9.花嫁喪失事件②
「先輩……良く聞いて下さい。今回の婚約は当家の全員が納得したものではありません」
助手席から手を伸ばした姫乃ちゃんが僕のネクタイを結びながら言った。その顔は僕を見ていないけれど、悔しさは痛いほど伝わってくる。
「私や桜田さんも反対ですし、寺島の叔父様もご反対なさっております。そもそも旦那様もここのところ外国へ行っておりまして、お嬢様の事は詳しく存じ上げません」
「……じゃあ、一体誰が……?」
僕が思わずそう言うと、姫乃ちゃんは上を向いてとても苦しそうに言った。
「…………二見さんです」
……二見さん。もちろん僕も覚えている。ちと先輩の家の執事のような立場の方で、沢山いる使用人のトップに立つ人だったはずだ。
でも、同時にそんなに物分かりの悪い人でもなかったはずなのだ。どうして今回に限って……
「時間がありませんので、手短にご説明いたします。先輩にお願いしたいのは、どうにかしてお嬢様を会場から連れ出し、私達が説得するまでの間匿って頂く事です」
「……つまり、衆人環視の中から、主賓のモモちゃんだけを連れ出せってこと?」
あまりにも厳しい条件だ。当然モモちゃんには常に誰かしらが一緒にいるだろう。逃げ出したくても逃げられない。しかも会場はあの使用人達がいるのである。
対する僕は会場の地理すら知らないのだ。仁屋旅館。名前だけは知っている。将棋のタイトル戦とかで使われる、格式高い純和風旅館のはず。ということは庭園くらいあるだろう。だけど……分かる事はそれ位か。
「はい。そのモーニングを着ていれば、さほど怪しまれずに会場の中へ侵入できるはずです。ただ……あの旅館はお客が見える度に入口で陣太鼓を鳴らす風習があります、気をつけて下さい」
……つまり、僕の侵入はバレる可能性が高いってことか。
「一つ良い? 姫乃ちゃんとは連絡取れるんだよね?」
僕がそう言うと、姫乃ちゃんは黙って頷いてくれた。
「……はい! 一応私の方でも準備をしておきました! 例えば逃走先です。このホテルに先輩の名前で予約を入れておきましたので、ひとまず今日はそちらに泊まって下さい。それから、このタクシーは一日貸し切りにしておきましたので、ご自由にお使い下さい」
「ありがとう」
そう言うと、姫乃ちゃんは内ポケットからホテルの予約票を取りだして渡してくれた。
――考えろ、僕。これで逃走手段と逃走先は確保できた。残った問題は、どうやってモモちゃんを連れだすかだ。
……仮病? 駄目だ。一発でバレるだろう。誰かに頼んで連れてきて貰う? 無理だ。前と違って主賓を連れ出そうとしたら、どう頑張っても目にとまってしまう……!
「……姫乃ちゃん」
「……はい。なんでしょうか?」
「今日のスケジュールを教えて貰える?」
「……はい。この後11時から両家顔合わせ及び結納の儀が執り行われます」
「それまでは?」
「それまでは…………いえ、特に予定はありませんが」
タクシーの時計によれば、今は10時30分くらい。……なるほど。少しずつ僕にも状況が読めてきた。
「ねえ姫乃ちゃん。勿論姫乃ちゃん達は前泊してないんだよね?」
「……? はい。三白家の方はお泊まりになられたようですが、私たちは直接会場に――」
「旅館の地理を教えて?」
「……はい。館内は全部で――」
「――あぁ、そうじゃない。僕が知りたかったのは、ずばり旅館が何処にあるのかってことなんだけど」
そう。これは極めて重大なことなのだ。何もない平原のど真ん中とかだったら、追っ手に見つかってしまうからね。
「旅館の場所ですか? それでしたら、この先の住宅街の中にひっそりと佇んでおりますけれど……」
「なるほどね……和風、だったよね?」
「はい。一番正確な形容詞があるとすれば、純和風の旅館でしょうか」
ふむ。純和風となると、木造建築ってことだ。敷地内に広い日本庭園があって、幾つかの建物と温泉があって池の中を鯉が泳いでいる、と。……なるほど。
「……先輩、もう時間がありません。まもなく到着します」
「……どうにかなるかもしれない」
――今回ばかりは、出たとこ勝負っ!
……最悪の気分だし。
――私、今日婚約する。
ふざけんな! と叫びたいところだけど、私がそれを知らされたのは、ついさっき。お姉と別れて桜田と一緒に館内を散策している時に……二見から伝えられたのだ。
普段の私ならそれを包み隠さず態度に出すのだけれど、今日ばかりはそんな気にはなれなかった。……重いのだ。無理矢理着せられた和装も……この後の人生も。
……私は、絶望していた。
「お嬢様……おいたわしや……」
「…………ねぇ桜田……? どうして、こんなことになっちゃったのかなぁ?」
残り時間15分。それが私に残された自由に過ごせる時間だった。15分後には両家の挨拶が始まり……結納は恙なく済ませられるだろう。
私の気持ち? ……そんな物は考慮されないし。いくら歴史の浅い我が家とて、望まぬ結婚を強いられた娘なんて珍しくもない。三白家だってそうに決まってる。そして、そこに今日新しく私の名前が加わる事になるだけ……
「お嬢様……誠に申し訳ございません。私どもも一切聞き及んでおりませんでした……」
「……良いのよ桜田。あなたは本当によく……こんな私に……仕えてくれたわ。始末に負えない家出娘。私自身それを否定できないし……できなくて……それで……こんな目に……」
……今日は人生最悪の日だ。
お姉やリョウっちと比べればおバカな私だけど、この後の展望くらいは流石に分かる。
――生き地獄。
三白家の座敷牢のような屋敷に半ば幽閉に近い形で押し込まれ、跡継ぎを生む事だけを期待されるのだろう。もちろんこの桜田も……姫乃も連れて行く事は出来ない。
以降たった一人で、地獄に落ちろと願った三白の馬鹿と結婚して……子供を産んで……後は死ぬまで……。……リョウっち…………。私……
「誰かが……っ……誰かが裏で動いておるのです! そうでなければ、慎重な旦那様がこのように即決で動くなどあり得ません! それさえ突き止められれば――」
「……ありがとう。でも良いの。あと15分で出来る事なんてたかが知れてるし…………っ!……」
「あぁお嬢様! ……おいたわしや…………」
どうやら、いつの間にか俯いていたみたい。顔を上げれば和室の一角に腰を下ろして、窓の外の木々を眺めていた。後ろでは桜田がやるせない表情で立ち尽くしている。
「お嬢様……私で良ければ、お供――」
「それは駄目。三白と私が犬猿の仲なのは知ってるでしょ? しかもあの糞野郎はあれで跡取り息子、最大の権力者なの……。私についてきたら、貴女まで犠牲になってしまう……」
「しかし――」
「しかしも何もないの! 桜田は……家に残って。それから……姫っちには、お姉によく仕えるように伝えておいて」
――押し殺した、悔しそうな気配だけが伝わってきた。私には……それで充分だ。
だけれど、自然と溜息が――
「…………っ! ……ッ……ッ……ッ!」
「……………………」
――溜息と、涙がこぼれるのはどうしてだろう?
いや、本当は分かってた。
分かってたけど……考えたくもなかった。
「……リョウっち…………先輩……私の大好きな……先輩……ッ!」
――私は、リョウっちの事を愛してるのだッ!!!
……だけれど、それが叶わない事も知っていた。だから、言わなかった。でも、リョウっちは……好きな人の妹だからと、私に良くしてくれて……
「……楽しかったな……遊園地。私はおまけだったけど……リョウっちと一緒に園内を散策してさ……」
「………………」
「……凄かったな……探偵部。私は歴代で一番無能な助手役だったけど……それでも、生徒会やオカルト研究会との戦いは、鳥肌が立つほど感動して……」
「………………」
「他にも我が家を大冒険したり、夏に一緒にプールに行ったり、本っ当に楽しかったな……」
「………………」
「聞いてよ桜田。リョウっちってば、お姉のお見合いを放って私を助けてくれたんだよ? 置き去りにされても文句言わなかったのに……格好良かったなぁ……」
「………………っ」
「一目で姫っちの正体を見破ったり、私のつまらないプライドに付き合ってカンニングを防いだり……最後には生徒会長にまでなって。……楽しかった。青春って……こういうことを言うのね……」
「お嬢様………………」
――言われなくても分かる。時間が来たんだ。
だから、これで終わり。今まで遊びほうけていた家出娘の百花は今日でおしまい。これからは………………良き妻として…………虚しく働かなくてはならないんだろう。
私には……お似合いの末路かもしれない。きっと、罰なんだ。親の言う事なんて聞かなかった結果、好きな人に想いを伝える事すら出来ずに死んでいく……。
――私の……馬鹿ッ!!! どうして……どうしてお父さんの言う事を聞かなかったの!? 意味も無く反発して……家を飛び出して……ッ!! お父さんは私の事が嫌いなわけじゃない、そんなことくらい分かってたッ! だから……だから大人しく聞いていれば……ッ!!! こんな目には遭わなかったかもしれないのにッ!!!!!!
私の、私達の恋も冒険も、全て事件簿にしか残らない。私の記憶の……事件簿に……。全てが水の泡、現から夢へと消え去っていく……。だけれど、それだけあれば、私は……どうにか残りの人生を生きていける……かも……しれない……
「…………化粧直して……泣いちゃったから、崩れてるかもしれないから……さ」
「……はい」
そうして、私は静かに立ち上がって洗面所へと向かった。美しい室内の調度品も慰めにならない。ただ……虚しいだけ。
「……ところで、姫っちは?」
「……そう言えばおりませんね。朝食後に何やら出かけて行ったのは知っておりますが」
同時に桜田のスマートフォンがなった。桜田はどうでも良さそうに無視しようとして……着信相手の名前に眉根を寄せていた。
「姫乃? 今更何を…………」
一瞬だけ、希望が湧いた。だって姫っちだよ? 大人しいあの子が非常事態に縋る相手なんてたかが知れてるし……つまり、リョウっちを頼ってるわけで……
「……駄目だし。どうせスマートフォンなんて傍聴されてるし」
儚い夢だった。こんな時だけ、私の頭脳は冴え渡ったのだ。
向こうだって無理矢理結婚させるのは承知。まして桜田は私の腹心の使用人。当然監視対象だろう。
「……そうですか、では」
「姫っちは何だって?」
桜田が通話を切ったので聞いてみた。どうせそのくらいしかやることはないのだ。
「はい。庭園内にお稲荷様の社があるそうです。そこから左側の竹林を見るのが絶景だとか……」
「………………なにそれ?」
「さあ?」
……どうだって良いか。確か社は会場から見えるほど近くだったはず。少しの寄り道くらい、大した差じゃないだろう。
「行こ、桜田」
「……はい」
そうして部屋を出る。案の定そこには見事に直立不動な二見がいた。私のお目付役ってことか……。
「お嬢様、この度はご婚約おめでとうございます」
「……どういたしまして」
せめてもの皮肉も、二見には一切通じなかった。私が無視して歩き出すと、むしろ困惑したような顔を浮かべている。
……上等だあんにゃろう。どうせ二見は古い男だから、結婚が女の幸せとか思ってるのだろう。あるいは……私が……リョウっちに失恋して傷つかないように……とか。
――ありえない話じゃない。二見はリョウっちの事を買っていたし……。つまり私は、お姉とリョウっちの仲を引き裂くお邪魔虫ってことか……。
……余計なお世話だ。結ばれないのなんて……分かってたんだから……。
少しだけ足音を立てながら木張りの廊下をずんずん進んでいく。館内には誰もいない。本来休館日なのを特別に貸し切っているのだ。
見えた。あれが社だ。確かに近くには竹林が見えるし。
「お嬢様……」
「……せっかくだから」
私がそう言うと、桜田はビックリするほど冷たい目線で二見を睨み付けた。大した効果は無かったようだけど……それでも寄り道くらいは見逃して貰えるらしい。
私はせっせと道を進んでいく。もう二度と通らない道だ。そう考えると、少しだけ感傷的な気分になってしまう。
「ここが社ですか? 特に何もありませんね。姫乃は何を考えているのでしょう?」
まったくだ。最後なんだし、お別れくらい言わせて欲しい。……それとも……姫っち、本当は私の事を傲慢な成金とか思ってたのかな……?
「ここは湯の上稲荷ですね。露天風呂の近くだからそう名付けられたのでしょう――ッ!?」
同時に二見が硬直した。
何事かと思って視線を追ってみれば――
「――――――ッッッッッ!?」
「あれは……どうしてッ!?」
――思わず目を丸くしていた。
居たのだッ! 竹林の隣、小道の向こうッ! 白壁の……上にッ! あぁ、なんて事だ。私は……おバカな私には今の気持ちを適切に表現する事ができないしっていうか見間違いじゃないの、いくら何でもありえないっていうか、でもでも、もし本当だったら死ぬほど嬉しいし……あぁ考えが纏まらないッ! なんて事だ! とにかくそこには――ッ!!
「――モモちゃぁぁぁんッッッ!!!」
「リョウっち――!?」
私の愛する先輩が、壁の上によじ登ると大きく手を振って私の名前を呼んでくれていたのだッ!!!
ど、どうして!? 笑わなきゃ、笑わなきゃいけないのに……涙が――ッ!!!
刹那、私は桜田を見た。桜田も私を見た。
「リョウっち……!!! 今、行くからぁぁぁぁッ!!!」
私は歓喜の叫びを上げて走り出していた。振り向かなくても分かる。同時に鈍い音が聞こえてきたのだ。
――桜田が、二見を投げ飛ばしたのだろう。だけれど、長くは持たないはずなのだ。桜田はある程度の護身術を習っているけど、元軍人の二見には勝てっこない――
「お嬢様ぁぁッ! ここは私に――ッ!!!」
「桜田!? お前は何を考えて――ぐッ!?」
最後に見たのは、桜田が地面に投げ飛ばされた二見に踵落としを決めようとする姿だった。同時に私達の醜態を見ていたのだろう、会場の方がにわかにざわつきだしている。
その中では……お父さんがあんぐりと口を開けて驚いていた。
くそうッ! 着物はこういう時走りにくくて困るしッ! 足に絡みついて……!?
「モモちゃんッ! 手を伸ばしてッ!!!」
「リョウっち! 私……私……ッッ!! え、えへへ……」
同時に後ろから地面を強く蹴る足音が聞こえてきた。
――胸が張り裂けそうなほどドキドキしてる。運動のせいなのか、恋のせいなのか、私にも分からない。
あぁ、でもそんな事はどうでも良い……! 大事なのは……婚約が正式に決まるギリギリのところで、リョウっちが助けに来てくれたってことなのだッ!!!
壁の下、地面を走る私にとって、壁の上、空を背景に背負って懸命に手を伸ばす愛しの先輩の姿が、間違いなく白馬の王子様に見える! 王子様が伸ばした逞しい腕へと懸命に手を伸ばし――
「百花お嬢様――ッ!? 何を、何を考えて――」
「――うるさいッ! 私は……私は自分で生きていくのッ!!」
リョウっちの腕に掴まるいなや、強い力で私は天国へと引き上げられていた。間一髪のところで二見の腕が空を掴む。
同時に私はリョウっちの身体に優しく抱き留められてしまう。
「モモちゃん……良かったぁ……」
「えへへ……リョウっち……ありがと……」
見上げれば、触れられそうなほど近くにあるリョウっちの精悍な顔。逞しい身体に包まれた私は、それを確かめるようにぎゅっと縋り付く。同時に両手をリョウっちの首に回すと、後は一直線。
「モモちゃん?」
「ん、好き――」
――愛する人に、キスをしていた。
下からは悲鳴のような声が聞こえてくるも、気にもならない。男の叫びなんて放っておけば良い。今は……少しでも長く、この幸せな時間を――
気がつけば、身体は正直でリョウっちを離すまいと一ミリの隙もなくくっついていた。唇でリョウっちの驚きを塞ぎ、指を一本残らず絡め合って絆を深め、あとは潤んだ瞳で続きを所望するだけ……。
「……モモ……ちゃん……」
「リョウっち……えへ、ついに……しちゃった…………」
息継ぎの為に少しだけリョウっちと口づけを離す。あぁ、どうして私ったら、もっとしっかり化粧を直さなかったんだし!? さっき泣いた跡、直してない! 残ってないと良いな――
そこでようやく私は気付いていた。リョウっちの表情が凍り付いていたのだ。その視線の先には……私の家族がいた。
呆然と立ち尽くすお父さん。目をまん丸に見開いているお母さん。そして――
「姫乃――ッッッ!!! これは……どういうことかッ!?」
「見ての通りでございます、お嬢様。春茅先輩は……千歳お嬢様ではなく、百花お嬢様をお選びになりました」
能面のような表情のまま嫉妬の炎に震える姉と、会心の笑みを浮かべた姫乃の姿だった。その後ろには暗い愉悦を浮かべた三白の姿もあって――
――どうやら私は……私とリョウっちは……謎に気付かず、はめられたみたいだった。




