9.花嫁喪失事件①
雪こそ降らないものの、身を切るような冷たい空気が丹沢からの風に押されて吹き寄せる。温暖化とは無縁の凍てつく12月の寒波が立浜高校を襲っていた。
もちろん、それは部室とて同じこと。だから僕とモモちゃんは姫乃ちゃんの提案で、身体を温める事にしていた。お湯とハーブで満たされたティーポットからはもうもうと蒸気が上がり、心持ち冷えきった部室の温度を上昇させている。
そこから注がれたお茶を椅子に座って手に取ると、早速一口。
「はぁぁぁぁぁ。生姜の温もりが身体に染み渡るぅ……」
「リョウっちリョウっち! ジンジャーティーも良いけど、灯油買おうよ灯油!?」
僕が姫乃ちゃんの入れてくれたハーブティーで一息つく頃、モモちゃんは身も蓋もない事を言いながらかじかんだ手をほぐすようにもみ合わせていた。
「ストーブ使おうっ! リョウっちは部長として、女子部員がミニスカートな事を考慮するべきだし!」
むきー、と怒ったモモちゃんが両手を高々と掲げて訴える。同時に露わになる太もも。……そう言えばモモちゃんのスカート、前より短くなってるような……気のせいかな?
「お嬢様……だから私はタイツをお勧めいたしましたのに……」
「ぶー! そんなの履いてられないしっ!」
ミニにしてはロングなスカートの姫乃ちゃんの指摘に、モモちゃんはプイッとそっぽを向いてしまう。そういえば久瀬さんもミニスカートを貫き通していた。……女の子には、色々あるんだろう。僕たちには分からない何かが。
既に窓の外の木々は葉を落として物寂しい姿になっているのに、モモちゃんは意地でも生足を押し通すつもりらしい。
「今年の冬は……寒いらしいね」
「……はい先輩。そのようですね」
「だから! ストーブ入れようよストーブ!」
いつも通りに賑やかな部室だった。だけれど、僕たちはそこで急に静かになってしまう。
聞こえてきたのだ。ここに向かって近づいてくる足音が。そこで思わずモモちゃんが小首を傾ける。
「依頼人……かな?」
「……そのようですね」
響く足音は一つだけ。ただし、何やら緊張しているのか、妙に慌ただしい感じがする。もちろん上履きには間違いない。つまり立浜高校生なのは間違いないんだろうけど……何かおかしい気がする
「待って。依頼人にしては早足だけど、緊急の割には遅――」
そこで僕は思わず眉根を寄せていた。その中途半端な足音の持ち主は部室の扉の前で立ち止まったのだ。でも、それは一瞬だけ。
依頼人は突如人が変わったように不作法に扉を開けたのだ。そしてズカズカと入り込んでくる。思わずモモちゃんが苦情を言おうと立ち上がり――
「って何だ三白じゃん。何やってんの?」
「黙れよゴミ屑ゥッ!」
思いもよらない不穏な空気に、僕は慌てて立ち上がっていた。
そこには三白――かつて愛梨先輩の部下だった男が、血走った目で僕を睨んでいたのだ。
「良いご身分だな春茅ッ! 僕を踏み台にして出世した気分はどうだッッッ!?」
「み、三白君? 僕はそんなつもりじゃ……」
「うるさい! 御託なんか聞きたくもないッッッ!!」
同時に三白が学校中に聞こえるように吠えた。あまりの迫力に姫乃ちゃんが怯えて後ろに下がる中、僕はモモちゃんを庇うように前に出ていた。
……モモちゃんは僕を擁護するため、正面から立ち向かおうとしていたのだ。
「三白君……その、愛梨先輩の事は……」
「お前があの人の名前を呼ぶなッ! 汚らわしいッ!」
そう。三白は……あの時愛梨先輩にあえなく振られてしまったのだ。そして、僕も愛梨先輩に協力して一枚噛んでしまっている。恨まれるのは当然かもしれない。
だけど、何かが腑に落ちな――
「淫売の百花に二股の春茅ッ! ハッ! 探偵部っていうのはどうしようもないろくでなしの集いらしいなッ!」
……僕はそれを聞き流す事が出来た。だけれど、モモちゃんは別だったらしい。今の一言が逆鱗に触れたのか、僕の制止も聞かずに勢いよく地面を踏みならして前に出た。
「はぁ!? 自分が惨めに振られた八つ当たり!? そんなんだからあんたは振られたんだし!」
「な、何をォォ!? 夜な夜な男遊びに耽ってたお前に言われる筋合いはないッ!」
「あ、あんたァッ! よくも……よくも、ある事無い事を言ってッッッ!!!」
「無い事? 笑わせるな! 全部事実だろう? 正真正銘”家出”娘の百花のくせにッ!」
「お、落ち着いて2人とも!?」
だけれど僕の声も虚しい。三白はモモちゃんに図星を付かれて拳を握りしめているし、モモちゃんはモモちゃんで激しい怒りに我を忘れてしまっている……!
どうにかしないと……!?
「黙れ貧乏人ッッッ! 本来なら僕はお前如きが声をかけて良い存在ではないではないんだぞ!?」
「黙るのはお前の方だし! リョウっちに当たり散らす暇があったら、自分でも磨きなさいよッ!」
「はっ! 淫売が自分磨きとは笑わせる! お前の場合、他の男に身体を磨いて貰ってんだろッ! その貧相な身体をなッ!」
「――――――ッッッッッ!!!!」
――マズい!?
そう思った時には手遅れだった。怒りのあまり瞳を真っ赤に充血させたモモちゃんは思わず飛び出していた。
「いい加減にして! 三白なんか、1人寂しく死んじゃえ馬鹿ッッッ!!! 2度と当家の敷居を跨がせないし許さないッッッ!!! 絶対に後悔させてやるッッッ!!!」
同時に手加減の一切無い本気のビンタが炸裂し、乾いた音が部室中に響き渡る。見ればモモちゃんは怒りと屈辱のあまり涙すら流していたのだ。
慌てて姫乃ちゃんが駆け寄るも、効果は薄い。
しかも三白も更に応戦しようとしていて――
「三白君もう良いだろうッ!!! 君が恨んでるのは僕の筈ッ! 無関係な人間に当たるのは止めるんだッ!」
――反射的にモモちゃんと姫乃ちゃんの前に立ちはだかっていた。
三白の奴はあろうことか、握り拳を振りかぶってモモちゃんに殴りかかろうとしていたのだ。
「あっそッッッ!!! じゃあお前を殴れば良いわけだなッ!!」
「――ぐッ!?」
勢いよく振るわれた拳は、代わりに僕のお腹へと突き刺さる。衝撃と同時に空気が口から漏れ出し――それでもどうにかその場を引き下がらなかった。
「リョウっち!?」
「せ、先輩!? そんな!?」
だけれど、それは失敗だったみたい。後ろで僕を心配する2人の女の子。それは、振られた三白にとってこれ以上無いほどの挑発になってしまうのだ……!
「へっ! 良い様だな探偵ッ! おらッ! もう一発食らいやがれッ!」
衝撃と同時に視界が真っ赤になる。三白の拳が僕の顎を打ち抜いたのだ。今度はガードすら出来なかった。辛うじて踏みとどまるも、衝撃で視界がぶれてしまい次の手を見失ってしまう。
「リョウっち!? リョウっち!! や、やめてよ……」
「飲酒に二股ッ! 初代と変わらぬ悪行三昧ッ! 探偵部? ハッ! こいつはお笑いだッ! 偽装結婚薬物中毒不法侵入! まんまホームズと同じじゃないかッ!」
モモちゃんの悲しげな懇願と同時に、三白の拳が今度こそ僕の頬を打ち抜かんと振るわれる。だから僕は――
「……っ……気は……済んだ……かい?」
「……!?、お、お前……!?」
つい、正面から三白の拳に応戦してしまったのだ。もちろん殴り返してはいない。代わりに三白の拳を受け止めると、捻りあげて無力化したのである。だけれど、あいつの瞳の怒りは全く消えていない。
「勝ったつもりか!? 甘いんだよッ!」
「うあッ!?」
あいつは自分へのダメージなんて一切気にせず蹴りを放ってきたのだ。油断していた僕はそれをモロに喰らってしまう、思わず膝をついてしまう。
「思い知ったか愚図ッ! 馬鹿な使用人共々淫売に溺れてろ! そうしてゴミのように捨てられ、俺と同じ目に遭えば良いんだッッッ!!!」
「――――ッッ!!! いい加減に、いい加減にしなさいッッッッ!!!!」
――モモちゃんの雷が落ちた。姫乃ちゃんの制止を振り切り部室の机を蹴倒すと、鬼気迫る表情で涙を流しながら大声で怒鳴りつけたのである。
「私の事を馬鹿にするのは構わないッッ!!! こんな私だものッ! でもだからこそ、そんな私を受け入れてくれる先輩や姫乃への狼藉は許さないッッッ!!! 覚悟しなさいッ! 頭でも何でも下げて、お前を地獄の底まで引き摺り下ろしてやるッッ!!!」
「上等だッ!! やって見やがれ淫売女ッ! 親に見捨てられたお前なんぞ怖くもない――」
「もう止めて下さいッ!!! こんなことをしても、何の解決にもなりませんっ!」
――勇気を振り絞った姫乃ちゃんが、悲鳴を上げるように泣き叫んだ。
僕も三白もモモちゃんも、か弱い女の子の叫びに思わずそっちをみてしまっていた。姫乃ちゃんは渾身の力で恐怖に耐えながら、右手をポケットに入れて僕たちを見ていた。
何より姫乃ちゃんはそこまで言うと、我慢の限界を超えたのか泣き出してしまっていたのだ。同時に三白が舌打ちする。
「……まぁ良い。だがな覚えてろよ春茅? 俺はお前を、絶対に許さないからな?」
居たたまれなくなったのか、三白は捨て台詞を言うと立ち去っていく。それを見もせず、僕もモモちゃんも、姫乃ちゃんに駆け寄っていた。
幸い少しすると姫乃ちゃんも落ち着きを取り戻し、おずおずと事情を説明してくれた。
僕が入れ直した紅茶を行儀良く受け取ると、静かに口をつける。
「……私、先日小耳に挟んだ事があります。能登前会長は……お兄さんのお友達の久嵐さんという男性とお付き合いをされてるそうです」
「それで三白君は……」
「ふんッ! あんな奴、呼び捨てで充分だし!」
去年の生徒会長能登豪太先輩。僕も少しだけお世話になったから良く覚えている。そんな先輩が紹介する相手なんだから、きっと立派な身なりの紳士なのだろう。少なくとも、三白が敵わないと絶望する程度には。
「そんなことより、2人とも帰り支度を整えて。多分異常を伝えた桜田が――」
「――お待たせいたしました」
いつの間にか仕事服の桜田さんが音もなく部室に現れていたのだ。さ、流石はお金持ちの使用人。本職でなくても呼ばれれば即座に参上するんだ……。
「桜田、後で姫っちから報告を聞いて。それから、三白が落ち着くまではリョウっちも送迎をして」
「そんな、大げさだよ」
「……でも先輩、念には念を入れた方が良いかもしれませんから」
思わずそう言った僕に対して、姫乃ちゃんは子供に言い聞かせるように僕の制服の裾を握った。そうして桜田さんと何やらアイコンタクトを交している。
かくして、その日の僕は桜田さんのリムジンに乗せて貰う事となった。
そうして迎えた日曜日。僕は平日よりもだいぶ暖かい冬の朝日を浴びながら朝食を食べていた。今日は一日暇なので、財布もスマートフォンも持ってない。そして、今の春茅家には僕しかいないようなのだ。
どうやら両親は外出してしまっている。そう言えば美術館に行くとか言っていたような……。
そんな事を考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
食べかけのパンをそのままにして玄関の扉を開け――
「……先輩! 大変ですっ!?」
「姫乃ちゃん……?」
そこには珍しい事に、割烹着姿の姫乃ちゃんが立っていた。しかもその右手には何故かしゃもじ。ちなみに左手にはご飯の盛られていないお茶碗だった。
髪型こそ整っているものの激しく狼狽している。
「た、大変なんです! とにかく、先輩のお力が必要なんです!」
「お、落ち着いて姫乃ちゃん――」
「落ち着いていられませんっ! あぁ先輩、そうではなくて、とにかく急いでいて――」
「うん。モモちゃんの朝の予定に不穏なものが入っていたから、慌ててタクシーで僕のところに助けを求めに来たんだよね?」
「……!? ど、どうして!? ……あぅ、流石先輩です……」
僕がそう言うと、姫乃ちゃんはようやく自分の醜態に気付いたのか恥ずかしそうに頬を染めていた。
……まぁ、どう見てもそんな格好をしてるしね。姫乃ちゃんがこんなに慌てて僕を頼る理由なんてモモちゃんくらいだろう。車の免許も持ってないから移動手段はタクシーしかない。桜田さんのリムジンなら割烹着はともかく、しゃもじとお茶碗くらいは置いてくるだろうから。
「――っとそうではなくて! 先輩、お休みのところ申し訳ありませんが、どうかお力をお貸し下さいっ!」
「任せて……!」
そうして家の鍵だけかけると、僕は慌てる姫乃ちゃんに導かれて近くの道路まで出ていた。そこには一台のタクシーが停まっている。どうやら姫乃ちゃんが料金清算後も戻ってくるからと待たせていたようだ。
姫乃ちゃんは割烹着の裾をつまんで助手席に駆け込むと、僕には後部座席を進めてくる。
慌てて乗ったそこには何故か――
「すみませんっ! 仁屋旅館に行って下さい! 出来るだけ早く!」
「……スーツ?」
「……モーニングですっ! 先輩、恐縮ですが時間がありません! 私は後ろを見ませんので、車内で着替えて下さいっ」
正確にはベストにコートにスラックス、それからネクタイまでついてきた。……マズい。流石の僕もこんな経験は初めてだ。ネクタイってどうやって結べば良いんだろう? そもそもなんでこんな礼装を? いや、姫乃ちゃんが言うんだから必要なんだろうけど――
「先輩、落ち着いて聞いて下さい」
「うん。それで、よっぽどの事なんだよね?」
姫乃ちゃんは半ば涙目になって、縋るように言った。
「百花お嬢様が……!」
「モモちゃんが?」
一息。そうして姫乃ちゃんは自分を落ち着かせてから僕を見た。
「お嬢様が……望まぬ婚約を結ばされそうになっておられます!」
「……え!?」
――な、なんだって!? 望まぬ婚約!? モモちゃんが!? 前に勝手に婚約者を作らないでと釘を刺していたにもかかわらず!? しかも、ちと先輩ですら許嫁候補だったのに……婚約だなんてそれ以上じゃないか!?
そして姫乃ちゃんは屈辱を隠すように語ってくれた。全て、あいつの陰謀だったのだ。
「三白さんが……強引にお嬢様と婚約を結ばれました……」
「そんな!? でも待って! ……三白の家は格下だから、婚約は断れるんじゃないの!?」
とても悔しそうに拳を振るわせて、姫乃ちゃんは言った。
「それは………………その……旦那様が…………お嬢様をお見捨てになったのです……。千歳お嬢様にも無断で……」
僕は車内にもかかわらず、呆然と突っ立ってしまっていた。
――父親に見捨てられた。
モモちゃんの家は名家の家だ。庶民とは違う。当然見捨てられ方も違うのだ。財産に権力がある以上、何処の馬の骨ともしれぬ相手と結ばせるわけにもいかない。だから、最低でも話の通じる、かつ不良娘でも受け入れざるを得ない弱い相手と契りを交す必要があるわけで……
――モモちゃん……
「先輩……どうか……どうか、お嬢様をお助け下さい……!」
「――分かった。僕に出来る事であれば、何だってするよ……!」
言うまでもない。僕だってモモちゃんの事は大好きなのだ。あんな明るい子を、死ぬまで失意の中で暮らさせるわけにはいかない――!




