7・母襲来
――西暦2097年2月6日(水)放課後 明星高校 風紀委員会室――
「うおおおおっしゃああああああっ!」
「な、何事ですか、いったい!?」
委員会室に入るなり響いた武の雄叫びに、飛鳥が近くにいたまどかに問い質した。
「酒井君、追試をクリアしたのよ。本当にかろうじて、っていう言葉がピッタリだったけどね」
「ってことは俺達の同級生にはならないってことですか」
「でもかろうじてって、そんなにギリギリだったんですか?」
「ギリギリね。今回は珍しく、他の追試対象者も高い点数じゃなかったから、学年末より平均点が下がってたのも大きかったみたいよ」
「それ、普通ならアウトなんじゃ……」
「よくそれで進級できましたね……」
「結果が全てだ!ギリギリだろうと平均が下がってようと、進級できればそれでいい!」
ある意味間違ってはいない。どんな経緯があろうと、武が無事に進級できる事実は変わらないのだから、今はそれでいいだろう。
「そんなに私達と同級生になるのがイヤなんですか?」
真桜も留年は嫌だが、そこまで必死になるものか疑問がある。だからあえて聞いてみた。
「当たり前だ!余分にトラウマを負わされるなんざ、耐えられるわけねえだろ!」
「それじゃあ私達はどうなるんですか?佐倉君と美花は慣れてるからいいとしても、私とさゆりは卒業までずっとなんですよ?」
「そうですよ。入学してから今まで、どれだけのトラウマを負わされたと思ってるんですか」
武の答えはある意味で当然だった。だが同級生のさゆりと久美はそうはいかない。特にさゆりは自分でも言うように、春から幾度となく常識を覆され、トラウマを植え付けられていた。一生消えないだろうことは既に確定している。
「そんなにだったっけかなぁ?」
当の飛鳥は、唸りながら思い返しているようだ。だが心当たりが多過ぎて見当がつかない。
「そんなにだろうが。俺達だって一生もののトラウマを植え付けられてるんだからな。特にあの時は……」
「私、まだ夢に見るわよ……」
「俺もだ……。事情も理由もよくわかるけど、あれはキツかった……」
あの日、勇輝が死んだ時、タイミングを見計らったかのように現れた刻印銃装大隊――過激派はあまりにも飛鳥達の逆鱗に触れすぎた。どんなに少なく見積もっても五十人はいた銃装大隊は、飛鳥、真桜、雅人、さつきの前にわずか数分で、死体どころか痕跡すら残さず壊滅していたのだから、トラウマにもなるというものだ。飛鳥のネプチューンが解除された時の衝撃は忘れられない。
「あ~……」
「あの時はホント、すいませんでした……」
「な、何があったんだよ、いったい……」
「聞くと後悔するぞ。色んな意味で……」
「……そんなにだったんですか?」
夏休み中の出来事だったため、良平、望、久美は何があったのか、勇輝のことも含めて知らない。だが誰も、特に1年生にとってはあまり思い出したくないことだ。
「そんなにだったな。だけどこの話はここまでにしよう。色んな意味で思い出したくないからな」
「そうしてくれると助かります。俺達もまだ、気持ちの整理ができてませんから」
「そう、ですね……」
だから遥が話を打ち切った。それでも1年生、特に真桜と美花のショックは大きい。あれからもう半年なのか、まだ半年なのかは判断が難しいが、飛鳥の言うように簡単に気持ちの整理ができる問題でもない。遥の気遣いは飛鳥達にとってもありがたいものだった。
「でも酒井先輩、委員長や戸波先輩にあれだけ教えてもらってたのに、それでもギリギリってヤバいでしょ」
「そうよね。来年は本当に落とされますよ?」
だからそれに乗っかるように、矛先を武に向けた。本当に源神社で行われた武の追試対策で、2年生がほとんど総掛りで武に知識を詰め込んでいた。今回は乗り切ったとはいえ、次がどうなるかはかなり危険だと言わざるを得ないだろう。それほど武の追試結果は危なかった。
「黙れ後輩。その時のことはその時になったら考える」
「刹那的な生き方してますね……」
さゆりの呟きにも呆れが混じっている。
「ところで委員長。宝具を生成して、何をしてるんですか?」
だが武が留年しようと、それは自己責任、自業自得なのだから、あまり気にする問題でもない。久美は雪乃がワイズ・オペレーターを生成していることが気になっていた。
「ちょっとS級術式の実験をね」
「え?もう完成したんですか?」
さゆりも興味津々だ。
「さすがにまだ完成してないわよ。だけど制御はできてきてるし、広い所でも試してみないとどうにもならないから」
「でもそれってすごくないですか?確かS級開発って、平均しても三ヶ月ぐらいはかかるって話ですよね?」
久美の言う通り、S級開発は術式の構想、概要、相克関係、バランスなど、様々な問題をクリアしなければならない。そのために生成者は、多大な努力を怠っていない。生成者の優位性を説く刻印術師優位論者でさえ、この点だけは異論がない。S級術式の開発は、それほどの難題となっている。
「早い人は数日で完成させるよ。実践する場所があまりない、っていう理由が一番大きいからな」
「そういやそうだな。この辺りじゃ鶴岡八幡宮ぐらいか」
「そうですね。ほとんどの人は許諾試験が受けられる神社でやってるみたいですよ」
いくら理論や理屈が正しくても、実際に使用できなければ意味はない。そのためには実際に使ってみるしかないわけだが、開発中の術式は生成者であっても命の危険にさらされることがあるため、場所を選ぶ。だがそんな都合のいい場所などほとんどない。多くの生成者は術式許諾試験を行う神社の施設を借りているが、一日に利用できる時間は短い。そのためにどうしても時間が掛かってしまう。
「でも源神社は別。飛鳥君と真桜ちゃんだけじゃなく、さつき先輩や雅人先輩にもアドバイスをもらえたから、思ってたよりも早く外で使えそうなの」
雪乃が源神社を選んだ理由は、高位の生成者が四人もいること、施設がしっかりしていること、時間を気にしなくてもいいことの三点だった。時間制限がなければ、それだけ開発期間は短縮される。施設もA級術式の多重結界にすら耐えうる強度を持つ。そして融合型と複数属性特化型という、この国でも高位かつ希少な人達からアドバイスを貰える。これ以上の条件はない。多くの生成者が羨むような環境で開発に臨める以上、たった数日で施設外で実験ができるようになっても不思議ではない。
「ああ、なるほどな。あそこの鍛錬場は半端じゃなかったもんな」
「それで委員長。どんな感じですか?」
「探索系は俯瞰、追尾、監視をそれぞれモニターで確認できるから大変だけど、予想より使える感じね。多分だけど防御系も大丈夫だと思うわ」
「それじゃ試してみますか?」
「お願いできる?」
「わかりました」
そう言うと飛鳥はリボルビング・エッジを、真桜はブレイズ・フェザーを生成した。
「おいおい、こんなとこで無茶しないでくれよ」
遥かの心配も当然のことだ。雪乃の宝具こそ設置型だが、飛鳥と真桜が生成した宝具は武装型だ。滅多なことなど起きないと思いつつも、心配してしまう。
「大丈夫ですよ。あくまでも念のためなんですから」
「雪乃先輩、いつでもいいですよ」
「わかったわ」
そう言うと雪乃は、飛鳥と真桜を対象に水の幕を展開させた。それだけではなく、飛鳥と真桜が歩くと、水の幕も合わせて移動している。
「おお、すげえな、これ。大丈夫なのか?」
「試しに火属性術式を使ってみて下さい。できればC級辺りで」
「なら俺がやってやるぜ。怪我しても文句言うなよ!」
言うが早いか、武がクリムゾン・バレットを発動させたが水の幕によって、完全に防がれた。水は火を消す、という相克関係上、これは当然のことだ。武もそれを承知の上で発動させたのだから、落ち込むようなことはない。
「大丈夫みたいですね。それじゃ次は土かな」
「え?それって相克関係があるから厳しいんじゃないの?」
久美の疑問は当然だった。土は水を堰き止める、という相克関係があるため、開発中のS級術式では防ぎきれない可能性がある。術師の力量差が大きければ覆すことは可能だが、少し程度の力量差では、覆すことなどできない。
「普通ならね。でも雪乃先輩、すごい特性持ってたのよ」
だが真桜は、そんな心配はしていない。先日雪乃が泊まり込んだ際、雪乃自身も気付いていなかった特性が明らかになったのだから、それも当然だろう。
「真桜ちゃんほどじゃないと思うけど……」
「いやいや、あれはすごいですよ。使いこなせれば術式の幅が確実に広がりますから」
雪乃は謙遜しているが、彼女の性格からすれば、これはいつものことだ。だが飛鳥も本当にすごいと感じたし、術式の常識を覆すだろうとも思っている。それほどの特性だった。
「そんなになのかよ」
「興味あるわね。それじゃ私がやってみます」
そう言うとさゆりは、土性C級攻撃術式ストーン・バレットを発動させた。だが石の弾丸は、武のクリムゾン・バレット同様、水の幕に飲み込まれて消滅した。
「うわ……相克関係を超えちゃってるのか。ちょっとショックかも」
「違う違う。これが委員長の特性なんだよ」
「どういうことだ?」
「雪乃先輩、相克関係を反転させることができるんですよ。だからさゆりのストーン・バレットは、相克関係で防がれたってことになるの」
「相克関係の反転!?」
「すげえじゃねえか、それ!」
属性相克の反転。“水は火を消し、火は風に煽られ、風は土を変質させ、土は水を堰き止める”という相克関係を“火が水を消失させ、水は土を押し流し、土は風を防ぎ、風は火を鎮める”という通常の相克関係とは真逆のものにすることが、雪乃の特性だった。雪乃以外にもこの特性を持つ術師は存在するが、やはり少数だ。そのために逆転関係はあまり知られていない。
「そうかな?でも問題もあるのよ」
「問題って?」
「相克関係を反転させれば土属性をほとんどシャットアウトできるけど、その状態じゃ火属性に弱くなるの。今は事前に準備ができたから強度もそれなりのものにできたけど、実際はそんな暇ないでしょ?」
雪乃の懸念はまさにそれだった。雪乃自身は水属性に適性を持ち、ワイズ・オペレーターも水属性の刻印宝具に分類される。相克関係は刻印術の基本中の基本のため、雪乃と相対すれば、ほとんどの術師は土属性の術式を発動させる。だが火属性術式を使わない術師がいないかと言われると、そうは言い切れない。どの属性にも言えることだが、必ず相克関係を無効化する術式が存在するからだ。
「ああ、なるほどね。でもそれって、慣れればいいだけの話じゃないの?」
「そうですね。ワイズ・オペレーターの処理能力なら、対象を絞って反転させることもできると思います」
相克関係を無効化する術式であっても、完全に無効化するためには習熟していなければ難しい。それはどの術式でも同じだが、術師の印子と刻印具の処理能力にも左右される場合もある。設置型刻印宝具であるワイズ・オペレーターは、その処理能力に特化しているため、術式が完成し、習熟すれば、真桜の言う通り、対象ごとに相克反転を設定することも可能だろう。
「そうなればいいけど……」
それは雪乃も理想としているが、予想以上に大変な作業に、少し弱気になっているようだ。だが自分だけでは決して、こんな短時間でここまで術式を組み上げることは出来なかったことも理解している。雪乃は理想を体現するため、人知れず誓いを立てていた。
「邪魔するぜ」
「よう、久しぶり」
突然風紀委員会室の扉が開いた。表れたのは志藤、安西、聖美の3年生刻印術師だった。
「聖美先輩!志藤先輩も、安西先輩も!どうされたんですか?」
「三条が宝具生成したって聞いてな。って既に生成済みかよ」
刻印宝具の生成は刻印術師にとって一大事だ。先を越された悔しさは確かにある。だがそれ以上に興味がある。だから術師の三人は、受験勉強で忙しい中、時間を合わせて雪乃に会いに来ていた。もっとも、生成済みで出迎えられるとは思っていなかったが。
「またすごい形状だな。でも何で生成してるんだ?」
刻印宝具は武装型、ついで携帯型と装飾型が多く、消費型と設置型は少ない。三人が初めて見るのも当然の話だ。
「ちょっと実験してたんですよ」
「実験?ああ、S級か」
「それもありますけど、雪乃の特性を見せてもらってたんです」
「雪乃の特性?あなた、特性あったの?」
「はい。偶然知ったんですけど、ちょっとビックリしました」
「それも興味あるな。しかし面白いな。設置型なのか?」
先輩方も興味津々だ。飛鳥、真桜、さつきの宝具も、融合型を含めて見せてもらったことがあるが、全て戦闘用の宝具だ。そのため雪乃の非戦闘用宝具は新鮮であり、かなり興味深いものだった。
「はい。あっ!」
だが雪乃は、S級探索系術式の実験中だ。実験とはいえ、雪乃は自分の役目を忘れていない。同時に校内を監視するつもりだったのだから、最初に雪乃が異常に気が付くのも、それは当然のことだ。
「どうしたんですか?」
「あれって教頭先生?一緒にいる人って、どこかで見たような気がするけど……誰?」
「教頭って西谷か?」
「はい。左のモニターに出します」
そう言うと雪乃は、宙に浮かぶ一番左のモニターに、探索術式で確認した映像を投影した。
「そんなことまでできんのか。すげえな」
「確かにあれは西谷教頭ね。一緒にいるのは……嘘でしょ!?」
「あいつは……まさか!」
だが西谷と共にいる人物を確認した瞬間、飛鳥と真桜、そして3年生に戦慄が走った。
「知ってるんスか?」
「宮部敏文……。なんであいつが……」
呻くように答えたのは飛鳥だった。
「宮部?誰だ、そいつ?」
「刻印銃装大隊の隊長です……!」
2年生は知らなかったようだが、宮部はあまり表に出て来ないため、不思議なことではない。名を知られることの危険さをよく知っていることもあるが、宮部は南に心酔している。刻印術師の優位性を唱え、軍事政権樹立を目指し、新たな日本を導くのは南以外にはいないと考えている。そのために宮部は、裏から南を支えてきた。南同様、うかつな行動に出ることができない相手の一人と、連盟も認識していた。連盟が飛鳥と真桜の存在を秘匿していたように、過激派も宮部の存在を隠蔽してきた。稀に表舞台に顔を見せざるを得ない場面もあったため、完全にというわけではないが、それでも世間にはほとんど名を知られていなかった。
「銃装大隊って、過激派かよ!なんでそんな奴が西谷と!?」
「西谷は南徳光の連盟時代の部下だったからな。その関係で今も繋がりがあるんだろう」
「そ、そうだったんですか!?それってちょっとヤバくない?」
まどかだけではなく、2年生全員の顔色が変わった。大河、美花、さゆり、久美もだ。前教頭の窪田が刻印術師優位論者であり、マラクワヒーと内通していたことから、後任である西谷は、教育委員会どころか文部科学省からも詳細に身元を調査されていた。
「ああ……。あいつ、何度かここに来てたからな。そん時にヤバめの話もしてたから、もしかしたら漏れてるかもしれねえ……」
教頭が風紀委員会室に来ても不思議なことはない。生徒達の活動を視察するためと言われれば、断ることなどできないし、その理由もない。校長も来たことがある。だから誰も不審に思わなかった。事実、最悪の事態を想定したのは、口にした昌幸だけではなかった。
「え?来てたんですか?」
「飛鳥と真桜ちゃんがいない時を狙ったかのように来てたからな。知らなくても無理はないが……迂闊だった……!」
だが飛鳥も真桜も、教頭とは会っていない。二人は西谷が南の部下だったことを知っていたが、それは西谷も承知だったはずだ。だからこそ二人を避けていたのだろうことは、容易に予想できる。
「いや、知ってて教えなかった俺達にも責任がある」
3年生が西谷の存在を知ったのは九月だった。風紀委員会に推薦された北川、足立という刻印術師優位論者に不審を抱いたさつきが雅人に依頼し、背後を調査した結果、浮かび上がってきたのが西谷だった。そしてさつきに協力し、二人を見せしめとすることで、後輩達を守ろうとした。だがその西谷が、こんなところで宮部という影の大物と繋がっていたとは思わなかった。志藤が自分達の責任だと考えることもある意味では当然だろう。
「二人がいない時に来てたとすれば……」
「安西先輩?どうかしたんですか?」
安西がモール・アイを発動させた。
モール・アイは探索系最上位に位置づけられている術式だが、土を媒介にした視覚情報を得ることができるというだけで最上位に位置づけられているわけではない。モール・アイはモグラの目という意味だが、モグラはほとんど視力がない。トンネルを掘りその中で生活しているが、そのトンネルはエサを感知、採取するための罠でもある。モール・アイと名付けられた理由は、モグラのように土属性の物質内から情報を感知するという特徴からで、視覚情報も多いため、目が退化しているモグラの目、という術式名をあえてつけられた。だがトンネルが住処であり、感知するための罠でもあるならば、視覚情報を得るだけの術式にそんな名称をつけることはない。モール・アイはトンネルを印子、エサを対象に見立てているが、そのトンネル内に何かが侵入すれば、モグラは必ず気付く。モール・アイも同様で、印子というトンネル内に不審な刻印というエサがあれば、それに気付くことができる。
安西は委員会室にモール・アイを発動させたことはない。必要がなかったからだ。だが今は事情が違う。だから躊躇わず、発動させた。それが正しかったことも、すぐに証明された。
「やっぱりだ。これを見ろ」
「これって……刻印?」
「そうだ。多分、土性C級探索系刻印術式リンクス・マインドだろうな。俺達は西谷のことを知ってるから、多分今年に入ってからしかけたんじゃないか?」
リンクス・マインドはモール・アイと同じ土性の探索術式だが、リンクス・マインドは探索系刻印術式に分類されている。刻印術式は設置術式とも呼ばれ、術式を指定した対象に固定させることで、任意で発動させることができる術式のことを指す。刻印術式はおそらく、一番メジャーな分類だろう。劇場や競技場、学校でも使われているし、最近では鍵の代わりにしている家もある。それだけ多くの人が日常的に使っている術式でもあるため、刻印術の代名詞と断言する有識者も多数存在する。
だがこの場に設置されていたリンクス・マインドは、そんなまっとうな理由で設置されていたわけでは、断じてない。視覚と聴覚情報を同時に得ることができる術式だが、リンクスという名に反して設置することでしか効果を得ることができない。そんな術式が委員会室の隅に、しかも気付かれないように設置されていた理由など、一つしかない。
「盗聴……。マズいわ……!」
「飛鳥君、真桜ちゃん。あなた達がいるときは、サウンド・サイレントぐらいは使ってたんでしょ?」
「はい。ですがこんなところにリンクス・マインドがあったなんて……」
飛鳥も真桜も、自分達が融合型刻印宝具の生成者だということをあまり知られたくない。人は善意だけで接触してくるわけではない。明確な悪意を、しかも気付かれないよう仮面を被って接触してくるタチの悪い人間も存在する。面倒事に巻き込まれるのが自分達だけならまだいい。だが多くの場合、周囲の人達までも容易に巻き込む。飛鳥も真桜も、大河と美花が人質になったこと、そして勇輝が死んだことによって、それを嫌というほど理解している。だからサウンド・サイレントを使ったことは、半ば反射的な行動だった。
だがリンクス・マインドが設置されていた場所と二人のサウンド・サイレントの範囲が重なっていたかと言えば、かなり微妙だ。そもそも盗聴など、想定すらしていなかった。
「色んな意味でヤバいな。拘束しといたほうがいいんじゃないか?」
これには志藤も眉をひそめた。二人の対応がマズかったからではない。西谷という優位論者の配下が校内で自由に動き回っていたことが問題だったからだ。
「そうしたいところですが、今の情勢下でうかつな真似は……」
飛鳥だけではなく、この場の誰もが既に西谷を教師だとは思っていない。刻印術師優位論者、それも過激派の配下だったなど、マラクワヒーと繋がっていた窪田と松浦以上にタチが悪い。
「盗聴は犯罪ですけど、それが教頭のものだっていう証拠はありませんから……」
さゆりの言う通り、盗聴は犯罪だ。だが西谷の仕業だという証拠もない。確信はあるが、それだけでは何の証拠にもならない。術式の使用者を特定するなど、探索系に高い適性がなければ不可能であり、さらには専用の刻印具まで必要となっている。そのため個人で逆探知のような真似をすることは不可能とされている。
「それがわかればいいんでしょ?」
「え?」
だから声の主の存在は、飛鳥にとっても真桜にとっても、この場の誰にとっても予想外、想定外だった。
「か、母さん!?なんでここに!?」
飛鳥と真桜が驚くのは当然だが、この場の誰もが目を丸くしていた。飛鳥の一言が信じられなかったのだから、それも当然だ。
「もちろんお仕事よ。ありがとう、さつきちゃん。案内してくれて」
「これぐらいは別にいいんですけど、いったい何の仕事で来られたんですか?」
案内してきたのはさつきだった。だがさつきも、何の前触れもなくやってきた来訪者に戸惑っている。
「もちろん、過激派の尻尾を掴むためよ。あ、どうも初めまして。飛鳥と真桜の母、菜穂です。いつも二人がお世話になってます」
「い、いえ!こちらこそ!」
「二人にはいつも助けてもらってばかりですから!」
まさかこんな所に連盟代表夫人が現れるとは微塵も思わなかった。全員が緊張している。
「大河君、美花ちゃん、久しぶりね。元気だった?」
「おかげさまで」
「小母さんもお元気そうで何よりです」
大河と美花は、当然だが面識がある。連盟代表夫人としての菜穂より、親友の母としての菜穂を中学時代から見てきたのだから、今更緊張などはしない。菜穂もそれを望んでいるようだ。笑みを返すと、室内に目を向けた。
「あら?それって設置型の刻印宝具?珍しいわね。しかもまだ高校生なのに、すごいじゃない」
そんな風紀委員達を微笑ましげに見つめる菜穂だが、宝具を生成したことすら忘れていた雪乃の姿が目にとまった。菜穂にとっても、設置型刻印宝具は珍しいものだ。
「……お母さん、それは後にしてくれる?」
「いいじゃない、別に」
「後にしてって言ってるでしょ!何の用なのよ!」
いきなり姿を現した母が相手でも、真桜は一歩も引かない。引く理由もないし、何より今はそれどころではない。思わせぶりなセリフは何だったのか、問い詰めたくて仕方がない。
「怒らなくてもいいじゃない。飛鳥。あなたはさつきちゃんと一緒に、あの二人を取り押さえに行ってくれる?」
「それはいいけど、証拠は?」
娘の元気な姿(?)を見て満足した菜穂は、飛鳥とさつきに指示を出した。だが飛鳥の言う通り、証拠もなしに取り押さえることなどできるはずがない。
「そこの彼が見つけてくれたじゃない」
「お、俺ですか?」
菜穂の視線の先にいたのは安西だ。同時に飛鳥は、菜穂の特性を思い出した。
「ああ、なるほど。それじゃ任せた」
納得した飛鳥は、さつきと共に委員会室を出て行った。
「あの……お言葉ですけど、俺が見つけたのは刻印だけです。これが西谷の仕掛けたものだとは……」
だが安西は納得できない。確かにリンクス・マインドを見つけたのは自分だ。しかし仕掛けたのが西谷だという証拠は何もない。時間をかければわかるかもしれないが、それでも専用の刻印具がなければ証拠とは認められない。
「それをこれから確かめるのよ」
「雪乃先輩。飛鳥とさつきさんが二人に近づいたら教えてもらえますか?」
「え?ええ。モニターに出しておくわ」
雪乃もわけがわからないという顔をしている。確かめると言っても、専用の刻印具を持っている気配はない。それどころか何も持っていない。だが真桜の表情を見る限りでは、何かあるのだろう。
「あら。探索系で得た視覚情報をそのモニターに投影できるの?すごいわね」
「い、いえ……そんなことは……」
「謙遜しなくてもいいじゃない。探索系を刻印具に投影する技術はまだ確立されてないんだから、あなたのその宝具、すごく価値があるわよ」
探索系は基本的に本人しか知覚することができない。音声を出力する術式ならば、レコーダーに録音することはできるが、せいぜいその程度だ。そのために無人哨戒機は戦後五十年経った今でも現役であり、新型機も開発されている。軍用だけではなく、監視用としても有用であるため、刻印具のメーカーは探索系術式を投影する技術の開発に思考錯誤しているが、未だ実用化の目処は立っていない。だからそれを実現している雪乃の宝具は、ある意味では融合型刻印宝具よりも価値があると言える。
「お母さん、飛鳥もさつきさんも、準備いいみたいだよ」
飛鳥とさつきは予想より早く準備を整えたようだ。だが早いに越したことはない。
「オッケー。それじゃその刻印、貸してもらえる?」
「はい」
安西から刻印を受け取った菜穂は、刻印宝具“カーム・スフィア”を生成した。だがイヤリング状の宝具は、菜穂の長い髪に隠れて目立たない。事実、この場でも真桜以外の誰も気付かなかった。
「……リンクス・マインドか。しかもこれ、ライセンスがないわね。どこで手に入れたのかしら」
「ライセンスがないって、不正術式ってことですか!?」
さすがに教頭ともあろう者が、不正術式を使っているとは思わなかった。だがこれはまだ序の口だった。
「ええ。それじゃ行くわよ」
「な、何だ……今の……」
「刻印が……消えた?」
菜穂が受け取った刻印に印子を集中させると、刻印が光と共にゆっくりと消滅して行くように見えた。
「違うわ!印子が逆流してるのよ!でも、そんなことができるなんて……」
だがワイズ・オペレーターを生成していた雪乃だけは、菜穂のやっていることを正確に理解することができた。理解することができても、納得することは簡単ではなかったが。
「印子の逆流って……どういうことなんだよ?」
「お母さんの特性なんです。遠隔術式反射。術式を反射させることで、術師を特定することができるんです」
投下されたのは真桜の爆弾発言。遠隔術式とは対象と直接接触しなければ効果を発動しない術式以外を指し、ほとんどの系統に存在する。直接接触という性質上、弾丸や投擲状の刻印具、刻印宝具による術式発動は近接術式に分類されている。例外として広域系は遠隔術式には含まれない。
風紀委員会室に設置されたリンクス・マインドは、目立たないよう偽装が施されていた。と言っても物理的に傷をつけられていただけだが、その程度で刻印術が使えなくなることはない。
「はいいいっ!?」
「んな特性、ありなのかよ!?」
この場の全員が、真桜の特性を知っている。飛鳥とさつきに特性がないことも知っている。雪乃の特性はさっき聞いたばかりだが、皆無というわけではない。それより刻印宝具を生成できたことの方が驚きだ。
だが菜穂の特性は常軌を逸している。遠隔術式を反射させるなど、聞いたことも考えたこともない。どう考えても、普通ではない。普段娘には驚かされてばかりだが、母も負けず劣らずだ。
「言いたいことはわかりますけど、それは後で。お母さん、どう?」
真桜も気持ちはよくわかる。だが今優先すべきは証拠の確保だ。菜穂が鎌倉に帰って来た理由は他にもあるだろうが、この機会を逃す理由もない。
「ビンゴね。飛鳥とさつきちゃんに許可を出します。宮部と西谷の身柄拘束、もしくは粛清。真桜、お父さんに連絡して。証拠はおさえたって」
「わかった」
刻印は西谷に戻っていた。だが西谷は気付いていない。リンクス・マインドは術師が任意のタイミングで発動させることができるため、発動していない状態で本人に返せばいいだけのことだ。菜穂は飛鳥とさつきに指示を与えた。
「えっと、奥様。これ、お役に立つでしょうか?」
雪乃はかなり緊張していた。かなり勇気を振り絞ったつもりだ。ワイズ・オペレーターに接続させていた刻印具を手に取り、それを菜穂に手渡した。
「刻印具?これがどうかしたの?」
「ワイズ・オペレーターは刻印具を接続することもできるんです。私はまだS級術式の開発中でしたから、今日の様子を記録して、あとで確認しようと思ってたんですけど……」
「え?探索系の投影だけじゃなく、記録もできるの?すごいわ、あなた!お手柄よ!」
菜穂は雪乃の予想外の行動に、抱き付いていた。映像に残る記録は、証拠としての価値も高い。そんなことができる刻印具はまだ開発されていないが、刻印宝具ならばできてもおかしなことではない。だから菜穂は、心から雪乃に感心していた。
「え?え?」
いきなり抱き付かれた雪乃は、目を白黒させながら菜穂を見つめていた。




