第十八話 あなたに恋をしたのです
「――さあ、どうぞわたくしを殺してくださいませ」
涙で膜を張ったような視界に、目を見開いたレイが映る。
「な、にを。何を、仰るのですか」
「転移魔術も周囲から見えなくなる魔術も、殺すのにうってつけではありませんか」
「俺は、その為に来たのではありません!」
レイは声を荒げる。初めて俺というのを聞いた。
「ですが、あなたはいつかわたくしを殺さなければなりません——そうでしょう?」
「それは......ですが!」
「大丈夫です。分かっております。公爵夫妻に頼まれたのでしょう?」
レイは目を見開いた。
「――その、傷は、やはり」
アイリスは微笑んで答えなかった。
「グランヴィルに逆らって生きていくことなど、もはや王にも出来ぬこと。ヴィノグラードがお取り潰しにされるのはお嫌でしょう。私も、あなたが死ぬのを見るのは嫌です」
レイは答えない。震える手はアイリスの手に掴まれたまま、黒の瞳がアイリスを凝視している。
「いずれ潰える命です。あなたに殺されるなら、何も惜しくない」
あぁ、けれど。レイからの箱を、まだ開けていない。先に見ておけばよかった。
「――貴女は、死んでも構わないと言うのですか」
「はい」
「なにも、悔いはないと?」
「――はい」
もう、十分だ。
手紙が来るのを指折り数えて待つ楽しさも、心弾むダンスを踊ることの喜びも、自分の為だけの贈り物をもらう嬉しさも、共に街を歩く気恥ずかしさも——誰かを想う気持ちも。
あなたにすべて、もらったのだから。
「あなたと過ごした日々が、私の生きた意味でした。あなたが隣にいてくれた時間が、私の幸福でした」
何も返せていないことは重々承知だから、どうか、最期に祈りたい。
「どうか、あなたの進む道が、これからも幸せに溢れていますように」
どうかこれ以上あなたを愛する前に、私の命を絶ってほしい。
これ以上の幸福には、耐えられそうにないから。
「お断りいたします」
「......はい?」
アイリスは首を傾げた。今、拒絶の言葉が聞こえた気がする。気のせいだろうか。
「何の為に俺が、身を粉にして働いたと思っておられるのですか」
「......立太子式に即位式に、色々ございますし、サザーランドの家業がお忙しく」
「貴女と生きるためです」
「......ぇ?」
レイはアイリスの手を両手で包んだ。アイリスのものよりも一回り大きく、温かな手だ。
「正直に言って、あなたの隣に並ぶには、俺の地位は足りません」
サザーランド家の家業を知る者は、王家と三公爵家に限られる。表向きは、古く歴史ある家、そこそこ肥沃な土地を賜る侯爵家だ。14ある侯爵家の内、その地位は、8、9番目といったところか。
「あなたの身分であれば、公爵家や他国の王子を婿に迎える方が自然だ。この魔術の才がなければ、俺は候補にすらならなかったでしょう」
「そう、ですね」
「黒鉄の二つ名を得ていなければ、そしてグランヴィル領が魔石鉱山を有していなければ、あなたの隣に立つのは別の男になっていたはずだ」
間違いない。二つ名の魔術師の権力と、魔術の腕、グランヴィル領の特産品たる魔石。レイが選ばれたのは、その関係が第一。サザーランドの諜報・暗殺能力は、その次点だ。
「いつだったか、あなたは俺の隣に並ぶ、と手紙に書かれておられましたけど、俺はずっと、あなたの隣を守ろうと必死でした」
「......そんなことをお考えだとは、存じませんでした」
何故。いつか殺すと、分かっていただろうに。何故、そんなことを。
「俺が公爵に依頼されたのは、2年前の春です。あなたのことは......失礼ながら、3年ほど前に別の依頼で調査をしたことがあり、一方的に存じておりました」
「そうでしたか」
婚約をする1年前。アイリスは11の年。彼はなにを思ったのだろう。忌まわしき色彩を持つ、幼い娘を見て。
「失礼を承知で申し上げますと——俺は、あなたを気味悪く思いました。一週間ほど張り付いていましたが、あなたは一度も微笑まず、誰とも話さず、機械のように規則正しく一日を過ごしておられた」
「......気味悪く思うのも、当然かと。私の生活は——人間味がない」
「......ええ。こんな人がいるのかと感じたことを覚えています」
それから1年後、とレイは呟く。
「公爵からお声がかかったときは、驚きました」
「そうでしょうね」
娘の婚約と同時に殺しの依頼をするなど、正気の沙汰ではない。
「ですが、依頼は依頼です。時期を定められていなかったので、あなたが成人する一年前を目標にしていました」
「――確実に、王太子殿下が地盤を固めるまで、けれどわたくしが公爵位を継ぐ前を狙った、ということですね」
はい、とレイは頷く。
「前にも申し上げた通り、俺は何度も依頼を受けていました。なので、たとえ婚約者という間柄であろうと、躊躇いなく依頼を遂行と思っていました。すぐに無理だと分かりましたが」
「なぜです」
「あなたに恋をしたからです」
アイリスは目を見開いた。軽く開いた口から、言葉が零れ落ちる。
「嘘」
「人生初の精一杯の告白を嘘と断じないでいただきたい」
「だって.......だって、私は」
誰にも愛されたことがないのに。
「では俺が初めてあなたを愛した人になりますでしょうか。光栄です」
「な......なぜ。私は、愛されるような人間ではありません」
「覚えていないと思いますが——あなたは初めての顔合わせの時に、笑ったのです」
「え?」
アイリスは記憶を探る——笑った、だろうか。
「急ぎの仕事を終えたばかりでしたが、疲れを見せるつもりはなかった。けれど、あなたは自己紹介をした後に——あなたも、大変ですね、と。そう呟いて、小さく笑った」
頭を殴られたような衝撃でした、とレイは言う。
「あなたはこんな顔で笑うのだ、と」
「......それだけ、ですか?」
「はい。あなたの笑顔を見たいと思いました」
「それだけの、為に.....?」
祝祭の日、青い薔薇、魔道具。すべての日の根源が、まさかその為にあったと言うのか。
「白い髪が木漏れ日を浴びて、金色に光ること。笑った時に、ルビーを思わせる瞳が細まること。目を見開くと、あどけない表情になること。貴族たちに臆せず立ち向かうところ。嬉しい時に、はにかむように口角を上げること——あなたにとってはそれだけのことでも、俺にとっては意味があったんです」
「い、や」
それ以上は、聞いていられない。壊れてしまう。
「あなたは、アルビノを物珍しく思っているだけ。決して、私に恋などしていません。ただ、愛玩動物を眺めているようなものです」
「いいえ。アイリス、俺はあなたを愛しています。この世の何よりも」
「いや」
アイリスは頭を振った。
そんなはずはない。レイが私を愛しているはずがない。
そんなことは、あってはならない。
「いいえ、いいえ、違います。あなたが私を愛するなんて、そんなわけはありません」
「あなたがいくら拒絶しようとも、この気持ちは変わりません」
「いいえ、あなたは錯覚しているだけです。或いは催眠術をかけられてい——」
言葉は紡ぎ終える前に飲み込まれた。アイリスは目を見開く。
初めて触れた唇は柔らかい。至近距離でアイリスを見つめる黒い瞳から、目が離せない。
果たしてどのくらいの時間が経ったのか。数秒だった気もするし、数分だったような気もする。ようやく解放され喘ぐ唇を、レイは指でなぞった。
「俺の気持ちを疑うのは、それくらいにしてください。思いの外、俺の心は繊細だったようですので」
それと、魔術師に催眠術など効きませんよ、とレイは言う。
「いや.......いやです、いや。愛さないで。私を愛してはいけません」
アイリスは子供のように頑是なく呟いた。瞳から涙が零れ落ちた。
「初めから、ないと分かっていたから、耐えられたのに。あなたが私を愛したら、私がそれを受け入れてしまったら、私は生きていけない」
レイは目を見開く。
「片恋だから耐えられたのに。返ってこないと知っているから、愛せたのに」
唇が震えた。薄い膜の向こうの人影が揺らぐ。
「――あなたを愛し、あなたに愛される。そんな幸せな世界で、私は息ができない」




