10.春色の習作⑥
頭が痛い。身体も重いし、瞳なんて真っ赤に充血している。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
正攻法では不可能だと判断した俺が真っ先に手をつけたのは、家族の懐柔だった。焦って真っ正面から論争を挑めば、返り討ちに遭うのは目に見えている。
だけれど、先に相談という形で兄たちに話を持っていけば――?
敵対せずに話は聞いてくれるだろうし、運が良ければ味方になってくれるかもしれない。そこまで行かなくとも良案が浮かぶかもしれない。
だから徹夜して兄たちに相談した俺は……何の成果も上げることが出来なかった。
――才賀、気持ちは分かる。でも、名家の人間とはそういうものなんだ。彼女だけが可哀想なんじゃない。俺も、お前も、当主が一歩間違えるだけで同じ運命を歩むだろう。
――友達を助けたいのは分かる。だけれど、父は間違いなくそれを飲まないだろうさ。たとえ兄弟全員で説得したとしてもだ。
――才賀、友達を救う方法は本当にそれだけなのか? 彼女はその道を行くと決めたんだろう? なら、その決意を後押ししてやるのも友達の姿ではないのか?
――才賀……
――才賀……
――才賀……
「先輩! 大丈夫ですかっ!?」
「っあ!? ……紫か?」
翌日、どうやら必死の説得で徹夜明けだった俺は、うっかり教室でうたた寝をしていたようだ。目の前には青白い顔を恐怖と絶望に染め上げた紫。時計を見れば……まだ朝のHR前じゃないか。
うん? 何故この時間にこいつが俺の教室に――
「先輩! 速く! 速く来て下さいっ!」
そんな俺のことなどお構いなしに紫は俺の袖を引っ張ると、強引に教室の外へと連れ出そうとする。やれやれ。だが、まぁこいつに気配りなんて高等技術はまだ早いか。
「先輩っ!? 速くっ! メール見てないんですかっ!?」
「メール? 何のことだ?」
「良いからっ! 速く来て下さいっ!」
紫のバカは血相を変えているせいか、いつも以上に話の内容が要領を得ていない。すると業を煮やしたのか、俺の耳元にぶつかりそうな勢いで口元を寄せてきた。多分菫関係のことだろうとは思う。だが、俺に出来ることはもう――
「玉坂先輩がっ!? 玉坂先輩がっ!?」
「落ち着け、深呼吸でも――」
「玉坂先輩が……死にました……」
「――な、にッ!?」
刹那、悪寒が背筋を走り抜けると共に、意識が急覚醒。さっきまでの倦怠感は地平への彼方へと飛んでいく。代わって表れたのは激しい動揺だった。
「森亜副会長からですっ! 警察が来るそうですっ! 才賀先輩も話を聞かれるかも……って待って下さい! 置いていかないでっ!?」
意識の覚醒は全身にまで及び、俺は紫を置き去りにする勢いで走りだしていた。クラスメイトから向けられる好奇の視線など気にもしない。
途中で誰かの机にぶつかって派手に薙ぎ倒しつつ、教室の扉を勢いよく開けて突き進む。あわててスマートフォンを起動すれば、確かにメールが来ていた。場所は……オカルト研究会部室。
「菫……お前……どうして……」
後ろから聞こえてくる紫を遠ざけるようにして、人の少ない廊下を懸命に疾駆していた。
「森亜!」
「才賀君……来たか。問題はこの中だ」
慌てて辿り着いたオカルト研究会部室の前には、既に生徒会員達が集結して閉鎖を図っていた。その周囲に呆然と立ち尽くすのは、忘れ物を取りに来たと思しきオカルト研究会部員達。おそらく彼らが亡骸を発見したのだろう。神代亡き後に部を治めている葛城の姿はない。ないが――
「玉……坂……先……輩……。どう……して……。どうして……こんなことに……?」
「貴様白瀬とか言ったな!? 話を聞かせろ!?」
力なく項垂れて壁に寄りかかっている男子生徒には見覚えがあった。確か菫を守ろうとしていた奴だ。俺が胸倉を掴み上げて強引に上を向かせると、その瞳に微かに気力が舞い戻った。
「あんた!? 一体何をしていたんだ!? どうして……どうして玉坂先輩がッッッ!? 友達なんだろう!? どうして先輩を救い出せなかったんだッッッ!?」
「黙れッッッ!!! ……いや、すまない」
その言葉に思わず殴りかかりそうになり、ギリギリでどうにか拳を押さえ込んでいた。目の前の白瀬は言うだけ言うと、再び涙を流し始めて力を失ったのだ。
「貴方……ここは私に任せなさい」
「乙母か!? ……分かった」
そうして蹲りそうになった白瀬は、騒ぎを聞きつけた乙母に引き摺られるように連れて行かれる。
「才賀君……この度は大変なことに」
「森亜! 扉を開けてくれ!?」
「それは出来ない。でも、窓からなら大丈夫だ」
見れば暗幕に覆われていた部室の扉についているガラス窓は、片方だけが覆いが取り払われ、代わりに森亜が背中で隠していたようだった。
厳粛な表情の森亜が退くと、部室の様子が見えた。……間違いが無かった。何度見てもそうだろう。
「菫………………」
「先輩っ!? ようやく追いつき……ヒッッ?!」
駆け寄っていた紫が無造作に窓を覗き込み、即座に表情が恐怖で引き攣って硬直していた。部室の窓が開かれているせいか、それはぎぃぎぃと音を鳴らしながら回転していたのだ。
天井から吊されたロープが細長くなった白い首にネックレスのように巻き付き、綺麗な制服姿からは様々な体液をピチャリピチャリと床に垂らして汚しているそれと。
真っ白に冷えた肌に目玉がこぼれ落ちそうなほど見開かれたそれの濁った目玉とッッ!! 視線があってしまったのだッ!!!
「あ……あ…………嘘……玉坂先輩……嘘……だって――」
「このバカッ! 見るな!!!」
慌てて抱きしめるようにして紫の視線を逸らしてやると、同じように真っ青になりながらもどうにか理性を維持している乙母がやってきて茫然自失状態の紫に肩を貸す。どうやら、隣の空き部室でそれを見てしまった生徒を集めて、ケアをしているようだ。
無言のまま2人で紫を部屋に入れてやる。
中では真っ先にダウンしたと思われる壊れ目覚ましが隅っこでブツブツと何かを呟いていた。
それから距離を取るようにして紫を休ませてやる。奇しくも近くには白瀬がいた。
「菫!? 嘘だろ菫!? どうして君がこんな目にッッッ!? おい森亜! 離せよッ!!! 見て分からないのかよッ!? このまま放置したら、本当に菫が死んじゃうよッッッ!!!」
「深井君! 気持ちは分かるけど落ち着くんだ! 彼女は……もう……」
「菫!! 菫!! い、今、助けるから! 僕だって、婚約者くらい救って――離せ!! 離せよ生徒会!!! お前達なんか、僕の実家の力で一人残らず退学に――」
そうして少しすると、その日一番悲壮な声の持ち主が現れた。見る影もなく取り乱した深井が暴れているようだ。
――さしもの俺も、この後の記憶は万全では無い。ただ、引き続き警察を待つ森亜を尻目に、深い同情を表した乙母と力を合わせて深井を取り押さえていたはずだ。
……深井は、最後まで一瞬たりとも乙母には一瞥もせず、ただ菫だけを、亡骸となって汚れ果てた菫だけを見つめていた。
どうにか平静を取り戻したのは、警察に話を聞かれているときのことだった。いつの間にか深井の声は聞こえなくなり、紫も疲労困憊の乙母に連れられて医務室へと連れられている。あそこには確か学校が気を利かせたメンタルケアの専門家が居たはずだ。
「大丈夫かい?」
「大丈夫です。本当に……でも、どうして菫が?」
俺の言葉に初老の刑事は一瞬言葉に詰まるものの、俺の素性を知っているのか、それとも直ぐに分かることだと判断したのか、あっさり口を開いていた。
「可哀想に。あの娘は親に望まぬ結婚を強いられていたみたいなんだ。それで昨日泣く泣く付き合っていた恋人に別れを告げたものの、その後の人生を悲観して死を選んでしまったようだ……」
聞いた瞬間、俺の頭は疑問符で埋め尽くされていた。
――待て。菫は確かに人生を悲観しつつも、弟妹の為に生きようと決めていたはずだっ! 自殺なんてするはずがないッ!
だが、同時に頭の冷静な部分が囁くのだ。
――この刑事は婚約者ではなく恋人と言ったな。深井ではなく白瀬だと? もしかして、学校側が情報統制を図っているのか?
あり得る話だ。お得意様の名家の生徒の名誉を守ろうとしているのかもしれん。
「そうですか……。あいつはそんな奴ではないはずですが?」
「まぁ、なんだ、君。自殺する人の多くは、そういう風に見えるものだよ」
しかも、警察は既に自殺と決めてかかっている。おかしい。いくら何でも結論が早すぎる。確かに菫は首を吊っていたが、それだけで自殺と断定するのは早計なはずだ。ということは――
「あぁ、そういうことか。俺の実家が圧力を……」
俺の言葉に刑事は何も言わなかった。老齢で皺の多いその表情からは何も読み取ることが出来ない。ただ、それが正解だということを暗に示していた。
当家が名家たる由縁は、財産ではなく権力だ。その威光を持って警察を黙らせようとしているに違いない。間違いないだろう。
両親も兄も、俺が昨日菫と会って話したことは知っている。だから、俺が自殺のトリガーを引いたかもしれないと思い、守ろうとしてくれているのだ。
――余計なお世話だ。
「他に何かありますか?」
身体に力が漲っているのが感じられる。刑事もそれを悟ったのか、無意識のうちに息を飲んでいた。
「いや、ないよ」
「では、この辺で失礼します」
「……あ、ああ。何か気づいたことがあったら教えてくれ」
と言いつつも、刑事は名刺も連絡先も渡さなかった。聞く気も無いのだろう。だけれど、それを責める気は無い。見ればこの人はかなりの老齢で、引退も間近なはず。そんな時に権力者に喧嘩を売って退職金を減額されてしまえば、彼の人生計画も狂ってしまうのだ。
――警察は頼りにならない。
だから、自分でどうにかするしかない。この謎は、菫の仇は自分で取るしかないのだ。
翌日。俺は家族の反対を押し切って登校していた。ただし、授業には出席しない。そんな暇はない。
俺達以外には誰も居ない文藝部の部室で静かに考えを纏めていく。目の前には沈痛な表情を浮かべた紫。そして――
「おかしいんだ! 絶対おかしいんだ! 玉坂先輩が自殺するはずがない!」
ショックのあまり学校に来ていない深井の代わり、白瀬だった。奴は血の気の引いた紫とは真逆で、顔を怒りと屈辱で真っ赤に染め上げていたのだ。
「白瀬、俺達の関係は教えたな? 次はお前の方で菫との事を教えてくれ」
白瀬もまた、俺と同じ結論に達していたのだ。色が変わるほど強く握りしめられた拳を胸に、奴は俺に視線を向けた。
「あぁ! まず、俺は玉坂先輩に憧れていた。一目惚れだったんだ。図書室で優雅に勉強している姿を初めて見た時、比喩じゃなく世界が止まって見えた。それ位衝撃的で、居ても立っても居られなくなってしまったんだ。だから、先輩がオカルト研究会に入部したときも後を追ったよ……」
――それは、全部深井の気を引くための行動だ。とは流石に俺も言えなかった。
「そうしている内に仲良くなって……神代先輩の時も一緒にいて……そうして一昨日の日、フラれたんだ……。場所は図書室だ。周りには誰もいなかったと思う」
「それは菫が呼び出したのか?」
「あぁ。玉坂先輩に呼び出されて図書室に行くと、”白瀬君の気持ちは嬉しいけど、私には決まった人が出来たから”って。バッサリだよ。先輩、俺の気持ちなんてお見通しだったんだな……」
僅かに白瀬の表情に嘆きの色が表れるものの、直ぐに怒りによって覆い隠されてしまう。
「だけれど、俺は……みっともないことに必死に縋ったんだ。愛していると。結ばれなくても良いから傍にいさせて欲しいと。玉坂先輩は悲しそうに頭を横に振ったよ。そうして言ったんだ。『私はこれから一人で生きていく』って……。だから、そんな先輩が死んだりするはずはないんだ! ……それに、俺はその答えでも納得できなかった。だから褒められた事じゃないけど……彼女の後をつけたんだ」
ピクリと紫が上を向いた。そうして本能に縋って白瀬のことを探るように無言のまま視線を送っていく。
「……では、俺達の会話も?」
「いや。万が一にもバレて嫌われたくなかったから距離は取ってたし、そっちの治村が後ろにいたから尚更だ。でも、重要なのはそれからなんだ」
そう。白瀬は俺が無力感にうちひしがれている間も、菫の行動を追っていた筈なんだ。それこそ、彼女の死の直前までも。
気がつけば、俺は身を乗り出していた。
「一旦トイレに身を隠すと、好都合なことに玉坂先輩の足音はまっすぐバルコニーから向かってきたよ。そうして先輩をやり過ごして背を追おうとして……出来なかった。彼女は曲がり角で誰かと会って話していたんだ」
「……っ誰だ?」
「分からない。顔までは見えなかったし……声も遠かった。でも制服は間違いなく男子の物だったッ! 玉坂先輩は……暗がりで後ろからだったから確証はないけど、何だか泣いてるみたいだった……いや、それだけじゃない。なんて言うか……」
「泣いて、けれども縋っているみたいだった?」
紫が口を挟むと、白瀬は驚いたように目を丸くしていた。
「あぁ! そうして、そのまま2人で話しながら2階へ降りて渡り廊下へと向かっていったみたいだった。そうしてそのまま部室棟へ行ったのは分かったんだけど、そこで見失ってしまって……」
「いや。それで十分だ。白瀬、お手柄だ」
俺がそう言うと、白瀬も紫もギョッとした顔を向けてきた。
「どういう意味だよ、それ」
「そのままだ。犯人が分かったんだ」
2人ともギクリとしながらも興奮した熱気を隠せていない。
――間違いないだろう。これほど明白なことはない。
無言のまま部室を見回して見るも、物音一つしない。
「先輩! それってつまり……!」
「よく考えてみろ。菫がいくら追い詰められていたとして、見ず知らずの男について行くとは思えない。となれば、必然菫を殺した相手はかなり絞られていく……」
もちろん俺ではないし、白瀬でもないだろう。もしこいつが犯人なら、自分がストーカーしていたなんて疑われるようなことは言わないはずなのだ。もちろん失恋のショックに倒れていた深井でもない。
「よく考えろ? 白瀬の見失った菫の行き先は間違いなくオカルト研究会の部室だ」
「あ!? まさか……葛城か!? あの野郎ゥゥッッ!! 神代先輩の――」
「奴でもないだろう。オカルト研究会は活動を休止していたし、奴自身依存していた神代がいなくなってそれどころではなかったはずだ」
付け加えるなら、オカルト研究会のある部室棟は清掃等のために閉鎖されてしまっている。部室の鍵は活動停止処分と同時に没収されていた。複製を取っていた可能性もあるが……もっと怪しい奴がいるじゃないか。
「犯人は菫がある程度信用する男で、活動休止中の部室の鍵を開けられる奴だ。この条件には合致するのは1人だけ。そう。生徒会副会長の森亜だよ」
皮肉にも神代相手に共に戦った男だし、没収された部室の鍵の行き先は生徒会なのだ。
だが、疑念が一つ
「森亜が!? あの男が玉坂先輩を……! よくもォォッ!」
「いや違う。奴は殺していないはずだ」
もしあいつが殺したとすれば、死体に必ず痕跡が残るはずなのだ。現代の科学捜査を舐めてはいけない。そして、他殺の可能性が高いとなれば、当然うちにも報告が上がるだろう。それがないということは――
「森亜が菫に自殺を唆した。それが事の真相だろう」
そして、俺達はどうにかしてその証拠を見つけなくてはならない。だが、どうやって?
復讐の怒りに燃える白瀬とは対照的に、俺は歯ぎしりを隠せなかった。




