手の指が切断される。
「今から、十秒ごとにお前の指を一本ずつ切っていく。お前がお喋りになるまでそれは続くぞ」
があ、と烏がまた鳴いた。
暮れゆく街の喧騒の中、隼太は若い女の腕を掴んだ。
明るい茶色に染めた、長い髪の女性は驚いた瞳で隼太を見る。
「来い」
コトノハを、意図的には処方しなかった。隼太は自分の外見が、異性に与える影響を熟知していた。果たして女性は、従順に隼太について来た。周囲の目がそれとなく二人を見る。注目にも視線にも慣れている。けれど今回は、余り人の意識に残ることは好ましくなかった。
ホテルの部屋の床には互いの衣服が散乱している。
シグナルを伝えるシナプスを、と隼太は思う。行為に耽りながら。
シナプス後細胞は受けていないのだろうか。
女の素性からして、警戒心は持って然るべきである。どんなに相手が好ましい容貌をしていても。いや、好ましい容貌をしているからこそ。
悪魔は美しく魅惑的だと知らない訳でもあるまいに。
睦言で、女が預かる一財産の隠し場所を訊き出すことは容易だった。拍子抜けする程に。
隼太は犬歯を剥き出して笑い、礼の代わりに女にあたう限りの法悦をもたらした。
金庫番の男が暴露した金庫の鍵は、女の手に委ねられていた。
行きがけの駄賃も兼ねて、秘事を訊き出す為に隼太は女を抱いた。
健やかな寝息を立てる女の顔を見て、一言、呟く。
「裂」
女が爆ぜ、赤く潰れた柘榴のようになる。血の飛沫が隼太の頬にまで飛んだ。
紫陽花色のコートにまでそれが及ばないよう、彼は予め、コートを遠ざけていた。
この件に関わった人間は、全て口を封じること。
それが隼太の請け負った仕事の、最も肝要な事項だった。
ぺろりと頬を舐める。血の味は彼にとって甘露。
楽しませてもらった代わりに、最期は赤い大輪の花を咲かせてやった。
隼太なりの思考回路だ。
警察は動かない。
組織上層部との癒着はもう随分と昔からだ。
悪くない女だったと思い、隼太は衣服を身に着け、紫陽花色のコートを羽織ると、室内を振り返りもせず部屋を出た。