第二十三話 その日
到着したのは夕方過ぎだったので、翌日の朝から視察を始めた。レイは魔力が多く、無意識に放出しているらしい。レイが通った道筋の魔石は、一際明るく輝いていた。レイがあちこち歩き回るので、鉱夫たちは灯り要らずで助かる、と笑った。魔石鉱山の中にはお目付役が少なく、依頼していたものを恙無く受け取ることができたのも幸いだった。
「……凡そは把握いたしました。俺の代替案も、使えると思います」
「そろそろ教えていただけて?」
不意に体が浮いた。驚くアイリスの手を掴んだレイの瞳に、魔術陣が浮かぶ。使われなくなった鉱道に、小舟が現れる。
「魔術の遊覧船にご招待いたします」
遊覧船?
脳裏に疑問符を浮かべるアイリスに、レイは微笑みかける。
「お楽しみください」
舟の上の椅子に腰掛けると、一気に舟が進んだ。坑道であるはずなのに、花の香りがした。
「わぁっ……!」
瞬きをした途端に、世界が色付いた。色とりどりの花が舞い散り、薄紅の花弁が敷き詰められた道が現れたのだ。
「すごい!」
「まだありますよ」
花の絨毯の上を滑り、人形の踊る街を抜け、海の中に潜り、紅葉が舞い散る道を進む。最後に雪の地面に降りて終わった。景色が変わる度に息を呑んでいたような気がする。夢のような時間であった。
「今のは、幻想魔術ですか?」
「はい。ひとつひとつは比較的簡単に出来ます」
「……しかし、あなたほどの魔術師は中々おりません」
魔導具に陣を刻めばいいのです、とレイは言い切る。
「魔石が採れるほどでなくとも、魔力溜まりはある程度残る。魔力を宿す一般人に魔力を借りてもいいかもしれない」
「なるほど……確かにこれは、面白そうですね。途中の道に料亭を作ったり、近くに宿を建てれば、富裕層の旅行地として定着させられるかも」
アイリスは従者に管理人に連絡するよう伝える。
「ありがとう、レイ」
「いずれ公爵配になるのだから、当然のことです」
アイリスは視線を彷徨わせた。夫婦になるということは、アイリスにとっては恐ろしいことだった。
子を憎んだ母。盲目的に母を愛した父。
――私もいつか、ああなるのだろうか。
「……アイリス」
静かな声に顔を上げる。
「あなたはあなたの母ではないし、俺はあなたの父のようにはならない。なれない」
肩の力が抜けた。そこで初めて、体が強張っていたことに気付いた。
「……ええ。そうね」
不安になった瞬間に救い上げられる。この優しさに、何を返せばいいだろう。
「口付けても?」
返答の前に顔が近づいた。声が飲み込まれる。唇が触れて、舌を絡めとり、離れていく。
「……問いの意味はあったの?」
「なかったな」
アイリスは小さく笑った。口の中に固い感触がある。舌を介して渡されたもの、形状からして筒であろう。これがなんであるかを、アイリスは知っている。
「――上手くいくことを祈っている」
「......ええ」
***
「それでは、お気をつけて」
「アイリスも、体調を崩されぬよう――何かあれば、駆けつけます。いつでもお呼びください」
「……そうならない方が、望ましいでしょう」
半月の滞在を経て、レイはヴィノグラード領に戻っていった。人が減った邸宅は、いつも通りなのに寂しかった。
月日は過ぎて12月末。朝から雪が降り、人の背丈ほどに積もっていた。アイリスは朝から入念に支度し、レイから貰った赤の髪飾りを身につけた。
いつも通りの朝。いつも通りの日。違うのは、贈り物の山と、夜に本邸に出向くことだけ。
今日は、アイリスの15回目の誕生日だ。
「お呼びでしょうか、公爵閣下、夫人」
跪いた途端、首を手で掴まれた。押し倒されず、顎を人差し指で持ち上げられる。こちらを見据える黄金の瞳は暗い。
「――お前の兄は王になった。お前は公爵になる」
呟かれる声は、怨嗟に満ちていた。
「許す、ものか」
姿勢が崩れる。その瞬間を見計らい、アイリスは夫人の手を掴んだ。態勢を崩した夫人と体を入れ替え、夫人を下に敷く。瞬間、飛び出してきた影がアイリスに剣を突きつけた。
「――愚かなことをするな」
「果たして、そうでしょうか」
剣が近づけられ、髪が数本落ちていく。アイリスはそれでも笑った。夫人はあどけない顔でアイリスを見上げている。まるで道端の石が急に喋り始めたかのような驚きよう——実際、彼女にとってのアイリスは、路傍の石以下の価値なのだろう。
「――わたくしの手元を見てから仰っては如何です?」
公爵よりも先に影が気づいた。取り押さえようと動く様を見せる前に、言葉を紡ぐ。視線は決して、夫人から逸らさない。
「この針には、サザーランドが先頃完成させた新種の毒を塗ってあります。ご所望でしたら、今目の前で夫人で実験させていただきますが」
「貴様っ......!」
顔を歪めた公爵の目に、アイリスはどう映っているのだろう。一度として娘として扱わなかった道具に牙を向かれた気分は、どんなものだろう。
「――公爵。レイ=ウィンストン・サザーランドに下した二つ目の命令、アイリス=ヴィオレーヌ・ディア・グランヴィルを殺せという依頼を、撤回なさってください」
公爵の判断は早かった。
「良かろう」
「誓約書をお書きください。執事に持たせてあります」
「......用意周到なことだ」
程なくして誓約書に署名をしたとの確認が取れた。影たちは消え、アイリスも夫人の上から退く。
「感謝いたします、公爵」
「そなたが生きようと死のうと、私にはどうでもいい」
吐き捨てて、公爵は夫人の元に駆け寄る。妻恋しさも、ここまで来ればいっそ清々しい。
「――ねえ、お前」
いつもと同じ声が、アイリスを呼び止めた。アイリスは足を止めず扉を目指した。
「お前、人なのね」
心底不思議そうな声に、アイリスは振り返った。王の色を身に纏う女は、ただアイリスを見ていた。
「――ええ。私は、生まれ落ちたその時から、あなたたちと関係なく生きる人でした」
「そう。そうなのね」
夫人がアイリスと兄を嫌い、憎んでいたのか、結局は分からない。或いは彼女はアイリスと兄に、彼女の弟を投影していたのかもしれない。けれどそれらは所詮、アイリスの興味の外にあることだった。
アイリスは早足で別邸に戻る。部屋のベッドに寝転び、笑みを浮かべた。
「――ねえ、レイ」
私の愛しい暗殺者。
あなたに殺される日は、もう、来ない。




