コトノハの子供たち
鬼屋敷は多少の愉快を隼太にもたらしたが、わざわざ足を運ぶ程の案件でもなかったというのが、彼の正直な感想だった。ことに仔細を報告し、聖との件を念押しして、音ノ瀬本家を出る。恭司は置いて来た。楓と語りたいこともあるだろうという、およそ隼太らしくない気遣いの為せる業だ。晩春から初夏に移り変わる黄昏の空気は隼太に狂乱を感じさせた。存外、人が狂うのはこんな時節であり、こんな刻限なのではないだろうか。
「隼太さん」
呼び止められ振り向くと、ことが四角い淡藤色の風呂敷を持って立っていた。
「何だ」
「お煮しめです。お裾分けに」
「――――鬼兎との仕合の撤回はなしだぞ」
「解っています。人の厚意は素直に受け取るものですよ。耐熱のタッパーなのでそのままレンジに入れられます。返却は結構です」
「気前が良いものだな」
隼太はことの手から風呂敷包みを受け取る。仄かに温い。作ったばかりなのだろう。
温かで清らかなものが、不本意にも隼太の中に生じようとする。この女は鬼門だと隼太は思う。自身が生きていく上で、不要と切り捨てたものを、再度、持たせようとする。それも無意識だから性質が悪い。隼太は黙って身を翻し、手に感じる温度を忌々しいと思った。ことの視線が見送る気配を背中に感じ、それもまた忌々しい。
あの取り澄ました顔をぐちゃぐちゃに乱したらどんなに胸が空くだろう、と嗜虐的なことを考える。もちろんことが大人しく隼太の望むままになるとは思わないし、そうなったらなったで敵に回せば厄介な誰やら彼やらが湧いて出るだろう。そしてその筆頭が鬼兎・音ノ瀬聖であるのは明白であり、真に激怒した彼を相手取りたいとは、さしもの隼太でも思わないのであった。
下らない思考を放り、隼太は今夜の予定について考える。即ち、人身売買組織との取引を。コトノハを使える子供が数名、混じっているらしい。奪還の必要がある。他の人間はどうでも良い。隼太はコトノハを使える人間をのみ優遇する。そのようにして生きてきた。そしてコトノハを処方出来る人間を集めた独立国家の樹立が隼太の最終的な目標である。
ガァ、と烏の鳴く声に腕を差し伸べると、舞い降りる漆黒の影。大海が拾ったこの烏にも、もう慣れたものだ。気が付けば傍にいて、隼太を見守るようである。
日が暮れる。日が落ちて、当たりは薄墨から黒へと変容する。
闇に浮かぶ海は暗澹としている。
港に立ち並ぶコンテナの一つが待ち合わせ場所だった。
黒いスーツに身を包んだ男たちが居並ぶ中、隼太の紫陽花色は鮮やかに、そしてやや優しさをも持って浮いていた。両手両足を縛られ、猿轡を噛まされた年端もいかない子供たちが十数名。夜になればまだ冷えるこの時分に下着同然の恰好だ。
隼太は予め調べておいたコトノハを処方出来る子供を数名、指さすと、その解放を求めた。当然ながら見返りが要求される。だが隼太には何も支払う積りはない。唇の端を艶やかに吊り上げる。
「斬」
いっそにこやかに聴こえるコトノハに、男たちの腕が千切れ飛ぶ。もちろん隼太は、子供を巻き込まないよう、狙いすました処方を行っている。腕がなくなっては肝心の銃も物の役に立たない。阿鼻叫喚の地獄絵図。
次に隼太がコトノハを処方したのは、寧ろ慈悲の念からだった。
「殺」
呻き声と怒号がぴたりと止み、静かになる。
隼太は男たちの躯を無視して子供らを振り返る。とりあえずコトノハを処方する子どもだけを隠れ山に連れて行こうと考える。他の子供たちはどうでも良い。夜が明ければ警察に保護されるよう、手配するのがせいぜいの恩情だ。
「それで済ませる積りかい、隼太君」
思いもかけない人物が、入口に立っていた。
白髪、赤目。
凛然とした立ち姿は見紛うことなく音ノ瀬聖だった。
「彼らに帰る場所はないよ。……皆、親に売られたんだ」
「隠れ山はいつから孤児院になった?」
「僕は今、音ノ瀬一族当主・こと様の代行者だ。これはこと様の思し召しだ」
「――――甘過ぎて吐き気がするぜ、鬼兎」
「何とでも」
「何ならここで、仕合の約束を果たすか?」
聖が怯えた表情の子供たちを一瞥する。
「止めておこう。君はもう十分、彼らに残酷な光景を見せた。中には心の傷となる子もいるだろう」
言いながら聖は、縄を解き猿轡を取り、子供を自由にしていく。
それを横目に、隼太は不興気に鼻を鳴らす。聖に手は貸さない。隼太の両手は紫陽花色のポケットに入れられたままだった。