番外編 あなたの為ならば 上
この人がいい。
そう思ったのは、まだ十にもならぬ頃だった。
***
ギルバート=アーロン・グランヴィルは筆頭公爵の嫡孫として生を受けた。その後母は二度懐妊したが片方は流産、片方は死産で、結局子供はギルバートだけだった。愛のない政略結婚をした両親は不仲で、互いにこっそりと愛人を囲っていた。もしかしたら母の二度の懐妊は、愛人との間の子であったかもしれない。乳母はいたが、ギルバートが3歳を迎える前に産褥であっさりこの世を去ってしまった。ゆえに、ギルバートは誰かに愛された記憶というのを持たなかった。
ギルバートは筆頭公爵になるべく、英才教育を受けて育った。幼い頃から毒に慣らされ、勉学も武術も出来るようになるまで鞭で叩かれた。ギルバートは痛みと共に知識を吸収した。7歳になる頃には、寄宿学校を卒業した子息と同じ程度の知識を蓄えていた。ギルバートは父が望むよりも遥かに優秀だったのだ。
ギルバートが父の付き添いとして初めて王宮に参内したのは、8歳の時だった。2つ年上の王太女が側近を求めていたためだった。
「ああ、君がグランヴィル公子か。初めましてだな、私はジュリアン=アデライード・ディル・ノーリッシュ。よろしく頼む」
黄金の髪と瞳をした少女は、溌剌とした笑みを浮かべていた。ギルバートにとって、それは初めてに近い、誰かから与えられた笑みだった。ギルバートは思わず呆然とし、我に返って慌てて頭を下げた。
「......初めてお目にかかります。グランヴィル公爵が嫡孫、ギルバート=アーロン・グランヴィルと申します。王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「堅苦しい挨拶はよしてくれ。君はとても頭がいいと聞いている。是非色々と話してみたい」
「王太子殿下のお望みのように」
「だから堅苦しい挨拶はいいと言うのに」
王太子は朗らかな人だった。常に笑みを浮かべ、どうしたら国をよりよくさせられるかを考えていた。ギルバートは初めその熱量を理解できなかった。
「――だって、私が統治してみんなが笑顔になったら嬉しいじゃないか。単純だけどさ」
「笑顔......」
「そうだ! 君に欠けている笑顔だ! もーどうしたら君は笑うんだ? 困ったものだ」
「笑顔の方が、良いのでしょうか」
「当たり前だ! それにな、知っているか? 君は笑顔の方がずっと素敵なんだぞ」
弾けるような笑みを浮かべて言われた言葉を、ギルバートは今でも覚えている。
***
「お悔やみ申し上げます」
「まだお若い方でしたのに」
「ご子息はまだ9歳でしょう? お可哀想に」
ギルバートの父が死んだのは9歳の時だった。祖父と馬車に乗っていた時の事故だった。祖父は55歳の高齢で、寝たきりとなってしまったが、幸いにも命は助かった。一方父は32歳と若く、突然の死に皆が悲しんでいた。寝たきりの祖父に代わり、ギルバートが執務をこなすようになった。次第にギルバートは実権を握り、影や騎士団も徐々にギルバートに忠誠を誓い始めた。執務の都合上、王太子の側近を辞めざるを得なかったのが残念ではあったが、一時のことだと己を叱咤した。
ギルバートの祖父が亡くなったのはそれから4年後のことだった。最後の1年は寝ている日の方が多く、誰もが覚悟はしていたので、父の時ほどの衝撃はないようだった。ギルバートは成人前であったがこれまで執務をこなしていたことも鑑み、公爵位を継ぐ運びとなった。祖父の介護もあったため、王宮に参内するのは実に3年半ぶりだった。公爵位を授けられた後、ギルバートは国王に呼び止められた。
「グランヴィル公。君はまだ婚約者がいないが、既に決まった女性がいるのかね?」
「いえ。お恥ずかしながら、父が急逝し、祖父も寝たきりとなり、それどころではなかったもので......そろそろ探さねば、とは思っているのですが」
「おお、そうか! それはちょうどいい」
国王は目に見えて喜んだ。
「実はな、第一王子に位を譲ろうと考えているのだ。ジュリアンの嫁ぎ先に困っていてな。他国の王太子は軒並み婚約しているし、ウォルフォード公爵家だと従兄弟だ、ちと血が近い。オブライエンの息子、とも思ったのだが、年が離れているであろう? どうだ、グランヴィル公。そなたはかつてジュリアンの側近候補でもあったし、悪い話でもなかろう」
「ありがたいお話ですが、王太子殿下はどうお考えなのでしょうか? 私は殿下より二つ年下の若輩者です。殿下がご不快に思われるのは望みません」
「何、気にすることはない。上手く説得しておこう。まあ、あと1年ほど待ってくれ。王子が3歳になるのを待たねばな」
国王はくれぐれもジュリアンには言わぬよう、と念押しすると、上機嫌に去って行った。
この頃、王宮は第一王子の誕生で沸いていた。まだ2歳であるため立太子はされていなかったが、3歳を過ぎたら立太子されるだろうと囁かれていた。国王の様子を見る限り、事実なのだろう。王太子に会いたかったが、残念ながら断られてしまった。そろそろ冬支度をしなければならない時期でもあったので、ギルバートは早々に王都を発った。
***
ギルバートとジュリアンの婚約は、国王が言った通り1年後にはまとまった。王太子は第一王女に戻り、第一王子が立太子されたのだ。顔合わせの日、ジュリアンは部屋に籠って出てこなかった。国王は立腹して扉を壊せ、とまで言ったが、ギルバートは王女殿下もまだ心の整理ができていないのでしょう、王女殿下がいいと仰るまではお会いしないようにいたします、と言った。国王は感激した様子で、ジュリアンに会うために参内することを認めてくれた。ギルバートは3日に一度手紙を書き、折に触れて贈り物を贈った。ジュリアンは梃子でも会おうとしなかったが、ギルバートは気にしなかった。
婚約してから2年、ようやく結婚式の日を迎えた。白い花嫁衣裳を着たジュリアンは今にも死にそうな顔をしていた。ジュリアンは初夜を拒否したが、ギルバートはそれも受け入れた。けれど、毎晩食事を共にすることだけは願った。ジュリアンは渋々ながらもそれを許してくれた。体調を崩した時には、仕事を休み必ず看病した。その甲斐もあって、次第にジュリアンはギルバートに心を開いてくれるようになった。
「ギルバート」
「はい、ジュリアン」
「長い間、私はそなたを受け入れなかった。だが......その、つまり。私も、そなたを好きになった」
ギルバートは思わずナイフを取り落とした。視線の先で、ジュリアンは気恥ずかしそうに俯いていた。
「今更過ぎることは分かっている。婚約してから2年、結婚してから1年も、そなたに向き合ってこなかったのだから」
「いえ、いえ、とても嬉しいです」
ギルバートは声を弾ませた。席を立ち、ジュリアンの隣に腰かける。
「その、口づけてもいいですか?」
「......聞かなくてもいい」
ジュリアンはそっと目を閉じた。ギルバートは逸る気持ちを抑え、そっと口づけを落とした。
「ジュリアン......あなたと、真の意味で夫婦になりたいです」
「......私も、そう思っていた」
その日の夜、ふたりは体を重ねた。事を終え、腕の中ですやすやと寝息を立てるジュリアンを見て、ギルバートは目を細める。
「あぁ......ようやく、あなたが手に入った」
長かった。
父と祖父を殺して公爵位を手に入れ、国王に精強剤を盛り、他の公爵家の子息の婚約話を誘導し。王子がすぐに生まれたのは幸いだった。そうでなければ王妃に別の種を仕込ませねばならないところだった。
ギルバートはそっとジュリアンの黄金色の髪を掬った。
「――もう、離さない」




