第十話 そのひと言
「……レイ」
「はい」
「お加減がよろしくないのなら、お帰りになられた方が」
「いえ、問題ありません。最近眠っていないだけですので」
「それを人は睡眠不足、体調不良と呼ぶのですよ」
所変わって公爵邸である。月に一度のお茶会に現れたレイの目の下には隈が住み着いていた。アーネット伯爵夫人の懐妊の影響で、サザーランドの家業に忙殺されているのだろう。
「折角のお茶会ですし」
「日を変更しても構いません」
「家に帰っても仕事が増えるだけですし」
アイリスは溜息を飲み込む。繁忙期、片付けても片付けても仕事が終わらないのには覚えがあった。アイリスは立ち上がり、ソファの向かいから隣へ、席を移動する。
「横になってくださいませ」
「は?」
「枕代わりにはなりますでしょう」
今日はお茶会で着たものとはまた別のヴァレーゼ衣装を着ている。パニエでドレスを膨らませるのではなく、布を重ねて質感を出しているので、柔らかくはあるだろう。
「いえ、アイリスにご迷惑をおかけするわけには」
「時間になったら起こしますので。寝てください」
「……せめて、枕は別のものに……」
「子守唄でも歌いましょうか」
「恐縮ですが膝をお借りいたします」
そんなに子守唄が嫌いなのだろうか。それとも、アイリスの声を厭うているのだろうか。
俊敏に膝に頭を乗せたレイの横顔を見て、アイリスは複雑な気持ちになる。
「……アイリス」
余程寝ていなかったらしい。呟かれた声は小さく眠たげで、この距離でも聞き取るのが精一杯だった。
「婚約を、継続出来そうです」
アイリスは目を見開き、レイを見下ろした。視線の先で、レイは既に目を閉じていた。
――その一言のために、彼はどれほどの夜を犠牲にしたのだろうか。
国王がアーネット夫人の子に継承権を認めれば、兄の立太子は取り消され、アイリスとレイの婚約は解消となる。それを回避する――言うのは容易いことだが。
「……莫迦な方」
ほんとうに、莫迦な方。
アイリスの呟きを知らず、レイは安らかに寝息を立てている。
***
レイが屋敷を訪れた翌日の夕方、思わぬ人物がやってきた。
「やぁ」
「ご機嫌よう、王太子殿下。こちらにおいでとは存じませんでした」
「何、たまの息抜きだよ」
肩までの黄金色の髪を揺らして笑うのは、アイリスの兄だった。随従の数も少ない。お忍びであろうか。
「今から夕飯かな?」
「はい」
「一緒に食べても?」
「準備にお時間をいただくことになるかと」
「構わないよ」
食堂に向かう間、兄は辺りを楽し気に見回していた。思えば、アイリスは兄の棟に行ったことはなく、兄がこちらに来ることもなかった。
人払いがされた食堂には、カトラリーの音だけが響いている。
「――公女」
「はい、殿下」
「年が明けたら、即位する」
アイリスは一瞬、固まった。
「……お喜び申し上げます。デューア王国に益々の繁栄が齎されますように」
「堅苦しい礼はしなくていい。ただ——そなたと、話をしてみたくてね」
兄はワイングラスを傾けた。
「そなたは王嗣となる。私に子が出来るまで、数年は王太子と同様の扱いをされるだろう」
「一層、王家へ忠心を尽くし仕える所存でございます」
「そうじゃない。そうじゃないんだ、アイリス」
名を呼ばれ、アイリスは忙しなく目を瞬いた。長じてから、兄に名を呼ばれたことはない。
「即位したら最後、そなたとは兄妹の縁すら残らないだろうから……いや、今もあるか定かでないが」
兄は苦笑する。今更だな、という呟きが聞こえた。
「そなたは、この家に生まれたことを恨むか?」
兄は真剣な表情でアイリスを見据えていた。その、碧の瞳が痛い。アイリスは目を伏せた。
「……私たちは、恨む術さえ、与えられなかったのではありませんか」
兄は目を見開いた。一拍の空白の後、深々と溜息を吐く。
「――違いない」
夕餉を済ませ、兄はすぐさま裏門に向かった。
「……お兄様」
呼びかけると、兄は驚いたように振り返る。思えば、アイリスも兄をそう呼んだことがなかった。
「……どうか、お元気で」
兄は顔を歪めた。どこか、泣きそうな表情だった。
「……あぁ。アイリスも」
兄は二度と振り返らなかった。




