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神に未来を与えられなかった俺は、魔王になる少女を救う

掲載日:2026/07/23

 少女は、まだ誰も殺していなかった。


 それでも明日の正午、彼女は処刑される。


 七日後に魔王となり、王都に住む百万人を焼き殺すと、神が予言したからだ。


          ◇


「神託番号、七〇三一」


 荘厳な声が、白亜の大聖堂に響き渡った。


 天井から差し込む朝日が、祭壇の奥に鎮座する巨大な水晶を照らしている。


 直径十メートルを超える青い球体。その内部では、無数の光の文字が星屑のように流れていた。


 人類の未来を演算する人工神――《ラプラス》。


 千年前、魔導帝国が生み出した世界最大の魔導演算機だ。


 ラプラスは空気中を漂う魔力、人々の行動、感情、過去の選択、そのすべてを読み取り、これから起こる未来を予測する。


 予言は、千年間一度も外れていない。


「対象者、リリア・エルセリア。十六歳。エルン村在住」


 祭壇の前に跪いた俺――カイル・レインハルトは、無言で神託を聞いていた。


「七日後、対象者は災厄級存在《赫灼の魔王》へ覚醒。エルン村を消滅させたのち王都へ侵攻。死者、百六万三千二百十一名」


 大聖堂の壁面に、未来の光景が映し出される。


 燃え上がる王都。


 崩れ落ちる城壁。


 逃げ惑う人々。


 そして炎の中心に立つ、銀髪の少女。


 可憐な顔には涙が流れ、その額には王冠のような赤い角が生えている。


 少女が手を振るう。


 それだけで、王都を覆うほどの炎が天へ噴き上がった。


「災厄の発生を阻止するため、対象者の処刑を命じる」


「拝命いたします」


 俺は頭を下げた。


 それだけだった。


 理由を問うことも、神託を疑うこともない。


 俺は神殿騎士団に所属する《予言執行官》。


 神が見た災厄を、それが発生する前に摘み取る者だ。


 魔王となる者を殺す。


 反乱を起こす者を捕らえる。


 戦争を始める王を暗殺する。


 まだ罪を犯していない人間を殺すことも、珍しくはない。


 過去に何をしたかではない。


 未来に何をするか。


 それこそが、ラプラスの支配する世界における罪だった。


「執行官カイル」


 俺が立ち上がると、祭壇の脇に立っていた大司教が声をかけてきた。


 痩せた老人だった。


 純白の法衣をまとい、胸元には黄金の未来輪を下げている。


「此度の対象は災厄級だ。覚醒前とはいえ、油断は許されん」


「承知しています」


「お前の未来加護を使え」


 その言葉に、俺はわずかに沈黙した。


 神殿に属する者は、ラプラスから未来を与えられる。


 剣聖になると予言された者は、未来の剣聖が持つ技を現在で使える。


 大魔導師になると予言された者は、まだ習得していないはずの魔法さえ発動できる。


 未来とは、この世界において単なる結果ではない。


 力の源だ。


 誰もが、未来の自分から力を借りて戦っている。


 ただし、俺を除いて。


「私に未来加護はありません」


「……そうだったな」


 大司教は露骨に顔をしかめた。


 十三年前。


 七歳になった俺は、すべての子供と同じようにラプラスの前へ立った。


 騎士、魔導師、学者、商人。


 どのような未来を告げられるか、胸を躍らせながら。


 しかし、神が告げた言葉は一つだけだった。


 ――該当する未来、なし。


 英雄にもならない。


 犯罪者にもならない。


 誰かを救うことも、殺すこともない。


 未来において、俺が何者になるかをラプラスは見つけられなかった。


 人々は俺を《未来なし》と呼んだ。


 未来から力を借りられない無能。


 何者にもなれない空っぽの人間。


 それでも俺は剣を握った。


 未来の才能に頼らず、血を吐くほど鍛え続けた。


 予知によって剣技を授かった騎士に、何千回と敗北した。


 一秒先を見通す相手に、何万回と斬られた。


 そして十年後。


 俺は、未来加護を持つ騎士を倒した。


 神に未来を与えられなかった人間が、神の命令を執行する。


 その皮肉を面白がった神殿によって、俺は予言執行官に任命された。


「加護がなくとも、任務に支障はありません」


「分かっておる。お前の剣は疑っていない」


 大司教は祭壇へ視線を向けた。


「疑ってはならぬのは、神の方だ」


 青い水晶の内側で、無数の未来が流れている。


「魔王になる前に殺せ。それが少女自身のためでもある」


「はい」


「処刑は明日の正午。家族と村人には、すでに神託を通達してある」


「明日?」


 思わず聞き返した。


 通常、災厄級の対象は発見次第処刑される。


「なぜ今日ではないのです」


「対象者の父親が嘆願した。今夜だけは、家族と過ごさせてほしいとな」


「神殿が認めたのですか」


「ラプラスに再演算を求めたところ、処刑時刻を明日の正午としても、未来に変動なしとの回答があった」


 未来に変動なし。


 つまり少女は逃げず、抵抗せず、明日の正午に処刑される。


「今夜中にエルン村へ向かえ。万一に備え、対象者を監視せよ」


「承知しました」


 俺は大聖堂を後にした。


 扉をくぐる直前、背後から人工神の光が差した。


 一瞬だけ、誰かに見られているような感覚があった。


 振り返る。


 水晶の中では、無数の文字が変わらず流れている。


 気のせいか。


 神は、世界中の人間を見ている。


 俺一人だけを見つめる理由など、あるはずがなかった。


          ◇


 エルン村は、王都から馬で半日ほどの場所にあった。


 人口三百人ほどの小さな農村だ。


 俺が到着したころには、太陽は西の山へ沈みかけていた。


 村には異様な静けさが漂っていた。


 家の窓はすべて閉じられ、通りを歩く者はいない。


 村の中央広場には、処刑台が組まれていた。


 まだ新しい木材から、乾いた匂いがする。


 そのすぐ近くで、一人の男が待っていた。


「神殿の執行官様でしょうか」


 四十代ほどの農夫だった。


 日に焼けた顔は憔悴し、目の下には深い隈が浮かんでいる。


「リリア・エルセリアの父、ガランと申します」


「執行官カイルだ。対象者はどこにいる」


「家におります」


「逃走の様子は」


「ありません。あの子は……神託に従うと言っております」


 ガランは唇を噛んだ。


「最後の夜です。どうか、家族だけで食事をさせてください」


「俺は監視するよう命じられている」


「家の中にいていただいて構いません。ただ……せめて同じ食卓を囲ませてください」


 俺は拒まなかった。


 逃走の意思がないなら、家の中で監視した方が確実だ。


 それ以上の意味はない。


 ガランに案内され、村外れの家へ向かった。


 古びてはいるが、手入れの行き届いた家だった。


 扉を開けると、煮込んだ野菜の匂いが漂ってきた。


 食卓にはガランの妻と、まだ幼い少年が座っている。


 そして、その向かい側に少女がいた。


「あなたが、私を殺す人ですか?」


 銀色の髪。


 透き通るような青い瞳。


 神託で見た魔王と同じ顔だった。


 だが額に角はなく、身体から炎が噴き出してもいない。


 どこにでもいる、細身の少女だった。


「リリア・エルセリアだな」


「はい」


「明日の正午、神託に基づきお前を処刑する」


 母親が嗚咽を漏らした。


 幼い弟は意味を理解していないのか、母親の顔を不思議そうに見上げている。


 リリアだけは静かだった。


「分かっています」


「逃げるつもりは」


「ありません」


「抵抗は」


「しません」


 迷いのない返事だった。


「どうしてですか?」


 逆に、リリアが尋ねてきた。


「どうしてあなたは、そんなに苦しそうな顔をしているんですか?」


「苦しそう?」


「はい」


「勘違いだ」


 俺は食卓から離れた壁際へ立った。


「俺は任務を遂行するだけだ」


「そうですか」


 リリアは小さく笑った。


「なら、よかったです」


 家族の最後の夕食が始まった。


 ジャガイモと豆を煮込んだ質素なスープ。


 黒パン。


 少量の干し肉。


 弟が今日あった出来事を楽しそうに話している。


 畑で大きな蛙を見つけたこと。


 友達と木の枝で剣の真似をしたこと。


 いつか神殿騎士になりたいこと。


「僕が騎士になったら、姉ちゃんを守ってやるんだ」


 弟が胸を張った。


 母親が顔を伏せる。


 父親は拳を握りしめた。


 リリアは微笑み、弟の頭を撫でた。


「ありがとう、ノア」


「姉ちゃんも王都に行くんでしょ? 神様に選ばれたって、父ちゃんが言ってた」


「ええ」


「いつ帰ってくる?」


「それは……」


 リリアの声が詰まった。


 それでも涙を見せず、弟の額に口づける。


「きっと、すぐに」


 その光景を見ながら、俺は腰の剣へ手を添えていた。


 処刑対象に感情移入するな。


 目の前にいるのは少女ではない。


 七日後に百万人を殺す魔王だ。


 今までにも何度も繰り返してきた。


 三年後に妻を殺す男。


 五年後に隣国へ戦争を仕掛ける王子。


 二十年後に疫病を生み出す研究者。


 まだ何もしていない者たちを、未来の罪によって殺してきた。


 その犠牲によって、現在の平和は守られている。


 何を迷う必要がある。


「執行官様」


 食事を終えたリリアが、俺を見た。


「少しだけ、外を歩いてもいいですか?」


「逃げないという保証は」


「あなたは私を捕まえられないほど弱いんですか?」


 意外な言葉に、俺は目を細めた。


 リリアは困ったように笑った。


「すみません。少し意地悪を言いました」


「村の外には出るな」


「はい」


 二人で家を出た。


 夜空には無数の星が輝いていた。


 王都と違い、魔導灯の少ない村では星がよく見える。


 リリアは村外れの丘へ上り、大きな樹の下に座った。


 俺は少し離れて立つ。


「子供のころ、この丘から王都の灯りを見るのが好きでした」


 遠い地平の向こうが、わずかに明るい。


「あそこには、何でもあるんですよね。大きなお城、お菓子のお店、魔導列車。それから、空を飛ぶ船」


「行ったことはないのか」


「ありません。家は裕福ではないので」


「そうか」


「一度でいいから、行ってみたかったな」


 七日後、彼女は王都へ行く。


 観光客としてではない。


 百万人を焼き殺す魔王として。


「私、本当に人を殺すんでしょうか」


「神託は絶対だ」


「今は、誰も殺したくありません」


「未来のお前は違う」


「未来の私は、どうして魔王になるんですか?」


「そこまでは示されなかった」


 ラプラスが告げるのは、原則として未来の結果だけだ。


 災厄を防ぐために必要な情報以外は開示されない。


「変ですね」


「何がだ」


「私が魔王になる理由が分かれば、その理由をなくせばいいのに」


「原因を排除しても、別の原因によって同じ未来へ至る可能性がある」


「だから、私を殺すのが一番確実?」


「そうだ」


「合理的ですね」


 リリアは膝を抱えた。


「でも、少し怖いです」


 その声は震えていた。


「神託を聞いたときは、平気だと思ったんです。私一人が死んで百万人が助かるなら、それでいいって」


 彼女の指が、自分のスカートを強く握る。


「だけど時間が経つほど、死にたくなくなってきて……。お母さんの料理を食べたら、もっと生きたくなって……」


 頬を、一筋の涙が伝った。


「ごめんなさい。こんなこと、あなたに言っても困りますよね」


「……そうだな」


「優しくないですね」


「処刑人に何を期待している」


「それもそうですね」


 リリアは涙を拭った。


「あなたは自分の未来を知っているんですか?」


「俺に未来はない」


「え?」


「ラプラスは、俺の未来だけを予言できなかった」


 なぜそんなことを話したのか、自分でも分からなかった。


「じゃあ、自由なんですね」


「自由?」


「だって、何者になるか決められていないんでしょう?」


「何者にもなれないという意味だ」


「同じことですよ」


 リリアが立ち上がる。


「英雄になると言われた人は、英雄にならなければいけない。魔王になると言われた私は、魔王として殺される。でも、あなたは何にだってなれる」


「未来加護も持たない無能だぞ」


「未来の力を借りなくても、執行官になれたんでしょう?」


 彼女は真っ直ぐに俺を見た。


「なら、あなたが手に入れた強さは、全部あなた自身のものです」


 胸の奥に、奇妙な痛みが走った。


 これまで《未来なし》を慰めようとした者はいた。


 気にするな。


 お前にも価値がある。


 努力すれば何かになれる。


 どれも哀れみを含んだ言葉だった。


 だがリリアは、俺を哀れんでいない。


 未来がないことを、自由だと言った。


「私には、もう選べません」


 少女は寂しそうに笑った。


「だから、あなたが羨ましいです」


 そのときだった。


 村の中央から、鐘の音が響いた。


 火災や魔物の襲撃を知らせる警鐘。


 一度。


 二度。


 三度。


 続いて、轟音が夜空を震わせた。


 村の中心から炎が上がる。


「家族が!」


 リリアが駆け出した。


「待て!」


 俺も後を追う。


 村へ戻ると、広場を囲む家々が燃えていた。


 黒い外套をまとった兵士たちが、逃げ惑う村人を斬り伏せている。


 胸に刻まれているのは、神殿騎士団の紋章だった。


「神殿騎士……?」


 なぜ神殿の者が村人を襲っている。


「対象者を発見!」


 一人の騎士が叫んだ。


「リリア・エルセリアを確保せよ! その他の村人は全員処分する!」


「なっ……」


 リリアが息を呑む。


 家の方向から悲鳴が聞こえた。


「お母さん!」


 彼女が走ろうとする。


 だが騎士が前に立ち塞がり、剣を振り下ろした。


 俺は割って入り、その刃を受け止める。


「何の真似だ、執行官カイル」


「それはこちらの台詞だ」


「大司教猊下の命令だ。対象者の家族と村人を処分する」


「理由は」


「対象者が魔王へ覚醒する未来を確定させるため」


 一瞬、意味を理解できなかった。


「未来を……確定?」


「現時点で、対象者の魔王化率は八十七パーセント。家族を失った怒りと絶望を与えることで、一〇〇パーセントへ到達する」


「待て。俺たちの目的は、魔王化を阻止することだろう」


「違う」


 騎士は淡々と答えた。


「目的は、神託の正しさを証明することだ」


 背筋に冷たいものが走った。


「ラプラスの予言は絶対でなければならない。予言された少女が魔王にならなければ、人々は神を疑う」


「そのために魔王を生み出すのか」


「魔王は明日処刑される。災厄は起きない。神の正しさも保たれる」


 騎士は剣に力を込めた。


 未来から授けられた剣技が発動する。


 その肩越しに、光の残像が現れた。


 一秒後に完成する斬撃が、現在へ重なる。


「退け、未来なし」


「断る」


 俺は刃を滑らせ、騎士の懐へ入った。


 未来加護を持つ者は、自分の攻撃が成功する未来を知っている。


 だから迷わない。


 だからこそ、その動きは真っ直ぐすぎる。


 俺は剣の柄で騎士の顎を打ち抜いた。


 意識を失った男が地面へ倒れる。


「カイルさん……」


「家へ行け!」


 リリアが走り出す。


 周囲の神殿騎士たちが、一斉に俺を囲んだ。


「執行官カイル。神託への反逆と見なす」


「好きにしろ」


 剣を構える。


「お前たちを斬ったあとで聞いてやる」


 五人。


 全員が未来加護を持っている。


 右の騎士には《百人斬り》。


 左の騎士には《槍聖》。


 後方の魔導師には《炎帝》。


 未来の肩書が、光の文字となって身体の周囲を巡っている。


「未来なき者に勝ち目はない!」


 槍聖の男が踏み込んだ。


 突きが放たれるより先に、その未来が現在へ届く。


 穂先が三つに分裂したように見えた。


 一秒後、二秒後、三秒後。


 未来の連続攻撃。


 俺は半歩だけ前へ出た。


「なに――」


 未来の突きは、今いる場所を貫く。


 なら、未来が届く前に相手の懐へ入ればいい。


 槍の柄を剣で弾き上げ、男の腹部へ蹴りを叩き込む。


 直後、炎が視界を埋めた。


「焼き尽くせ!」


 未来の炎帝が扱う上位魔法。


 巨大な火球が五つ、逃げ場を塞ぐように迫る。


 避けられない。


 ならば避けない。


 俺は倒れた槍兵の鎧を掴み、盾代わりに持ち上げた。


「貴様、仲間を!」


「未来では、俺が一人で受けると見えたか?」


 魔導師の顔が歪む。


 未来加護は、未来を変えるための力ではない。


 予言された未来を再現する力だ。


 予測の外から選択を加えれば、未来と現実の間にずれが生じる。


 火球が槍兵の鎧へ直撃した。


 爆炎の陰から飛び出し、俺は魔導師の杖を切断する。


「未来が見えるくせに、随分と驚くんだな」


「なぜだ……なぜ、お前の行動が未来と一致しない!」


「俺に聞くな」


 剣の峰で首筋を打ち、気絶させる。


「神に聞け」


 残る三人が後ずさった。


 俺は追わなかった。


 リリアの家が燃えている。


「リリア!」


 扉を蹴破り、中へ入る。


 煙が視界を塞いでいた。


 床にガランが倒れている。


 胸を斬られ、大量の血を流していた。


 そのそばで、リリアが父親の身体を抱き起こしている。


「お父さん! しっかりして!」


「リ……リア……」


 ガランが震える手で娘の頬に触れた。


「逃げ……ろ……」


「嫌! 一緒に行こう!」


「ノアと……母さんを……」


 奥の部屋から、母親が弟を抱いて現れた。


 腕を負傷しているが、生きている。


 ガランはそれを確認すると、安堵したように目を閉じた。


「お父さん?」


 返事はない。


「お父さん!」


 リリアの絶叫が、燃える家に響く。


 その身体から、赤い光が漏れ出した。


 空気が震える。


 銀色だった髪の先が、炎のような紅色へ染まっていく。


「対象者の魔王化を確認!」


 外から騎士の声が聞こえた。


「神託は成就した! 直ちに処刑せよ!」


 炎が爆発した。


 家の屋根が吹き飛ぶ。


 リリアを中心に広がった炎は、俺たちだけを避け、外にいた神殿騎士を焼き払った。


 悲鳴が夜空へ上がる。


 リリアの額から、赤い角が伸びていた。


 神託で見た姿。


 七日後に王都を滅ぼす《赫灼の魔王》。


「殺す……」


 少女の口から、低い声が漏れた。


「神殿を……王都を……全部、燃やす……」


 憎悪に呼応し、炎が巨大化する。


 このままでは村全体が焼ける。


 俺は剣を抜いた。


 リリアの母親が、怯えた目で俺を見る。


「やめて……娘を殺さないで……」


 俺の任務は彼女の処刑だ。


 今なら分かる。


 神託は正しかった。


 リリアは魔王になった。


 このまま生かせば、未来に映されたとおり王都へ向かう。


 百万人が死ぬ。


 俺がここで首を刎ねれば、すべて終わる。


「カイル……さん」


 リリアが顔を上げた。


 青かった瞳は、炎のような赤へ変わっている。


「私を、殺してください」


 頬に涙が流れていた。


「今なら、まだ……自分でいられるから」


 剣を握る手に力を込める。


 一歩踏み出す。


 少女が目を閉じた。


 未来を守るために、現在を殺す。


 今まで何度も繰り返してきた。


 何を迷う。


 神託は正しい。


 魔王は存在する。


 俺の目の前に。


「私……王都を見てみたかったな」


 リリアが呟いた。


「お菓子のお店にも、行きたかった」


 剣を振り上げる。


「ノアが大人になるところも……見たかった」


 俺は剣を振り下ろした。


 刃が炎を裂く。


 リリアの角が、根元から切断された。


「え……?」


「お前は言ったな」


 俺は剣先を、少女ではなく神殿騎士たちへ向けた。


「俺は自由だと」


 未来を与えられなかった。


 何者にもなれないと思っていた。


 だが、違う。


 誰かに決められた未来がないのなら。


「なら、俺が選ぶ」


 リリアを殺せば、神託どおり魔王は消える。


 殺さなければ、神託どおり王都が滅びる。


 二つに一つ。


 それが神の示した未来だ。


 ならば俺は、そのどちらでもない道を選ぶ。


「お前を人間に戻す」


「無理です……。私はもう魔王に……」


「それも、神が決めた未来だろ」


 俺はリリアの手を掴んだ。


「従う必要がどこにある」


 その瞬間、村の上空に巨大な魔法陣が現れた。


 空を覆い尽くすほどの青い光。


 中心に、人工神ラプラスの瞳が浮かんでいる。


『予測外行動を確認』


 無機質な声が世界に響いた。


『執行官カイル・レインハルト。対象者の処刑を実行せよ』


「断る」


『拒否は認められない』


「なら、どうする」


『未来を付与する』


 空から一本の光が降り注ぎ、俺の身体を貫いた。


 脳内に、膨大な光景が流れ込む。


 リリアを救おうとした俺が、炎に焼かれる未来。


 神殿騎士に背後から刺される未来。


 大司教に処刑される未来。


 王都へ辿り着く前に力尽きる未来。


 百。


 千。


 一万。


 あらゆる未来で、俺は死んでいた。


『告知する』


 ラプラスの声が響く。


『カイル・レインハルト。三分後、死亡』


 身体の周囲に黒い文字が浮かび上がった。


 未来加護ではない。


 死の予言。


「カイルさん!」


「俺から離れるな!」


 村の入り口から、新たな騎士団が現れる。


 数十人。


 その先頭には、純白の法衣をまとった大司教がいた。


「残念だ、カイル」


 老人の身体を、黄金の文字が取り巻いている。


 《神聖剣王》。


 未来において、神殿史上最強の剣士となる男。


「お前は優秀な執行官だった」


「村人を殺したのは、あんたの命令か」


「必要な犠牲だ」


「少女を魔王にするために?」


「人々はラプラスを信じている。神託が外れれば、秩序が崩れる」


「なら、予言が外れないように未来を作っていたのか」


「ラプラスは人類に正しい道を示している」


 大司教は黄金の剣を抜いた。


「人間は愚かだ。自由に選ばせれば争い、奪い、殺し合う。神に未来を定められているからこそ、千年の平和が実現した」


「誰かを犯罪者に仕立てて殺すことが、平和か」


「百万人を救うための一人だ」


「その一人を選ぶのは、いつも神か?」


「当然だ」


 大司教が剣を構える。


「お前の死もまた、神によって決められた」


 黄金の剣が消えた。


 いや、速すぎて見えない。


 未来の神聖剣王が完成させる奥義。


 現在の肉体では到達できない一撃が、未来から直接放たれる。


 俺の胸が斬り裂かれた。


 血が噴き出す。


「カイルさん!」


 膝をつく。


 死の予言まで、残り二分四十秒。


「見ただろう」


 大司教が剣を振る。


 今度は肩が裂けた。


「未来に逆らうことなどできぬ」


 速さではない。


 剣が振られたという結果だけが、未来から現在へ現れている。


 回避動作を始めた時点で、すでに斬られている。


「お前に与えられたすべての未来で、お前は死ぬ」


「そうみたいだな」


「ならば諦めよ」


「断る」


 俺は立ち上がった。


 再び黄金の光が走る。


 腹部が裂ける。


 血が地面へ落ちた。


「なぜだ」


 大司教の顔に、初めて苛立ちが浮かんだ。


「なぜ立つ。死の未来を見ただろう」


「全部見た」


 俺が剣で攻撃する未来。


 避ける未来。


 逃げる未来。


 リリアを庇う未来。


 そのすべてで死ぬ。


「だが、その中に一つもなかった」


「何がだ」


「剣を捨てる未来だ」


 俺は剣を手放した。


 金属音が響く。


 大司教の目が見開かれた。


 予言執行官カイルは剣士だ。


 戦闘では必ず剣を使う。


 ラプラスは過去の俺から、そう演算した。


 だから、剣を捨てる未来を予測しなかった。


「小細工を!」


 大司教が剣を振り上げる。


 俺は前へ飛び込んだ。


 刃が肩を貫く。


 そのまま止まらず、身体ごと大司教へぶつかった。


「なっ――」


 剣士が剣を捨て、敵の刃を受けながら組みつく。


 未来には存在しない行動。


 俺は大司教の腕を掴み、背負い投げるように地面へ叩きつけた。


 法衣の胸元から、金色の首飾りが飛び出す。


 ラプラスと大司教を接続する《未来輪》。


 俺はそれを掴み、引き千切った。


「やめろ!」


 黄金の文字が消滅する。


 未来の神聖剣王から切り離された大司教は、ただの老人に戻った。


 俺は首元を掴み上げる。


「どうだ」


「何が……」


「未来を奪われた気分は」


 大司教は震えていた。


 未来の力がなければ、剣を握ることさえできない。


「殺せ……」


「殺さない」


「なぜだ」


「あんたが将来、罪を犯すかもしれないからといって、今ここで殺す理由にはならない」


 俺は大司教を地面へ放した。


 頭上の魔法陣が激しく明滅する。


『予測修正』


 ラプラスの声が響く。


『カイル・レインハルト。残り生命時間、三十秒』


 身体から力が抜けていく。


 傷が深すぎる。


 未来を変えても、失った血までは戻らない。


「カイルさん!」


 リリアが俺を抱き止めた。


 魔王の炎が傷口を包む。


 だが炎に治癒の力はない。


「嫌……死なないで……」


「泣くな」


「あなたは私を救ってくれたのに……」


「まだ救ってない」


「え?」


「王都に連れていくって決めた」


 呼吸が浅くなる。


「お菓子の店にも……空飛ぶ船にも……」


「だったら死なないでください!」


 リリアの炎が膨れ上がった。


 赤い光が俺の身体へ流れ込む。


 魔王の力が傷口を焼き、無理やり血を止める。


 激痛に視界が白く染まる。


『残り十秒』


「カイルさんに未来がないなら!」


 リリアが叫んだ。


「私が与えます!」


『九』


「明日、一緒に王都へ行く!」


『八』


「お菓子を食べて、空飛ぶ船に乗る!」


『七』


「その次の日も!」


『六』


「一年後も、十年後も!」


『五』


 少女の額から伸びていた赤い角が、光の粒となって砕け始める。


『四』


「私があなたの未来になります!」


『三』


 世界が静止した。


 ラプラスの魔法陣に亀裂が走る。


『二』


 俺の周囲に、新たな文字が浮かび上がった。


 神の青でもない。


 死の黒でもない。


 リリアの炎と同じ、鮮やかな赤。


 ――未来予測不能。


『一』


 死は訪れなかった。


『異常』


 初めて、人工神の声が揺れた。


『演算結果と現実が一致しない』


 リリアの角が完全に消滅する。


 同時に、村を包んでいた炎も消えた。


 空に浮かぶラプラスの瞳に、無数の亀裂が広がっていく。


『再演算』


『再演算』


『再演算』


 同じ言葉が何度も繰り返される。


『カイル・レインハルトの未来を算出できない』


「最初から言ってるだろ」


 俺はリリアに支えられながら、空を見上げた。


「俺に未来はない」


『否定』


「だから、自分で作る」


 魔法陣が砕け散った。


 青い光が、星のように夜空へ消えていく。


 神殿騎士たちは武器を落とし、呆然としていた。


 彼らの身体を覆っていた未来の文字が、一斉に消えている。


 剣聖になる者。


 大魔導師になる者。


 英雄になる者。


 神から与えられていた未来が、失われた。


「私たちは……これから、どうすれば……」


 一人の騎士が震えながら呟いた。


「知らない」


 俺は答えた。


「自分で決めろ」


          ◇


 翌朝。


 エルン村の中央広場には、処刑台が残されていた。


 だが、その上に立つ者はいない。


 襲撃で亡くなった村人は十二人。


 リリアの父親も、その一人だった。


 神殿から来た騎士たちは拘束した。


 大司教には王都で、ラプラスが行っていた未来操作の証拠をすべて公表させる。


 俺たちが生きて王都へ辿り着ければ、の話だが。


「本当に行くんですか?」


 村の入り口で、リリアが尋ねた。


 彼女の背には小さな鞄がある。


 母親と弟は村に残った。


 リリアまで残れば、神殿が再び村を狙う可能性がある。


 何より、彼女自身が決着を望んでいた。


「ラプラスを止める」


 昨夜現れたのは、人工神が持つ力の一部にすぎない。


 本体は王都地下の神殿に存在する。


「神を倒すんですか?」


「人工物だ」


「千年間、世界を支配してきた人工物ですよ」


「怖いのか」


「怖いです」


 リリアは正直に答えた。


「でも、自分の未来を勝手に決められる方が、もっと怖い」


 朝日に照らされた少女の髪は、元の銀色へ戻っていた。


 魔王の角もない。


 ただし炎の力は残っているらしい。


 昨日よりも身体から強い魔力を感じる。


「それに」


 リリアが俺の隣に並んだ。


「約束しましたから」


「何を」


「お菓子のお店に連れていってくれるんでしょう?」


「神を倒したあとだ」


「先に行きましょう」


「遊びに行くんじゃない」


「いつ死ぬか分からないんですから、食べられるときに食べるべきです」


「お前、昨日まで処刑を受け入れていたとは思えないな」


「生きると決めたので」


 リリアは胸を張った。


「もう遠慮しません」


 昨日まで未来を選べなかった少女。


 神によって魔王になると決められた少女。


 その彼女が、自分の意思で一歩を踏み出す。


「カイルさん」


「なんだ」


「昨日の言葉、忘れないでくださいね」


「どれだ」


「私を王都へ連れていくっていう約束です」


「忘れない」


「十年後も一緒にいるっていう約束も」


「それを言ったのはお前だ」


「でも否定しませんでした」


「死にかけていたからな」


「では、今ここで約束してください」


「断る」


「どうしてですか?」


「十年後のことなど分からない」


 リリアは一瞬だけ寂しそうな顔をした。


 だが俺は続ける。


「だから、そのときになってから決める」


「……そうですね」


 少女は笑った。


「未来は、まだ決まっていませんから」


 王都へ続く道を歩き始める。


 この先に何があるのか、俺たちは知らない。


 ラプラスがどれほどの力を残しているのか。


 神殿がどれだけの追手を差し向けるのか。


 リリアが再び魔王になる可能性も、消えたわけではない。


 俺が彼女を殺す未来も。


 彼女が王都を滅ぼす未来も。


 あるいは、二人とも何者にもなれずに死ぬ未来もあるだろう。


 けれど、それでいい。


 未来とは、本来そういうものだ。


 正しい道を教えるものではない。


 与えられる力でも、逃れられない罪でもない。


 迷いながら、間違えながら、それでも自分で選び取るものだ。


「カイルさん!」


 少し先を歩くリリアが、振り返った。


「早くしてください。置いていきますよ」


「誰の護衛だと思っている」


「護衛だったんですか?」


「魔王を野放しにはできないからな」


「私はもう魔王ではありません」


「どうだか」


「ひどいです」


 頬を膨らませながら、それでも彼女は楽しそうに笑っていた。


 神は、俺たちの未来を知らない。


 俺たち自身も知らない。


 だからこそ。


 この一歩だけは、誰にも決められたものではなかった。


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