10.春色の習作②
”103+3‐1312+4‐65+44‐40+0‐122+5‐23+11‐252+7‐43+2‐52+17‐41+6=-1747”。
これがオカルト研究会の残党が使っていると思われる暗号だ。正直な所、全く分からない。
もしかして、秋風は僕の調査を混乱させるために、わざと無関係のことを言っているのではないか? そんな気さえしてしまう。
だけれど、それは結局の所杞憂だとはっきりした。彼女は僕が苦戦しているのを理解すると、ちと先輩の元へ行こうと提案してきたのだから。彼女としても暗号を解きたいのは確かだろう。
かくして僕はスマートフォンで一報を入れてから、ゆっくりと部室に向かったのである。
「ようこそ探偵部へ! 過去の遺恨は水に流そうじゃ無いか、生徒会!」
「丁寧な対応痛み入るわね」
もちろん中にいたのはちと先輩で、見られちゃまずい物はきっちりと格納されていた。
秋風はスカートを翻しながら平然と依頼人席に座り、僕は定位置であるちと先輩の隣に座って、暗号文を先輩に提示して見せた。そのまま今日の僕の調査結果と秋風と出会った経緯を指し示す。
「なるほどなるほど、これは興味深いな」
「どうでしょう、探偵部の部長さん? あっさりと解いていただけると助かるのですが?」
険しい顔の僕とは対照的に、ちと先輩は鼻歌を歌いながら暗号に目を通し、取り出した電卓を叩き、頭の中で暗算を行うと唇を僅かに緩め――驚くことにあっさりと結論に達していたのだ!
「うん、大体分かった」
「……っ!? ちと先輩、本当ですか!?」
思わず素で驚いてしまった僕を秋風がニヤニヤ眺める中、ちと先輩は鋭い視線を秋風から逸らさない。
「では、解答は?」
「まぁそう急ぐな。解き方を教えてやろう。ところで後輩、この数式が正しいか確認したか?」
「え? い、いや……その、してないです」
「そうか。なら、まず最初にやるべき事はそれだ。この数式の計算結果は-1748なんだ。計算間違いを起こしている」
……っ!? そうか! でも秋風の話を聞く限り、オカルト研究会の残党は暗号を元に活動しているじゃないか! それはつまりこの暗号は正しいっていうことで――
「なるほど! つまりこれは――」
「――数式は計算では無く文字を表している。部長さんはそう仰りたいわけですね?」
優雅に頬杖をついた秋風の言葉に、ちと先輩は胸を張って肯定した。
「恐らく足し引きの結果に意味は無いだろう。式の構造を見ると、常に足し算と引き算が交互に来ているのが分かるな。また式の結果も大きなマイナスだ。後輩、ここから分かることは?」
「うぇ!? えっと……その……」
駄目だ。全然分からないよ。
でもでも、しょうがなくない!? 暗号なんて普通の人間は知らないよ!
僕が知ってるのもホームズに出てくる物くらいだ。例えば有名なのは”踊る人形”、あれはアルファベットを特定の記号に移し替えて作る暗号文なんだけど……今回の件とは関係ないように思える。
「あはは、春茅君。百面相をしているわよ?」
「ちょっと待って! 今考えてるから!」
茶化してくる秋風の声にもめげず、思考を巡らす。どうやら彼女はお客様気分らしく、手伝う気は無いらしい。行儀良く椅子に座ったまま頬杖をついたままだ。やや前屈みになっているので、胸元の白い肌が見えそう――
落ち着け。これは暗号文なんだ。しかも高校生が手軽に解読できる暗号文だ。パターンなんてそんなにない筈……。そう。ヒントは数字がマイナスになっていること――
「…………ぐぬぬ、駄目です。分かりません」
「……まぁ、仕方ない。実を言うと、私も100%合ってるとは保証できない。――これは暗号文と解読表が別になってるタイプの物だからな」
「……! 先輩、それは……」
刹那、ちと先輩の瞳が光った。先輩はどうやら本当に暗号の大部分を解読してしまっているらしい。
「式中のプラス部分は解読表の文字の座標を表していると考えるべきだ。例えば”103+3”なら103ページの3文字目、といった具合にな。マイナスは座標の数字が混ざらないように区切っているだけで、計算結果が間違っていることからも”=”以下の部分に意味は無い。あるいは句読点の”。”を意味しているようだな」
そうか。式の結果が大幅なマイナスなのは”+”で区切られた左部分の数字が大きい、言い換えれば大ざっぱな座標を示しているからなんだ。例えば”1312”。1312ページではないだろう。……そうだな、13巻の12ページとか、あるいは13章の12行目とか。
そして”+”の右側が具体的に何文字目かを示しているわけだ。多分暗号を考える人間も、何文字目かを数えるのは手間だし、ミスの原因にもなる。だから、”+”の左側で出来るだけ文頭の方に目的の文字が出てくる座標を選んでいるはずなんだ。だから右側の数字は小さくなってしまい、結果的に大きなマイナスになっている――
つまり、だ。
僕がようやく理解できたのと、ちと先輩が堂々と言うのは同時だった。
「”分からない”。それがこの暗号の解読結果だ」
そう。数式から何かの本の文字を指し示しているのかは分かった。でも、そもそも何の本なのかは分からない。辞書なのか、小説なのか。それこそ、もしかしたらチラシかもしれないのだ。
「……解読表と暗号文。両方を手元に揃えて初めて解読できるって訳ね……厄介だわ」
「だからこそ、残党は暗号文を人目に付くところに書いてるのだろう。解読できないからな」
「……そうですよね。僕たちがここまで立てたのはあくまで仮説。本当にその解釈で正しいのかも分からない」
残念なことに、完全に見当違いの可能性だってあるのだ。全ては解読表が手元に無いと分かりようも無い。
沈黙が降り立った。
秋風は最初にちと先輩を、次に僕の顔を穴が空くほどじっと眺めてから、素直に納得したようだ。優雅に椅子から立ち上がって微笑む。
「なるほど。よく分かりました。探偵部の協力に感謝します」
変わらず笑みを浮かべた恐喝王はゆっくりと椅子を机の下に戻し、立ち去っていった。部室の扉が閉まるのと同時に、僕もちと先輩の真ん前へと駆け寄る。
「流石はちと先輩です! ……でも、これでは神だ――んひゃあ!」
「こら! 焦るんじゃ無い。全く、せっかく頑張ってくれたんだ、ご褒美をやろうというのに……」
あぁぁぁぁ、なんと言うことだ! ちと先輩は人差し指で優しく僕の唇を塞ぐと、耳朶をくすぐるように甘い吐息を吹きかけてきたのである。
ゾクゾクッと背筋を悪寒にも似た快感が突き抜ける。そしてそのまま……その、足の間にもじんわりと伝わりそうだ。
「ふわぁ……ちと先輩……」
「ん、続きは……邪魔の入らない所で……な?」
先輩の身体。その距離は近い。ちと先輩が甘えるように身体を擦りつけてきたせいで、胸の柔らかい膨らみが僕にむぎゅっと押しつけられるのだ。瑞々しい唇は今にも触れそうで、微かな呼吸音を届けてくれる。
その感触に僕が恍惚とするのと、先輩が小声で囁くのは同時だった。
「あの女、椅子の下に盗聴器を仕掛けていった。話は後だ。資料を全部持って出るぞ」
「あ、はい」
もちろん、ラブい話じゃない。……ないったらない。これっぽっちもない。――ちくしょう。
よく考えれば、僕は結構迂闊だった。何せ相手はあの秋風なのだ。生徒会に所属している彼女なら、探偵部部室の鍵くらい容易に教師から借りて複製を取るだろう。つまり、盗聴しているICレコーダーも回収できるのだ。
既に学校に安住の地は無い――
「逆に言うと、我が家の車の中なら安全と言うことだ」
「なるほど……学校で活動できない残党と同じ立場ですね」
僕の言葉にちと先輩は酷く微妙な顔を作っていた。リムジンは呼び出しにはせ参じた女中の梅谷さんの元、立浜高校の駐車場で停車している。
それはともかく、
「それで先輩。わざわざ場所を変えたって事は――」
「もちろん。言っただろう? 暗号は解けたんだ。ただあいつの前だから分からない振りをしただけだ」
流石はちと先輩だ。僕は思わず誇らしげな顔を作り……即座に疑問に変えていた。
「でも先輩、解読表がないとこれ以上は進めませんよ? あ、暗号が実は全く違う方法だったとか?」
「いーや。あれは間違いなく暗号文と解読表が別個に存在するタイプの暗号だ。――ただ、解読表に見当が付いたと言うだけで」
「まさか!? だって、オカルト研究会残党は解読表が絶対に分からないから、暗号文を堂々と掲示しているんですよ!?」
僕がそう言うと、ちと先輩は優しく笑って葉巻に火をつける。
「本当にそうかな? 残党の情勢を考えてみよう。彼らは互いに名前も明かしてないような連中だ。しかも普段は別の部活に潜伏している――」
「え? でも、どうしてそんなことが――」
そこで僕の脳裏を過ぎったのは久瀬さんだ。そう。彼女は確かに言っていたはずだ。
「そうか!? 久瀬さんに手紙で連絡していたのは、文藝部に残党が潜んでいるからなんですね!?」
「その通り。そして、多分女だ。女なら久瀬が迷ったときに仲間の振りをして背中を押したり出来るからな」
そう。僕たちは残党の規模すら把握できていないのだ。先生方が知っているのは残党のごく一部だけ。もしかしたら、気づかないうちに僕の友人にも残党の1人や2人が――
「言い換えれば、残党自身は全く違う環境に身を置いている面々と言うことだ。解読表は当然、それら全員が持っている物で無くてはならない」
目を閉じて考えてみる。運動部も文化部も、等しく持ち合わせている文書。それも、多分結構なボリュームがあるはずだ。プリント一枚とかの話では無いだろう。当然、解読に使うのだから持ち歩きも出来るサイズで、かつ高校生が持っていても違和感の無い物の筈――
「解読表は誰でも持っていて、かつ誰も読まない物にする必要がある。そうじゃないと無関係な人間に解読されるからな」
「で、でも、そんな都合の良い物は……」
「ある。そして、君も私も持っている」
「……!?」
ちと先輩は笑っていた。慌てる僕を優しく導くようにその片手は鞄へと伸びていて……
「生徒手帳だよ。高校生なら誰でも持っていて、かつ誰も読まないだろう?」
白い指先は、確かに鞄の底に押し込められていた手帳を摘まんでいた。
……そうだ、その通りだ。生徒手帳なんて貰ったが最後、中を真面目に読む奴なんていない。でも、立浜高校生は全員が持っている!
さっっっっっっすが! ちと先輩だ! 僕はやっぱりちと先輩には叶わない!
「早速確かめてみようか。数式には”1312”や”252”といった大きな数字もある。ということは、ページを表しているのでは無い。……ほら、見てごらん」
ちと先輩の白魚のような指が生徒手帳の中程のページを開く。そこにはこう書いてあったのだ。
”立浜高等学校校則
第1条総則
立浜高等学校生(以下、在校生とする)は下記の規則を遵守することとする。
①在校生はこの立浜高等学校校則に定める規程に………………“
「校則……! なるほど、じゃあ”1312+4”は――」
「うん。どうやら第13条の⑫の4文字目を示しているようだ。早速試してみよう」
難攻不落と思われた暗号は、ちと先輩の前に呆気なく崩れ去っていった。
”103+3‐1312+4‐65+44‐40+0‐122+5‐23+11‐252+7‐43+2‐52+17‐41+6=-1747”
これを解読すると、“20日4時駅前橋”となる――
「やった! これは……会合の予定でしょうか?」
「おそらくな。そしてこれを使えば、オカルト研究会の残党を誘き出せるはずだ」
そう。神代を信奉する彼らは、それ故に神代実子本人のことであれば、食いついてくる可能性が高い。
「後輩。多分秋風は図書室だ。久瀬の話を聞いているから、間違いなく解読表としてオカルト本を探すだろう。今がチャンスだ。これから言う数式をバルコニーに書いてくるんだ――2人で残党に乗り込むぞ」
「はいっ!!」
謎を解いた最高の笑顔を見せる先輩に、僕の胸も大きく高鳴る。オカルト研究会残党との、決着の時は近い。
翌日の放課後。僕はちと先輩と2人で通学路からは外れたところにある寂れた、されど名前をネットで検索すれば容易にたどり着ける喫茶店で待ち構えていた。
秋風が何時暗号を解読するかは分からない。でも、それはそんなに遠い未来じゃないはずなのだ。だからちと先輩は会合の日時を思い切って翌日にしたのだろう。
運良く探偵部も活動日じゃ無いから、部室にいなくても不審じゃ無いしね。
「……オカルト研究会残党。どんな人なんでしょうか?」
「さて、それは会ってからのお楽しみだ。とはいえ、来れば直ぐに分かる。……こんな僻地に来る立浜高校生は我々くらいだろうからな」
店内はそれなりに広いものの、お客さんは多くない。机や椅子、床から壁まで何から何まで木で出来た店では、昔からの常連と思われる主婦達がマスターとお茶を飲みながら会話に花を咲かせている。皆、髪が灰色がかる程度の年齢だ。
店内をゆるゆると美しい、そう、音楽から美しさだけを抽出したようなクラシック”パヴァーヌ”が鳴り響いている。他の人達は会話と音楽にかまけて、僕たちのことなどお構いなしだ。
「……万が一、沢山の制服姿が現れた場合は――」
「分かってます。裏口から逃げ出すんですね?」
ちと先輩の言葉に僕は頷いた。相手が相手だけに、念には念を入れることに越したことは無いだろう。既にお金もティーカップに置いてある。
同時に入り口の窓ガラスの向こうを観察するのを忘れない。ソファに並んで深く座った僕たちを、外からは頭しか見えないはずなのだ。反対に僕たちは薄汚れた窓の向こうを簡単に見張ることが出来る。
寂れた商店街の一角だけあって、外を通る人の気配もまばらだ。
……そのままゆっくりと時間が過ぎていく。時計の長針が予定時刻より半周ほど進んだとき、ついに学ラン姿が店の前に現れたのだ。
「先輩……!」
「来たようだな、油断するなよ?」
そいつは店名を確かめるように喫茶店の看板と、おそらくは道案内に使っていたスマートフォンを見比べている。ガラスの前に詰まれたコーヒー豆の瓶詰めのせいで、あいにくと顔はよく見えない。けれども、至って普通の立浜高校生のようで――
カランカランと、喫茶店のドアベルが鳴った。
同時に店内に現れた学ラン姿の男は店の中をキョロキョロと見回し、
「こっちだ」
「あぁ、どうも。遅れて申し訳ない」
決して背丈は大きくない。僕と同じくらいだろう。髪の毛がツンツンしていて、勝ち気そうな釣り目をしている。妙に童顔なのか、あまり学ランが似合っていないようだ。そしてそのポケットからはスマートフォンが覗いている。
そいつはちと先輩の声に従い堂々と進むと、さも当然とばかりに大人しく僕たちの前に座り、にこやかに微笑んだ。
参考文献:コナン・ドイル著 延原謙訳(1953)、「恐怖の谷」、株式会社新潮社発行




