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――4日前。
とある繁華街の片隅にあるカフェ&バーのカウンターに蓼科の姿はあった。まだ日没前の時間帯なので蓼科の他に客はいない。
そこでウィスキーをチビチビと呑んでいるときに電話が鳴った。
現地調査に行っている若村からである。
――その内容に蓼科は驚愕した。
「待て!若村くん!潜入捜査は危険すぎるから辞めたまえ!」
何と若村は、ホテルの前に張り出されていた“メイド募集”の文字を見て、面接を受けるというのである。
『でも、現地の人の話聞いてもコレ以上何も出てこなさそうだし……だったら潜入した方が早くないっすか?』
「それはそうかもしれんが……そんな怪しいホテルが出してる求人なんて何かの罠かもしれないし……」
『何のために罠なんか仕掛けるんすか?まぁ、何かあったとしても、俺、身体鍛えてるんで大丈夫っす!』
「いや、そうじゃなくて……だいたい募集しているのは“メイド”なんだろう?君、男じゃないか」
『そう、そこが問題なんすよ!
家に帰れば女性用の服とかメイク道具一式あるんですけど、今なんもないんで、一旦下山して道具揃えないといけなくて』
「いや、そういう問題でもなくて……って若村くん……君、女装趣味があるのか??」
『そういうことで、俺しばらく事務所空けますけど、よろしくお願いします』
「いや、おいっ……?!」
――ツー、ツー、ツー……
若村は蓼科の話を聞かずに電話を切った。
日頃から行動力のありすぎる彼には手を焼いているが、今回は下手をすれば命に関わる問題となるかもしれない。
蓼科は今すぐにでも現地に飛びたかったが、彼自身もまた調査中であり、東京を離れるわけにはいかない。
「随分やんちゃな助手さんみたいですね」
カウンターの奥でグラスを拭きながらこの店のマスターが蓼科に声をかける。
「えぇ、全く困ったもんですよ……」
蓼科はそう言いながらマスターの様子を伺う。
年齢は蓼科より少し上だと思われるが、毛髪の割合はマスターの方が幾分か多そうである。
そして、淡々とグラスを吹く腕は一定のペースで乱れることなく動いている。ただ、グラスを見ているはずのその目には、何も映っていないように見える。まるで澄んだ氷のようなその瞳には、何の輝きもない代わりに恐怖や悲哀というような負の感情も宿していない。
「……あぁ、そうだ。探偵さん」
その瞳と同様に熱の無い声でマスターは蓼科に話しかける。
「頼まれていたもの、用意しましたよ」
彼はそう言って、一旦グラスを拭くのを辞めて背後にある食器棚からA4サイズの茶封筒をカウンターの上に置いた。
「これはこれは、ありがたい……」
そう言いながら蓼科が茶封筒に手を伸ばしかけたとき、マスターは素早い動きでそれを引っ込める。
「探偵さん、まずはこちらがお願いしたものを頂けますか……?」
抑揚の無い声で、マスターは言う。
口調こそ丁寧だが、そこには相手への敬意などまるでなく、機械と話しているのではないかと錯覚するほどである。
「おっと、これは大変失礼致しました。では、コチラを……」
蓼科はごく普通の大きさの茶封筒をスーツの胸ポケットから取り出しカウンターに置く。
マスターはサッとそれに手を伸ばし、中身を確認したのちに、先ほど引っ込めたA4サイズの大きな茶封筒を再びカウンターに置く。
蓼科は中に入っている数十枚の紙をパラパラとめくりながら内容を確認する。
「これだけの資料をたった1日で集められるとは……さすがですな」
蓼科は表情の無いマスターの顔を見ながら言う。
「言っておきますが、それは極秘の資料です。もし、貴方がその資料の入手先を口走ろうものなら……身の安全は保証出来ません。貴方ご自身も勿論ですが……元気な助手の青年も、貴方の家族も……無事では済まないでしょう」
「それは恐ろしいですな。私はともかく前途洋々な青年を犠牲には出来ませんから、慎重にならないと……しかし、私には家族はいませんが……?」
「そうでしたね。私としたことが、記憶違いをしていたようです。
それにしても、いつも景気悪い顔をした貴方が、私の提示したものを用意出来たとは……正直驚きました」
「私もたまには儲け話にありつけるんですよ。お代わり、もらってもよろしいですかな?」
「……もちろん。貴方の仕事の成功を祈って特別に上等なモノを1杯ご馳走しますよ」
マスターはそう言って食器棚の奥から年代物の高そうなウィスキーを取り出した。
グラスに注がれたその味は絶品だったが、人間味の無いマスターの顔を見ていると背筋が寒くなり、蓼科はすぐに店を後にした。
マスターの正体は謎に満ちているが、政界から極道まで、ありとあらゆる事情に精通するとされる人物で、彼に頼めば手に入らない情報は無いと言われている。
故に情報料は破格だが、今回はそれを払うことが出来た。
もちろん、情報元をバラせば消されるのも間違いない事実である。彼は情報だけでなく権力も手にしている。
数ヶ月前に起きた爆発事故による議員の死にも何らかの形で彼が絡んでいるのは間違いと蓼科は睨んでいるが、そんなことは決して口走らない。
――彼自身と、大切な人の命を守るために――
***
「……で、あの支配人の何処がヤバイんだい?」
蓼科は並べられた夕食を食べながら、今や完全にメイドと化した助手に質問をする。
「いや、なんつうか……客のためなら何でもやるっつうか……」
若村はそう言いながら蓼科の夕飯を勝手につまむ。
「それは別に悪いことではないんじゃないか?」
「そうなんすけどね……常軌を逸してるっていうか……」
「……というと……具体的にはどんなことをするんだ?」
蓼科は好物である生ハムメロンに手を出そうとした若村を制しながら質問をする。
それにしても見た目はどう見ても美人のメイドさんなのに、そのピンク色の唇から発せられる低い声と口調の違和感に、蓼科は若干の居心地の悪さを感じる。
「昨日来たジジイ、夕飯運んだ俺に襲いかかってきたんすよ!」
「若村くんは女性のみならず男性にもモテるんだな」
蓼科が冗談めかして言うと、彼は少し膨れっ面をした。
「全く冗談じゃないっすよ!
俺も普段ならあんなジジイ殴り飛ばせるんですけど、今は女の子なんでそれ出来ないじゃないですか?」
「いやいや、そういう問題では……」
蓼科は突っ込もうとしたが、若村には聞き入れる様子はない。
「だから一瞬の隙をついて大急ぎで逃げたんす!……で、支配人に説明したら、あの人、何て言ったと思いますか?」
「何て言ったんだ?もったいぶらないで教えなさい」
「“――何故抱かせてあげなかったんだ?”――って。俺はマジ自分の耳疑いましたね」
「それはそれは……恐ろしいな……」
いきなりメイドに襲いかかるジジイも、それを拒絶したことを叱る霧島も恐ろしいが……何よりジジイを欲情させるまでに完璧な女装が出来る若村が、ある意味では一番恐ろしいのではないかと蓼科は感じた。
「そのあとすぐに“いや、すまない。君にそこまで要求するのは間違っていたな”……って言って、姿を消したんすね。あの支配人……」
「……それで?」
「……で、数時間後に戻ってきたときには、これと同じようなメイド服着た女の子と一緒だったんで、俺、もう超ービビリましたよ!」
「そりゃあビビるな……」
蓼科は生ハムメロンを頬張る。生ハムの塩気とメロンの甘みが最高にマッチしていて旨い。
「どうもその子をジジイの部屋に送り込んで、ヤらせてやったみたいなんすよ。
帰り際に支配人の目を盗んでその子に聞いたら、10万もらったから仕方なく来たって言ってました」
「1回10万か……。美人なのか?」
「まぁ、ブスではないと思いますけど……ぶっちゃけ今の俺の方が美人っすねー」
「あははは……君のその自信が時々羨ましくなるよ……」
得意気な顔でサラダを勝手に食べる若村。蓼科は元々野菜は苦手なので、それに関しては咎めない。
「でも、あの女に払った10万、支配人はジジイに請求しなかったんすよ!」
「それはまた気前のいいこったなぁ……」
実は蓼科が事前に行った調査の中にも、“このホテルに泊まるとイイ女が抱ける”という証言があった。
――だが、それと西園寺俊介の失踪とはどう結びつくのかが分からない。
「他には何かないのか?」
蓼科が聴くと、若村は少し考えてから応えた。
「そういえば、俺、シェフには1度も会ったことないんですよ」
「どういうことだね?」
「まず厨房に鍵があって、その鍵は支配人しか持ってないんで、厨房に入ったことすらないんですよ」
「なるほど、それは怪しいな。でも今君は料理を運んできたじゃないか」
「はい。料理が出来ると控え室にあるランプが点灯するんで、厨房の前に行くんです。そうすると、完成したものがあの配膳台に乗った状態で置かれているんで、それを運ぶというわけです」
若村は自身がここまで運んできた配膳台を指さす。
「シェフについて霧島には何か聞かなかったのかね?」
「もちろん、聞きましたよ!さり気なく、可愛らしく、色っぽく“シェフってどんな方なんですか?”って」
「それで、霧島は何て答えたんだ?」
「“彼は人見知りで誰にも会いたがらないんだ”って言ってました」
「なるほど、それは気になるな……」
「そうなんすよ!料理作ってる現場を見せないってことは……この料理とか何入ってるか分かったもんじゃないっすよ!
これも鶏じゃなくて、人の肉だったりして……」
蓼科は思わず、今口に運ぼうとしていた若鶏を皿に戻す。
「いや、冗談ですよ!
うんなこと言ったら俺なんて毎日まかない食ってるんですから!
味的には少なくとも人の肉じゃないですよ」
若村は楽しそうに笑う。彼は時々こうして蓼科をからかう。
「いや、ていうか君……人の肉食べたことあるの?」
「あるわけないじゃないっすか!でも、きっと不味いでしょ?
此処の肉料理はマジ絶品ですから!」
蓼科は一抹の不安を抱きながらも、食事を再開する。
――確かに料理は絶品である。
「じゃあ俺そろそろ戻りますね」
「あぁ、長い間足止めして済まなかったね。支配人に怪しまれないかい?」
「あぁ、それは大丈夫ですよ。
“おしゃべり好きなお客様のお相手してました”とか言えば心配ないっす」
「分かった、じゃあまた連絡入れるからそのときは協力頼む」
「了解です!」
メイド姿の若村は野太い声でそう言って姿を消した。
[つづく]