6・マラクワヒー
――西暦2096年4月27日(金)AM7:50 西材木座駅前――
いつもの登校時間より早く神社を出た飛鳥と真桜は、駅前でさつきと待ち合わせをしていた。征司の停学が解け、今日から復学するからだ。
「今更だけど、直接あいつの家に行けばよかったんじゃ?」
「そうなんだけどさ、渡辺の家がどこか知ってる?」
「いえ」
「俺も知りません。さつきさんは?」
「あたしも知らないわ。先生に聞けば教えてくれたと思うけど、そうしたら当然、松浦先生の耳にも入るでしょ」
「ですよねぇ……」
渡辺家を訪ねなかった理由は至ってシンプルだった。家がどこかわからなければ、確かに訪ねようがない。そもそも教師であり分家でもある松浦家まで関わっているとなれば、いかに渡辺家が征司に手を焼いているといえ、いい顔はしない。さすがに連盟に叛旗を翻すような真似はしないだろうが、三上、立花両家との確執が起きる可能性は十分にある。それは遠くない将来において、必ず禍根となる。
「なんか後手に回ってる気がして仕方ないんですよね、俺は」
「気持ちはわかるけど、渡辺に肩入れしてたのが松浦先生だけじゃなかったんだから、下手したらこっちが危なかったわよ。教えてくれた連盟に感謝しないと」
「確かにそうですよね。聞いたときはまさかって思いましたもん」
「それはそうなんだが、俺としてはその時の親父の態度がムカついて仕方がない」
「またか。相変わらずの親子関係よね、あんた達も」
この一週間、連盟から何度か情報が届いた。予想外、想定外の事実も多く、その度に風紀委員会は生徒会長を交えて緊急会議を行ったものだ。だが飛鳥としては、情報を届けてもらう度に父に嫌味とも自慢ともつかぬ台詞を散々聞かされ続けた結果、かなりのストレスを抱え込むことになっていた。
「あ、来た!」
真桜が口を開いた。どうやら征司が駅から出てきたところのようだ。三人は頷くと、揃って歩き出した。
「渡辺君」
「三上か。何か用か?」
征司は飛鳥と真桜が刻印術師だということを知らない。そのためか、気安く話しかけるなという感情がありありと見てとれる。
「話があるんだけど。って言っても、私じゃなくてこっちの人が、だけどね」
だが真桜は、その程度のことを気にした様子はない。気にしても仕方がないし、するだけ無駄だと思っているのだろう。代わってさつきが前に出た。
「おはよう、渡辺」
「立花先輩?なぜ優秀な術師であるあなたが、こんな奴らと?」
入学後まもなくして謹慎処分を受けた征司を止めたのはさつきだった。その時にさつきは刻印具を使わずに刻印術を使っていた。それは自らが刻印術師だということを告白する行為だったが、それもやむを得なかったと、さつきは今も思っている。だからこそ征司もさつきがハイレベルの刻印術師だと認識し、最初の謹慎処分を甘んじて受け入れたし、今もある程度の敬意をもって接している。あくまでも、ある程度の。
「こんな場所で話すことじゃないから、風紀委員会室へ来てもらうわ。話はそれからよ。だけど一言だけ言っておくわ。あたしが誰と一緒にいようと、あんたには関係ないことよ」
征司は飛鳥と真桜だけではなく、さつきに対しても侮蔑混じりの笑みを浮かべると、黙って歩き始めた。
さつきは怒っていた。自分が見下されたことにではなく、弟、妹のように思っている飛鳥と真桜を、こんな奴ら呼ばわりされたことに対して。だがこんな公衆の面前で騒ぎを起こせば、二人にも迷惑をかけてしまう。さつきは務めて冷静に振る舞っていた。
正直ここまでとは思っていなかった、というのが飛鳥の正直な感想だ。傍から見れば、くだらない理由で柔道部を騒がせた問題も納得できる。同じクラスの真桜も、飛鳥と同じように思っていた。おそらく風紀委員会室ではまた問題を起こすだろう。三人には確信があった。
――AM8:06 明星高校 風紀委員会室――
それが正しかったことは、すぐに証明された。
「渡辺、あんたが停学中に連絡があったわ。次に問題を起こした場合、連盟が動くそうよ。あんただけじゃなく、松浦先生と教頭先生も含めてね」
さすがにこれは想定外だったのだろう。征司の顔が驚きに満ちていた。
「そんな馬鹿な……。松浦からも窪田からも、そんな話は聞いていないぞ」
「当たり前でしょ。学校を通さず、直接連盟に報告したんだから」
征司は驚いたまま、次の疑問を口にした。
「連盟がただの高校生の戯言に耳を貸すはずがない。いくら立花家の者であっても、宝具を生成できないような術師の言葉なら尚更だ」
駅前で征司がさつきに対しても見下したのはこれが理由だった。正規の手順を踏んでいれば、確かに連盟は動かなかっただろうし、それ以前に学校側に揉み消されていただろう。
「連盟のこと、甘く見過ぎなんじゃない?あんたが最初に問題を起こした時点で、既に動いていたみたいよ。そうでしょ、飛鳥、真桜?」
征司は飛鳥と真桜を交互に見渡した。そして何かに気付いたように口を開いた。
「三上……まさか、お前達は!」
「そうだよ。今の連盟代表は俺達の親父だ。ついでに言うなら、俺達も刻印術師だ。お前のような刻印術師優位論者とは決して相容れないな」
「そういうことか……。なら松浦と窪田も」
「教頭先生は連盟に出頭、松浦先生は自宅謹慎中だよ。あなたの犯罪行為を隠してたんだから、それも当然だけど」
征司が呼び捨てにしている教頭―窪田―は、飛鳥が父に報告をした次の日、連盟から出頭命令を受けた。理由は真桜が言った通りだ。松浦はまだ若く、窪田の指示に従っていたと証言したため、謹慎処分を言い渡されている。表向きは急病ということになっているが。
「松浦家だけじゃなく、まさか窪田家まで渡辺家の分家だったなんてね。さすがに知らなかったわよ。しかもあんた、教頭と親しかったらしいじゃない。そこで刻印術師優位論を吹き込まれたんでしょ」
「それのどこが悪い?戦争を終わらせたのは刻印術師だ!なら刻印術師が、国政や国防を担うのは当然じゃないか!今の政治家や軍人を見ろ!このままじゃまた戦争になっちまう!それを防ぐには、刻印術師が世界をまとめ上げる必要があるんだ!」
「くだらないな」
「本当にね。昔の独裁国家じゃあるまいし」
征司の主張は、飛鳥と真桜にとっては実に馬鹿馬鹿しいものだった。刻印術師優位論者とは、征司の言うように刻印術師が政治、経済、国防の中枢を担い、世界を導くべきだという過激論者達のことだ。
かつて日本では、いや、世界でも刻印術師が実権を握っていた時代がある。だがその時代が平和だったかというと、決してそうではなく、むしろ混乱、内乱、反乱、動乱、戦乱の繰り返しだった。優位論者達は自分達の都合のいいことのみを標榜し、事実には目を向けようとすらしない。そのために刻印術師優位論者は時にテロリスト扱いをされる。一般人、民間人を犠牲にすることをいとわないのだから、それも当然だろう。まさに征司が停学になった理由そのものだ。
「くだらないだと!?」
「お前、歴史を学んでないのかよ?鎌倉幕府も室町幕府も、結局最後は滅びただろうが。極端すぎるんだよ、優位論者の理屈は」
「別にあんたが優位論者でもいいけど、しばらくは大人しくしてた方がいいわよ。窪田先生も松浦先生もいないし、何より連盟が動いている以上、あんたは逐一監視されてるも同然よ。今度問題を起こしたら、退学どころか粛清でしょうね。それがどういう意味か、刻印術師ならわかるでしょ?」
「……」
征司は答えない。だがその顔には屈辱が刻み込まれていた。
「行くわよ、飛鳥、真桜。渡辺も早くしないと遅刻よ。戸締りはしなくてもいいから、さっさと教室に行くことね」
言うが早いか、三人は征司を風紀委員会室へ置き去りにし、その場を離れた。それを見届けた征司は、手にした携帯型刻印具の通話機能を起動させた。
「……でない。窪田も、松浦も……。本当に連盟が動いたのか……。なんで……なんでこんなタイミングで!!」
征司は刻印具を床に叩き付け、静かに叫んでいた。
――PM16:02 西材木座駅前 喫茶店リップル――
明星高校は材木座海岸に面している。ために新設されたJR湘南線西材木座駅を最寄り駅として建設され、インフラも整えられた。景観を損なうという理由から大きな開発には至らなかったが、観光地としても有名であるため、駅前にも様々な店舗が軒を連ねている。喫茶店リップルも、そんな場所に建てられたオープン・カフェだった。
放課後、飛鳥、真桜、大河、美花、さゆりの五人にさつきと恭子が合流した。別に何か問題が起きたというわけではない。一緒に帰ろうというだけの話であり、普通の高校生にとっては珍しくもない。だが新入生の中に風紀委員長と連絡委員長が混ざるという組み合わせは、一般的とは言い難いだろう。入学からまだ一ヶ月も経っていなければ尚更だ。
「それじゃさゆりさんも術師なのね」
「はい。宝具生成はできませんけど」
「宝具生成は三割ぐらいの術師しかできないって話だもんね。あたしもそうだし、これからもできないだろうなぁ」
「そういうものなの?」
刻印術師ではない恭子にとって、刻印宝具の重要性と希少性は知識として知ってはいるものの、感覚としては理解しにくいものだった。
「刻印宝具は、生まれ持った刻印からしか生成できませんからね。だから刻印術師として生まれた以上、刻印宝具を生成できる可能性はあるんですけど、生成は努力や才能だけでできるものじゃないんですよ」
飛鳥の説明通り、刻印宝具は刻印術師が生まれ持った刻印からのみ生成可能であり、後天的に刻み込んだ刻印から生成することは不可能だ。それは戦時中の人体実験でも確認されている。非公式かつ非公開とはいえ、比較的有名な話ゆえに、誰が知っていても不思議はない。
「そうなのか?それは初耳だな」
だから大河がそう答えたのは、飛鳥の説明の後半に対してだった。
「なんて言えばいいのかしら。同調?」
さつきにも言葉では説明しにくいが、あえて言うならやはり同調という言葉がぴったりだろう。
「同調?どういうこと?」
「刻印術って刻印と印子の同調で発動するでしょ。宝具生成もそれは同じなんだけど、生まれ持った刻印って、なんでかわからないけど同調しにくいらしいの」
「刻印神器に関係してるって説もあるわね。あれって意思を持ってるって言われてるから、生来の刻印にもそういう意思みたいなものがあるんじゃないかって」
さゆりの疑問に、真桜とさつきが答えた。連盟の代表である飛鳥と真桜の父が生成者だということは周知の事実だから、飛鳥と真桜、幼馴染のさつきが知っていても不思議ではない。
「だから生成者って少ないのね。それじゃ宝具生成ができた渡辺君が増長するのも、仕方ないことってワケか」
「だからって何をしてもいいわけじゃないですけどね」
恭子にはまだよくわからないが、飛鳥の言うとおり、何をしてもいいわけではない。
「むしろ宝具生成できる人ほど、周囲に気を遣ってもらわないと。だから連盟が動くようなことになるわけだし」
「でもそれで渡辺君も大人しくなったんですよね?なら、ひとまずは安心なんじゃないんですか?」
さつきの一言に不安を感じた美花が質問をした。隣のクラスとはいえ、同学年に刻印宝具を悪用するような術師がいるということが信じられない、という表情だ。
「美花が不安になるのも当然か。あたしも飛鳥も、あいつが大人しくなったのは一時的なものだって思ってるわ」
「いくら刻印宝具の生成ができるからって、そいつぁ無謀ってもんじゃないスか?」
「そうよね。連盟に逆らうなんて、全国の刻印術師を敵に回すようなものだし」
大河とさゆりが、さつきの結論に反論を加えた。だがそれを否定したのは飛鳥だった。
「今朝のあいつの様子じゃ、あいつは宝具生成ができない刻印術師も見下している。そんな奴が“ただの刻印術師”の俺達に恥をかかされて、黙ってると思うか?」
飛鳥の考えは、大河にもよくわかった。
「そういうことね。確かに刻印宝具は強力だけど、刻印具で対抗できないわけじゃない。それに誤った使い方をすれば身を滅ぼすっていう前例がいくつもある。だけど刻印術師優位論者は、その点を見て見ぬふりをしている」
「え?なんでなんですか?」
「刻印具で対処されるような生成者は未熟者、身を滅ぼした過去の生成者は欲に負けて身を滅ぼした、っていう根拠のない理屈を信じてるからよ。つまり連盟と優位論者は、根本から考えが違うの」
「確かに根拠ねえな、それ」
優位論者に思想はない。しいて言えば、力こそ正義だろう。だがそれは、共存共栄を掲げた連盟の思想とは真逆だ。
「多分だけど優位論者にはスポンサーがいると思う。渡辺君や教頭先生、松浦先生もそのスポンサーの意向を無視できないんじゃないかって思うな」
「それって要するに、黒幕ってことだろ。スポンサーなんてオブラートに包んだ言い方しなくても大問題だって、俺でもわかるぞ」
「待ってよ!それってもしかして!」
さゆりの顔色が変わった。思い当たることがある、と言うより大河と美花が連盟謹製の刻印具を受け取ったあの日、連盟代表の手紙に記されていた一言が脳裏をよぎったのだろう。
「一ノ瀬さん、何か知ってるの?」
さゆりの様子が変わったことに驚いた恭子が聞き返すが、答えたのはさゆりではなく飛鳥だった。
「多分、黒幕はマラクワヒー。アラビア語で“天使の神託”という意味を持つ、中華系のテロ組織です」
「嘘……。あれって去年、壊滅したんじゃなかったの?」
恭子の顔色も青くなった。去年、近隣の中学校がマラクワヒーの人質になった。連盟の術師と警察の手によって無事に解放されたが、噂ではかなり危険な状況だったらしい。そこから入手した情報を基に、連盟はマラクワヒーの本拠地を突き止め、即座に高位の術師を送り込み、その結果マラクワヒーは壊滅した。それが恭子が知っていることだった。
長らく日本を騒がせていたテロ組織壊滅の報は、連日トップニュースで報道されていたし、特番さえ組まれていた。だから恭子の疑問も当然のものだ。
「残党が潜んでいるらしいんです。それにマラクワヒーはあくまでも実行部隊で、諜報組織か上位組織が存在するだろうとも言われています。ですから連盟もずっと、動向を追っていたそうです」
飛鳥の説明を真桜が捕捉する。つまり連盟は征司、松浦、窪田、そして刻印術師優位論者達を最初から疑っていたということだ。ようやく事情を呑み込めた恭子の目には、恐怖の色が浮かんでいた。