番外編 どうしても、愛せなかった 下
前述した通り、初めジュリアンは娘のアイリスを愛した。己の苦悩を分かってくれる存在として期待した。
それが揺らいだのは、アイリスが4歳になる少し前のことだった。社交界で、聞き捨てならない噂を耳にしたのだ。
「ギルバート!」
「ジュリア、どうしたんだい、そんなに慌てて」
「ねえ、嘘でしょう? セオドリックが王位を継ぐわけがないよな?」
ギルバートはほんの一瞬、息を止めた。それだけで十分だった。ジュリアンはふらふらとソファに倒れ込んだ。すまない、とギルバートはジュリアンを抱きしめた。
「僕もその噂は聞いていたんだ。陛下は12、3の頃からあちらこちらの侍女に手を付けておられるが、誰一人として懐妊した者がいない。もしかすると何か機能に問題があるのかもしれない、と......だが、妃殿下と結婚されたばかりだし、セオドリックが王位を継ぐ可能性は低いと思うよ」
「もしセオドリックが王位を継いだら、公爵位はどうなるの」
「......アイリスに継がせることになるだろう」
ジュリアンは目を見開いた。衝撃が体を包み、言葉を発することが出来なかった。
「そんな......どうして.......」
「飽くまで可能性の話だ。済まない。あなたを不安にさせたくなかったんだ」
ギルバートの腕に抱かれながら、ジュリアンの脳裏にはどうして、という言葉しか浮かばなかった。
——その日から、娘はジュリアンの理解者ではなくなった。憎むべき敵となったのだ。
ジュリアンは徹底して娘を避けた。母と呼ばれることさえも我慢ならなかった。唯一顔を合わせる誕生日には、憎悪が噴き出して絞め殺したくて堪らなくなった。ギルバートは随分悩んでいたが、ジュリアンの気が済むなら、と許してくれた。
それから月日が過ぎ、結局弟王は子に恵まれず、息子が立太子され、娘が公爵になることが決まった。
ジュリアンは、もう限界だった。
「ギルバート」
「なんだい、ジュリア」
「あの娘を、殺して」
もう、ジュリアンは息子と娘の名前を憶えていなかった。
ジュリアンの望み通り、ギルバートは暗殺者を雇った。諜報と暗殺を司るサザーランド家の次男で、婚約という形でいつでも殺せるようにした、と聞いた時は嬉しくて仕方がなかった。あなたが望むときに依頼を遂行させるよ、と言われ、あの娘が一番幸福に浸りそうな時に殺してもらおうと決めた。
——なのに、婚約をしてから2年後。15歳になったばかりの娘は、ジュリアンを逆に殺そうとし、ギルバートを脅迫して暗殺命令を取り下げさせたのだ。
あの時の衝撃をなんと形容しようか。従順なぬいぐるみに意思があったと理解して、ジュリアンは心底驚いたのだ。ジュリアンの命を狙うような娘と一緒にいたくない、とギルバートが言うので、極力顔を合わせないようにして、誕生日も会わなくなった。時折堪えきれない激情が爆発することもあるけれど、そういうときは一頻り喚くと落ち着いた。こうすればよかったのかもしれない、と思ったこともあったが、結局生きている限り息子と娘を憎しみ続けはするのだろうとも思う。
「なあ、ギル」
「うん?」
「済まないな。もし私以外が妻であれば、仲のいい家族というのも夢ではなかったろうに」
「何を言うんだい。あなたが妻であること以上に幸福なことはないよ」
「......そうか」
結婚して20年も経つのに、よくこんな歯の浮くような台詞を言えるな、とジュリアンは思う。勿論、嬉しいことに違いはないのだが。
「そうだ、今度、旅行に行きたいな。成人したから、あの子に色々と執務を任せることもできるし」
「旅行.....? どこに」
「どこへでも。あなたがいるならどこだって素敵になるから」
「旅行の意味がないじゃないか」
あれほんとだ、とギルバートは照れたように笑う。ジュリアンは目を細めた。
思うようにいかなかった自分の生涯で唯一良いことがあるとすれば、それはこの夫を得たことだろう。
「そうだな、東に行きたいな。海もいい」
「いいね。計画を立てておくよ」
いつもと変わらぬ穏やかな声を聞きながら、ジュリアンはそっと目を閉じた。




