3.恐怖の谷②
僕は勘違いしていた。今日は珍しいことにマイ先輩もクマちゃん先生も来ている。てっきり偶然だと思っていたけれど、違った。
2人とも当事者なのだ。だから依頼人の谷さんを心配してやって来たのである。しかしながら、事件そのものを目撃したわけでは無い。つまり、自分の手で謎を解決することもできない。
だから、この幽霊騒動は探偵部に持ち込まれたのだろう。
そうして、依頼人は恐る恐るそれを語り出していた。
「……あれは夏休みに入ってすぐのことです。私たちバレー部は毎年この時期に学校で泊まりがけの合宿を行うんです。……と言っても本格的な練習をするというよりは、新入部員達の歓迎パーティーのようなもので、みんなで夜遅くまでどんちゃん騒ぎをするのが恒例なんです。
……その、男子も一緒です。もちろん寝るところは違いますよ。でも、練習を終えたら、男女バレー部一緒になって親睦を深めるんです。
……それで、その、その時にやるんです。……肝試しです。ほら、私たちの学校って古いでしょ? 山や川も近くて色々な生き物の気配が充ち満ちているから、肝試しに最適……らしいです。私はそういうの苦手なんですけど、行きたくないって言えないし……友達も一緒だし…………なにより先輩も一緒なんです。だから……」
「待った。その先輩というのは、貴女の恋人のことで良かったんだな?」
「あ……ごめんなさい。そうです。水島先輩と言います。3年生の方で、男子バレー部の副キャプテンを務めてます」
ちと先輩の質問に答えると、谷さんはあまり説明になれていないのか、おもむろに鞄の中のペットボトルに手を伸ばしていた。
そういえば僕も喉が渇いている。カラカラだった。でも潤すことはできない。今日は飲み物を買っていなかったし、席を立つことも憚られた。
「……えっと、それでですね。とにかく、真っ暗になってから肝試しをしたんです。4人一組で、2番目です。でも、私は水島先輩ともマイ先輩とも一緒になれませんでした」
「……残念なことに、水島とは私が一緒になっちゃったのよね」
「はい。……それで、問題の肝試しです。えっと、私の班は他に男子で3年の山本部長と1年の沼田君、女子では3年生の河村先輩がいました。……でも、山本先輩はちょっと体調が悪くって、その……お手洗いから離れられず……結局3人になってしまいました」
「……続けてくれ」
と言いつつも、ちと先輩の顔は輝いていた。多分久しぶりの謎解きに高揚しているのだろう。
「はい。私たちは沼田君を先頭に、後ろを私と河村先輩でついて行きました。中央玄関の下駄箱で靴を履き替えて、簀の子を越えて、リノリウムの廊下を東に真っ直ぐに進みました。廊下は結構涼しくて、それ以上に外のバレー部員達が話す声以外は何も聞こえませんでした。……えぇ、この時はまだ。
しんと静まりかえった教室を過ぎて階段にたどり着くまでは、私たちはまだ余裕を持っていました。河村先輩がふざけて私を驚かしたり、沼田君がわざと転んで大げさに足を引っ張られたって言ってみたり……。時には外の友達に向けて懐中電灯の明かりを振ってみたり……。そうして階段を上ったんです。……一番上、3階を目指していました。でも、そこからちょっとずつ……その……おかしな出来事が増えていったんです。
まずは河村先輩です。階段を上り初めてすぐ、真顔になって言ったんです。『ねぇ。なんか、お経みたいな声しない?』って……。もちろんその時は、私も沼田君もまたふざけてるんだろうって。……思ってました。実際耳を澄ませてみても、何も聞こえませんでした。
沼田君も『先輩! 大丈夫っすよ! 夜は静かだから遠くの音まで聞こえてるだけっす! で、遠くの音は校舎で反響して、それっぽい音になってるだけ……』って。でも、途中で何も言わなくなりました。私にもその理由が分かったんです。
聞こえたんです……お経が。なぁぁんみょぉぉぉうぅぅほうぉぉぅれぇぇんげぇぇぇきょうぉぉうって。……まるで地獄の底から響いてくるような声でした。引き攣った顔の私と沼田君が階段で足を止めると、本格的に無音になりました。そしたら、ますます良く聞こえるようになって……。
河村先輩が『進もうっ!』って言った瞬間、私たちは早足で階段を上りきっていました。……そこで沼田君が悲鳴を上げたんです。男の子でもあんなに高い声が出るんだって思うほどの声色でした。
濡れてたんです……。廊下が……。変ですよね。誰も使ってない3階の階段が濡れてるなんて……。しかも……ただ濡れてるんじゃ無かったんです。河村先輩が恐る恐るといった風に懐中電灯で照らすと、その水滴は何かに引きずられるように伸びていたんです。……懐中電灯は女子トイレを指し示していました。
思わず鳥肌が立ったのを覚えています。夏なのに悪寒がして背筋がゾクゾクッってして。そこは前から嫌な噂が立っている所なんです。以前に自殺した生徒がいたとかで……。
気がつけば私は泣きそうになって、先頭を歩いていました。とにかくトイレから離れたかったんです。それは他の2人も同じらしく、すぐに付いてきました。……バレないように音を立てずに、でもできるだけ速く! でも、駄目でした。
何かが着いてきたんです! 間違いありません! だって、私たちが歩くと、それに合わせて足音が着いてきたんです!
すぐにみんなそれに気づきました。勇敢にも河村先輩がライトを向けるものの、何も居ません。ほっとした顔で『何もいないじゃない……』って。私もつい振り向いたんですけど……何もありませんでした。でも、そこで震えるような音がすぐ近くから聞こえたんです。
沼田君は真っ青な顔をしてました。青白い顔は硬直していて、でも何か言いたそうで……。前を指さしていたんです。
その先では窓の白いカーテンが揺れてました。私は気づかなかったんですけど、河村先輩はすぐに理解したみたいでした。顔を押さえながら『何で窓が閉まってるのにカーテンが動くの!?』って。
私、目は良いんです。だから目を凝らしてみたんですけど……窓は確かに全部閉まってました。月明かりがあったので、間違いないです。
だから勇気を振り絞って前へ進んだとき、沼田君が絞められた鳥のような、か細い声を上げたんです。……足音が……復活したんです。
同時に私の中でも恐怖が爆発しました。あまりに怖くて……先輩の指輪を指から抜いて、祈るように両手できつく握って震えていました。
速くここから帰りたくて……でも脚は動かなくて……。先輩助けてってずっと思ってました。
沼田君が焦ったように1人で走って行ってしまい、私と河村先輩は廊下の真ん中で硬直したまま取り残されました。足音は乱反射して……でも確かに聞こえていて……。
……どれくらい時間が経ったのでしょうか。河村先輩が歩き始めました。一歩一歩、確かめるように。……私たちは音を立てないように進みました。……両足を引き摺るようにして廊下の突き当たりまで。
そこで河村先輩が疲れ切った顔でスマートフォンを取り出しました。私もおぼろげに思い出したんです。ここから先は2人一組で別ルートを辿って……先に置かれている文字を読まないと行けないんです……。で……でも、私たちは2人しかないから1人ずつで歩くことになって……。わ、私怖くって……!?」
「……一つ確認したい」
突然隣から聞こえてきたちと先輩の声に、僕は急速に現実世界へ引き戻されていた。気がつけば谷さんの話に没入し、真夏の恐怖を味わっていたのだ。
情けないけれど少しだけ、ちと先輩に救われたかもしれない……。いつの間にか握った拳が固まっている。バレないようにほっと一息をつこう。
「その別ルートを教えてくれ」
「はいはい。それなら私の方からね。まず、私達の学校は上から見るとカタカナの”ユ”の様な形をしているわ。この上の部分が別棟体育館で、下の部分が本棟校舎。その間が渡り廊下で、体育館と校舎の2階部分を繋げている。……なので、それぞれのルートは最終的に2階を目指すことになるわね。今回の場合、加奈ちゃんは廊下を引き返してから中央階段で2階に降りて渡り廊下を目指し、河村はそのまま一階に降りて理科室に立ち寄ってから渡り廊下を目指す形ね」
僕たちが恐怖体験に怯える中、マイ先輩は驚くほど飄々としている。この人はホラーとかが怖くないタイプなんだろう。……ちなみに、僕は……あまり好きではない。
「……す、すみません。それで、3階の突き当たりにたどり着いた私たちは、スマートフォンで入り口にいる皆に連絡を取ったんです。次の組が進めるようにって。河村先輩がスマートフォンで通話している間、私はずっと震える手で祈るように指輪を握っていました。
通話が済むと、河村先輩は一言かけてから先に行ってしまいました。私はあの時ほど彼女を恨んだことはありません。……だって、私が進む道は、さっき足音が聞こえてきた廊下なんですもの……。
それでも、指輪を握っていると不思議と穏やかな気分になれました。なんだか先輩が近くにいてくれるような気がして……。それで進んだんです。
ようやくたどり着いた3階西階段から……中央階段へ。ゆっくり……ゆっくりと。そこは井戸の底のように真っ暗でした。……明かりは切れかけた非常灯だけ、足下すらおぼつきません。意識が研ぎ澄まされていくのが分かりました。少しずつ、ざりっ、ざりっと足を引きずって。
……幸いなことに、お経も足音も聞こえませんでした。きっと、先輩が守ってくれたんです。そう思った私は少しだけ安心して、階段をゆっくりと降りました。階段はシンっと静まりかえっていました。空気すら動きません。音もなく、ただ暗闇に白い階段がぬうっと浮き上がるようにして存在していました。
1段、2段……そうして少しずつ階段を降りて行ったときのことです。不意に後ろで空気が動いたような、嫌な予感がしたんです。……私は立ち止まりました。頭の中の何かが警戒していたんです。後ろに何かいるって……!
とても振り向いて確認する勇気はありませんでした。……明かりもないし。場所は折しも2階と3階の間。そのどちらにも属さない曖昧な場所です。
ヒヤリとした物が私の背中を撫でました。……汗でした。
けれどもそれで少しだけ恐怖が現実に置き換わり、足が地に着きました。
……その時です。確かに聞いたんです! 足音ではありません! 何か……そう、何かが壁か手すりか何かと擦れる音です! 安心しきっていた私は思わず視線を向けてしまいました。そして、そこで悲鳴を上げたんですっ!!! ひ、人が立ってたんです! 学ランに黒いズボン! だけども学ランは血を浴びたように黒っぽく染まっていて!!!! 同時に人影が廊下を駆けるように降りてきたんですっ! 大きな足音を立てて! 私は無我夢中で逃げ出しました! 足が狂ったように階段を4段飛ばしで越えて! 途中で踏み損なっても必死で耐えて!!! でも2階についたときにバランスを崩して手すりに右手を強打したんです!!!
あまりの痛みに反射的に左手で庇おうとして、その時にはもう遅かった! わ、私の大切な指輪がこぼれ落ちて……よりにもよって幽霊の方に転がってしまったんです!
同時にそこに幽霊の足が振り下ろされましたッッッ!!!
甲高い異音と共に指輪は拉げてしまったんです……。でも、それに驚いたのか、幽霊の動きが止まりました。だから私は惨めにも泣きながら、必死で渡り廊下へと向かって……。
渡り廊下には異常を察した、先に進んだ人達が集まっていました。水島先輩も……マイ先輩も一緒でした。私は一目散に先輩に縋り付いて、泣きじゃくることしかできませんでした……。
もちろん肝試しは中止です……。先についた沼田君が事情を話していてくれたらしく、後から青ざめた顔をした河村先輩も来ました。
……その後、勇敢なマイ先輩が木刀片手に、真っ先に私が幽霊に襲われたところに行ってくれました。もちろん幽霊なんておらず、ただ……私の大事な……壊れた指輪だけが残されていました……。
そのまま男子部員による捜索隊が結成されて校舎を探したそうなのですが、誰もいなかったそうです。……お経はもちろん聞こえず、3階の階段も濡れていませんでした。
……以上が、あの夜私達が経験した……恐怖です」
僕たちの誰もが何も言わなかった。僕は何も言えずに椅子に黙って座り込んでいたし、クマちゃん先生もそれは同じで引き攣った顔のままだった。
……良い歳してるのに
「……おい春茅。お前今失礼なこと考えただろう!?」
「ご、誤解ですよ!? ただ、先生なのに幽霊怖がって可愛いなって……」
「それが失礼だって言ってるのだ!?」
「……やれやれ、これだから熊は結婚できないんだ。そこは素直に『可愛いなんてっ!?』とでも反応すれば良い物を……」
ハッとなるクマちゃん先生。さすがはちと先輩。猛獣を手なずけるのはお手の物だ。そのままちと先輩は僕を見た。心が蕩けるような、とても良い笑顔だった。
「面白いな……。うん、今回の謎解きはこれにしよう」
「ちょっ!? ちと先輩何言ってるんですか!? 幽霊相手に謎も何も……」
「えっ!?」
思わず立ち上がった僕に対し、マイ先輩は驚いていた。同時にニコニコと小動物を愛でるかのような優しいものになり、羞恥の感覚が湧き上がる。
うぐぐ。白状すると、僕は幽霊とかが大の苦手なのだ。でも、だからといって愛しのちと先輩の前でギブアップするわけにもいかないし。
「今回の謎はこれだな。幽霊の正体を暴け。うんうん。実に浪漫があるなぁ」
「ちなみに、さっきクマちゃん先生に聞いたところ、バレー部の合宿以降から今日まで校舎を使った部活は他にないみたいよ? まぁ、用務員さんくらいは入ってるかもだけど……」
ノリノリで話を進めていく、ちと先輩とマイ先輩。なるほど、この2人が親友というのも頷ける。
クマちゃん先生や僕は谷さんと一緒に、隅っこで縮こまっているのが関の山なのだ。
「行くぞ後輩! まずは現場を見に行って、推理の補完だ!」
「はい! って、先輩。……もう見込みがついたんですか!?」
ちと先輩は僕に言った。
「……? 当たり前だろ? 後は校舎で証拠を捕まえるだけだ」
……これだから、ちと先輩の助手役はやめられない。