3.恐怖の谷③
陰鬱な空気を追い払うように真夏の太陽が燦々と窓から降り注ぐ中、僕とちと先輩は廊下を歩いていた。行き先はもちろん、件の階段だ。
その途中、僕はちと先輩の言葉に全精力を傾けていた。
「さて、今回の幽霊騒動は少しだけ難しい。神秘のベールを身に纏っているからな。……だから、まずそれを剥がすところから始めようか」
……僕の見立てでは、今日のちと先輩はなんだか様子が変だ。どこが変だと言われると困ってしまうのだが、変なのは確かだと思う。そう、幽霊の名前を聞いたあたりからな気が……
「後輩? どうかしたか?」
「っあ!? す、すみません。ちょっと考え事を」
気がつけば、ちと先輩が怪訝そうな顔で僕の顔を覗き込むようにしていた。僕たちは事件現場へとやって来ていたのだ。
「それでだな、まずは状況を整理しようか」
「はいっ。まず谷さんが見たという幽霊ですが、立浜高校の男子の制服を着ていたみたいです! それに名前まで割れてるなら、正体を探るのはわけないんじゃないでしょうか?」
――あとは神社なりお寺なりに……。そう言おうとした時点で失敗に気づくことができた。少なくとも僕はそれを確信した。だって、僕がそう言った瞬間ちと先輩は、紅茶頼んだらクリームソーダ出された見たいな顔をしてるんだもの。
「……落ち着け後輩」
「お、落ち着いてますよ!?」
「…………それはともかく、だ」
マズイ。自信がなくなりそうだ。なにせ、ちと先輩ときたら、やれやれと言わんばかりにしているのだ。ゆゆしき問題だぞ。あぁ、また僕の憧れの先輩の隣に立つという目標が……遠のいて…………。
そんな僕の葛藤を綺麗に無視したちと先輩は、現場の階段の手すりにもたれながら言う。
「純粋な状況だけを見るんだ。あの夜起きたのは次の4点だ。1、お経。2、濡れた階段。3、揺れるカーテン。4、学ランを着た人影」
「……確かに言われてみると、呆気ない。……あれ? 足音は? まさか、勘違い?」
「その通りだ」
ちと先輩はようやくニコリと……と言いたいところだけど残念なことにニヤリと笑った。
「谷は言っていたな? 全ての窓は閉まっていたと。ならば答えは簡単。足音の正体は自分たちの足音だ。自分たちの足音が閉じた室内を反響して、後ろから伝わってきたんだ。そう考えれば、谷が足を止めたときに音が止んだのも理解できる。……怪談の正体としてはありふれてるな」
「……怪談って事は、先輩もしかして!?」
だが、ちと先輩はおもむろにスマートフォンを取り出すと、なにやら弄り始めた。何か意味があるんだろうか?
……マズイ。今日の僕は良いところが一個もない。このままじゃご褒美が貰えない。
「あぁ。残りのお経、階段、カーテンは同じ原因で起きてるな」
駄目だ。全然分からない。
「ヒントは濡れた階段だ。肝試しで先行した涼花達はそれに気づかなかった。ということは、答えは一つ。……濡れてなかったんだ」
「……えっ?」
ちと先輩はそっぽを向いていた。何故だろう。僕の回答を待っていない気がする。待ってるのは別の……
「ど、どういうことですか!?」
「それは……ちょっと待て。来た」
ハッとなった僕の耳は、確かにこちらへやってくる足音を捕らえていた。ポニーテールを揺らした彼女は片手にスマートフォンを持って、もう片方の手をこちらに向けて振っている。
「マイ先輩!?」
「ハロー! 千歳、後輩君! さっきぶり! なんだか面白そうな話をしてるじゃない!」
「ど、どういうことですか!? ま、まさか、マイ先輩が犯人ってことなんですか!?」
「えっ? えっ? ま、待って何のこと!?」
動転した僕は思わずマイ先輩に詰め寄っていた。僕の豹変に驚いたのか、彼女は目を丸くしている。そんな僕の頭をコツンと叩くものがあった。
呆れ顔を作った、ちと先輩の可愛い拳骨だった。
「そんなわけないだろう? 話によれば涼花はあの時ゴールで水島と一緒に待ってたんだ」
「……あ」
そりゃあそうだ。というか、そもそもマイ先輩が犯人なら探偵部なんかを勧めたりはしないだろう。
勘違いした僕をマイ先輩は笑って許してくれた。それどころか、よしよしと頭を撫でてまでくれる。マイ先輩、優しい……。あれ? でも、それじゃ、何でちと先輩はマイ先輩を呼び出したんだ?
「涼花、今回の肝試しを発案したのは誰だ?」
「難しいこと聞くわね……。でも、昔からの伝統だし……私とかの部長クラスの人間……」
「そうじゃない」
それを聞いたマイ先輩は目を丸くして驚いていた。僕も彼女も、既にちと先輩が答えに辿りついているのが分かったのだ。
2対の視線を浴びたちと先輩は一度チラリとスマートフォンに目を向けると、答えの説明を始めていた。
「外部の人間を呼んだのは誰だ?」
「ちと先輩、何を言って……!?」
「階段が濡れていたのは、誰かが涼花の組が通った後に濡らしからだ。どうやって? 簡単。トイレだよ。トイレには蛇口があるだろう?」
ほとんど状況を理解できない僕に対して、マイ先輩はギュッと目を瞑って頷いた。あれだけで分かったのかな……。それとも、理解できないのが分かったのだろうか?
「一連の流れはこうだ。まず最初に涼花の組が肝試しで中間地点に達してスマートフォンで谷の組に出発の連絡を取る」
「……そうか。静かな校舎の中だし、それが聞こえてたのね?」
「あぁ。多分2階の東側の適当な物陰に潜んでいたんだ。肝試しのルートは1階中央から東階段を使って3階に。3階は東から西へ渡った後、西階段で1階に行くペアと中央階段で2階中央の渡り廊下に行くペアに分かれる……つまり、2階の東側には誰も近づかないということだ」
その時、僕の脳裏を稲妻が走った。遅ればせながら、僕にも事情が理解できたのだ!
「ちと先輩! それでお経は2階から聞こえてきたんですね!?」
「その通り。多分事前にダウンロードしていた音楽なり動画なりを再生していたんだろう」
「やるわね後輩君! ……あれ、じゃあ揺れるカーテンは?」
「そんなものはテープで貼り付けた糸を引っ張れば良いだけだ。暗闇じゃまず見えないし、捨ててしまえばただのゴミ。肝試し以外じゃ通用しない子供騙しだよ」
「「なるほど……」」
ついマイ先輩と同じように頷いてしまう僕。あぁ、ちと先輩のジト目の視線が突き刺さるぅ。……こ、これはこれで。とと、話に集中しないと。
「じゃあ! そこに潜んでいた犯人が最後に加奈ちゃんを襲ったってことね!?」
「……来たようだ」
その言葉に僕は思わずマイ先輩と顔を見合わせていた。解せぬ。
同時に階段下から慌ただしく走ってくる足音が一つ。やや軽い足取りの持ち主を見た瞬間、僕は思わず息を飲んでいた。
「お姉の誘いに呼び出され、私、参上! じゃーん! タテコーのアイドル百花だよ! よろしくね!」
……なんと言えばいいのか。明らかに茶髪に脱色された髪。やたらと短いスカートに濃ゆい化粧。肌は気持ちが良いほど日に焼けている。よく言えば遊び人、悪く言えば不良といった風体で、背も低い。なにより着ている制服が問題だ。あれは間違いない。立浜高校お隣の……。
そこでちと先輩は頭痛を堪えるようにしながら、やってきた中学生を紹介した。
「……不肖の妹、百花だ」
「自慢の妹! 百花でっす! 以後よろしくー」
「……は? え? ちと先輩の……妹?」
まるで似ていない。二度見して目蓋をこすってみたが、やっぱり似ていない。色白長身お嬢様であるちと先輩と、日に焼けたチビっこ中学生……。なんだこれ?
「リョウっち! そんなに見られると恥ずかしいよー!」
「あ、ごめん。……あれ、何で僕の綽名を?」
「またまたまた! お姉から探偵部のことは聞いてるよー!」
途端、そんな彼女の首根っこを掴む影。全身から激怒オーラを垂れ流しにしたマイ先輩だ。そのまま慌てる不審者を壁際に追い詰めると、ドスの利いた声で脅すように迫っていた。
「貴女が、加奈ちゃんの指輪を壊したのね?」
僕はおろか、ちと先輩ですらビビる勢いで逃げられないように首を掴んでいた。
「ぐえぇぇ。な、なにをする! はっ! これが壁ドンってやつか!? この胸に湧き上がるドキドキは愛の……」
「違うよ!? それは間違いなく危機感だよ!?」
「はぁ。2人とも、遊んでる場合じゃないぞ」
慌てて割って入ったちと先輩が庇うものの、マイ先輩は止まらない。そのまま怪力で女の子に迫ろうとしたところで、再びちと先輩が口を開いた。
「落ち着け。百花は犯人じゃない」
「なら何で千歳はここに呼んだの?」
面と向かってにらみ合い、一歩も引かない両先輩。一方置いてきぼりを食らった僕はポカンとしていると、その背中に件の中学生が避難しに来ていた。
「リ、リョウっち! な、なんかヤバくない? 私が思ってた話と全然違うんですけどー!?」
「えっと、百花ちゃん? 君は……」
「あ、モモちゃんで良いよ? みんなそう呼ぶし」
けらけらと笑う百花……改めモモちゃん。良く笑う子だ。
「百花には無理だ」
「…………千歳、まさか妹だからって……」
「肝試しの後にお前が入ったんだろ? しかもその後には男子部員の捜索隊だ。となればこの馬鹿の取った行動は推察できる。……つまり、濡れた廊下を拭って証拠隠滅中に襲われた谷の悲鳴を聞いて、慌てて隠れたんだ。百花にはそもそも動機が無いし、身体が小さすぎて男には見えない。……そして多分、犯人にも馬鹿妹の存在は想定外」
皆の視線が一斉にモモちゃんに向かう。
「男子バレー部員は校舎内を探したが、なにも見つけられなかった……。それはそうだろう。百花。お前、女子更衣室に隠れてたな?」
「な、なるほど……。確かにそこなら男は絶対に探さないですね……」
うん。間違いない。心理的死角という奴だ。そもそも犯人は男って聞いてるし……。なにより無断で入ったのがバレたら、変態の烙印が押されるし。
「う、うん。その……よく中学サボって遊びに来てたから……」
「……それはともかく。そして、そこで犯人を見たはずだ」
「……っ!?」
驚きに見開かれた視線に対し、ちと先輩は揺るがない。ほれぼれするほど的確に答えを導いたのだ。
ハッとなった僕はモモちゃんを見る。彼女も同じようにハッとなって息を呑んでいた。
「そ、それなら見たよ! 私が中で息を潜めてたら、足音が近寄ってきたの! だから慌てて空きロッカーに隠れたんだけど……」
「それが犯人だ」
「そういうことね! さっきはゴメン! で、犯人は誰なの!?」
僕たち全員の期待を受けたモモちゃんは慌てて前に出ると、懸命に口を開いた。
「分からないよ……。そりゃ顔は見たよ? でも窓の月明かりしかない暗闇なんだよ? 女の人なのは確かだけど……どの人かって聞かれると……」
沈黙が降りた。そうだ。その通りだ。階段が暗闇なのと同じように、更衣室だって磨りガラス越しの月光しかないのだ。そんなあやふやな記憶で犯人を捜せるのだろうか? ……難しいかも知れないな。
「それで十分だ。顔は必要ない」
「っえ!? どういうことですか、ちと先輩!?」
ふっふーんと鼻で笑ったちと先輩は腕を組もうとし、その寸前でマイ先輩に視線を送ると動きが止まった。代わりに腕は腰に当てられる。
「よく考えてみろ? 指輪を壊した犯人は学ランを着てたんだ。この暑い真夏にな」
「あっ! そうか、犯人が男なら夏に学ランなんて着ないはずです! ……ってことは」
「犯人は身長が高めの女だ。暗闇とはいえ、体格差は誤魔化しきれない。だから、あらかじめ隠しておいたズボンと学ランを着込んだんだ。そうすれば性別を誤魔化せるし、幽霊の噂に紛れられる。で、事件の後はその男子の制服は脱いで更衣室に隠したんだろう。百花が隠れてるとも知らずにな」
「なるほど! それならだいぶ絞れましたね!」
「いいや、これで完結だ」
ちと先輩は笑ってマイ先輩に視線を向けた。
「そもそも犯人は肝試しを知っていたバレー部員だ。しかもその大半は待機中でアリバイがある。無いのは依頼人と同じグループの河村、沼田、山本だけ。で、その中で女は河村だけだ」
……お見事である。
一週間後、僕はちと先輩の命令で今回の幽霊騒動を活動日誌にまとめていた。放課後の教室で2人きり。にもかかわらずロマンチックな空気はない。
「結局の所、動機は痴情のもつれってやつなんですね……幽霊とかの割に俗っぽいというか……」
「ま、謎を解いてみればそんなものだ」
……その後、改めてマイ先輩が調べた限りでは、犯人の河村もどうやら水島先輩を慕っていたようなのだ。で、自分の後輩がその相手と付き合い始めたのを恨み、今回の犯行に至ったと。
「多分……目的は最初から指輪だったんだろう。谷は左手の薬指に付けてたからな」
大事な指輪を奪って、面子を潰す目論見だったのだ。肝試しのような暗闇で変装すれば、顔ばれもしない。……おかしい。初めはおどろおどろしい話だと思ったのが、気がつけば安物週刊誌みたいになってるし。
「でもさー。それなら、何でお姉はわざわざ一回解散したの? その場で謎解きすれば良かったじゃん」
当然のように椅子に座って足をぷらぷらさせてるのはモモちゃんだ。彼女は当然のように探偵部の活動日になると、部室にやってくるようになっている。
そんな彼女にちと先輩も苦笑を隠しきれなかった。
「それはお前がいたからだ。熊先生の前でお前の話はマズイだろ?」
「お、お姉!」
「お前に仕掛人を頼んだのが男子バレー部部長の山本だというのも分かっている。あの男は肝試しでビビる河村の前に颯爽と現れ、気を惹きたかったんだろ? 実行場所は別の自殺スポット。その為に仮病まで使って先回りして隠れていた……。見事なすれ違いだな。で、あの男とはどういう関係なんだ?」
「……な、なんのことかな? おバカな私にはさっぱり」
僕とちと先輩の息の合ったジト目の前に、モモちゃんは慌てたように椅子に座ったままジタバタしていた。華奢な両足が跳ね上がると同時に短いスカートも捲れ…………!? ぱ、パンツが見えた!? ピン……
「……スケベ」
「うわぁぁ!? な、なにを言うんですかちと先輩!?」
が、ちと先輩にはお見通しだった!? な、なんたることだ……。僕、なにも悪いことしてないのに……。
さっきまで送っていたジト目は一転して僕に注がれているのだ。しくしく。
「いやん! リョウっちのエッチ!」
「騙されるんじゃない。こいつはこうやって男の気を引いて話を誤魔化すんだ」
「うわ!? お姉にバレてるし!?」
僕の面子は丸潰れだ。今回の幽霊騒動で良いところは何一つとしてなかった。お陰で既にご褒美無しどころか、落第査定まで出ている。この活動日誌もそのせいなのだ。あぁ、まだマイ先輩が関係者一同から聞き込みをして、下した判決も記載しないといけないのに……。
「ま、まぁ今後に関しては、クマちゃん先生の判断に従うって事ですよね?」
「あぁ。もっともあの熊のことだ。穏便な結末になるとは思うがな」
事態はひとまずクマちゃん先生にかかっている。一応学校に報告はしてないみたい。あとは先生が被害者の谷さん達と相談して決めるだけだ。
「しかし……森亜……か」
「ちと先輩? 誰なんです? その森亜って?」
失敗した。そう思った。だって僕がそう聞いたとき、ちと先輩は面倒くさそうな顔で僕を見たのである。僕が初めて見る、ちと先輩が僕を煙たがっている顔だ。
思わず硬直した僕に向かってモモちゃんが懸命に両手でバッテンを作っているが、時既に遅し。
「君にはまだ早い」
「………………そうですか」
ちと先輩からの非情な戦力外通告が僕の胸に突き刺さる。初めての明確な拒絶であり、僕は目の前が真っ暗になるような衝撃に打ちのめされてしまった。
あぁ、駄目かも知れない。僕には所詮、お嬢様のちと先輩は高嶺の花だったのかも。分不相応というやつだ。
そんなネガティブな気持ちが溢れ出し、僕はそれ以上何も言うことができなかった。そして7月も終わりを告げ、一年で一番暑い8月が始まる。
探偵部も活動はない。……つまり、僕がちと先輩に会うこともないし、会えもしない。
絶望の夏の始まりだった。
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