7.花婿疾走事件②
今日は11月にしては暖かい日差しに恵まれていた。青空には僅かな雲がカチューシャのような形を作っているだけで、他には何もない。そこから漏れる光が優しく地上を照らしている。
……何が言いたいかというと……
「ぐぬぬ……昨日せっかく逆てるてる坊主を108個も作ったのに……!」
「リョウっちそんなことしてたの!? 力入れるところ間違えてない!?」
僕たちは大都市横浜の某高層ビルの一角にあるレストランに、開店と同時に駆け込んでいた。勿論座ったのは窓際だ。大変景色の良い席からは大パノラマが鑑賞できる。例えば……ちと先輩のいるお見合い会場とか。今はどうやら室内で両親を交えて歓談しているようだ。
ふふん。もちろん双眼鏡まで持参していた僕に隙などない!
「見てごらんモモちゃん。あれが今回の宿敵みたいだ」
「……もう好きにして……それはともかく、なんだかぱっとしない相手だね」
鍛えられた僕の観察眼は相手の男の正体を遠慮なく見破っていく。……多分大学生だ。スーツではなく私服姿で、黒のスキニーパンツに無地の白シャツの上からデニムのジャケット。社会人にしてはカジュアルすぎる上に着慣れているのが分かる。もちろん制服ばかりの高校生じゃないだろう。
「確か……歴史のながーーーい家の嫡男だったはずだよ。そうそう。あそこの家の次男は凄く優秀な人だとか」
「歴史のある名家ってことか」
上品な黒髪は一分の隙もなくとセットされていて、さっぱりと左右に分けられているな。多分足繁く美容室にも通っているのだろう。声までは聞こえないけど……ちと先輩の反応を見るに会話も得意なようだ。
悔しいけど……中々のイケメンかもしれない。
逆に言うとそれだけだ。
「なーんか、軽薄な感じなのよね……。別に見た目に文句はないけど……」
どうたらモモちゃんも同感らしい。あの男、見た目はいかにも名家の令息なんだけど、行動はどっちかというと薄っぺらい。
相手の男は女性の扱いに非常に手慣れているのだ。それもマナーがあるというよりは、遊び慣れているといった風に。積極的にちと先輩と距離を詰めて暇さえあれば……その、肉体的接触を持とうとしてやがるぅ。
「あ……! お姉の肩を抱いた! 親へのお目通しを終えて、場所を変えるみたい!」
「ぐぬぬ……僕だってそんなことしてないのに……!」
「リョウっち!? 速く速く! 私達も行かないと置いてかれちゃうよ!?」
ちくしょうめ! 覚えてろよお見合い野郎……。
見れば焦ったモモちゃんはカウンターへと向かっていた。落ち着くんだ僕。今は我慢の時だ。
昨日必死でそろえた武器を信じよう。双眼鏡、必死でかき集めたなけなしのお小遣い、それからスマートフォン。いずれも問題はない。
加えて脳内でのシミュレートも完璧だ。こんな所で後れを取るわけにはいかない。速く会計を済ませないと……!
「お会計、8,000円になります」
提示された金額は思った以上に高かった。見晴らしの良いレストランだし、仕方ないか。……正直痛い出費だけれど、背に腹は代えられない。こんな所でケチって失敗するわけにもいかないのだ。
「……リョウっち、お財布大丈夫? 奢ってあげようか?」
「大丈夫!」
少しだけ安心したようなモモちゃんを尻目に、おつりを貰うと僕は走り出していた。
……いくら僕でも、お金持ちとはいえ中学生の女の子相手に奢って貰うほど貧乏じゃないし。それより、さっきのお見合い会場の入り口には車が列を作って待機していた。どうも運転手付っぽい。さすがは名家。これで移動されたら簡単には追いつけないだろう。
「リョウっち!? それで、これからどうする……? 多分お姉達の行き先はテーマパークだけど……電車じゃ見失っちゃうよ……? うっ……」
「大丈夫だよモモちゃん! そのくらいは予想済みなんだ。建物を出たところにタクシーを呼んでおいた!」
「いつの間に……」
驚くモモちゃんを尻目に、僕はエレベーターの閉じるボタンを押す。すると、しまりかけた扉の向こうで乗りたそうな人と視線があった。仕方ない。僕は躊躇なく……閉じるボタンを押し込んでいた。
「この先の広場に駐まっている車を追いかけて下さい!」
「はいよ! ……兄ちゃん達、恋人って感じじゃねえな。わけありか?」
「そうなんです! 運転手さん、よろしくお願いします!」
建物からタクシーの後部座席に全力で走り込んだ僕とモモちゃんは、大声で息をつくまもなく行き先を指示していた。幸い運転手さんは人の良さそうなおじさんで、僕の尋常ならざる表情を見て察してくれたようだ。
既に会場の広場では3台の車が並んでいる。どれもが黒いリムジンだ。だけれど、窓に加工がされているのか、外からは中に誰が乗っているのかは分からない。まずい、間違った車を追いかけてしまうと、見当違いの方向にいってしまう……。落ち着くんだ僕。観察だ。観察して推理するんだ。
「どうしようリョウっち!? お姉がどの車に乗ってるか分からないよ!?」
同様の疑問に達したのか、モモちゃんも荒い呼吸のまま言った。全力で走ったせいか顔が真っ赤になっている。言葉こそ元気なものの、なんだか具合が悪そうだ。
「いいや分かる! 最初に出発した車にちと先輩達が乗ってる筈なんだ!」
だって、まさか親がデートを先導するなんて事はないだろうから。むしろこんなお見合いをセッティングするぐらいなのだ、親同士の付き合いもあるだろう。
同時に一台のリムジンが動き始める。
「……坊主、あの車で良いんだな?」
「大丈夫です! お願いします!」
非常に滑らかな動きで走り出したリムジンを、僕たちのタクシーは間に2台ほど車を挟んで追跡を開始する。
「ねぇモモちゃん。ちと先輩達の行き先は遊園地で良かったんだよね?」
そこでようやく一息ついた僕は、改めてモモちゃんの話を確認してみる。そう。必死で息を整えている彼女は、重要な情報を握っているキーパーソンなのだ。
「間違いないよっ! 昨日お姉の部屋にテーマパーク”ペンギーシー”のパンフレットがあったし、お母さんもさりげなく私にペンギーシーの探りを入れてきたし! もっと言うと、お母さん付の女中とお姉付の女中が外出の準備までしてたし!」
「………………なるほど」
ペンギーシー。日本有数の巨大テーマパーク”東京ペンギーリゾート”を構成するうちの、大人向けのテーマパークの方だ。マスコットはコウテイペンギンのキャラクター”ペンギー”で、「ハハッ!」と甲高い声で喋る。そして……何より問題なのが日本有数のデートスポットだっていうことか。
そう、ここに行くカップルは別れやすいらしいのだ。……フラれた皆の怨念が、どうかお見合い野郎に降り注ぎますように。
「……坊主、どうやら前の車は首都高を使うようだ。そのままペンギーシーまで行くとなると、1万円を越えちまうが……大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、その10倍は準備してきましたから……!」
「……マジか。リョウっち、気合い入ってるし!」
レストランで8,000円、タクシーで10,000円。残りは8万円くらい。まだ、大丈夫。
「……ごめん、ちょっと休むね。着いたら起こして」
「モモちゃん……大丈夫? なんか体調が良くないみたいだけど?」
「だ、大丈夫だし! 確かにちょーっとだけ熱っぽいけど……今日は大事な日だし!」
「…………なら良いけど、無理しちゃ駄目だよ?」
僕と目線を合わせたモモちゃんは小さく頷くと、後部座席で静かに目を閉じた。
僕の努力の甲斐もあって、タクシーはリムジンに置いてかれることもなく人で溢れかえるペンギーシーに到着していた。お金を多めに置くと、おつりも受け取らずにタクシーを出て追跡に移る。
「……リョウっち、お姉達はパスポートで入場するみたい。でも私達は……」
「当日券だね。これは仕方ないよ。僕が買ってくる、モモちゃんは見失わないように漬けておいて……!」
任せろと言わんばかりに腕を掲げると、モモちゃんの小柄な身体が人混みの中に消えていく。タクシーで休んで体調は回復したみたいだ。僕は当日券のカウンターに並び――
「あいたっ!」
「おっと、すまねぇ!」
横入りしようと走り込んできた人にぶつかられて、列から弾き出されていた。
「悪いな兄ちゃん。急いでるんだ、ここを譲ってくれや?」
「な!? それは僕だって……」
思わず睨もうとして、反射的に躊躇していた。相手の身体が大きかったのもある。腕だってプロレスラーのように太い。しかも彼女らしき金髪の女性を伴っている。そしてなにより……金髪だった。それだけじゃない。ピアスや指輪がじゃらじゃらと付いていて、トドメにその髪型はモヒカンだった。
はっきり言って、あまりお近づきになりたくない人種である。
「ちょっとあんた、流石にマズイっしょ。ほら、この子だって……」
「だがよ! 俺たちだってこのままじゃ時間に……」
そう言っている間にも、列の後ろには新たな行列が形成されていく。
譲れない。それは確かだけど……この人達、ちょっとおかしい気がする。2人とも不良といった風の体なのに、言葉遣いや仕草がとても丁寧なのだ。おまけに横入りしたにもかかわらず、その息は激しく乱れている。彼女の方なんて、膝に手をついて息まで整えているぐらいだ。
「た、頼むよ兄ちゃん。見りゃ分かると思うが……」
「いやいやいや、あんた何言ってんのよ、大人しく並び直して――」
「分かりました。どうぞ」
カップルは驚いたような顔で僕の顔を見た。
ええい、時間が惜しい。僕はちと先輩ほど万能じゃないけど、少しは観察力が磨かれているのだ。
この2人はただの客じゃない。職業は分からないけど……変装しているのは確かだ。もしかしたらイベントの人なのかもしれない。見た目と行動が一致してないのだ。しかも2人ともまるで全力疾走した後のように荒い息をついている。少なくともデートではないだろう。
つまり、仕事の関係なのだ。だとしたら急いでるのは確かで、順番を譲れないのも確実だろう。
「マジか……すまない兄ちゃん、助かったよ」
「いえ、では失礼します」
「本当にありがとう! ごめんね?」
僕に時間はない。今なら時間のロスは10分もないだろうから。
「リョウっち!? 遅いよー!」
「ごめん、モモちゃん!」
爆発しそうな心臓の鼓動に息絶え絶えになりながら、僕はどうにかスマートフォンを頼りにモモちゃんと合流していた。だけれど、気丈にも手を振っている彼女の顔色は良くない。何か拙いことがあったに違いない。
「そんなことより、大変だよリョウっち! 大事なこと忘れてた! 向こうはバケパを持ってるみたいなの!?」
「バケパ……? なにそれ?」
「バケーションパッケージ! 持ってると全てのアトラクションに優先的に乗れて……きゃっ!?」
どうやら、今日は千客万来らしい。慌てて駆け寄ってきたモモちゃんは、運悪く前を見ないで歩いていた小さい男の子と激突してしまったのだ。その子の手には買って貰ったばかりと思しきペンギーのぬいぐるみ。はね飛ばされて人混みの向こうに飛んで行ってしまう。
「痛たたた、ご、ごめんね?」
「モモちゃん大丈夫!?」
「う、うわぁぁぁぁぁぁん!!!」
僕達の前で男の子は泣き出してしまった。後ろ髪を引かれる思いで視線を向ければ、ちょうど手を引かれた先輩が最初のアトラクション”ドールストーリー・マニア”へと消えていく……。
この人混みだ。ここで見失ったら……きっともう、ちと先輩を見つけられない。でも、このまま泣いてる子を見捨てるわけにも……。どうしよう……
「ごめんね僕! 大丈夫、怪我はない!?」
「僕のペンギーがっ!? いなくなっちゃったぁぁぁ!!! ママァァァァ!!!」
駄目だ……男の子は泣き止みそうにない。モモちゃんはオロオロしていて、男の子のお母さんはようやく事態に気づいたばかり……。僕は…………
「こら! しょう君駄目じゃない! うちの子供がごめんなさい。ほら、お姉さんに謝って!」
「でもぉぉぉ! っぐすっ! 僕のペンギーが――」
「それはこれ?」
まん丸に見開かれた男の瞳が僕の拾ったペンギーに吸い込まれる。そう。気がつけば僕は先輩など目もくれず、男の子のぬいぐるみを取りに行っていたのだ。幸いなことに殆ど汚れてはいない。
「おぉ! リョウっちナイス!」
「すみません、ありがとうございます! ほら、しょう君!」
「あ、ありがとう。お兄ちゃん、お姉ちゃん」
そんな親子の姿を尻目に、僕の視線はアトラクションの入り口に注がれ……絶望に浸っていた。既にそこには、ちと先輩の姿もお見合い野郎の姿も見当たらないのだ……。一方、僕たちが並ぶべき方の通常の入り口には長蛇の列が形成されている……。
「あわ!? ど、どうしようリョウっち!? 今からでも並び直す……って凄い行列だし!? これじゃ追いかけられないよぉ……」
「くそ……出待ちするしかない……かな」
でも、当然お客さんは大混雑の中を一団になって出てくるのだ。もちろん、何時出てくるのかも分からない。ちと先輩を見つけられる可能性は低いだろう。
………………詰んだ…………かもしれない……。
ど、どうしよう!? こ、このままじゃ、ちと先輩が万が一にも相手に奪われてしまう!? このままじゃ暗いアトラクションとかでいつの間にやら距離を狭められ、恐怖のドキドキを恋のドキドキと勘違いして……あまつさえ、く、唇まで……!?
ああぁぁぁぁぁ!?
「あの、大丈夫ですか?」
混乱した僕の頭はまともに機能していない!
「貴方たち酷い顔をしてるけど……何か困ったことでも?」
「わ、私達……実は意に沿わないお見合いを潰そうとしてるんですっ!」
絶望と焦燥で一杯の僕を尻目に、モモちゃんがテキパキと説明していく。全てを聞いたお母さんはなるほどと頷くと、まるで我が子に向けるような優しい顔で言った。
「事情は分かったわ。私達に任せてね。相手はお金持ち? 上等よ。年間パスポート持ちの力を教えてあげるわ!」
「でも、私達……バケパはもちろん、当日発券のファストパスも持ってなくて……」
「……確かに、全てのアトラクションをついて回るのは無理だわ……でも、夫に頼めば一部なら出来るかもしれない……!」
僕たちはこの人のことを、師匠と呼ぶことにした。
「良い? 良く聞いてね。このペンギーシーで人気のアトラクションに行こうとしたら、延々何時間も一般列に並ぶか、対応したファストパスを取るしかないの」
師匠は思った以上に男前な人だった。ペンギーシー不動の一番人気のアトラクション” ドールストーリー・マニア”をあっさりと放棄すると、速やかにスマートフォンで旦那さんに連絡。急遽僕たちへの協力を申し出てくれたのである!
「でもって、相手はバケパ持ち。つまり、全てのアトラクションに対して使えるファストパスを持っている……」
「……普通にやったら追いつけないですよね?」
僕の顔色や声音は縋るような響きが露骨なまでに出ていた。それを理解したのか、師匠は笑う。
「えぇ。だから、こっちもファストパスを取るしかないわね……」
「でも、お姉達が何に乗るかは分からなくて……」
「大丈夫よ。向こうは今回が初めての……その、デートでペンギーシーに来た。って言うことは、相手の男はそれなりにペンギーリゾートを知り抜いているはずよ? だって、ここほどデートに向かない場所はないんですもの! どの順番でアトラクションに乗れば最も楽しめるのか、重々承知でしょう。……だからこそ、私にもその順番を予測出来る……!」
「な、なるほど……!」
どうやら、僕の命運はこの人に託すしかないようだ。
「それで……僕たちはどうすれば良いんです?」
「……一度旦那と合流します。しかる後、分散して2人分のファストパスを確保するべく散開します。以上。何か質問は?」
もちろん無い。モモちゃんは僕に判断を任せることにしたらしく、今はベンチで男の子が退屈しないようぬいぐるみで遊んでいる。
……どうやら覚悟を決めるしかないようだ。
「師匠、相手は何処に行くと思いますか?」
「良い質問ね! 鉄板を考えれば”タワー・オブ・ホラー”か”センター・オブ・ジ・コア”あたりかしら。ひとまずこことその辺りで網を張りましょう」
……僕の頭脳がフル回転を始める。落ち着け。僕の目的はストーキングじゃない。こっそりとお見合いをぶっつぶすことだ。言い換えれば、相手のお見合いのクライマックスで妨害できれば良い。
つまり、①ちと先輩を再発見する。②クライマックスの行き先を予測し、そのファストパスを確保する。③Fire! 以上。たったこれだけ。簡単だね。
既に賽は投げられている。後はチップを賭けるだけだ。
大丈夫、全て上手くいく!
――後に僕はこの考えがどれだけ甘かったか、嫌というほど教えられていた。
「やった! あそこだ!」
「……っあ。本当だ。やったね……リョウっち」
僕たちは苦労の末、再び着飾ったちと先輩の背中を発見していた。間にはそれこそ数えられないほどの人が行き交っているけれど、それでも僕は見逃さない。
見れば相手の男は沢山の並ぶ人々をファストパスで悠々と追い抜けるのが愉しいのか、終始上機嫌で人混みをかき分けるように進んでいる。
ちと先輩は男に手を引かれ、直ぐに建物の影に隠れてしまった。
「急ごう!」
「う……うん……行く……今、行くから……」
直ぐに僕が走ろうとしたところでようやく異変に気づいていた。真っ赤な顔で息絶え絶えになったモモちゃんは、糸が切れたようにフラフラとしたかと思うと、そのまま蹲ってしまったのだ……。
「モモちゃん!?」
「はぁ……はぁ……ごめっ……大丈夫だから……!」
……僕は、ちと先輩を奪われるかもしれないという焦燥感のあまり、大事なことを見落としていた。モモちゃんの体調は悪化を極めていたのだ。僕はどうして気づかなかったんだ……。顔色は悪いを通り越して真っ赤だし呼吸は浅く速い。既に咳を隠す力も無いらしく、蹲ったまま立ち上がることもできそうにない。
「い……今立つから……!」
「大丈夫!? って凄い熱だ!? どこか休めるところは……!?」
「だ……大丈夫だし! ちゃんと……薬も飲んで……」
モモちゃんは縋るような目で僕を見た。潤んだような瞳は見るに堪えないほど弱々しく、その身体の熱はおでこに手を当てた僕にも痛いほど伝わってくる。
「お……お姉が……行っちゃう……。リョウっち、私を置いて先に……」
そこでハッとなった僕はちと先輩の影を追ってしまう。既に僕の視界の中に麗しの先輩の姿はない。だけれど、行き先は予測が付いている。今から走れば追いつくのは難しくないだろう。
そう、直ぐに行けば、だ。
「何を馬鹿な事を言ってるんだ!? ほら、掴まって! あの人に頼んで休ませて貰おう!」
「リョウっちこそ!? ここで見逃したら……お姉とはもう……会えないかもしれないんだ……よ?」
「まだチャンスはあるよ! そんなことより、ほら!」
既に抵抗する気力も無いモモちゃんに肩を貸すと、僕は並み居る人の流れとは外れたベンチを目指していた。周囲のペンギーシーの風景に驚くほど溶け込んだベンチだ。
今のところ、はれの日とは思えないほど地味な私服に野球帽を被った女の人が一人座っているだけ。シャツには一応ペンギーがデザインされているけど……それだけだ。まるで服装に気合いが入ってない。シンプルなブラウスに長めのスカートだけ。
疲れを取っているというよりは、行き交う人を眺めているようにも見える。なんだか魚を待つ漁師のようだ。行儀良く座った膝の上にはペンギーのぬいぐるみ。……随分と質が良い物みたい。さっきの男の子のよりも更に良い品で、シリアルナンバーがついてるな。
「リョウっち? ……キャストの人はいないみたいだよ……? そんなことより、ベンチに座らせて貰えば……後は自分で何とかするから……」
「大丈夫だよ、僕に任せて……」
見れば少し遠くには制服を着たキャストの人もいる。人混みの中を笑顔で進んでいるようだ。
だから僕は……
「すいません、ペンギーシーの方ですよね? この子凄い熱なんです! スタッフルームで休ませて貰えませんか!?」
近くのベンチにいる地味な服装の女の人に声をかけていた。彼女は驚き、モモちゃんもその顔が歪む。
「……リョウっち? この人は普通のお客さんじゃ……?」
「まさか! ペンギーシーに来る人は普通精一杯おめかしして、遊びに来るはずだよ! それも家族や友達、恋人とね! にも関わらずこの人は誰を待つわけでもなく、一人で座っているしその服装は普段着も良いところだ。何故か? 簡単。この人にとってペンギーシーが日常の一部だからだよ。例えば……非番のスタッフとかね!」
非番にもかかわらず職場にいる理由は簡単。……この人はペンギーシーを愛して止まないのだ。それこそ希少なぬいぐるみを持つほどの熱狂的なファンで、だからこそ、休日にもかかわらずお客さんの様子を観察し、言わば勉強しているのだ。
「……やれやれだわ。ここに座るのは今日が初めてじゃないけど……見抜かれたのは初めてよ」
彼女はそこで野球帽を取って僕を見た。
「お願いします! この子、高熱で動けないほどなんです!」
「勿論よ。ゲストをもてなすのがキャストの仕事だからね。さぁ、こっちに」
彼女はそう言うと、静かにベンチを立ち上がって壁の一部のように細工されているスタッフ用の扉を開けた。
だけど同時にモモちゃんが我慢の限界を迎えたようで、不吉なげっぷをすると同時に青く染まった顔でえづき始める。
「だ、大丈夫!?」
「……リョウっち、離れて……」
「でも……」
「良いから離れて近寄らないでそこ退いてっ!!! すいません! こっちですか!?」
鬼の形相になったモモちゃんは最後の力を振り絞って僕を振り解くと、脇目も振らずに中へと駆け込んでいく。
「待って……」
「突き当たりを左に行きなさい!」
「すいませ……うっ!」
そのまま転がるようにトイレへと駆け込んでいく。僕は慌てて追いかけようとして……お姉さんに肩を掴まれていた。
「少年……気遣いは必要だけど、察しなさい。よりにもよってはれの日に嘔吐している姿を恋人に見せたがる女がいると思う?」
「……それは」
「分かったら、こっちで手を貸してちょうだい。この部屋に非常時用の救護室と薬箱があるから、彼女が休めるようにしてあげて。私は医者を呼んでくる」
痛いほどの静寂が廊下を満たしていた。