6・夏越祭
――西暦2096年8月2日(木)PM14:47 源神社 母屋 居間――
さゆりの実家である一ノ瀬神社で一泊した飛鳥達は、リニア・トレインで鎌倉へ帰ってきた。
研究、開発や計画は戦前からあったものの、第三次世界大戦という十年以上にも及ぶ戦争のため、中断されてしまっていた。たが戦後になり、再び開発が推し進められ、終戦後二十年足らずで開通、開業したのがリニア・トレインである。
初期型こそ刻印具を用いていなかったが、刻印具の開発に伴い導入された結果、既存の路線のレールを、刻印具を組み込んだレールに変更することで対応が可能となっていた。現在、東京―大阪間はリニア・トレイン用に開発、建設された新線と、新幹線が使用していた路線の二つのルートで運行されている。
本来ならば昨日の内に帰る予定だったのだが、さゆりの誘いもあったし、何より夏休みということもあり、一日ぐらいはいいだろうと思っていたのだ。
だから源神社に到着した時、飛鳥も真桜も激しく後悔せざるをえなかった。
「遅かったわね、飛鳥、真桜」
「か、母さん!?」
「な、なんでここにいるの!?連盟はどうしたの!?」
「に、兄さん!?いったい何があったのよ!」
畳が敷き詰められた床にはさつきの兄、勇輝が突っ伏していた。そんな勇輝の隣に、真桜の母にして飛鳥の義母、三上 菜穂その人が座っている。
「まったく、連絡もせずに外泊するなんて、いつからそんな悪い子になったのかしら?勇輝君、大変だったのよ?」
大袈裟に溜息を吐いて見せた菜穂だが、勇輝が大変だったのは別の理由だろう。それだけは確信を持って断言できる。
「悪い子って何よ!それに勇輝さんにはちゃんと、昨夜は友達の実家にお世話になるって伝えてあるよ!」
「母さんこそ、なんでここにいるんだよ?親父と一緒に連盟にいるはずだろ?」
「せっかくあなた達を喜ばせようと思って、久しぶりにお母さんが手料理を用意したのに、帰って来ないって言うからじゃない。残すのももったいないからって、勇輝君が全部食べてくれたのよ?」
瞬時に全員が、全てを理解した。菜穂が何をしようとしたのかも、勇輝が何故突っ伏しているのかも。
「嫌がらせしに帰って来たってのかよ……」
「お母さん……あれほど料理するなって言ったのに……」
飛鳥は頭を抱え、真桜に至っては泣きそうな顔をしている。
「そこまで言わなくてもいいじゃない。あれから上達したし、勇輝君だって美味しい美味しいって言いながら食べてくれたのよ?」
この様を見て信じろと言われても、それは無理というものだ。
真桜はかなり早くから料理を始めた。家族や友人、特に飛鳥が喜んでくれることが嬉しくて、今では真桜の趣味となっている。だが元を辿れば、菜穂の料理があまりにもひどかったからだ。
「ならなんで、勇輝さんが白目剥いて気絶してるんだよ……。しかもこのスープ、真っ赤じゃないか。何をどうすればこんな色になるんだよ……」
飛鳥も呆れ果てている。菜穂の料理を食べたことがある身としては、勇輝に心の底から同情と謝罪をするしかない。お土産に買ってきた京都と滋賀の銘酒、八つ橋、近江牛の燻製だけでは足りないだろうが。
「トマトとリンゴと、それから赤唐辛子とタバスコと鷹の爪と、あとコチュジャンも一緒に煮込んでみたの。いい色が出てるでしょ?」
「確かに色はいいけど……何の毒物だよ、それ……」
超激辛と言っても差し支えない調味料のラインナップに、トマトとリンゴでは到底太刀打ちできない。既に別の物になっていることは、見ただけでもよくわかる。
「これは全部捨てます!それからお母さん!あとで勇輝さんに、ちゃんと謝っておいてよ!」
真桜が涙目になりながら、菜穂に宣言した。
「は~い」
だが菜穂は、ちょっとやりすぎたかな、程度にしか思ってなかったのだから困ったものだ。
―30分後
「ふう……死ぬかと思ったぜ……」
「すいません、勇輝さん!お母さんには、きつく言い聞かせておきますから!」
あの後菜穂は、時間だからと言って京都へ戻った。勇輝の意識もその後で戻り、今は謝罪会見の真っ最中だ。
「大丈夫か、勇輝?」
「死んだ爺さんに会ったような気がするな」
どうやら勇輝は、軽く臨死体験をしていたようだ。
「でも兄さん。昨日あたし達が連絡した時に、なんで叔母様が来てることを教えてくれなかったのよ?」
さつきの疑問は当然だ。口止めされていたのかもしれないが、それで自分が多大な被害を被ってしまうかもしれないのだから、その可能性は限りなく低い。
「俺も知らなかったんだよ。今朝神社に来たら人の気配を感じたから、念のためモール・アイで調べてみたんだよ。そしたらまさかの奥方様だ。しかもモール・アイを逆用されて捕まっちまってな。それであの様だ……」
「逆用って……」
「……ありなの、それ?」
「お母さんの特性ですから……」
「相変わらず、人智を超えた夫婦だな……」
菜穂はもちろん、一斗も人外扱いされていることなど知らない。だが質が悪いことに、一斗と菜穂は喜んでその称号を受け入れるだけではなく、気に入らない響きや発音があればダメ出しすらしてくるという、迷惑極まりない夫婦だ。飛鳥や真桜ではないが、こんな夫婦が連盟の中心人物でいいのかと、さつきは今更ながらに思えて仕方がない。
「それにしても、舌も喉も頭も痛ぇ……。帰ってきたばっかのとこで悪いがよ、飛鳥。今日はいいか?」
「もちろんです。お大事になさってください」
「あ、お土産はあとでお持ちしますから!」
「おお、サンキュー。だけどここに置いといてくれ。雅人だけじゃなく、飛鳥や大河とも飲んでみたいからな」
「高校生に酒を飲ませるつもりですか?」
「今更だろ。夏越祭が終わったら飲もうぜ」
成人年齢こそ20歳のままだが、青少年の育成と責任感を学ばせるため、高校生になれば一応の飲酒は解禁される。そのため犯罪を起こせば、成人と変わらない刑罰が下される。基本的に氏名は公表されないが、あまりにも凶悪な事件や、社会的な事件を起こした場合はその限りではない。
飛鳥も入学直後に、初めて酒を飲んだ。大河も同様で、雅人や勇輝と飲むことも多い。しかも飛鳥は、かなり強い。
「わかりました。楽しみにしておきます」
「おう。それじゃな、飛鳥。雅人、さつきを頼んだぜ」
「ああ、わかってる。勇輝も気をつけてな」
――西暦2096年8月5日(日)PM17:55 鶴岡八幡宮 舞殿――
「真桜さん、準備はいいですか?」
「はい。いつでも大丈夫です」
「わかりました。それではお願いしますよ」
「はい!」
夏越祭は夏の邪気を祓う神事が源平池のほとりで行われた後、参道で茅の輪くぐりを行い、健康を祈る。そして舞殿では巫女により夏越の舞が奉納される。国内外からの観光客を含め、足の踏み場もないほどの大人数が鶴岡八幡宮を参拝する。今から始まる夏越の舞を見る人も多く、舞殿の周囲はさらに人が集まって来ている。
いつもならばありがたいことなのだが、夏休み前の明星高校で見かけられた不審者や優菜がどんな行動に出るか、想像がつかない。ために飛鳥と雅人、勇輝は外から、さつきは内から真桜を守る手はずになっている。
と言っても、刻印術が世間に広まってからというもの、舞台やコンサートでは観衆がなだれ込んだり、物を投げつけるといったこともあったため、風系D級防御術式ブリーズ・ヴェールで舞台上を保護するようになっている。それはここ、鶴岡八幡宮も同様だ。気流はカメラにも映らないため、撮影の邪魔にもならないし、舞っている最中の巫女に何かが当たることもないよう安全性も考慮されている。そのため、今では多くのスタジオや会場で使用されている術式だ。
不審者も優菜も、飛鳥達に何かをしてきたわけではない。まだ準備段階だという可能性もあるが、直接被害を受けたわけではないため、どうしても受け身がちになってしまう。
だが何かがあってからでは遅い。無駄骨になる可能性を考慮しつつも、不測の事態に対する備えは必要だ。だから飛鳥はドルフィン・アイを発動させ、舞殿周囲に目を光らせているし、さつきは舞殿内に監視系術式がないか注意を払っている。さゆり、大河、美花も手伝ってくれており、さゆりはモール・アイ、美花はプランド・シングで境内を監視し、大河は勇輝と共に舞殿周囲を歩きまわっている。
他にも探索系が使われているようだったので使用者を確認してみたが、それは安西と雪乃だった。他にも風紀委員会の先輩方や会長、委員長達の姿も見える。真桜が舞うと聞いて、見に来てくれたのだろう。そして風紀委員は、夏休み前の不審者の件―飛鳥と真桜が狙われているのではないかということを、気にしてくれていたのだろう。実にありがたいことだった。本当にいい先輩達だと、飛鳥は心の底から思った。
真桜はさつきから、風紀委員達が来ていることを聞いた。しかも探索系で、飛鳥達の手助けをしてくれているとも。舞っている最中は、確かに無防備だ。だが神事なのだから、それを邪魔する刻印術師はいないはずだ。刻印術師は神事や儀式といったものを大切にしており、特に儀式は頻繁に行われていると言っても過言ではない。
だからこれは、ある意味では予想外だった。
「雅人さん!その先に渡辺がいます!あいつ、舞殿にスパーク・フレイムを発動させるつもりです!」
「わかった!他には?」
「……神崎優菜がいます。手に持ってるのは、前に葛西先輩に投げた投擲状消費型と同じ物みたいですが、こっちは俺が近いので向かいます」
「了解!無理するなよ、飛鳥」
「はい!」
――PM18:05 鶴岡八幡宮 境内――
「ちっ!まさかこんなところに、ソード・マスターがいたとは!」
征司はまさに今、火性B級対象干渉系術式スパーク・フレイムを起動させたところだった。だが通信で雅人が向かって来ていることを知らされ、急ぎ合流地点へ撤退することを余儀なくされていた。
「急げ、渡辺!早く乗るんだ!」
「俺に指図するな!ただの人間ごときが!」
端末から聞こえてくる男の声に、いつも通り傲慢な返事をしつつ、征司は急いでいた。だが男にとっては、いくら生成者といっても相手はまだ高校生―ただの子供だ。世間知らずという点を差し引いても、調子に乗り過ぎていることはわかっている。
「ガキがあんまり調子に乗るなよ。ここに置いていってもいいんだぜ?」
「勝手にしろ。それならそれで、俺はここを戦場にするだけだ」
「チッ……ガキが!」
「どうします、隊長?」
隊長と呼ばれた男は舌打ちをしつつも、部下の質問に答えた。
「上はあのガキが必要みたいだからな、連れて帰るさ。それにここにいるのはソード・マスターだけじゃねえ。妹が舞を奉納するってのに、兄貴がいないわけがねえ。化け物を同時に相手するつもりはない」
「そんなことであのガキが納得しますかね?」
「ちょいとおだてりゃいいのさ。おい、渡辺。お前がここを戦場にしようと勝手だけどよ、たった一人でソード・マスターとあの兄妹の相手ができると思ってんのか?宝具の数だけで考えても、圧倒的に不利だろ。三対一じゃ仮に勝てたとしても、無傷でいられるわけがねえ。それはわかってんだろ?」
「……確かに、一対一なら勝てる。だが三体一では無傷で勝つことは無理だろう。そうなれば後々の作戦に影響が出る。仕方がない。ここは退こう」
隊長は、征司が飛鳥に負けたことを知っている。状況はさすがにわからないが、それでも飛鳥がほとんど無傷だっただろうことは予想がついている。何故なら彼ら日本国土防衛陸軍刻印銃装大隊―通称 過激派は、明星高校襲撃事件後、即座に征司の身柄を回収し、連盟に根回しまでしていたのだ。そして当然ながら、その後マラクワヒー―中華連合工作員拠点だった横浜中華街 月桂樹をたった二人で壊滅させた飛鳥と真桜のことも調べ上げている。両親が連盟代表であり、刻印管理局に籍を置く雅人の目もあるため、厳重な監視網をかいくぐることはさすがに難しいが、二人が二つの刻印宝具を生成し、使いこなすことは既に掴んでいる。
隊長は術師ではない。だが対刻印術師戦闘に長けており、既に何人もの刻印術師を葬っている。幾度も死線をくぐり抜けてきた経験も加味され、相手が誰であれ、油断や過信が死につながるということをよく理解している。だから征司が、無傷ではすまないだろうが三対一でも勝てる、と言い切ったことは滑稽であり、失笑をこらえるために多大な労力を費やす羽目になった。
「それでいい。機会は別にあるだろうし、あっちのお嬢ちゃんもいるからな」
だが続く言葉には力がない。隊長にとっては不本意極まりない理由がある。
「刻印術師でもない奴など、信用できんな」
「逆に考えろよ。刻印術師じゃねえから、使えるのさ。それにいざとなったら切り捨てればいい。それなら問題ねえだろ?」
一流の軍人らしく、動揺を見せずに言い切る隊長だが、征司は不審にすら思わない。刻印術師ではない人間が何を考え、何をしようと知ったことではないし、征司の中では生成者以外の刻印術師すら信用できない。だが隊長の上には生成者がいる。彼らはそこからの命令で動いている。“彼”が何を考えているのかはまだわからないが、征司にとって彼の理想は、自分の理想に限りなく近かった。
「そうだな。不本意だがこの国のためだ。あと一分でそちらに着く。すぐに出せるようにしておけよ」
「はいよっと」
子供の扱いは手慣れている、わけではない。むしろ苦手だ。だが刻印術師優位論者の扱いならば話は別だ。
優位論者は手前勝手な理論を唱え、自分の理想を振り回すだけで、他者を見下すこと、時に武力行使に訴えることが多々ある。そこに明確な目的などない。ならば目的を与えてやればいい。その上で思想のベクトルを少し修正してやれば、優位論者は途端に扱い易くなる。優位論者がテロリストに内通している多くの理由は、これが原因となっており、事実マラクワヒーの張深紅も、そうやって松浦を取り込み、征司を利用しようと企んでいた。常套手段とも言える方法を過激派がとったとしても不思議ではなく、むしろ当然のことだ。
「お見事です、隊長」
「ありがとよ。だがあいつはダメだな。上の方もどこで見切りをつけるか、そろそろ考え出してるんじゃねえか?」
戦力差は戦闘において重要な要素の一つだ。戦術で覆せる場合もあるし、逃げるしかない場合もある。だが相手の戦力を正確に把握していなければ、どんな戦術を立てても無意味だ。軍人にとっては至極当然の話であり、彼らにとっては生死に直結する問題なのだから、どれだけ情報を集めても足りないなどということはない。真桜は実力が未知数なところがある上に夏越の舞を奉納している最中だから、すぐに駆け付けてくることは不可能だ。しかし征司に一度敗北を与えている飛鳥、刻印剣士として国内外からも有数の使い手と名高い雅人の二人を相手にするなど、現状の倍の戦力でも自殺行為だ。
だが征司はその判断ができていないし、そもそもするつもりもなさそうだ。これでは自分達の足を引っ張るだけではなく、部隊ごと全滅という最悪の結末も充分考えられる。隊長は既に見切りをつけているし、部下達も同様だ。
「でしょうねぇ。お、来たみたいですね」
「よし、出せ。あのガキを拾ったら一気に行く」
「了解」
「逃したか……。だがあの装備は陸軍……刻印銃装大隊のもの。やはり渡辺征司は、過激派に取り込まれていたのか。飛鳥、聞こえるか?すまない、渡辺には逃げられた。予想通り、過激派と一緒だった」
少し大きなバンにも似た自家用車にカモフラージュさせた軍用車に乗り込む征司を確認した雅人は、すぐに飛鳥へ連絡を入れた。過激派の用意していた車両は最新技術が使われており、渋滞で混雑している車両の上を、下の車両を傷付けることなく進んでいった。この技術はまだ開発中ということもあり、刻印銃装大隊にのみ配備されている。雅人が知っていても不思議ではないし、過激派としてもこの日に征司とのつながりがバレてしまうことは承知の上での行動だった。
だから飛鳥からの返答は、雅人の予想外のものだった。
「こちらは神崎優菜を拘束しました。幸い大河と勇輝さん、志藤先輩、安西先輩が手伝ってくれましたので、取り巻きっぽい連中も二人、捕らえられました」
「わかった。俺もそっちに向かう。ところで、舞殿はどうだ?」
「そちらは無事に終わりそうです」
「そうか、よかった。それじゃすぐ行く」