第五話 デート
「おはようございます、公女さま」
「……おはようございます、サザーランド様。サザーランド様も、魔導具をつけていらっしゃるのですね」
「折角ですので」
約束を交わしてから十日後、アイリスとレイは平民街の一角にお忍びで来ていた。
アイリスは茶色の髪と同じ色の目をした地味な女子に、レイも同じように地味な男子に見えている。声をかけられなければ、分からなかっただろう。
「御名をお呼びしても構いませんか」
「――そうですね、肩書きで呼んでは、お忍びにはなりませんし。では、わたくしも……私も、レイと呼ばせていただきます」
「はい。行きましょう」
アイリスとレイは一歩分の距離を置いて街を歩いた。祭りの時とは違って屋台はないけれど、人が行き交い子供が遊ぶ様は平和を感じさせる。
「アイリス」
「はい」
不意にレイが足を止めた。
「食べ歩き、というものを致しませんか」
「食べ歩き」
「平民は、時として歩きながら物を食べるそうです」
「試してみましょう」
二人は通りに面した店に近づく。野菜と肉を薄い生地で巻いた、ロールという食べ物を売っていた。
「ロールを二つください」
「はいよっ! おふたりさん、デートかい?」
「はい、デートです」
「ははっ、おあついねぇ!――ちょうどだね、まいどありっ!」
この店主、口の動きと声が違う。しかしアイリスは初見で読み解けないので、レイ宛の暗号であろうか。レイは僅かに眉根を寄せた。今か、と呟いた声は、アイリスにしか聞こえなかっただろう。
「レイ、お金を」
「お気になさらず。私財です」
「……ありがとうございます」
熱いうちに食べましょう、と差し出されたロールは仄かに熱を持っている。
毒入りだろうか。死んだところで公爵家は微塵も揺らがないし、嘆く人もいないから、構いはしないが。
齧り付くと、口いっぱいに肉の旨みが広がった美味しい。隣を見ると、レイも美味しそうに頬張っている。
「美味しいですね」
「はい」
「歩きながら、食べられそうですか?」
「やってみましょう」
食べ歩きというのは、なかなか楽しいものだった。うっかり中の具が落ちそうになったり、喉に詰まらせそうになったけれど。
汚れた手を持て余していると、レイがこっそり魔術で綺麗にしてくれた。見られなければ良いのです、と口元に人差し指を立てて笑った。この手で、魔術で、幾多の命を奪ったのか、アイリスは知らない。知る必要もない。いつかその数にアイリスの分が追加されるだけのことだ。
「アイリス」
「はい」
「お目汚しいたしますこと、お詫び申し上げます」
先程の暗号の件だろうか。お気になさらず、とアイリスは答えた。他に答えようもない。ありがとうございます、とレイは頭を下げた。
それからすぐに、レイは奥まった道にアイリスを誘った。不思議に思いつつついていくと、薔薇で覆われたアーチが現れる。アーチには小さく、カフェという額がかけられていた。
「もうお腹はいっぱいでしょうか?」
「いえ」
「季節のフルーツタルトがお薦めだそうです」
「なるほど」
店は庭園の中にあった。色とりどりの薔薇が咲き乱れ、澄んだ池には魚が泳いでいる。奥まった立地でなければ、人でごった返しているだろう。
アイリスとレイは連れ立って店に入った。アンティークの多い店はこじんまりとしていて、人は少ない。待たずに座席に案内された。アイリスは季節のフルーツタルトを、レイはビターチョコレートを注文する。タルトとチョコレートの前に紅茶が供され、アイリスは一息ついた。
「……素敵な場所ですね」
「気に入っていただけて何よりです」
「知る人ぞ知る、と仰っていましたが、王都によく降りていらっしゃる?」
「いえ。二番目の姉に聞きました。仕事柄、よく街に降りておりますので」
「そうでしたか」
であれば、ここはサザーランド家の仕事場としても使われるのかもしれない。
サザーランド家は諜報と暗殺を司る。子女は己の適性に合わせて職を選んでおり、活動範囲も幅広い。確か二番目の姉は騎士団に所属し、王都警備をしているはずだ。
「アイリス」
「はい」
「どうか、振り向かれぬよう」
レイの瞳の中に紋様が浮かぶ。しかしその視線はアイリスではなく、更に後方に注がれていた。魔術か、と思った刹那、アイリスの背後で皿が割れた。陶器の砕ける音と、カトラリーが落ちる音が響く。けれど振り向かれぬよう、と言われたので振り返らなかった。静寂が広がり、次いで女性が絶叫した。席を立つ音、椅子をひっくり返す音。皆の視線はアイリスの背後に集中しており、レイの奥で立ち上がった女性は泡を吹いて卒倒していた。
「いやぁあぁあああああ、マリア!」
どうやらマリアという名の女性が倒れたらしい。いや、殺されたと言うべきだろうか。アイリスはティーカップを手に取った。
「鼓膜が破れそうですね」
レイは僅かばかり目を見開いた。
「……つい先程、仕事を請け負いました。これで、38件目です」
「左様ですか」
やはり先程の屋台の主人からの暗号であったか。もう少し早く通達してくれたらいいものを。
「折角なら、タルトを食べてからにしていただきたかったです」
「……それは、申し訳ありません」
今日はもう、タルトにありつくのは不可能だろう。何せ店員も含めて、皆が騒ぎ立て、あたりは阿鼻叫喚だ。落ち着いて席に座っているのは、アイリスとレイくらいなものである。
「わたくしの時は、もう少し静かな、人の少ない場所でお願いできまして?」
レイはアイリスを見つめ、頭を下げる。奇麗な礼は、背後で慌てふためく人々との対比で鮮やかだった。
「――畏まりました」