第九話 愛妾の懐妊
季節は巡る。夏が過ぎ、秋の始まりを感じ始めた頃、事件が起きた。
「……アーネット伯爵夫人が懐妊した?」
「はい。本人が王宮で騒ぎ立てているようです」
この国は大陸正教を国教としている。正教は離婚と側室制度を禁じているが、王侯貴族は愛人を囲うことが多い。現国王・エドワード六世もその例に漏れず、これまでに三人の愛妾を囲っている。アーネット伯爵夫人は召し上げられてから四年ほど、元は舞台女優である。
「お父様はなんと」
「王太子殿下に対応を委ねておられます」
面倒事を丸投げしたということか。哀れである。
「国王陛下ご夫妻は?」
「陛下は大層お喜びです。生まれてくる子供に継承権を与えると宣言なさいました。公にはされていませんが」
愚かな、と思わず口走りそうになった。愛人の子に継承権を与えては、正教への叛逆と取られかねない。正妻の子であると偽る例はあるが、ここまで情報が降りてきたのならば不可能だろう。
「妃殿下は静観しておられます。養子にされることはないかと」
「そう」
アイリスは羽根ペンを置いた。檸檬水をひと口含むと、侍女は一礼して下がった。
兄の即位が早まりそうだ。デザイナーを今から手配しておこう。
***
「いい日和ね」
「王国の月、王妃殿下にご挨拶申し上げます。グランヴィル公爵が一女、アイリス=ヴィオレーヌ・ディア・グランヴィル、ご召命に従い参じました」
「座りなさい」
愛妾懐妊の報を受けて一週間。貴族たちの間にも噂は広まり、アーネット伯爵夫人は一躍時の人となっている。そんな中、アイリスは王妃に呼び出され、王宮に参内していた。通されたのは王妃の私室だ。白を基調とした部屋は華美ではなく、落ち着きを感じさせた。
「噂を聞いたでしょう」
「はい。御子が健やかにご成長されますよう、祈念申し上げます」
王妃の唇が弧を描いた。
「祝いの言葉はないのね。やはり、あなたのお兄様の地位が、ひいてはあなたの地位が奪われるのではないかと不安なのかしら?」
「我が兄が立太子されましたのはひとえにその血筋と能力によるもの。優れた方がおられるならば、その方に地位を譲り渡すことに、何の躊躇いもございませんでしょう。わたくしも同様でございます」
「……そう。優れた者、ね」
王妃は扇を口元に翳した。笑みを浮かべているはずなのに、その瞳はひどく冷めている。
「平民の子が、王姉と筆頭公爵の息子よりも優れていると思う方も、いるかもしれないわね。あなたはどう思って?」
「……恐れながら、まだ見ぬものを既知のものと比較することは、誰にも出来ぬことであるかと」
「尤もな理屈ね――けれど理屈ばかりで玉座を贖うことはできないのよ」
王妃の声はどこまでも冷え冷えとしている。
「陛下はあの女の子に継承権をお与えになると仰った。もはや誰の抗議も、その耳に届くことはないご様子。或いは、聖堂での誓いも、隣に立ったわらわの顔も、お忘れになってしまわれたのかもしれないわね」
王妃の口調は淡々としており、その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。けれど彼女が怒っていることは容易に知れた。扇の骨が、先程から悲鳴を上げている。
「アイリス=ヴィオレーヌ。あなたはこの事態をどう考えているのかしら? 次代の王の暫定王嗣、女性初の公爵となる、あなたは」
「わたくしは公女でございます。どのような立場であっても、国の為に力を尽くします」
王妃は眉を跳ね上げた。探るような視線に、アイリスは微笑を返した。
「……そう。それは、王太子もグランヴィル公も同様かしら」
「すべての王侯貴族は、その為に存在しております」
王妃は暫し沈黙した。
「――公女の言、しかと受け取ったわ。どうかこれからも長く、天秤が正しく傾きますように」
「グランヴィル家門一同、そのお言葉を胸に刻みます」
王妃は微笑みを浮かべた。
「急な呼び立てに応じてくれたこと、感謝するわ。気をつけて帰りなさい」
アイリスは一礼して部屋を出た。扉が閉ざされる直前、扇の骨が折れる音を聞いた。
***
アイリスが王宮の回廊を歩いていると、前方から賑やかな集団がやってきた。これから夜会かと思うほど華美な服装と相まって、別世界のようである。
先頭にいるのは、栗色の巻き髪に金剛石を散らし、国王の髪と瞳の色である金色のドレスを纏った女——アーネット伯爵夫人だ。多数の侍女と護衛を引き連れたその足取りに迷いはない。
公女と伯爵夫人では、伯爵夫人が傍に避けるのが道理であるにも関わらず。
「ご機嫌よう、公女さま。お会いできて光栄ですわ」
アイリスはアーネット夫人の横に佇む侍女に視線を向けた。
「パウエル子爵夫人。わたくし、まだ社交界に入ったばかりで不慣れなの。教えを乞うてもよろしくて?」
パウエル夫人の返事を待たずに続ける。
「|貴族法第一章第二節第三条《爵位が下の者から上の者に話しかけてはいけないという法律》は、いつ改訂されたのかしら? それとも、グランヴィル家は上級貴族ではないと?」
「いえ、そのようなことはございません」
パウエル夫人は口元が引き攣っているが、それでも主人の非礼を謝罪しようとはしなかった。
「まぁ、失礼しました、公女さま。気が急いていたみたいですわ。子の母として、もう少し穏やかにならねばと思っているのですけれど......公女さまがあまりに白くいらっしゃるので、気づくのが贈れてしまったのですわ。お許し遊ばせ」
それは、王妃になってアイリスより高位になるという宣言であろうか。アルビノであるアイリスは無視されても仕方ないということであろうか。無礼者にかける言葉の持ち合わせはないので、アイリスはその言葉を無視する。
「パウエル夫人、主人の不見識を諫めるのは侍女の役割ではないかしら」
「仰る通りでございます。しかし、アーネット夫人は妊娠中の身、寛大な公女さまは、些細な非礼をお見逃しくださるものと思っておりました」
「寛大であることと容赦をすることは、同一のことではなくてよ」
「まぁ、一度の些細な非礼でそこまでお怒りになるなんて。陛下はいつもお優しいから、ついうっかりしておりましたわ。お許しくださ――」
「この王宮で陛下を支える臣下としての役割を、努々お忘れにならぬよう」
夫人が顔をこわばらせた。背後の侍女と護衛兵が道を空ける。アイリスは夫人に一瞥もくれず、静かにその横を通り過ぎた。




