3・監視者
――西暦2096年7月19日(木)PM16:02 明星高校 刻印館前――
「それにしても、さっきのはヤバかったな」
「本当ですよね。いったい何を考えて、あんなことを思いついたんでしょう?」
今日は神社での予定はなく、組合との会合も雅人に任せられることになった。
少しだけ肩の荷を降ろした飛鳥だったが、刻印館での実習でトラブルが起きたとの通報を受け、コンビを組む昌幸と共に、急いで駆け付けた。
「よくはわからんが、絶対零度以下の物質状態を観測したかったらしいぞ」
「そんなの、高校レベルでどうにかなる問題じゃないでしょ……」
二人の言う通り、かなり無茶な実験が先程まで繰り広げられていた。
絶対零度とは原子運動が静止するマイナス273,15℃のことを指す。全ての運動が静止しているため、それ以下の温度に下がることはない。だが実際に観測することはできないため、あくまでも理論上では、ということになっている。
だが刻印術ならば可能ではないか、と考えた生徒が、実習中にいきなり実験を開始してしまったのだ。いかに刻印術といえど、絶対零度を発生させることは不可能とされているのに、だ。用意された水はマイナス80℃まで低下させることに成功したが、同時に館内温度も5℃まで低下し、夏休み前の暑い時期に、凍死するのではないかという冷気が充満するという事態まで巻き起こしてしまっていた。
そのため実習を見張っていた聖美と2年生の氷川 香奈は慌てて委員会本部へ連絡し、水属性に高い適正を持つ飛鳥の派遣を要請した。幸いにも近くにいた飛鳥は昌幸とともに刻錬館へ入るも、館内の温度は既にマイナス10℃、水、と言うか氷はマイナス140℃にまで低下しており、やむなく飛鳥はエレメンタル・シェルを生成し、ニブルヘイムを発動させ、騒ぎを収めた。そして今、昌幸、聖美、香奈と共に刻錬館を出たところだった。
「ごめんね、飛鳥君。でも、おかげで助かったわ」
腰までかかりそうな長い髪を濡らした香奈が、風性E級干渉系術式ウインドを発動させ、乾かしながら礼を述べた。
「本当よね。あんなの、私達じゃどうすることもできないわ。それにしても凄いわね。私、ニブルヘイムって初めて見たわ」
聖美も同じくウインドを発動させ、髪を乾かしているが、肩にかかる程度の長さだし、何より風属性に適性を持っているため、じきに乾きそうだ。
「私もですよ。あんな使い方もできるのね」
A級刻印術は刻印具では使用できない。そのため生成者以外の刻印術師も、ほとんどが習得を断念している。聖美達が初めて見るのも当然であり、逆に習得している飛鳥がおかしいとも言える。
「ニブルヘイムは領域内の水や氷を操る術式ですからね。館内温度低下の原因が実験用に用意された水で、それが手違いで漏れだしたことが原因でしたから、その水の分子運動を加速させてやれば氷は溶けますし、同時に温度も回復します。実はこれ、試験に出たんですよ」
飛鳥は冗談交じりに答えた。だが試験に出たことも事実であり、連盟の術式許諾試験においては基本知識だけではなく、応用性も問われる。逆にあの程度のことができなければ、試験に合格することなどできるものではない。
「へえ。それはいいことを聞いたわ。といっても、A級術式なんて私じゃ受けても意味がないんだけど」
「さっき飛鳥君が持ってた弾丸?みたいなのが刻印宝具なの?」
聖美が諦めともつく溜息を吐く隣で、香奈は初めて見る飛鳥の刻印宝具に興味を移していた。
「ええ。弾丸状消費型刻印宝具エレメンタル・シェルです」
「刻印宝具にも消費型なんてあるのか?」
昌幸が疑問を挟んだ。
「ええ、ありますよ。市販品の消費型と同じく、使い捨てなんですが」
「宝具の使い捨てって、なんかもったいない気がするんだけど?」
聖美の疑問も当然だ。刻印具であっても限定品や貴重品は使用を躊躇うことがあるというのに、刻印宝具はそんなレベルではない。いくら金を出しても買えるものではない上に、先程飛鳥はニブルヘイムを発動させていた。あれが使い捨てなどと、考えられるわけがない。
「投擲系や矢弾系が多いので、回収することができない、と言う方が正確かもしれません。それに生成するだけなら、大した手間じゃないんですよ。実際エレメンタル・シェルは、ほとんど無印状態で生成しますから」
「無印?え?空の状態で生成して、そこから術式を組み込んでるってこと?」
エレメンタル・シェルに限らず、消費型刻印宝具は生成者の印子で生成されている。それはつまり、生成者の印子が許す限り、無数に生成できるということでもある。
「ええ。いくつかは刻印化させてありますけど、咄嗟の状況じゃ使えないことの方が多いですから」
「それってすごい手間なんじゃないの?そんな風には見えなかったわよ」
消費型刻印宝具の欠点は、一度刻印化してしまえば、再設定も上書きも不可能なことだ。生成者の印子で大量生成も可能とはいえ、事前に刻印化させた術式では咄嗟の事態に対応できないことも多い。しかも同じ術式を別の条件で刻印化することもあるため、汎用性は低いと言わざるをえない。
「刻印具で術式を発動するプロセスと同じですからね。問題なのはそこじゃなく、一度術式を組み込んでしまったら、設定の変更ができなくなるってことです。術式の選択を間違えたら最悪の場合、一度術式を解除しなきゃならないんで。でもメリットもありますよ。エレメンタル・シェルは弾丸状と小さいですから、生成しても目立ちにくいんです」
「そう言えばさっきも、飛鳥君がニブルヘイムを使ったことに気が付いてない人が多かったわね」
飛鳥が使ったかどうかはさておき、ニブルヘイムが発動したことに気が付いたのは、風紀委員を除けばごく少数だった。特に1年生で気付いていたのは、飛鳥が見たところでは一人だけだった。
「それでいて、刻錬館全体に広がりつつあった冷気を一発で解凍とか、どんだけだよ、お前」
傍から一部始終を見ていた昌幸は、飛鳥が一瞬で判断を下し、宝具生成からニブルヘイム発動までこなした様を思い出していた。
「飛鳥!刻錬館は大丈夫だったの?」
偶然、ではなく、小競り合いを始めた3年生の仲裁を終えた真桜が、刻練館へ駆け付けてきた。
「なんとかな。さすがに規模が大きかったから、エレメンタル・シェルを使わざるをえなかったけど」
飛鳥としてはエレメンタル・シェルを使ったことが不本意でも、多数の耳目があったことも問題ではない。むしろ二学期になればバレるだろうと思っている。飛鳥が問題だと感じているのは、大きな危険が伴う実験だというのに、高位の刻印術師がいなかったことだ。
「もう!真桜ちゃん、速いよ!」
「あ……。す、すいません、エリー先輩!」
ようやく追い付いたエリーに、真桜は謝罪するしかなかった。
「それにしても武田先輩。あれだけ大きな実験を、なんで学校側は許可したんですか?」
飛鳥は払拭しきれない問題を、この中で最上級生である聖美に投げかけた。
「それがよくわからないのよね。今日は監督の先生の都合がつかないって聞いていたから、私も予定通り、水属性術式の練習をするだけだと思ってたもの」
「それにしちゃ、手際がよくなかったですか?俺達が到着した時点で、見た目はともかく内部はかなり氷ってましたよ?」
昌幸も同様の疑問を持っていた。使った術式はわかっていないが、おそらくは広域系か干渉系だろう。
「そうですよね。水道や下水なんかも氷ってましたから」
「そうなの?さすがにそこまでは気が付かなかったわね」
当たり前のことだが水道管や下水管は壁に埋め込まれている。当然見えない。しかも生活型刻印具で稼働しているため、直接水管が繋がっているわけでもない。飛鳥は生活型刻印具が凍結していたという事実を述べただけであり、聖美達もそのように解釈していた。
「それで聖美先輩。言い出した人って誰なんですか?」
途中から話に加わったエリーが、経緯をすっ飛ばしながら訪ねた。
「私は知らないわ。3年生じゃないことだけは確かだけど」
「2年生でもありませんでしたよ。ねえ、葛西君?」
「ああ。あんな奴、見たことありませんよ」
「え?じゃあ1年生なの?」
「いえ、俺も見たことは。さすがに全員の顔を覚えてるわけではないので、断言はできませんが」
「え?どういうことなんですか?」
思ってもいなかった事態に、六名の風紀委員は固まっていた。しかし次の瞬間、一気に緊張が高まった。
「2年生でも3年生でも、1年生でもないって、それって校内に不審者が侵入してるってことじゃないんですか!?」
経緯と結果がようやく結びついたエリーが声を上げた。真桜も驚いている。
「可能性はゼロじゃないわね。香奈、急いで安西に連絡!」
「はい!」
「私と香奈は刻錬館で実習してた生徒に聞き込みをするから、葛西とエリーは飛鳥君、真桜ちゃんと一緒に校内の巡回を強化して!」
「わかりました!行くぞ、飛鳥!って、おい。どうしたんだよ?」
最上級生らしく、聖美は次々と指示を下した。だが飛鳥は、途中までしか話を聞いていなかった。否、聞こえていなかった。そんな飛鳥に気付いた真桜も、同じく顔を強張らせながら硬直していた。
「飛鳥……まさか、あの人って……」
「あ、ああ……。そうだと思うが……。この学校だった、のか?」
お互いにしか聞こえないほど小さな呟きだったためか、二人が誰かを見ていたことは気付かれていないようだ。仮に気付かれていたとしても、今はそれどころではない。
「おい、飛鳥!聞こえてんのか!」
「え?あ、はい。すいません」
「真桜ちゃんも大丈夫?」
「はい。すいませんでした」
「ならいいけどよ。それより俺達は巡回の強化だ。刻錬館は武田先輩と氷川に任せて、俺達は他を回るぜ」
「私達も行くわよ、真桜ちゃん」
昌幸もエリーも聖美も香奈も、二人の様子がおかしいことはわかった。だが現状を優先しなければならない事態でもある。だから二人には悪いが、一応の落ち着きを取り戻したことを確認すると、昌幸とエリーは、それぞれの相棒に声をかけた。
「わかりました」
「はい!」
――17:56 明星高校 風紀委員会室――
「結局手掛かりはなし、か。面が割れてても、あんまり意味はないかもしれないわね」
「俺のモール・アイでも、三条のドルフィン・アイでもそれらしい奴は見なかったんだが……」
「お前らの目から逃れられるんなら、ただの不審者じゃないな。そもそもうちの生徒かすらも怪しいぞ」
志藤の言う通り、安西のモール・アイと雪乃のドルフィン・アイは刻錬館の騒ぎも確認していた。当然、扇動した生徒もだ。だが飛鳥が騒ぎを鎮めると同時に姿を消した生徒は、安西にも雪乃にも見つけることはできなかった。探索系術式に対抗する手段を持っていたことは確実だろう。そしてそれは、ただの高校生にできるようなことではない。
「もしかしてだけど、その人の目的って飛鳥君と真桜ちゃんだったんじゃない?A級術式のライセンスを持ってることは少し調べればわかることだから、実際に確認したかったとか?」
香奈の言う通り、確かにその可能性はある。A級術式のライセンスを持っている高校生は、飛鳥と真桜だけだ。さつきもいずれは受ける予定だが、どうしても先にしておかなければならないことがあるため、習得していない。そのためどこかの誰かが、二人の技量を確認するために潜り込んだ、という可能性は否定できない。
「それにしちゃ、いい手際とは思えないだろ。俺達が近くにいたからすぐ駆け付けられたけど、言ってしまえば偶然だぞ」
昌幸の言うことももっともだ。お世辞にもいい手際とは言えない。下手をすれば自分だって被害を受けていたであろうことは、想像に難くない。そもそも襲撃事件の際、飛鳥はヨツンヘイムを、真桜はアルフヘイムとニブルヘイムを使用している。特に真桜は対人戦闘に使用したにも関わらず、死者を出さないよう威力を調整していた。それだけで技量が高いことは実証されたも同然だし、わざわざ不法侵入してくる理由としては弱い。
「警察には連絡してあるから、明日検証に来てくれるわ。現場にいた聖美と香奈も事情聴取を受けてもらうことになるけど、この際仕方ないわ」
「それはもちろんだけど、恭子は何て言ってるの?」
恭子は連絡委員会の委員長だ。連絡委員会は各クラブと生徒会、学校の間に立ち、施設使用時間の調整や部費の分配、滅多に起きないがクラブ間の折衝を担当している。
「さすがに大事だったからね。刻錬館を使うクラブも仕方がないってわかってくれたみたいよ。だから連絡委員会は、明日は刻錬館の使用を禁止したって言ってたわ」
「当然だな。しかしたった二ヶ月で、また警察の捜査の手が入るなんて、たまったもんじゃないな」
「本当ですよね」
「起きちゃったことをあれこれ言っても仕方ないわ。他にないようなら今日は解散。それから飛鳥、真桜。今日は神社に寄るから、ちょっと待ってて」
「え?あ、はい」
さつきは誰にも気づかれないよう、こっそりと溜息を吐きながら、二人の顔を見ていた。
――PM18:47 源神社 母屋 居間――
いつもは寄り道して帰ることも多いが、今日はまっすぐに帰宅した。さつきがどうしても、飛鳥と真桜に聞きたいことがあったからだ。
「そっか。見ちゃったのか」
結果は予想通りだった。
「さつきさん、知ってたんですか?」
「半年ぐらい前だったかな。あんた達と同じく、偶然見かけたのよ」
さつきが源神社に寄った理由は、二人の様子がおかしかったからだ。
その飛鳥と真桜が巡回中に見てしまったのは、一人の生徒だった。忘れようにも忘れられないその生徒は、偶然にも同じ学校に通っており、いつかお互いが気付くだろうということは、さつきには予想できていた。いや、二人が風紀委員であることは公表されているから、とっくに知られていてもおかしくはない。
「ですが、あの人も被害者です。そりゃ母さんや真桜のお父さんが死んだ時のことは嫌でも思い出しますけど、少なくとも俺は、あの人を責めるつもりはありません」
「私もです。でもあの人が私達を見る目は……」
「あの子もわかってるはずなのよ。だからそこまで心配しなくてもいいと思うわよ」
そう言いながらもさつきは、嫌な予感を覚えていた。さつきは“あの子”が明星高校に通っていたことを偶然知った。だから悪いと思いつつも、さつきは急いで素性を調べるよう、雅人に依頼していた。それが半年前のことだった。
「戻ったよ。ってさつき、来てたのか」
「おっ、おかえり、雅人。今日って組合の会合だったんだっけ?」
だから雅人が、タイミングよく戻ってきたくれたことがありがたかった。
「ああ。どの神社も境内の露店は去年と同じ、ってことに決まったよ。設営は週明けからだ」
「わかりました。ありがとうございます」
「それじゃ明日と明後日は、飛鳥はこっちでもらっちゃっても大丈夫ってことよね?」
「飛鳥よりも、真桜ちゃんの方が問題になってたな」
「私が?何かありましたっけ?」
真桜が首を傾げた。花火大会のことで真桜ができることは、飛鳥より格段に少ない。だから本気で、何のことかわからない。
「花火大会じゃなく、夏越祭のことだけどね。毎年鶴岡八幡宮の舞殿で、夏越の舞を奉納してるだろ?今年は源神社だって言われたよ。衣装合わせもしなきゃいけないから、一度来てくれって言われてる。って、どうしたの?」
頭を抱えたのは真桜だけではない。飛鳥も、さつきでさえもだ。
「飛鳥、やっちゃったわね……」
「大会の準備に手一杯で、夏越祭のこと忘れてました……」
「もしかして、今年も私がやるの?」
「今年も?もしかして、去年も?」
昨年の今頃、雅人はマラクワヒー討伐の事後処理に追われており、同時に軍属になることを決意した時期でもある。祭りに参加するような余裕はなく、雅人はかなりのハードスケジュールをこなしていた。そのため去年、真桜が夏越の舞を奉納したことなど知るはずもなかった。
「一昨年も私が舞いました……」
「ご、ごめん!知らなかったよ」
「忘れてた飛鳥が悪いわよ、これは。どっちにしても今からじゃ準備もままならないし、今年も真桜が舞うしかないわね。あんたなら、そんなに準備もいらないでしょ?」
「確かにそうなんですよね。何故か身体が勝手に動いてくれて……。なんでなんだろ?」
「え?練習してないの?それで大丈夫なのかい?」
雅人の心配も当然のことだが、真桜は毎年、夏越の舞をほとんどぶっつけ本番で舞っている。夏越の舞は神楽舞の一つであり、神へ捧げるための儀式でもある。それをぶっつけ本番など、いささか失礼ではあるが、真桜は去年も一昨年も、特に練習もせずに舞っている。最初は鶴岡八幡宮の方々もいい顔をしなかったが、真桜の舞があまりにも完璧すぎたのだから、掌も返すというものだ。その結果、真桜は二年連続、今年も舞うことになるため、三年連続で大役を任されることになるわけだ。
「それにしてもソード・マスターを出し抜くなんて、八幡宮の人もやるわね」
さつきの呟きに、一同揃って、深い溜息を吐いていた。