番外編 婚約者が美しすぎる件について 後
建国祭の宴。ブリュンヒルデは初めて王太子の婚約者として紹介された。刺すような視線にはとうに慣れている。大方、美しい王太子に似合わないとでも囁かれているのだろう。兄弟と比べられ、存在すら忘れられていたブリュンヒルデからしてみれば、痛くも痒くもない。
療養中の国王に代わり、王太子が宴を取り仕切った。ファーストダンスを踊ると、位の高い貴族から順次挨拶に訪れる。
初めはグランヴィル公爵家であった。婚約者の実の両親と妹がいるので、婚約者の仮面は取れるだろうかと見守っていたが、寧ろ仮面はより厚く、より固くなったような気がした。家族との仲を邪推されないように敢えて距離を置いた発言をしているのか、それとも元々なのか、ブリュンヒルデには判じる術がない。公爵夫妻は穏やかそうに見えるが、穏やかなだけであれば筆頭公爵の地位を守り抜くことなどできはしない。
公爵夫妻から公女に視線を移し、ブリュンヒルデは知らず知らずのうちに唾を飲んだ。肖像画と実物は、やはり異なる。造形は王太子に似ている、と思う。ただ、血のような鮮烈な紅の瞳に見つめられると、どうしてか恐ろしさを感じた。
けれど、どうしてだろう。
婚約者は公爵夫妻と話をしている時よりも、ずっと優しげな表情を浮かべていた気がした。
怒涛の挨拶が終わると、既に宴もたけなわであった。ブリュンヒルデは早々に床につき、婚約者と会話したのは翌日のことであった。
「昨日は挨拶も多くお疲れになったでしょう」
「いえ、とても有意義な時間でした」
「嬉しいお言葉です」
たわいもない会話が続く。沈黙が落ちた一瞬に、ブリュンヒルデは言葉を挟んだ。
「......殿下は、公女さまと仲がよろしいのですね」
婚約者は僅かに目を見開いた。思ってもいない言葉であったらしい。この時初めて、婚約者の素に触れた気がした。
「......立場は異なれど、妹ですから。もしや贔屓していると思われてしまいましたか?」
「そのようなことはございません。わたくしも兄弟がおります身、王太子殿下と公女さまの仲の良いご兄妹であるかと愚考いたしました」
「ああ、王女殿下の御兄弟のお話はこちらにも伝わってきております。兄君は既に賢君と呼ばれておられるとか。私も兄君に劣らぬよう精進せねばなりませんね」
さりげなく、話がすり替えられる。それで、婚約者の琴線は家族のことだと理解した。婚約者と腹を割って話すには随分時間がかかるだろうとも。
親しそうに見えた妹のことでさえも話したがらないのであれば、仮面が厚くなった両親との間には深い溝があるのだろう。ただ、それがいかなるものであるのか、事前調査とこれまでの会話では、とんと見当がつかなかった。
***
月日は巡る。ブリュンヒルデは名残惜しくも家族と別れ、バルシュミーデ王国を去った。今後、外交以外で母国を訪れることはないだろう。来たる春、ブリュンヒルデはデューア王国の王妃となる。
この1年間、婚約者とは相変わらずの文通が続いていた。年明けは即位式で随分忙しかっただろうが、手紙には忙しさや疲れのことなど全く書かれていなかった。ブリュンヒルデが好みや趣味を話す一方で、婚約者は寄宿学校時代の経験や友人との話をしてくれた。少しは打ち解けてくれたと思っていいのだろうか、と相変わらず感情の読み取れない文面を見て首を捻った。
建国祭の宴は去年と同様何事もなく終わり、翌10月には王都を発った。婚約者の生家であるグランヴィル家を訪れるためであった。手紙でこの提案をしたときは特に何事もなく受け入れられたようであったが、公爵領が近づくにつれ、僅かに婚約者の顔は憂いを帯び始めた。結婚式の話題をするときも、どこか張り詰めた空気を纏っている。恐らく、大半の者は気づかないであろう些細な変化ではあるが。
「陛下。わたくしの両親は四十路であっても仲睦まじく、わたくしたち兄妹も仲良く育てられました。わたくしも、陛下と穏やかな家庭を作っていきたいと思っております。陛下は、如何お考えですか?」
「――王女の望むようにしましょう」
答える前、神が彫刻したような美貌に動揺が走った。瞬きの間に消えたその表情が、ブリュンヒルデの脳裏に染みついて離れなかった。
公爵邸では公爵夫妻と公女が出迎えてくれた。誰もが穏やかな笑みを浮かべているのに、婚約者と公女から発せられる僅かな緊張が、親子の断絶を示しているようだった。不思議なことだ、とブリュンヒルデは思う。調査によれば、公爵夫妻は大層仲睦まじいらしい。特に公爵が夫人に入れ込んでおり、夫人のために庭園を造り他国から様々な物を取り寄せていると聞いた。実際目にしても、その情報に偽りがあるとは思えない。
ブリュンヒルデは公爵夫妻らとの会話を終えると、公女と話をした。ここ1年公女の肖像画を部屋に飾っていたおかげで、随分アルビノにも耐性ができた。見慣れてみると、婚約者と遜色ない、寧ろ婚約者に可愛らしさを付け足したような美の権化である。けれど、公女は婚約者よりも感情が読み取りにくかった。ブリュンヒルデが感じたのは、婚約者の好きなものを尋ねた時の僅かな困惑のみ。あとは当たり障りのない笑みに隠されていた。彼女が婚約者といる時でさえそうだったから、仲良くなるのは婚約者以上に難しそうだ。
——そう、思っていたのだが。
滞在2日目、なぜか婚約者の態度が少し変わった。どこか張り詰めたような、周囲一帯に線を引いたような雰囲気が、僅かばかり和らいだ気がしたのだ。はて何があったのだろう、と思っていると、従者が報告を上げてきた。なんでも昨夜、婚約者と公女が何やら話をしたらしい。兄妹の会話の結果であろうか。だとすると、どんな話をしたのだろう。兄妹の道ならぬ恋とか言われたらどうしよう、と真剣にブリュンヒルデは悩んだ。
3日目から、ブリュンヒルデと婚約者は街での視察を開始した。デューア王国内でも北方に位置するグランヴィル公爵領は、10月であっても既に寒い。着こんできたが思いの外体が冷えた。
「――寒くはないですか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
冬を感じる頃だが、街を歩く人の顔は明るい。きっと公爵夫妻は統治者として優れているのだろう。
「皆、寒さに強いのですね。薄着の者までいる......陛下もその恰好で寒くないのですか?」
「はい。ここで育ったからでしょう、寒さには慣れているようです」
服はブリュンヒルデのものより幾らか薄そうだが、彫刻のような美貌はベールで隠されている。目が合うだけで卒倒する貴族子女もいるので、無難な選択だろう。
「子供らもあんなにはしゃいでいて......ふふっ、楽しそうですね。わたくしもよく、弟妹と共に野を駆け回ったものです」
「そうだったのですか。いい体験ですね」
「陛下はあのように遊ばれたことはありませんか?」
「ええ、遊びといえば寄宿学校に入ってからの方が多くあります」
「そうでしたか」
兄妹はあまり遊んでいないらしい。ではどうして、親子の間にあるような溝がないのだろう。
「......お気づきでしょうが、私は公爵夫妻とあまり仲がよくありません。妹とも、これまであまり会話をしたことがありませんでした」
唐突な言に、ブリュンヒルデは目を瞬いた。親子の溝にブリュンヒルデが気づいたと察していることが、まず驚きだった。ブリュンヒルデの洞察力はなかなかのものらしく、存在感が薄いこととも相まって、指摘をするとかなり驚かれるのである。
「結婚式や私たちの今度のことに言及する度、王女はもどかしい思いを抱えていたでしょう。私は上手く、返事をすることができなかった」
「そのようなことはございません」
否定しつつ、ブリュンヒルデはなんとも言えぬ思いを抱えていた。もどかしいとまでは言わずとも、難しい、と感じていたことは事実だった。
「ですが、昨日公女と話をしていて気づいたことがありました。私は家庭というものに両親とのものを投影しすぎていると。王女から共に作っていこうと言われたにも関わらず、過去にしがみついていたようです。申し訳ありません」
「そ、そんな。陛下に謝っていただくようなことではありません」
道ならぬ恋ではなかったらしい、とブリュンヒルデは胸を撫でおろした。そして、何かしら婚約者を抑制していたものが、兄妹の会話で解けたのだとも感じた。それが如何なるものか、ブリュンヒルデは知らない。知らなくていいと思う。婚約者が秘しておきたいと思うことを暴くほど無粋ではない。
「良い夫、良い父になりたいと思っています。ですが上手くできないかもしれません。違うと感じたら、遠慮なく言ってください。その都度修正します」
生真面目に婚約者が言うので、ブリュンヒルデは思わず笑ってしまった。
「どうかされましたか?」
「――いえ。そう仰って下さるだけで、良い婚約者だと思います」
そうですか、と婚約者はどこか不思議そうな表情を浮かべる。
「では、手始めに陛下のお好きなものを10個教えてくださいませ」
「10個!?.......待ってください、考えます」
この方となら、素敵な家庭を築けそうだ。
悩み始めた婚約者を横目に見て、ブリュンヒルデは小さく笑った。




