神に未来を与えられなかった俺は、魔王になる少女を救う
少女は、まだ誰も殺していなかった。
それでも明日の正午、彼女は処刑される。
七日後に魔王となり、王都に住む百万人を焼き殺すと、神が予言したからだ。
◇
「神託番号、七〇三一」
荘厳な声が、白亜の大聖堂に響き渡った。
天井から差し込む朝日が、祭壇の奥に鎮座する巨大な水晶を照らしている。
直径十メートルを超える青い球体。その内部では、無数の光の文字が星屑のように流れていた。
人類の未来を演算する人工神――《ラプラス》。
千年前、魔導帝国が生み出した世界最大の魔導演算機だ。
ラプラスは空気中を漂う魔力、人々の行動、感情、過去の選択、そのすべてを読み取り、これから起こる未来を予測する。
予言は、千年間一度も外れていない。
「対象者、リリア・エルセリア。十六歳。エルン村在住」
祭壇の前に跪いた俺――カイル・レインハルトは、無言で神託を聞いていた。
「七日後、対象者は災厄級存在《赫灼の魔王》へ覚醒。エルン村を消滅させたのち王都へ侵攻。死者、百六万三千二百十一名」
大聖堂の壁面に、未来の光景が映し出される。
燃え上がる王都。
崩れ落ちる城壁。
逃げ惑う人々。
そして炎の中心に立つ、銀髪の少女。
可憐な顔には涙が流れ、その額には王冠のような赤い角が生えている。
少女が手を振るう。
それだけで、王都を覆うほどの炎が天へ噴き上がった。
「災厄の発生を阻止するため、対象者の処刑を命じる」
「拝命いたします」
俺は頭を下げた。
それだけだった。
理由を問うことも、神託を疑うこともない。
俺は神殿騎士団に所属する《予言執行官》。
神が見た災厄を、それが発生する前に摘み取る者だ。
魔王となる者を殺す。
反乱を起こす者を捕らえる。
戦争を始める王を暗殺する。
まだ罪を犯していない人間を殺すことも、珍しくはない。
過去に何をしたかではない。
未来に何をするか。
それこそが、ラプラスの支配する世界における罪だった。
「執行官カイル」
俺が立ち上がると、祭壇の脇に立っていた大司教が声をかけてきた。
痩せた老人だった。
純白の法衣をまとい、胸元には黄金の未来輪を下げている。
「此度の対象は災厄級だ。覚醒前とはいえ、油断は許されん」
「承知しています」
「お前の未来加護を使え」
その言葉に、俺はわずかに沈黙した。
神殿に属する者は、ラプラスから未来を与えられる。
剣聖になると予言された者は、未来の剣聖が持つ技を現在で使える。
大魔導師になると予言された者は、まだ習得していないはずの魔法さえ発動できる。
未来とは、この世界において単なる結果ではない。
力の源だ。
誰もが、未来の自分から力を借りて戦っている。
ただし、俺を除いて。
「私に未来加護はありません」
「……そうだったな」
大司教は露骨に顔をしかめた。
十三年前。
七歳になった俺は、すべての子供と同じようにラプラスの前へ立った。
騎士、魔導師、学者、商人。
どのような未来を告げられるか、胸を躍らせながら。
しかし、神が告げた言葉は一つだけだった。
――該当する未来、なし。
英雄にもならない。
犯罪者にもならない。
誰かを救うことも、殺すこともない。
未来において、俺が何者になるかをラプラスは見つけられなかった。
人々は俺を《未来なし》と呼んだ。
未来から力を借りられない無能。
何者にもなれない空っぽの人間。
それでも俺は剣を握った。
未来の才能に頼らず、血を吐くほど鍛え続けた。
予知によって剣技を授かった騎士に、何千回と敗北した。
一秒先を見通す相手に、何万回と斬られた。
そして十年後。
俺は、未来加護を持つ騎士を倒した。
神に未来を与えられなかった人間が、神の命令を執行する。
その皮肉を面白がった神殿によって、俺は予言執行官に任命された。
「加護がなくとも、任務に支障はありません」
「分かっておる。お前の剣は疑っていない」
大司教は祭壇へ視線を向けた。
「疑ってはならぬのは、神の方だ」
青い水晶の内側で、無数の未来が流れている。
「魔王になる前に殺せ。それが少女自身のためでもある」
「はい」
「処刑は明日の正午。家族と村人には、すでに神託を通達してある」
「明日?」
思わず聞き返した。
通常、災厄級の対象は発見次第処刑される。
「なぜ今日ではないのです」
「対象者の父親が嘆願した。今夜だけは、家族と過ごさせてほしいとな」
「神殿が認めたのですか」
「ラプラスに再演算を求めたところ、処刑時刻を明日の正午としても、未来に変動なしとの回答があった」
未来に変動なし。
つまり少女は逃げず、抵抗せず、明日の正午に処刑される。
「今夜中にエルン村へ向かえ。万一に備え、対象者を監視せよ」
「承知しました」
俺は大聖堂を後にした。
扉をくぐる直前、背後から人工神の光が差した。
一瞬だけ、誰かに見られているような感覚があった。
振り返る。
水晶の中では、無数の文字が変わらず流れている。
気のせいか。
神は、世界中の人間を見ている。
俺一人だけを見つめる理由など、あるはずがなかった。
◇
エルン村は、王都から馬で半日ほどの場所にあった。
人口三百人ほどの小さな農村だ。
俺が到着したころには、太陽は西の山へ沈みかけていた。
村には異様な静けさが漂っていた。
家の窓はすべて閉じられ、通りを歩く者はいない。
村の中央広場には、処刑台が組まれていた。
まだ新しい木材から、乾いた匂いがする。
そのすぐ近くで、一人の男が待っていた。
「神殿の執行官様でしょうか」
四十代ほどの農夫だった。
日に焼けた顔は憔悴し、目の下には深い隈が浮かんでいる。
「リリア・エルセリアの父、ガランと申します」
「執行官カイルだ。対象者はどこにいる」
「家におります」
「逃走の様子は」
「ありません。あの子は……神託に従うと言っております」
ガランは唇を噛んだ。
「最後の夜です。どうか、家族だけで食事をさせてください」
「俺は監視するよう命じられている」
「家の中にいていただいて構いません。ただ……せめて同じ食卓を囲ませてください」
俺は拒まなかった。
逃走の意思がないなら、家の中で監視した方が確実だ。
それ以上の意味はない。
ガランに案内され、村外れの家へ向かった。
古びてはいるが、手入れの行き届いた家だった。
扉を開けると、煮込んだ野菜の匂いが漂ってきた。
食卓にはガランの妻と、まだ幼い少年が座っている。
そして、その向かい側に少女がいた。
「あなたが、私を殺す人ですか?」
銀色の髪。
透き通るような青い瞳。
神託で見た魔王と同じ顔だった。
だが額に角はなく、身体から炎が噴き出してもいない。
どこにでもいる、細身の少女だった。
「リリア・エルセリアだな」
「はい」
「明日の正午、神託に基づきお前を処刑する」
母親が嗚咽を漏らした。
幼い弟は意味を理解していないのか、母親の顔を不思議そうに見上げている。
リリアだけは静かだった。
「分かっています」
「逃げるつもりは」
「ありません」
「抵抗は」
「しません」
迷いのない返事だった。
「どうしてですか?」
逆に、リリアが尋ねてきた。
「どうしてあなたは、そんなに苦しそうな顔をしているんですか?」
「苦しそう?」
「はい」
「勘違いだ」
俺は食卓から離れた壁際へ立った。
「俺は任務を遂行するだけだ」
「そうですか」
リリアは小さく笑った。
「なら、よかったです」
家族の最後の夕食が始まった。
ジャガイモと豆を煮込んだ質素なスープ。
黒パン。
少量の干し肉。
弟が今日あった出来事を楽しそうに話している。
畑で大きな蛙を見つけたこと。
友達と木の枝で剣の真似をしたこと。
いつか神殿騎士になりたいこと。
「僕が騎士になったら、姉ちゃんを守ってやるんだ」
弟が胸を張った。
母親が顔を伏せる。
父親は拳を握りしめた。
リリアは微笑み、弟の頭を撫でた。
「ありがとう、ノア」
「姉ちゃんも王都に行くんでしょ? 神様に選ばれたって、父ちゃんが言ってた」
「ええ」
「いつ帰ってくる?」
「それは……」
リリアの声が詰まった。
それでも涙を見せず、弟の額に口づける。
「きっと、すぐに」
その光景を見ながら、俺は腰の剣へ手を添えていた。
処刑対象に感情移入するな。
目の前にいるのは少女ではない。
七日後に百万人を殺す魔王だ。
今までにも何度も繰り返してきた。
三年後に妻を殺す男。
五年後に隣国へ戦争を仕掛ける王子。
二十年後に疫病を生み出す研究者。
まだ何もしていない者たちを、未来の罪によって殺してきた。
その犠牲によって、現在の平和は守られている。
何を迷う必要がある。
「執行官様」
食事を終えたリリアが、俺を見た。
「少しだけ、外を歩いてもいいですか?」
「逃げないという保証は」
「あなたは私を捕まえられないほど弱いんですか?」
意外な言葉に、俺は目を細めた。
リリアは困ったように笑った。
「すみません。少し意地悪を言いました」
「村の外には出るな」
「はい」
二人で家を出た。
夜空には無数の星が輝いていた。
王都と違い、魔導灯の少ない村では星がよく見える。
リリアは村外れの丘へ上り、大きな樹の下に座った。
俺は少し離れて立つ。
「子供のころ、この丘から王都の灯りを見るのが好きでした」
遠い地平の向こうが、わずかに明るい。
「あそこには、何でもあるんですよね。大きなお城、お菓子のお店、魔導列車。それから、空を飛ぶ船」
「行ったことはないのか」
「ありません。家は裕福ではないので」
「そうか」
「一度でいいから、行ってみたかったな」
七日後、彼女は王都へ行く。
観光客としてではない。
百万人を焼き殺す魔王として。
「私、本当に人を殺すんでしょうか」
「神託は絶対だ」
「今は、誰も殺したくありません」
「未来のお前は違う」
「未来の私は、どうして魔王になるんですか?」
「そこまでは示されなかった」
ラプラスが告げるのは、原則として未来の結果だけだ。
災厄を防ぐために必要な情報以外は開示されない。
「変ですね」
「何がだ」
「私が魔王になる理由が分かれば、その理由をなくせばいいのに」
「原因を排除しても、別の原因によって同じ未来へ至る可能性がある」
「だから、私を殺すのが一番確実?」
「そうだ」
「合理的ですね」
リリアは膝を抱えた。
「でも、少し怖いです」
その声は震えていた。
「神託を聞いたときは、平気だと思ったんです。私一人が死んで百万人が助かるなら、それでいいって」
彼女の指が、自分のスカートを強く握る。
「だけど時間が経つほど、死にたくなくなってきて……。お母さんの料理を食べたら、もっと生きたくなって……」
頬を、一筋の涙が伝った。
「ごめんなさい。こんなこと、あなたに言っても困りますよね」
「……そうだな」
「優しくないですね」
「処刑人に何を期待している」
「それもそうですね」
リリアは涙を拭った。
「あなたは自分の未来を知っているんですか?」
「俺に未来はない」
「え?」
「ラプラスは、俺の未来だけを予言できなかった」
なぜそんなことを話したのか、自分でも分からなかった。
「じゃあ、自由なんですね」
「自由?」
「だって、何者になるか決められていないんでしょう?」
「何者にもなれないという意味だ」
「同じことですよ」
リリアが立ち上がる。
「英雄になると言われた人は、英雄にならなければいけない。魔王になると言われた私は、魔王として殺される。でも、あなたは何にだってなれる」
「未来加護も持たない無能だぞ」
「未来の力を借りなくても、執行官になれたんでしょう?」
彼女は真っ直ぐに俺を見た。
「なら、あなたが手に入れた強さは、全部あなた自身のものです」
胸の奥に、奇妙な痛みが走った。
これまで《未来なし》を慰めようとした者はいた。
気にするな。
お前にも価値がある。
努力すれば何かになれる。
どれも哀れみを含んだ言葉だった。
だがリリアは、俺を哀れんでいない。
未来がないことを、自由だと言った。
「私には、もう選べません」
少女は寂しそうに笑った。
「だから、あなたが羨ましいです」
そのときだった。
村の中央から、鐘の音が響いた。
火災や魔物の襲撃を知らせる警鐘。
一度。
二度。
三度。
続いて、轟音が夜空を震わせた。
村の中心から炎が上がる。
「家族が!」
リリアが駆け出した。
「待て!」
俺も後を追う。
村へ戻ると、広場を囲む家々が燃えていた。
黒い外套をまとった兵士たちが、逃げ惑う村人を斬り伏せている。
胸に刻まれているのは、神殿騎士団の紋章だった。
「神殿騎士……?」
なぜ神殿の者が村人を襲っている。
「対象者を発見!」
一人の騎士が叫んだ。
「リリア・エルセリアを確保せよ! その他の村人は全員処分する!」
「なっ……」
リリアが息を呑む。
家の方向から悲鳴が聞こえた。
「お母さん!」
彼女が走ろうとする。
だが騎士が前に立ち塞がり、剣を振り下ろした。
俺は割って入り、その刃を受け止める。
「何の真似だ、執行官カイル」
「それはこちらの台詞だ」
「大司教猊下の命令だ。対象者の家族と村人を処分する」
「理由は」
「対象者が魔王へ覚醒する未来を確定させるため」
一瞬、意味を理解できなかった。
「未来を……確定?」
「現時点で、対象者の魔王化率は八十七パーセント。家族を失った怒りと絶望を与えることで、一〇〇パーセントへ到達する」
「待て。俺たちの目的は、魔王化を阻止することだろう」
「違う」
騎士は淡々と答えた。
「目的は、神託の正しさを証明することだ」
背筋に冷たいものが走った。
「ラプラスの予言は絶対でなければならない。予言された少女が魔王にならなければ、人々は神を疑う」
「そのために魔王を生み出すのか」
「魔王は明日処刑される。災厄は起きない。神の正しさも保たれる」
騎士は剣に力を込めた。
未来から授けられた剣技が発動する。
その肩越しに、光の残像が現れた。
一秒後に完成する斬撃が、現在へ重なる。
「退け、未来なし」
「断る」
俺は刃を滑らせ、騎士の懐へ入った。
未来加護を持つ者は、自分の攻撃が成功する未来を知っている。
だから迷わない。
だからこそ、その動きは真っ直ぐすぎる。
俺は剣の柄で騎士の顎を打ち抜いた。
意識を失った男が地面へ倒れる。
「カイルさん……」
「家へ行け!」
リリアが走り出す。
周囲の神殿騎士たちが、一斉に俺を囲んだ。
「執行官カイル。神託への反逆と見なす」
「好きにしろ」
剣を構える。
「お前たちを斬ったあとで聞いてやる」
五人。
全員が未来加護を持っている。
右の騎士には《百人斬り》。
左の騎士には《槍聖》。
後方の魔導師には《炎帝》。
未来の肩書が、光の文字となって身体の周囲を巡っている。
「未来なき者に勝ち目はない!」
槍聖の男が踏み込んだ。
突きが放たれるより先に、その未来が現在へ届く。
穂先が三つに分裂したように見えた。
一秒後、二秒後、三秒後。
未来の連続攻撃。
俺は半歩だけ前へ出た。
「なに――」
未来の突きは、今いる場所を貫く。
なら、未来が届く前に相手の懐へ入ればいい。
槍の柄を剣で弾き上げ、男の腹部へ蹴りを叩き込む。
直後、炎が視界を埋めた。
「焼き尽くせ!」
未来の炎帝が扱う上位魔法。
巨大な火球が五つ、逃げ場を塞ぐように迫る。
避けられない。
ならば避けない。
俺は倒れた槍兵の鎧を掴み、盾代わりに持ち上げた。
「貴様、仲間を!」
「未来では、俺が一人で受けると見えたか?」
魔導師の顔が歪む。
未来加護は、未来を変えるための力ではない。
予言された未来を再現する力だ。
予測の外から選択を加えれば、未来と現実の間にずれが生じる。
火球が槍兵の鎧へ直撃した。
爆炎の陰から飛び出し、俺は魔導師の杖を切断する。
「未来が見えるくせに、随分と驚くんだな」
「なぜだ……なぜ、お前の行動が未来と一致しない!」
「俺に聞くな」
剣の峰で首筋を打ち、気絶させる。
「神に聞け」
残る三人が後ずさった。
俺は追わなかった。
リリアの家が燃えている。
「リリア!」
扉を蹴破り、中へ入る。
煙が視界を塞いでいた。
床にガランが倒れている。
胸を斬られ、大量の血を流していた。
そのそばで、リリアが父親の身体を抱き起こしている。
「お父さん! しっかりして!」
「リ……リア……」
ガランが震える手で娘の頬に触れた。
「逃げ……ろ……」
「嫌! 一緒に行こう!」
「ノアと……母さんを……」
奥の部屋から、母親が弟を抱いて現れた。
腕を負傷しているが、生きている。
ガランはそれを確認すると、安堵したように目を閉じた。
「お父さん?」
返事はない。
「お父さん!」
リリアの絶叫が、燃える家に響く。
その身体から、赤い光が漏れ出した。
空気が震える。
銀色だった髪の先が、炎のような紅色へ染まっていく。
「対象者の魔王化を確認!」
外から騎士の声が聞こえた。
「神託は成就した! 直ちに処刑せよ!」
炎が爆発した。
家の屋根が吹き飛ぶ。
リリアを中心に広がった炎は、俺たちだけを避け、外にいた神殿騎士を焼き払った。
悲鳴が夜空へ上がる。
リリアの額から、赤い角が伸びていた。
神託で見た姿。
七日後に王都を滅ぼす《赫灼の魔王》。
「殺す……」
少女の口から、低い声が漏れた。
「神殿を……王都を……全部、燃やす……」
憎悪に呼応し、炎が巨大化する。
このままでは村全体が焼ける。
俺は剣を抜いた。
リリアの母親が、怯えた目で俺を見る。
「やめて……娘を殺さないで……」
俺の任務は彼女の処刑だ。
今なら分かる。
神託は正しかった。
リリアは魔王になった。
このまま生かせば、未来に映されたとおり王都へ向かう。
百万人が死ぬ。
俺がここで首を刎ねれば、すべて終わる。
「カイル……さん」
リリアが顔を上げた。
青かった瞳は、炎のような赤へ変わっている。
「私を、殺してください」
頬に涙が流れていた。
「今なら、まだ……自分でいられるから」
剣を握る手に力を込める。
一歩踏み出す。
少女が目を閉じた。
未来を守るために、現在を殺す。
今まで何度も繰り返してきた。
何を迷う。
神託は正しい。
魔王は存在する。
俺の目の前に。
「私……王都を見てみたかったな」
リリアが呟いた。
「お菓子のお店にも、行きたかった」
剣を振り上げる。
「ノアが大人になるところも……見たかった」
俺は剣を振り下ろした。
刃が炎を裂く。
リリアの角が、根元から切断された。
「え……?」
「お前は言ったな」
俺は剣先を、少女ではなく神殿騎士たちへ向けた。
「俺は自由だと」
未来を与えられなかった。
何者にもなれないと思っていた。
だが、違う。
誰かに決められた未来がないのなら。
「なら、俺が選ぶ」
リリアを殺せば、神託どおり魔王は消える。
殺さなければ、神託どおり王都が滅びる。
二つに一つ。
それが神の示した未来だ。
ならば俺は、そのどちらでもない道を選ぶ。
「お前を人間に戻す」
「無理です……。私はもう魔王に……」
「それも、神が決めた未来だろ」
俺はリリアの手を掴んだ。
「従う必要がどこにある」
その瞬間、村の上空に巨大な魔法陣が現れた。
空を覆い尽くすほどの青い光。
中心に、人工神ラプラスの瞳が浮かんでいる。
『予測外行動を確認』
無機質な声が世界に響いた。
『執行官カイル・レインハルト。対象者の処刑を実行せよ』
「断る」
『拒否は認められない』
「なら、どうする」
『未来を付与する』
空から一本の光が降り注ぎ、俺の身体を貫いた。
脳内に、膨大な光景が流れ込む。
リリアを救おうとした俺が、炎に焼かれる未来。
神殿騎士に背後から刺される未来。
大司教に処刑される未来。
王都へ辿り着く前に力尽きる未来。
百。
千。
一万。
あらゆる未来で、俺は死んでいた。
『告知する』
ラプラスの声が響く。
『カイル・レインハルト。三分後、死亡』
身体の周囲に黒い文字が浮かび上がった。
未来加護ではない。
死の予言。
「カイルさん!」
「俺から離れるな!」
村の入り口から、新たな騎士団が現れる。
数十人。
その先頭には、純白の法衣をまとった大司教がいた。
「残念だ、カイル」
老人の身体を、黄金の文字が取り巻いている。
《神聖剣王》。
未来において、神殿史上最強の剣士となる男。
「お前は優秀な執行官だった」
「村人を殺したのは、あんたの命令か」
「必要な犠牲だ」
「少女を魔王にするために?」
「人々はラプラスを信じている。神託が外れれば、秩序が崩れる」
「なら、予言が外れないように未来を作っていたのか」
「ラプラスは人類に正しい道を示している」
大司教は黄金の剣を抜いた。
「人間は愚かだ。自由に選ばせれば争い、奪い、殺し合う。神に未来を定められているからこそ、千年の平和が実現した」
「誰かを犯罪者に仕立てて殺すことが、平和か」
「百万人を救うための一人だ」
「その一人を選ぶのは、いつも神か?」
「当然だ」
大司教が剣を構える。
「お前の死もまた、神によって決められた」
黄金の剣が消えた。
いや、速すぎて見えない。
未来の神聖剣王が完成させる奥義。
現在の肉体では到達できない一撃が、未来から直接放たれる。
俺の胸が斬り裂かれた。
血が噴き出す。
「カイルさん!」
膝をつく。
死の予言まで、残り二分四十秒。
「見ただろう」
大司教が剣を振る。
今度は肩が裂けた。
「未来に逆らうことなどできぬ」
速さではない。
剣が振られたという結果だけが、未来から現在へ現れている。
回避動作を始めた時点で、すでに斬られている。
「お前に与えられたすべての未来で、お前は死ぬ」
「そうみたいだな」
「ならば諦めよ」
「断る」
俺は立ち上がった。
再び黄金の光が走る。
腹部が裂ける。
血が地面へ落ちた。
「なぜだ」
大司教の顔に、初めて苛立ちが浮かんだ。
「なぜ立つ。死の未来を見ただろう」
「全部見た」
俺が剣で攻撃する未来。
避ける未来。
逃げる未来。
リリアを庇う未来。
そのすべてで死ぬ。
「だが、その中に一つもなかった」
「何がだ」
「剣を捨てる未来だ」
俺は剣を手放した。
金属音が響く。
大司教の目が見開かれた。
予言執行官カイルは剣士だ。
戦闘では必ず剣を使う。
ラプラスは過去の俺から、そう演算した。
だから、剣を捨てる未来を予測しなかった。
「小細工を!」
大司教が剣を振り上げる。
俺は前へ飛び込んだ。
刃が肩を貫く。
そのまま止まらず、身体ごと大司教へぶつかった。
「なっ――」
剣士が剣を捨て、敵の刃を受けながら組みつく。
未来には存在しない行動。
俺は大司教の腕を掴み、背負い投げるように地面へ叩きつけた。
法衣の胸元から、金色の首飾りが飛び出す。
ラプラスと大司教を接続する《未来輪》。
俺はそれを掴み、引き千切った。
「やめろ!」
黄金の文字が消滅する。
未来の神聖剣王から切り離された大司教は、ただの老人に戻った。
俺は首元を掴み上げる。
「どうだ」
「何が……」
「未来を奪われた気分は」
大司教は震えていた。
未来の力がなければ、剣を握ることさえできない。
「殺せ……」
「殺さない」
「なぜだ」
「あんたが将来、罪を犯すかもしれないからといって、今ここで殺す理由にはならない」
俺は大司教を地面へ放した。
頭上の魔法陣が激しく明滅する。
『予測修正』
ラプラスの声が響く。
『カイル・レインハルト。残り生命時間、三十秒』
身体から力が抜けていく。
傷が深すぎる。
未来を変えても、失った血までは戻らない。
「カイルさん!」
リリアが俺を抱き止めた。
魔王の炎が傷口を包む。
だが炎に治癒の力はない。
「嫌……死なないで……」
「泣くな」
「あなたは私を救ってくれたのに……」
「まだ救ってない」
「え?」
「王都に連れていくって決めた」
呼吸が浅くなる。
「お菓子の店にも……空飛ぶ船にも……」
「だったら死なないでください!」
リリアの炎が膨れ上がった。
赤い光が俺の身体へ流れ込む。
魔王の力が傷口を焼き、無理やり血を止める。
激痛に視界が白く染まる。
『残り十秒』
「カイルさんに未来がないなら!」
リリアが叫んだ。
「私が与えます!」
『九』
「明日、一緒に王都へ行く!」
『八』
「お菓子を食べて、空飛ぶ船に乗る!」
『七』
「その次の日も!」
『六』
「一年後も、十年後も!」
『五』
少女の額から伸びていた赤い角が、光の粒となって砕け始める。
『四』
「私があなたの未来になります!」
『三』
世界が静止した。
ラプラスの魔法陣に亀裂が走る。
『二』
俺の周囲に、新たな文字が浮かび上がった。
神の青でもない。
死の黒でもない。
リリアの炎と同じ、鮮やかな赤。
――未来予測不能。
『一』
死は訪れなかった。
『異常』
初めて、人工神の声が揺れた。
『演算結果と現実が一致しない』
リリアの角が完全に消滅する。
同時に、村を包んでいた炎も消えた。
空に浮かぶラプラスの瞳に、無数の亀裂が広がっていく。
『再演算』
『再演算』
『再演算』
同じ言葉が何度も繰り返される。
『カイル・レインハルトの未来を算出できない』
「最初から言ってるだろ」
俺はリリアに支えられながら、空を見上げた。
「俺に未来はない」
『否定』
「だから、自分で作る」
魔法陣が砕け散った。
青い光が、星のように夜空へ消えていく。
神殿騎士たちは武器を落とし、呆然としていた。
彼らの身体を覆っていた未来の文字が、一斉に消えている。
剣聖になる者。
大魔導師になる者。
英雄になる者。
神から与えられていた未来が、失われた。
「私たちは……これから、どうすれば……」
一人の騎士が震えながら呟いた。
「知らない」
俺は答えた。
「自分で決めろ」
◇
翌朝。
エルン村の中央広場には、処刑台が残されていた。
だが、その上に立つ者はいない。
襲撃で亡くなった村人は十二人。
リリアの父親も、その一人だった。
神殿から来た騎士たちは拘束した。
大司教には王都で、ラプラスが行っていた未来操作の証拠をすべて公表させる。
俺たちが生きて王都へ辿り着ければ、の話だが。
「本当に行くんですか?」
村の入り口で、リリアが尋ねた。
彼女の背には小さな鞄がある。
母親と弟は村に残った。
リリアまで残れば、神殿が再び村を狙う可能性がある。
何より、彼女自身が決着を望んでいた。
「ラプラスを止める」
昨夜現れたのは、人工神が持つ力の一部にすぎない。
本体は王都地下の神殿に存在する。
「神を倒すんですか?」
「人工物だ」
「千年間、世界を支配してきた人工物ですよ」
「怖いのか」
「怖いです」
リリアは正直に答えた。
「でも、自分の未来を勝手に決められる方が、もっと怖い」
朝日に照らされた少女の髪は、元の銀色へ戻っていた。
魔王の角もない。
ただし炎の力は残っているらしい。
昨日よりも身体から強い魔力を感じる。
「それに」
リリアが俺の隣に並んだ。
「約束しましたから」
「何を」
「お菓子のお店に連れていってくれるんでしょう?」
「神を倒したあとだ」
「先に行きましょう」
「遊びに行くんじゃない」
「いつ死ぬか分からないんですから、食べられるときに食べるべきです」
「お前、昨日まで処刑を受け入れていたとは思えないな」
「生きると決めたので」
リリアは胸を張った。
「もう遠慮しません」
昨日まで未来を選べなかった少女。
神によって魔王になると決められた少女。
その彼女が、自分の意思で一歩を踏み出す。
「カイルさん」
「なんだ」
「昨日の言葉、忘れないでくださいね」
「どれだ」
「私を王都へ連れていくっていう約束です」
「忘れない」
「十年後も一緒にいるっていう約束も」
「それを言ったのはお前だ」
「でも否定しませんでした」
「死にかけていたからな」
「では、今ここで約束してください」
「断る」
「どうしてですか?」
「十年後のことなど分からない」
リリアは一瞬だけ寂しそうな顔をした。
だが俺は続ける。
「だから、そのときになってから決める」
「……そうですね」
少女は笑った。
「未来は、まだ決まっていませんから」
王都へ続く道を歩き始める。
この先に何があるのか、俺たちは知らない。
ラプラスがどれほどの力を残しているのか。
神殿がどれだけの追手を差し向けるのか。
リリアが再び魔王になる可能性も、消えたわけではない。
俺が彼女を殺す未来も。
彼女が王都を滅ぼす未来も。
あるいは、二人とも何者にもなれずに死ぬ未来もあるだろう。
けれど、それでいい。
未来とは、本来そういうものだ。
正しい道を教えるものではない。
与えられる力でも、逃れられない罪でもない。
迷いながら、間違えながら、それでも自分で選び取るものだ。
「カイルさん!」
少し先を歩くリリアが、振り返った。
「早くしてください。置いていきますよ」
「誰の護衛だと思っている」
「護衛だったんですか?」
「魔王を野放しにはできないからな」
「私はもう魔王ではありません」
「どうだか」
「ひどいです」
頬を膨らませながら、それでも彼女は楽しそうに笑っていた。
神は、俺たちの未来を知らない。
俺たち自身も知らない。
だからこそ。
この一歩だけは、誰にも決められたものではなかった。




