命令権の代償と、恋文という名の……
朝の通学路は、静かだった。
蝉もまだ鳴かない時間帯、夏の空気がぼんやりと熱を含みはじめるころ。
「で、どう? 使い道、決まった?」
横を歩くハギが、まるで朝の挨拶でもするように、何気ない顔で聞いてくる。
その手には昨日受け取った“あの紙切れ”――
【なんでも言うこと聞いてあげる券】
俺は朝からため息しか出ない。
「……あれが何の役に立つってんだよ」
「え? たとえば“今ここで私にニャニャニャしろ”って命じて、辱めるとか。復讐とかさ、いい感じに」
「するかっ!」
思わず声が裏返る。
言いながらニコッと笑うんじゃねぇ! 悪意ゼロの顔して言うことじゃねぇ!
「ハコ、昨日の“マタタビ録画事件”でわりと屈辱受けてたでしょ? なら復讐モードもアリかなーって」
「そりゃ屈辱だったけどさ……俺、そういうの使って仕返しするタイプじゃねぇし」
ハギが小首を傾げる。
「じゃあ、どんな使い方したいの?」
「……人の役に立つ使い方。俺じゃない誰かが、助かるようなさ」
その言葉を聞いた瞬間――
ハギの足がぴたりと止まった。
あれ?と不思議に思って数歩先で振り返る。
「……どうした?」
「……ちょっとね。昔のこと思い出しちゃった」
はにかむように笑って、また歩き出すハギ。
「でもさ、その券――期限あるから気をつけてね♪ 今日中に使わないと」
「え? 今日中?」
そんなこと一言も書いてなかったような――
「裏にちゃんと書いてあるよ?」
ハギは楽しそうに言うと、俺の隣に並んだ。
そして、すこしだけ小さな声で、誰にも聞こえないように囁く。
「ほんと、君は……昔と変わらないんだから」
その意味が、ちょっとだけわからなかったけど。
言葉の余韻が残るうちに、俺たちは校門をくぐった。
教室に入ると、俺は思わず立ち止まった。
自分の席――そこに、もう誰かが座っていた。
「……なぁ、なんでお前が座ってんの?」
そこにいたのはスズナだった。俺に気づくと、満面の笑みで手を広げてくる。
「おはよう、ハコ。私の膝上“ハコの特等席”♪」
「自分から罠に行くやつがどこにいんだよ……!」
隣の席にはツバキが座っていて、苦笑いを浮かべている。
「ごめんハコ~。あたしも止めたんだけど、
“座って待つ、ご褒美来る”とか言い出してさ~……」
「完全に罠じゃねぇか……っ」
俺が渋々スズナをどかそうとしたそのとき、
彼女は唐突に思い出したように口を開いた。
「そうだ。あの“券”のことだけど――使い道、もう決まった?」
「ああ。平和的に、期限切れで消滅……それでいいと思ってる」
「もったいな~い!」
と、すぐにツバキが食いついてくる。
「私だったら、ハコにあれこれお願いしちゃうのに~。
ちょっとスカートの丈短くしてほしいな~とか、
“よしよしして”とか、“ナデナデされたい”とか~♪」
「頼み方がやけに具体的だな!?」
すると、スズナが唐突に真顔になる。
「……ハコ、その券、裏側ちゃんと見た?」
「え? 裏? ……期限以外になんか書いてあるんだっけ?」
半信半疑で制服のポケットから取り出し、裏返してみる。
――そこには、いかにも“契約書的”な文字が、小さな文字でぎっしり書かれていた。
期限:受領日の24時まで
本券が使用されずに失効した場合、翌日午前0時より、クラブ所属メンバー全員に使用権が自動で移行します。
使用権は1日限り・任意行使可能・対象者の拒否権なし。
※券受領時点で同意済とみなされます。
「……これ……悪質な罠じゃねーか……」
俺は手が震えるのを止められなかった。
「つまり~」とツバキが目を輝かせる。
「この券、使いそびれたら明日からハコに命令し放題ってことだよね!?」
「やめろっ! 嬉しそうに言うなっ!!」
そのときスズナがすっと俺の前に立ち、まるで選択肢を提示するように言った。
「ハコ、方針変える? 使う方向で、たとえば――ここで私と、ニャニャニャする? ツバキとでもいいし」
「ちょっ、スズナちゃんっ!?」
「しねぇよ!」
「ふふ、それじゃあ――もしかして3人でニャニャニャ?」
「しねぇっつってんだろ!!」
その声が教室に響いた直後。
背後から、すっと一通の封筒が差し出された。
「ハコさんに、これを」
渡してきたのは――シオン。
どこから現れたんだお前。
「……まさか。2枚目の券じゃないよな?」
「いえ。ただの手紙です。
……私の、気持ちを綴った……恋文のようなもの」
顔を赤らめて、視線をそらしながら言うその所作。
普通ならキュンと来るかもしれないけど――
「(お前の中身、知ってるからな……)」
仕方なく封筒を受け取ったところで、チャイムが鳴った。
ホームルームの始まりとともに、
新たに浮上した課題に俺の体は疲れを感じ始めていた。
昼休み。
俺たちは、いつものように食堂の一角――窓際のテーブルに集まっていた。
「ハコくんのお弁当、今日も健康的ですね」
ナズナが、弁当のフタを開けた俺に視線を送るなり、手元のメモ帳を広げた。
「カロリー、ビタミン、ミネラル、タンパク質バランス……うん。
これは、愛情100%で作られています」
「絶対間違ってる」
食い気味に否定した。
「ハギが作ってるんだぞ? 調子乗るし、適当だし、
なんなら途中で味見しすぎて半分消えるレベルだぞ?」
「でも、栄養価から明らかに読み取れるんです。
これは、“好きな人のために作った食事”の典型。
ニャニャニャ時の回復効率や活力上昇にも大きく関わって――」
「やめろ、食欲なくすわ!!」
ナズナの分析が“そういう方面”に向かうのはもはやテンプレになりつつある。
他の面子も慣れてるのか、特に誰もツッコまない。
……と思ったら、シオンがそっと話題を切り替えてきた。
「ハコさん。今朝お渡しした手紙……読んでいただけましたか?」
「ん。まだ家に帰ってから読もうと思ってたけど……」
「できれば、早めに。
……できれば、“ここ”で読んでいただきたいです」
赤く染まった頬、伏せがちな視線。
所作ひとつひとつが丁寧で、まるで本物の“想い人”からの告白を前にしてるかのような空気をまとっている――
(中身が“あれ”じゃなきゃな……)
「わかったよ。食べ終わったら読む」
重いため息をつきつつ弁当を平らげ、封筒を取り出す。
俺の両脇には、いつの間にかハギとスズナが陣取っていた。
「……のぞくなよ?」
「興味ないかな~」
「覗くならハコの服の中のほうかな……」
いちいち余計なこと言うな。
そっと封を切り、便箋を引き出す。
丁寧な筆跡、整った行間――
(……字、綺麗なんだよな。ほんとに)
ところが、読み進めていくうちに、俺の表情がみるみる固まっていく。
貴方の声を思い出すだけで、意識が遠のきそうになります。
あの時、私が感じた心の震えは、まるで罪深い鎖のように全身を締め上げて――
ごめんなさい。正直に言うと、私はもっと、もっと、貴方に命令されたい。
軽蔑されたい。冷たくされたい。
できればこの心ごと、貴方に壊していただきたい。
……でも時々は、優しく撫でて、愛して――
俺は便箋をそっと閉じ、封筒にしまいこんだ。
「どうでした?」
顔を上気させ、期待に満ちた笑顔で問いかけてくるシオン。
「……怪文書は恋文にならねぇよ……」
「その怯えて拒絶する表情……ニャニャニャ……頑張って書いた甲斐がありましたわ」
体を小さく震わせながら、頬を染めてうっとりするその姿に、
俺は深いため息をつくしかなかった。
「……お前の思考、マジでわかんねぇよ」
この女学園で、“理解できる”を求めること自体がもう間違ってるのかもしれない――
俺の尊厳は、今日もまたひとつ削られていく。