7.花婿疾走事件①
最悪の窮地を抜け出してから速数週間。僕は緊張した面持ちでこの日を迎えていた。短くなった陽が赤い光を部室内へと注いでいる。机の上に備えられた白磁のティーポットは真っ赤だ。
約束の時間までは……まだ5分くらいあるな。……心配だ。今日はちと先輩がいないから、僕がお茶を入れなくてはならない。上手に出来るかな……。
なにしろ今日は生徒会の愛梨先輩が来る日なのだ。噂をすれば早速、駆け足の足音が聞こえてきて……
「リョウっち! 大変、事件だ!」
「ってモモちゃん!?」
別人じゃないか!? でも、今日だけはマズイ! 何というタイミングの悪さ! モモちゃんの天敵たる愛梨先輩が来る日なんだ!
そんな焦りを募らせた僕と同じように、モモちゃんも焦っているらしく鞄を無遠慮に放り投げて僕に詰め寄ってきた。
「リョウっち! リョウっち! 私の話を――」
同時に耳に届いたのは、ゆったりとした歩調でこちらに向かってくる足音。
「ごめんモモちゃん! 悪いんだけど、ちょっと隠れてて!」
「え? え? 何で!? 私だって急いで――」
「愛梨先輩が来るんだ!? ほら! ……えぇっと、ここだ!」
僕は何か言いたげなモモちゃんを追いやり、教室の清掃用具入れに押し込む。中から抗議の声が届くのと、部室の扉が上品にノックされるのは同時だった。
「失礼します。能登愛梨です」
「ど、どうぞ!」
慌ただしい僕を尻目に現れたのは、相も変わらず人形のようにツンと澄ました顔の愛梨先輩と……その護衛と思しき眼鏡猿♀に手長猿♂。その他は部屋の外には……いないようだった。
……既に用件は聞いている。僕は例の事件の後、謝罪する愛梨先輩に訊いたのだ。すなわち、生徒会と森亜の関係について。
その場での話は都合が悪いということだったので、今日まで延期されていたのだ。……愛梨先輩も生徒会選挙が近いっていうのに、時間を割いてくれた辺り感謝するしかない。
「………………あの」
「大丈夫。今日は秋風はいませんよ?」
茶葉を入れたティーポットにお湯を注いで蒸らす間、愛梨先輩はあっさりと僕の胸中を見抜いて言った。……この辺りは流石としか言いようがないかもしれない。
再びの沈黙。でも、不思議と悪い気持ちはなかった。普通あまり仲の良くない人との沈黙は気まずい物だけど……愛梨先輩だと苦にはならない。黙って座っているだけでも絵になるからだろうか。
そう思った僕は茶葉を蒸らす間、ホームズ式推理術を試してみることにした。
能登愛梨先輩。生徒会会計にして、次期生徒会長筆頭候補。赤色リボンの制服は……驚くことに一切の工夫が見当たらない。スカート丈ですら標準仕様のままだ。ともすれば無個性なそれは、しかしながら圧倒的な存在感の前では見事な引き立て役になっている。濃青色のブレザーとその下の水色のワイシャツ、それに同じく青地に濃青色のチェック模様のスカート。一分の隙もないほどに着こなされているな……。
なるほど、ちと先輩が冷徹人形と呼ぶのも分かる。この人は人形のように個性がないのだ。にもかかわらず、圧倒的なまでの存在感がある。
……そう、まるでモデルのようだ。モデルなら標準仕様の制服でもおかしくはない。長い絹のような黒髪は僅かにウェーブを描いていて、豊かに膨らんだ胸元にまで流れている。八頭身でその顔は人形のように整っており……見ていてほれぼれするほどだ。
……駄目だ、観察できない。する物が無いのだ。この人には個性がない。持っているバックも制服の着こなしも、全てが教科書通りで個人特有の好みがない。
「おいぃ! お前さっきからジロジロと愛梨さんを見てんじゃねぇぇ!?」
「んな!? 違いますよ!? 僕はそんなこと……」
「はぁぁ!? 女舐めんな! 男のそういう視線には敏感なのよ! 黙ってれば愛梨さんの胸をジロジロジロジロジロジロジロジロ……」
「だから違いますって!?」
酷い誤解だよ! ……その、確かにちと先輩とは比較にならないとか、モモちゃんと合わせて2人がかりでも負けてるかもとかは思ったけどさ。
「おまけにスカートの中を透視しようとばかりにネチネチネチネチネチネチ……」
「貴女に言われたくはありません!」
「どういう意味だお前ェェェ!」
あ、茶葉がちょうど良い感じに開いてきたな。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。……美味しい」
「無視すんのかい!?」
「佐山……ちっとは落ち着けや」
護衛の男の方がそう言うと、佐山も学習したのかようやく静かになった。愛梨先輩……。躾がなってないですね。そんなことを思っていると、愛梨先輩の表情が僅かに変わった。そう、苦笑いだ。
「それで……今日は生徒会と森亜の関係について教えて頂けるんでしたね?」
「はい。別に隠すものでもありませんので」
そうして、再び愛梨先輩は無表情に戻った。同時に僕の瞳の瞳孔も引き絞られる。
……だから、わざわざ時間を取ったんだ。前回の事件の時、超絶陰気眼鏡猿こと佐山は確かに森亜の名を呼んだ。そして、探偵部と生徒会の因縁。これが表すことは……
「森亜帝は過去の生徒会副会長です。佐山の言った乙母先輩とは、彼の後輩でその次の代の生徒会長のことですね」
「っていうことは、探偵部との因縁っていうのは……」
愛梨先輩の表情は変わらない。ビー玉のような目玉は一切動かずに僕の瞳を覗き込んでいる。
「森亜副会長は……自殺しました。私たちには……探偵部に無実の罪で追い詰められて、潔白を証明する為に校舎から飛び降りて亡くなったと伝えられてます」
「……っ!? それは!?」
「あんた達探偵部のせいよ! どの面下げて私達の前に現れた! って詰りたいところだけど……この間同じ事をしそうになったから何も言えないのよね……」
沈黙。それっきり、佐山も黙り込んでしまう。もとより手長猿の方は話す気がないようだ。
しかし……僕の聞いていた話の内容が少し違うようだ。
「連続自殺事件……ですね?」
「えぇ。とても不幸なことです。だからこそ、何故探偵部が私達生徒会を恨んでいるのかは分かりません。聞くところによれば、初代探偵部長の治村紫がその件で乙母会長を逆恨みしたと聞いておりますが」
治村部長……知ってる。活動日誌にも名前があった。でも、物証や証言を残してなかったりと、抜けたところのある人みたいだ。
「逆恨み……ですか?」
「はい。何でも治村部長は個人的な恨みを持っていて、その件で森亜副会長を自殺事件の犯人と決めつけ、食って掛かっていたようです。度々乙母先輩とも怒鳴りあいの喧嘩になったとか。その記録が残されています」
「……それはどのような?」
「……さすがにそこまでは。ただ、記録を見る限り、探偵部を作った治村部長は、どうやら冤罪を晴らしたかったようです」
冤罪だって? 何のことなんだ? 駄目だ、探偵部の資料にはこの辺の記録はすっぽり抜け落ちている……。
「どういうことでしょうか……?」
「不明です。ただ治村部長は乙母先輩と同学年です。そして、森亜副会長と同学年の……あと一人別の人物、仮にAとしましょう。Aと共にある事件を解決したようです。その件と関わりがあるのかもしれません」
「……誰なんですか? そのAって言う人は?」
「申し訳ないのですが、分かっていません。実を言うと、その事件自体も直接的な記録が残っていないのです。どうも、学校的には不名誉な事件だったらしく、少なくとも生徒会には残っておりません」
駄目だ。情報が断片的にしか分からない。頭が混乱している。Aって言うのは何者なんだ? いや、そもそも探偵部とはどういう関係なんだ?
「以上です。何か質問はありますか?」
「……えぇっと、つまりこういうことですか? 森亜副会長と同学年のA、乙母会長と治村部長。この4人で事件を解決し、その結果治村部長は森亜副会長を疑っていた……」
「……はい。後に連続自殺事件が起きて森亜副会長が亡くなると、治村部長は探偵部を組織したようです。おそらくは自分の代で謎を解決できなかった時の為でしょう」
そこまで言うと沈黙が舞い戻ってきた。探偵部の資料は全てが後年に調べ上げられた連続自殺事件のものだ。逆に生徒会の資料は自殺事件の前後に起きた物事のこと。……ちと先輩に伝えないと。
「話は以上です。また何か知りたいことがありましたら、佐山か栗川に連絡を取って下さい」
「……分かりました。愛梨先輩。今日は色々ありがとうございます」
僕がそう言うと、愛梨先輩は紅茶の残りを全て飲んでから、定規で測ったような見事なまで一礼を見せてから退室していく。
……森亜の謎、一歩前進って所かな? 少なくとも、これまでに僕が調べてきた情報は、全てが過去の調査結果と重複している物ばっかりだ。それに新たなヒントも手に入った。Aだ。記録には残っていなくとも、記憶されているかもしれない。
通常、高校の生徒は3年で卒業してしまう。だから、どんなに伝説的な人物でも生徒の口には3年しか記憶されない。そう。生徒には。
訊くべきはクマちゃん先生だ。教師は生徒と違って一つの学校に長くとどまるはず。何か知っているかもしれない。
そんなことを考えていると、背後から恨めしそうな声が響いてきた。
「……しくしく。せっかくリョウっちの為にはせ参じたのに、この仕打ち。この恨み、晴らさでおくものかー!!」
「あ、ごめんモモちゃん。今開けるよ」
立て付けの悪いロッカー開けてやると、中ではモモちゃんがいじけていた。その手にはスマートフォンが握られていて…………っ!?
「拝啓。お姉様。お姉が不在の間にリョウっちが生徒会に寝取られてしまいましたとさ……っと。送信」
「うわぁぁぁぁぁぁ!? な、何やってるの!?」
思わずモモちゃんのスマートフォンを奪い取ってしまうものの、無情にもメールは既に送信されていた。宛先はもちろん、ちと先輩。
「モモちゃん……。な……なんてことを……!?」
「ぶー。ぶー! ぶーっ!! ふーんだ! 今更謝ったって……」
「駄目じゃないか!? 拝啓で始めたら敬具で終わらせないと!?」
「ってそっちか-い! ……っと、そうじゃないそうじゃない。最近リョウっちの私の扱いが悪い気がする! 断固抗議するし!」
「……いや、その、ごめん」
膨れっ面の前につい頭を下げてしまう。するとモモちゃんはすっかりご機嫌斜めのようで、無言でお茶を入れろと催促してくる。
そういえば、何か急ぎって言ってたっけ?
「それで、今日はどうしたの? またサボり?」
「違うし! リョウっちに緊急連絡があったんだけど……どうしよかなー?」
ニヤリと笑ったモモちゃんはそのままスマートフォンを取り返して操作すると、おもむろに画面を僕に突きつけた。……とある有名ケーキ店のバイキングの広告だった。さすが高級店。作品と呼ぶべきだろう至宝群はとても華やかで繊細で美味しそうで……高そうだ。
「ふっふーん! リョウっちが私のことを崇め奉って、このバイキングに連れてってくれるんなら、教えてあげても良いのよ?」
「…………なんか引っかかるけど、まぁ、良いよ」
実際、この子にはお世話になってるしね。
僕のその言葉を聞くと、モモちゃんの瞳が喜びに光った。でもそれは一瞬のことで、すぐに真顔に戻る。
「リョウっち……最近お姉との仲は進展してる?」
「も、勿論だよ! 先月の事件だって解決した部室に戻った後、ちと先輩直々に『後輩……格好良かったぞ?』って言ってくれたんだよ! その時の恥ずかしそうな、それでいて決意に満ちたような表情はとてもいじらしくて! 照れてるのか僅かに朱が指した頬といい、胸の前に置いた手といい、僕はもう天にも昇る心地で……」
「あっ…………」
僕が興奮のままにそこまで語ると、モモちゃんは何故か露骨なまでに視線を逸らした。何だろう……すっごく嫌な予感がする。
「あのね? リョウっち、落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
「もちろん! 今の僕は絶好調だよ! どんな謎だって解決できそうなんだ!」
「………………うん。あのね?」
モモちゃんは気まずいのか、明後日の方向を見ている。何故か部室の空気が一段と重くなってきた。同時に僕の心臓が不思議と鼓動を速め、緊張のせいかお腹の辺りに異物感が溜まっていく。
「お姉なんだけどさ……」
「……うん、ちと先輩がどうしたって?」
「…………………………その…………」
一拍。そこでモモちゃんは立ち上がると、一気呵成に言い放った。
「明日お見合いなの……!!!!」
「…………………………え?」
刹那、思考が停止した。思わず目を見開いた僕の前では、モモちゃんが僕の方を心配そうにしながら席に座る。それがやたらとゆっくりに感じられた。
……え? お、お見合い? ど、どういうこと!?
「お見合い?」
「うん」
「お見合いって……あれだよね?」
「……多分」
「その、結婚を前提に……」
「うん」
「男女が食事して……」
「うん」
「親同士も話が付いていて……」
「うん」
「最後の方に、『後は若い2人で』とか言われて……」
「うん」
「問題がなければ、結婚に至る奴?」
「……うん」
………………。
あぁ、駄目だ。僕、急速に日本語が理解できない。
「つまり…………だよ?」
「うん……」
「ちと先輩……結婚するって事?」
「……かも?」
えええええええええええええええ!?!?!?
ちょ、ちょっと待ってよ!? ど、どういうこと!? おかしいよ!? だって僕、この間ちと先輩との仲を深められて喜んだばかり何だよ!? 間違いなくあの反応はちと先輩も満更ではなかったはずだし! っていうかお見合いってどういうこと!? ちと先輩に婚約者候補はいるけど、それはあくまで候補であって現時点では婚約者じゃないっていうか、単に親の付き合いでそうなってるだけで、ちと先輩の意思は関係ないっていうか、むしろ仕方なくって感じだったっていうか、つまるところあってなきがごとしのものであって、当然僕にもまだチャンスが残っているはずで……!? っていうか、相手は誰なんだ。あれか。噂のイケメン金持ちの御曹司って奴か。た、確かに顔やお金では僕に勝ち目はないかもしれないけど、僕には築き上げてきた信頼というか評価があるわけだし。それなのにお見合い? まさか! 僕だってしたことないのに? まさかー! そんなこと、あるわけないじゃん。
「あは、あははは、ちと先輩がお見合い? へー。お見合いするんだー……」
「リョウっちー!? し、しっかりするんだ!? 口から魂が抜けて成仏しそうな顔してるぞー!? っていうか、前にもこんな感じの事あったよね!?」
「あははっ何を言ってるんだいモモちゃん。ところで今日も可愛いね。まるで、ちと先輩みたいだ」
「落ち着けー!? 大丈夫だリョウっち! っていうか最後まで聞いてー!?」
「大丈夫、僕は落ち着いているよ! ほら! 見てくれ! 早速森亜の謎のヒントを」
「リョウっちリョウっち! それはただのティーカップだよ!?」
「ティーカップ。そうティーカップ。いつもはちと先輩が使うんだよ? ほら、ちょうどこの辺りに柔らかそうにふるふると揺れる唇がそっと触れて……」
「駄目かー!? ええい、百花パンチをくらえー!!!」
「っかはぁ!?」
ズシンとくる一撃が僕のお腹にめり込む。同時に口から激しい動揺が空気と共に抜けていき、僕はヘリウムの抜けた風船のようにガックリと椅子に崩れ落ちて項垂れていた。
お見合いだって? ま、待って、話が違う……。
「モ、モモちゃん……どゆこと?」
「明日! お姉が! 婚約者候補のうち! 有力な一人とお見合いするの!」
「…………はぁぁぁ!?」
気がつけば僕は涙目になってモモちゃんにみっともなく縋り付いていた。相変わらず優しい子なのか、年上の僕の醜態にも嫌な顔一つしない。出来た子だなぁ。
「大丈夫だよリョウっち! まだ手はある!」
一方、僕の方はみっともなく立ち上がってうろうろと部室内を早足で歩き回っていた。
「ど、どこに!? あわわ!? まずいよね!? どうしよう!? 僕、出家した方が良いの!? お寺!? それとも神社!? 教会って可能性も……」
「少なくともお姉は乗り気じゃなかったよ?」
「なーんだ。それを先に言ってよ?」
落ち着いた。あまりの変わり身の速さに驚くモモちゃんを座るように促すと、考えてみる。
「つまり……明日一日かけて、ちと先輩をお見合い野郎の魔の手から守ろうって話だね?」
「う……うん……? ま、まぁ当らずとも遠からずって所かな?」
「そうと決まれば、行くぞモモちゃん!」
「ふえ?」
言うが早いか立ち上がって左手で鹿撃帽を手に取り、右手はモモちゃんの手をしっかりと握る。そしてそのまま部室を出て鍵をかけると、荷物も取らずに一目散に駆け出していた。
「ちょっとリョウっち! 何処行くのー!?」
「決まってるよ! ケーキバイキングだ! そして、そこで明日の傾向と対策を考えるんだ!!!」
謎は簡単。すなわち、何故ちと先輩が乗り気じゃないお見合いをする羽目になったのか。少なくとも、夏休みの間に旅行には行ったはずだ。これで暫くは家の対面も保てるはず……! そして……僕だって嫌われてはいないはずなのだ!
この謎だけは譲れない! って言うか、どうにかしてお見合いを潰さないと!?