抱きしめたい、この想いとハコニウム
スズナの家の玄関ドアを開けた瞬間、俺は一歩踏み出すのを忘れて固まった。
「おかえり、ハコ」
迎えてくれたスズナは、大きめの白いエプロンに三角巾という、料理をする気満々の姿だった――が、それだけだった。
いや、正確には「それ“しか”着ていないように見えた」。
胸元のラインがはっきり浮かび、エプロンの裾から覗く脚にも何の布も確認できず、俺の脳内には思わず禁断の単語が点滅する。
(まさか……裸エプロン!?)
動揺している俺に、スズナは両腕を胸の下で組み、さりげなく……いや、明らかに意図的に胸を強調してくる。
その意外なボリュームに目を奪われた自分をぶん殴りたい。
「エプロン、ないほうがいい?」
「やめて!? 判断力が消し飛ぶから、お願い、ちょっと待ってくれ!」
思考をリセットしようと背を向けた瞬間、布が擦れる音と、床に何かが落ちる気配――
振り返ると、脱ぎ捨てられたエプロンだけが残されていた。
そして、廊下の先の扉の隙間から、スズナがジーっとこちらを覗いて――目が合うとサッと引っ込む。
(いやこれ、ホラーかコメディかどっちかにしてくれ……!)
俺は覚悟を決めて、靴を脱ぎ上がり込み、拾い上げたエプロンを手に部屋の前へ。
「……スズナ? 聞きたいんだけど、服は、着てるよな?」
恐る恐る問いかけるが返事はなく、仕方なくドアを開けると――
中は、想像以上にファンシーだった。
ピンクのカーテン、ぬいぐるみの山、ふわふわのクッションにスリッパ。まさに女の子全開の空間。
「いいでしょ?」
突然、背後から耳元に吐息がかかり、心臓が跳ね上がる。
スズナがそっと抱きついて、ささやいた。
「ハコのお料理、食べさせて?」
耳に息がかかりかなりこそばゆいが、要求に関してはいたって普通で内心ホッとする。
「かまわないけど、ハギの作る弁当のような凝ったのは作れねーぞ?」
「大丈夫。ハコの料理。ずっと前から食べたかった」
「ずっと前?」
スズナと知り合ったのは自分の中では最近のはずだが、スズナ的にはだいぶ時間がたった感覚なのだろうか?
そんなことを考えた矢先、スズナに耳をカプリと甘噛みされ、不覚にも可愛らしい悲鳴を上げてしまう。
「作るから、耳嚙むのやめて、すっごくこそばゆいんだぞ」
そう言うと、スズナはフッと耳に息を吹きかけ、うなじの後ろ側を甘噛みする。
またも可愛い悲鳴をあげ、ぺたりと床に座るタイミングでスズナは離れて
「待ってるね」
そう言ってどこかに歩いていく。
料理を終えて、テーブルに二人分の皿を並べたとき、スズナは小さな拍手をして嬉しそうに席についた。
「いただきます♪」
ハコが作ったのは、ごく普通の家庭料理。
卵焼き、味噌汁、焼き魚。見栄えは地味だけど、なんだか“あたたかい”もの。
「……おいしい」
一口目を口に含んだスズナが、ぽつりと呟いた。
その声に、ちょっとだけ照れくさい気持ちになる。
「口に合うようで何よりだ」
「うん。すっごく、ほっとする味。やっぱり……好き」
さらっと言われた“好き”は恋愛的な意味か、料理に対してか、どっちともとれるあたりがスズナらしい。
食後、片付けを終わらせた後、ふと、リビングの棚に置かれたアルバムが目に入った。
(……なんか、ページ開いてる?)
そっと覗き込んでみると、そこには――
子供ふたりが写った写真。手を取り合って、無邪気に笑っている。
“たいせつなひと”という、子どもの文字で書かれたメモが添えられていた。
「あれ……なんか見たことあるような……」
写真の中の女の子は……スズナじゃない?
それにもう片方は? この服装、髪型――どこか記憶の底で引っかかる。
「どしたの?」
スズナが俺の視線に気づいて、そっと声をかけてくる。
俺はしばらく写真を見つめたあと、ポツリと呟いた。
「……なんか既視感がある。思い出せそうで、思い出せないっていうか……」
「そっか――わかるといいね」
スズナは、そっとアルバムを閉じた。
(……わかると、いいのか?)
それ以上、スズナは何も言わなかった。
代わりに俺の思考を断ち切るように、突然、スズナの顔が俺の耳元に迫る。
「……ふにゃっ!?」
不意打ちの“甘噛み”だった。
「お、おま、ちょ、なにすんだよ!?」
「うん、やっぱり弱点♪」
ニヤニヤと満足げな顔のスズナ。
俺は思わず猫化して距離をとり、距離が取れた瞬間に人間の姿へ戻る。
「大事なこと考えてたんだけど!?」
「大事…」
しばしの逡巡そして、スズナは両手を広げておいでポーズ。
「ニャニャニャなら歓迎」
「なぜ、そう違う方向へ行くっ!?」
再び逡巡、そして気づいたように顔を上げ頬を赤らめながら――
「優しくね?。こっち、正解?」
「なんでそっちに寄せてくんだよ……!」
呆れつつも、俺はゆっくりスズナの前にできる限り背筋を伸ばす。
そして、彼女の肩をそっと抱いて、自分の胸に顔を埋めるように仕向ける。
「……こういう方向なら、してやれるよ」
スズナは少し驚いた顔をして――
「……悪くない。うん、ぜんぜん悪くない」
そのまま、勢い余って俺を押し倒し、胸に顔を埋めながら深呼吸を繰り返す。
「ハコニウム……吸引……しあわせ……♥」
「そんな成分、存在しないぞ?」
夜――。
布団に入って、ようやく落ち着けるかと思った俺は、甘かった。
「……お布団は一緒」
「は?」
スズナは自信満々に、俺の布団へもぐりこんできた。
なぜか枕がひとつ、横幅も広めの一枚敷き。
「……もう一組の布団は?」
「ないよ? 一人暮らし」
なぜそれが当然のような口調なんだ……。
「じゃあ、俺が床で寝るか……」
「ダメっ!」
即座に羽交い締めにされ、身動きが取れなくなる。
「ハコニウム、まだ足りない……」
「危険なので過度の吸引禁止」
「存在しない成分……大丈夫」
布団の中、ぴったりとくっついて寝る体勢のスズナ。
くすぐったいような、こそばゆいような、それでいて――悪くないのが悔しい。
「お前も、わりかし甘えん坊だよな……」
俺が苦笑しながら呟くと、スズナはぽそりと返す。
「ううん。自分に正直なだけ」
そのまま、スズナは抱き着いたまま、すうすうと寝息を立て始めた。
(……このままじゃ寝れないよなぁ)
やがて俺はそっと猫化して、スルリとスズナの腕をすり抜ける。
そして人間の姿に戻り、彼女の掛け布団を整えてやる。
「明日、ハギを起こしに行かないといけないから……ごめんな」
そう呟いて、俺はスズナが使うはずだった布団に猫の姿で潜り込む。
――翌朝。
「ん……?」
目を開けた俺は、自分が何かに埋もれているのを感じた。
もふもふ、カラフル、ふわふわ――でも違和感。
「え……これって――」
視界に映ったのは、様々な色・柄・形の下着。
そして、その先には――
スマホ片手に、シャッター音を鳴らすスズナの姿。
「ちょっと! 何して――!」
「男の子の夢? 違った?」
「夢っていうかホラーだよコレ!?」
俺は頭を抱え、朝から絶望感に打ちのめされた。
「片づけなさい! あとその写真も消せ!!」
「ヤダッ!! 頑張ったのに……」