第十二話 ひとつの時代の終焉
「お聞きになりまして? 裁判の話!」
「勿論ですわ! 何でもアーネット夫人が密通の末に、子供を王の子だと偽ったのだとか」
「有り得ませんわよね! 王家を侮辱するにも程がありますわ」
「ほんとうに。あの方、元は女優でしょう? もしかしたら、最初から乗っ取るつもりで演技していらしたのかも」
「まぁ! そんなことがあり得るかしら」
噂は貴婦人の口の端々にのぼり、瞬く間に社交界に広まっていった。
その頃、王宮の一室。軟禁されたアーネット夫人はカリカリと爪を噛んでいた。身に纏う衣は物乞いのような襤褸で、風呂には何日も入っておらず異臭がした。使用人たちも世話をしようとせず、部屋はアーネット夫人が荒らしたまま、鏡の破片が飛び散り、ドレスが破かれている。かつての栄光は、もう見る影もなかった。
――どうして、どうしてこんなことに。
アーネット夫人が姦通の罪で起訴されたのは、二週間前のことだった。以来アーネット夫人は軟禁されていた。初めこそ国王はアーネット夫人を庇い、証言台に立とうとしていたが、証拠が提出された途端、掌を返した。
――余を裏切ったのか、クララ!
激昂した国王に殴られ蹴られ、アーネット夫人は床から2日間、起き上がれなかった。それを知った国王は高笑いしたという。
――余を裏切った報いだ!
波が引くように、アーネット夫人の周りから人が消えていった。アーネット夫人の寵愛の蜜を吸っていた者たちまでも。
――どうして、どうしてなの!? なんでバレたの!? 間男は殺したはずなのに!
どうして、誰が、なんで。疑問ばかりが頭を巡り、アーネット夫人は爪を噛んだ。手入れをされていた爪は今やすっかりギザギザになり、アーネット夫人の唇を傷つけた。
「あたしは、国で一番偉い女になるはずだったのに……!」
「あまりにも愚かしく、儚い幻想ね」
静かな声に、アーネット夫人は顔を上げた。
「……王妃殿下!」
金の衣装に身を包んだ王妃が、いつの間にか部屋の中に入ってきていた。王妃は部屋の中を見回し、眉を顰めている。
「ノックもせずにいらっしゃるなんて、驚きましたわ」
「扉を叩きましたけれど、返事がなかったものだから。体調が優れないのではないかと案じましたのよ」
「……お気遣いいただきありがとうございます。ですが心身共に健やかにございます」
アーネット夫人は拳を握りしめた。かつてはこの王妃にも気遣われていた――それが今はどうだ。この差は。
「それは何より……己の行いの報いを受けて泣き喚かれても興が削がれますもの」
「……っ!」
アーネット夫人は笑みを保つのに苦労した。握り締めた拳が痛い。もしかしたら爪が皮膚を傷つけたのかもしれない。王妃は可笑しそうに笑った。
「先ほど、あなたの刑罰が決まったと聞きましたわ」
「……驚きました。裁判は、もう少し時間がかかるものではありませんか? 調査にかけた時間の少なさが、よく分かりますわね」
「当然でしょう。全ての証拠を裁判の前に揃えていたのですから」
王妃は優雅に扇を開く。アーネット夫人は歯噛みした。掌で踊らされていたのか。この世の春を謳歌していた、その時に。
「お気付きではなかったのね。劇場にいらした方とは思えないほどの鈍さですこと」
「……王妃殿下の用意周到さにはとても叶いません。わたくしが陛下のおそばにいた時、もっと見習っておくべきでした」
「そうなさっていたら、もう少し違う結末が描けていたでしょうね」
王妃は微笑み、背を向けた。
「さようなら、アーネット伯爵夫人。来世では慎ましやかな令嬢に生まれるように祈っているわ。身の丈に似合った夢を抱けるように、ね」
扉が閉まる。アーネット夫人は王妃の言葉の意味を咀嚼し、悲鳴を上げた。
***
「陛下、また御酒をお飲みになられているのですか。お体に障りますわ」
「うるさい! 去ね!」
国王は王妃の手を振り払い、酒瓶に口をつけた。アーネット夫人の裁判が始まってひと月、処刑が行われたのは2日前のことだ。
「可愛らしいクララが余を裏切っていたなど……もはや余は、誰のことも信じられぬ」
「陛下、おいたわしい。ですが、アーネット夫人……いえ、アーネットは悪女だったのです。陛下を誑かし、この国を乗っ取ろうとしていたのですわ。他の者の忠義は決して変わることはありません」
「王妃……」
国王の瞳に涙が浮かんだ。王妃と結婚して8年。いっかな子を授からず、貴族に責められてばかりの王妃を、国王は一度も庇い立てしなかった。愛妾に現を抜かし、この有様である。にも関わらず、王妃は慈母の如き笑みで国王に寄り添ってくれるのだ。
「余にはやはり、王妃しかおらぬ! 王妃よ、ウィレミナよ。どうか愚かな余を許してはもらえぬか」
「陛下、わらわが許すことなど何もありませんわ。陛下はこの国の太陽、かけがえのないお方なのですから」
「王妃……!」
国王は感涙し、王妃を抱き締めた。王妃は子をあやすように、国王の髪を撫でる。
「余は決めたぞ! もはや愛妾は要らぬ。王妃さえいればいいのだ」
「陛下はわらわのような年増だけでは、きっとすぐに飽きてしまわれますわ」
「何を言うか! そなたは結婚してからまるで容色が衰えていない。何か秘密でもあるのか?」
「そのように仰っていただけて嬉しいですわ、陛下」
「王妃......」
国王は王妃の手に口づけを落とした。
「のう、王妃。久方ぶりじゃ、共に夜を過ごさぬか?」
王妃は目を細める。
「いけませんわ、陛下。陛下の御子が亡くなってまだそう時間が経っておりませんのに、そのようなこと」
「.............は?」
国王は瞠目する。
「な、何を言っているのだ、王妃。余に子などおらぬ」
「陛下、もうお忘れですの? 悪女アーネットのことを」
「は......? だがクララは余を裏切って」
「ええ、ですが陛下のご寵愛を受けていたのも事実。腹の子が陛下の子か間男の子かは、まだ分かっておりませんでしたわ」
「な、なんだと!?」
国王は驚愕の声を上げた。王妃から体を離し、その整った顔を睨みつける。王妃は驚いた様子で口元に手を当てていた。
「なぜそれを言わなんだ!」
「陛下、落ち着かれてくださいませ。わらわは裁判中、何度もお部屋に参りましたわ。その度に誰一人として部屋に入れてはならぬと仰られたのは陛下ではありませぬか。てっきりわらわは、アーネットを憎むあまり、己の御子さえも憎らしく思ってしまわれたのかと思っておりました」
「そ、そんな......」
国王は崩れ落ちた。待望の我が子、それを自分が殺したのかもしれないという事実を受け入れることが出来なかった。
「王妃、よもやそなたが企んだのか!? 余の子を孕んだクララを疎み、その地位を奪わんとした! そうであろう!」
「陛下、わらわは長い間、国の為、王家の為に尽くしてまいりました。わらわをお疑いになるのですか?」
「クララが消えて喜ぶのはそなたではないか! いや、或いは王太子と共に謀ったのか!」
「王太子がそのようなことをするはずがございません。あの子は陛下を尊敬し、陛下のように慕われる国王にならんと日々精進しているのですよ」
「では、誰がクララを陥れたのだ!」
「陥れるだなんて! アーネットは、確かに陛下を裏切っていたのですよ」
「だが......!」
「そも、お腹の子を殺したのは、陛下ではございませんか」
「......え?」
国王は王妃を見上げた。あどけない子供のような瞳であった。王妃はしゃがみ込んで国王と視線を合わせる。眉を寄せ、困り切った様子で口を開いた。
「陛下、お忘れになったのですか? アーネット夫人を何度も打擲されておられたでしょう? その時、侍医を呼んだのはわらわですわ。あの時既に、お腹の子は死んでしまったかもしれない、と侍医は申しておりました」
「――!!!」
その時国王の喉から発せられたのは悲鳴であったか、それとも怒声であったか。国王本人にも判じることはできなかった。国王が覚えているのは、ただ感情のままに暴れたということだけ。兵士たちに取り押さえられて意識を失い、気づけば知らぬところにいた。
「ここは、どこだ......」
固いベッドには天蓋もない。石の壁で囲まれた部屋の窓はとても手が届かないところにあり、まるで牢のようだった。
「――陛下、お目覚めですか」
扉の前に立っていた兵士の顔に見覚えがある。確か、よく王太子の護衛をしていたはずだ。
「ここはどこだ。なぜ余は、こんなところに」
「国王陛下におかれましては、アーネット伯爵夫人の裏切りに酷く心を痛め、衰弱されてしまわれた。ひと月を過ぎても改善をする見込みがございませんので、貴族議会にて、ご静養されるのがよろしかろう、という結論に達しました」
「は?」
国王は目を瞬いた。立て板に水の如く語られた言葉の意味を、理解出来なかった。
「つきましては位を王太子殿下にお譲りいただき、上王として政務から解放され、心安らかに過ごしていただきたく思います」
「な、何を言うか! 余は王であるぞ!」
「はい、陛下。その通りでございます」
「王太子に位を譲るなど、10年早いわ! あやつは成人して立太子したばかりではないか!」
「はい。しかしその勤勉なお姿に貴族の方々も心打たれたご様子。皆、新王を支えると口を揃えておりました。心配はございません」
暫し王は絶句した。愛妾の裏切りに続く臣下たちの裏切りに、声が出なかった。
「なっ......これは謀叛である! 早く余をここから出さぬか! 即刻王太子を処刑してくれる!」
「なりませぬ、陛下。陛下はご静養の身、医師の許可がなければ部屋から出ること叶いませぬ」
「余は王であるぞ! 叶わぬことなどあるはずがない!」
国王は扉を開けようと取手を揺さぶるが、扉はびくともしない。国王は奇声を上げて扉に体当たりする。
「おい、陛下がご乱心遊ばされた。医師を呼べ」
「はっ」
控えていたもうひとりの騎士は、国王の目につかぬようひっそりと、使用人用の扉から出ていく。
「ここから出せ、余は国王であるぞ! 国王はここにおるぞ......!」
その声に応える者は、もはや誰もいなかった。




