脱走・町歩き
路地を三つ抜けたところで、ミトは立ち止まった。
「こっちだと思うんだけどな。スケ、どう思う?」
「は。ミト様の仰せの通りに」
「訊いてるんだけど」
「……存じません」
ミトは頭巾を目深にかぶり直した。スケのマントは丈がまるで足りておらず、裾が石畳を掃いている。歩くたびに埃が舞った。
その後ろを、革の筒を肩に掛けたカシが黙って歩いている。
小柄な少女がひとり、その両脇を長身の美男子が固めて進む。すれ違った桶職人が三度見して、慌てて目を伏せた。
ミトは満足していた。誰も自分を聖女だと気づいていない。実際、その通りではあった。
「見つかったら連れ戻されちゃうからね」
「はい」
「静かに行こうね」
「はい」
旧市街は静かだった。昼過ぎの陽が斜めに射して、庇の影が道を半分だけ黒く塗っている。
空き家が多い。板を打ちつけた窓、蔦の垂れた戸口。どこかで槌の音がしていた。何かを壊している音だった。
角を曲がると、荷を背負った女とすれ違った。表通りへ出られる道があるのに、わざわざ狭い裏道を選んで歩いていく。ミトはその背中を一瞥もしなかった。
「ペスカイア通り」
壁に嵌まった古い標石を読み上げる。
「まだ残ってるんだ。漁の通りって意味だよ。ここを真っ直ぐ行くとね」
その先に沼がある、と言いかけた時、通りの向こうから鎧の音が来た。
巡回の騎士が四人。石段に座り込んだ男の前を、誰も立ち止まらずに通り過ぎていく。男は片脚を投げ出したまま、顔も上げなかった。騎士も見なかった。
双方に緊張はなかった。慣れているのだ。
「――行くとね、昔は舟が出てたの」
ミトは沼の話を続けていた。
やがて彼女は、住宅と住宅の間の、何もない三叉路で足を止めた。
道が不自然に湾曲している。かつて城壁の土台の縁をなぞっていた形が、そのまま道になったような曲がり方だった。
「ここ」
「は」
「ここ通ったら近道だったはず」
スケは道を見た。石畳が敷き詰められているだけの、どこにでもある地面である。
「ここね、よく使ってたんだよ」
「さようですか」
「塞がってる」
スケはそれ以上訊かなかった。
手袋を外し、膝をつく。
周囲を見回したのはカシだけだった。人影がないことを確認し、小さく頷く。
スケが拳を落とした。
音は、通り一本を丸ごと叩いたような音だった。石畳が中心から放射状に裂け、割れ目が家の壁際まで走る。地面が半歩ぶん沈み、ずれた。土埃が壁を這い上がっていく。
埃が落ちると、砕けた石の下から板状のものが覗いていた。石の蓋である。表面には摩耗した円形の意匠が彫られていて、もとが何の形だったのかは分からなくなっていた。
「ありました、ミトさま」
「うむ、ご苦労」
二人とも、声の調子はまるで変わらなかった。天気の話をする程度の抑揚である。
カシが蓋に指を掛け、体重をかけて横へずらした。冷たい空気が上がってくる。黴と、水と、それから何か古い石の匂いがした。
「私が先に」
カシが降りる。次にミト。スケが最後に、内側から蓋を引き戻した。
地下は暗かった。だが壁の石の積み方だけは、上の町のどの建物とも似ていなかった。角が正確で、目地が細い。千年以上昔の王族が金をかけて造ったものが、そのまま忘れられている。
ミトは迷いなく歩き出した。
「こっちだよ」
――地上では、人が集まりはじめていた。
通りが一本、真ん中から裂けている。家は壊れていない。誰も怪我をしていない。ただ地面だけが割れていた。
半刻後、報告を受けたバルジェッロ・アウトリーノは、机の上でその紙を二度読み返した。
何が起きたのかは書かれていなかった。何かが起きたことだけが書かれていた。




