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テンペストがやってきた!  作者: 墨 作楽
貌のない男
3/4

3.嵐の夜

暗闇のなか、ミストはただ走っていた。

ザクザクと木々を掻き分ける。

ジンの言っていた通りに、周りは森だ。


バシャッと泥水に勢い良く足を踏み入れたのか泥が跳ねた気がする。しかし空は分厚い雲に覆われ、月明かりもないのでこれが泥水なのかは分からなかった。


シンとした静けさの中でミストの荒々しい呼吸だけが辺りへと響く。

ハア、ハアと牢を出てからずっと全力疾走で無理をし続けた体は限界で、もう足をとめたいと思ってしまう。


足をとめないのは、ジンの必死な姿を思い出すからだ。


危険だと知っていて、ミストたちの牢屋まで再び戻ってきてくれた。ここで、足をとめることはジンの思いを無碍にすることと同じだ。


だから今この時も走っているのだ。


走って、走って、たった1人で、


「―1人で?」


ミストはついに足をとめた。後ろには夜の暗闇だけが広がっている。


なぜ自分は走っているのだろう?


―ジンが走れと言ったからだ。


では、何のために走っているのか?


―ジンの献身に報いるために走っている。


その結果、逃げきったら、いったい自分はどうなるのだろう?

ミストはセピア色の世界で1人ポツリポツリと歩く自分の姿を想像した。


外の世界にはミストとお喋りできる人はいない、かもしれない。

それか鞭をしならすあの看守みたいな人ばかりだったらどうする?


囚人仲間たちはそこにいない。ミストが置き去りにしてしまったからだ。


いつだって自分は、人に流されるまま誰かのいいなりになって動いてきたように思えた。


今もジンが走れと言ったから走っていたのだろうか。


走れと言われれば走り、演じろと言われたら演じ、死ねと言われたら死ねるのかもしれない。


ガサガサと雑草が音を立てる。


「…随分と、逃げ足の速いお嬢さんだな、君は。」


月明かりさえない暗闇で、聞き慣れた声がミストの頭上からする。


(イグニスだ…。)


逃げる気力が失せていた。


「私、後悔してるの。」


どこからするのだろうか土と雨の匂いが強くなりはじめる。

激しい風がミストの赤い髪をバサッと靡かせた。


鼻にポツンと雨粒が落ちた。と、思った次の瞬間にはザーザーと雨が降り始め、足をとめた2人の衣服や履き物までをもずぶ濡れにさせていく。


雨は徐々に豪雨ではなく、嵐の前触れを予感させるような激しさになっていく。


長時間走って火照った身体は、たちまち身体の深部から冷えていく。寒さで全身が震える。それともミストの後悔がこの身体を震えさせているのだろうか…。


ミストの口からついに本心がこぼれだしていく。あんなに我慢していたのに。


「私、後悔してるのよ。」


「そうか。」


「現実逃避なんてしないで、演技に逃げたりしないできちんとやるべきことやって皆と脱走できていたら、

きっと今こんなに後悔してないと思うの。」


ミストのか細く震える声にイグニスはただ頷く。


「そうか。」


「…けど、私は…。私は!皆とずっとこのままでいたいとも思ってた!だって一緒に居るのが楽しくて心が暖かくなるから。


脱走なんてしなくても全然いいって本気で思ってた!!

皆がいてくれたらそれで良いって。


それが、脆く儚いものだとは知っていたのに。」


寒さで震えながら言葉を絞り出した。

ミストを責めるように雨はミストの身体を強くうちつけていく。




イグニスはミストの両肩に手を置く。「俺を見ろ。」とイグニスの怒気に、ぬかるんだ地面を見ていたミストは視線をイグニスに向けた。


「…「人はその選択が間違えだと分かっていても選んでしまうことがあるのだ。」」


「それ、…(かたち)のない男の独白の台詞…。」


あの日、ミストがミストとして初めて演じた演目が<貌のない男>だ。


あの日のことをミストは鮮やかに思いだせる。

…あの時はただ演じることを楽しむだけで良かった。




妖精に顔を喰われた男を主人公とする題名【(かたち)のない男】。

それはミストの牢屋仲間たちと馬鹿騒ぎをして過ごしたひとときを思い出させてくれる思い入れのあるお話だ。


そして、こと今になると、

主人公の男が間違いだと理解しながらも選んでしまったというシーンが、今のミストの状況とリンクして、ミストを苦々しい気持ちにさせる。


項垂れるミストの肩をイグニスは強く握る。


イグニスの込めた力は尋常でなくあまりの痛さが肩に走る。ミストは咄嗟にイグニスへと向き直らされた。

そのイグニスは、酷く苦しそうな表情を浮かべ、まるで懺悔でもするかのようだった。



「俺も君も、同じだ。間違えだと知っていながら選んだ。


――君は、自分が最後まで残ったことに疑問は感じないのか?」


赤髪の少女が、「それは、…どういう意味なの…。」と呟く。

看守イグニスは、自身が応急手当したあの老人のことを思い出していた。











青くやわらげな魔方陣により、老人の背中にあった鞭で打たれた無惨な痕が消えていく。


イグニスは専門的な医学を学んだわけではないので、完璧に傷跡を消すまでは出来ない。

傷を塞ぐまでがイグニスの独学で学んだ応急手当の可能な範囲である。


脂汗を浮かべていた老人の苦悶の表情は消え失せていたので、少し安堵する。


暫く様子を見ながら、水で湿らせた布で体を、特に傷口周りを拭おうとした時に、老人はスッと立ち上がった。



イグニスは、咄嗟に手を構えて臨戦態勢をとる。



老人は髭を撫でまわしながら、イグニスをじっと見つめて、


「…ヴッ…。」


と、苦しげに胸を抑えた。

咄嗟にイグニスがよろめく老人の体を支えようとすると、「ドッキリ大成功じゃ~」とニコニコとVサインを決める。

老人の磨き抜かれた金歯がキラリと光る。腹が立つほどの良い笑顔だ。


「おい、爺さん…。」


「お主の治癒魔法は凄いのぉ~。


死ぬかと思ったら、鷲の思い出せなかった記憶もなにやら衝撃で思い出せちまったわい。」


「俺の応急処置にそんな効能はない。」


ホッホッホと、にこやかな老人の長話は終わらない。


イグニスは、老人がバレエの師範として現役引退後活躍したことや、そもそも老人がバレエを始めたきっかけは初恋の人がバレエのスターで、しかし、その初恋の人は女ではなく男だったのだという老人の初恋の切なさまでのありとあらゆる要らない知識を得た。


イグニスは老人の長話をさっさと切り上げさせれば良かったと後悔した。


老人の長話はいつしか別の話題になり、老人は

「ミストに助言もっとしてやれば良かったのぉ~。

鷲、あのこに分かりづらいアドバイスしかしてやらんかったのよ。あの時の鷲ってなんてアホなんじゃ~。」と言っている。



「おい、おい!爺さん」


「なんじゃ?」「調子は?気持ち悪いとかは有るか?」「無いのぉ~」


「…なら、ついてこい。」


イグニスは嫌々ながら、老人の手枷から伸びた鎖を掴む。


老人の人が変わったようなこの明るさは、イグニスの気持ちを重くさせた。


「なんじゃ~。もう時間なのか?鷲は、何処に連れてかれるんじゃ?」


それにイグニスは答えない。嫌がる囚人の鎖を引くのはこれが初めてではないのだ。

あの日、ただ1人の命を救うと決めた日からイグニスは、今の主に偽りの忠誠を誓い、囚人の始末をつけている。


()を開ける前、老人は立ち止まり、イグニスを見た。


「…鷲はな、耳が良いんじゃ。

あの娘が、ミストがあの日突然芝居をはじめた日、お主は扉の前に立っておったのだろう?いつもあの時間にお主は見回りをしているものなぁ?

しかし、お主の靴音は扉の前から動かず引き返さなかった。

お主は、連れの、…鷲を鞭で打ったあのいや~な男を、のらりくらりとからかい怒らせてしまいには帰らせておった。」


「チッ」


老人のしたり顔に思いきり舌打ちをしてごまかす。


「その後、お主は、扉の向こうでただ、観客としてミストの芝居を聴いておったじゃろう?

実に初々しいの…ホッホッホ。」


「こっちは後がつかえているんだ。爺さん、本題は何だ?」


「ミストは、最後にしてやりなさい。」


好好爺は髭を撫でつけながら、しかし目は笑っていない。


「そんなの僕が決めることじゃない。」


「「ミストは最後の1人になるまで。誰かが選ばれるならミスト以外の誰かを。」と牢の人間が話し合っておったわい。」


今度こそイグニスは鼻で嗤った。


老人は茶目っ気たっぷりにウインクしてイグニスの開けた扉に入っていく。


扉が閉じた。











「やっぱり、子供なのよねぇ…。」


リュタという女はそうイグニスに向かって話し出す。


「ミストは全然脱走する気が無いの。

どうしてだと思う?」


「知らん。」


「あんなに物欲しそうにミストを見ておいて知らないってことないんじゃあないの?」


「はぁ?」


「うふふ。じょーだんよ。


…ミストはね、外の世界に怯えているのよ。


あの子だけは、外の世界の記憶を少しも思い出さなかったみたい。私も、他の人たちも自分がどうやって生活していたかはうっすらとは思い出せるのよ。


けど、あの子にはそれさえないの。可哀想だわ。」


リュタは自身の黒髪に手を添えて軽く梳かす。


「なぜ、自分達の命ともいえる技をミストに教えようとしたんだ?」イグニスが囚人に訊ねる。


「私たちが死んでも、私たちが教えたものは、ミストの中で生き続けるでしょう?」


うふふ。と笑いながらリュタはイグニスの開けた扉に入っていく。


またしても腰に差した銃を脅しに使う必要さえなかった。


「嘘、でしょ…。」


リュタは、目を見開いて視線の先の何かを食い入るかのように見ている。


扉が閉まっていく。


「だとしたら、希望は、まだ、あるわ。…パンドラの箱ってわけね。」


彼女は前へと歩みを進める。


扉が閉まる。













「皆で決めたの!」


ディネは明るく、努めて明るくイグニスに笑顔を向ける。


「ミストのお姉ちゃんは、あの中でいっちばーん下手くそだったけどね、

あの中でいっちばーん楽しく演技してたんだ!


イグニスおじちゃんも知ってるでしょ?」


「だから、皆の思いを全部ミストお姉ちゃんに託したの!私も、お姉ちゃんに特訓してもらってディネのバレエが大好きだ~っ!っていう気持ちを伝えたんだ!」


「どうしてそんなことを?」とイグニスが訊ねると、ディネはきょとんとして、

「だって全員は逃げられないでしょ?」

と首をかしげたのでイグニスは一瞬言葉に詰まった。


「イグニスおじちゃんが上手く逃げろよ~って見てみぬふりしてくれてても、あの人たちは捕まったじゃない?」


あの人たちとは、少し前に脱走を計り見事に失敗した奴らだろう。


見せしめだと鞭を楽しそうに振るっていた同僚の看守と呻き声をあげる囚人たちを思いだしてイグニスは苦い思いになる。


「…もし、僕がディネ嬢さんのいう通りな良い人だとして、

あれは、さすがに庇いきれないかな。」


イグニスとて、あの状況から助け船はだせない。


自分はかつて既に1度ポカをやらかして主君に慈悲をかけられている。その結果、こうして牢屋の看守に職をうつされ、…実質左遷させられただけで済んだが、次はどうなるかわからない。


囚人を痛めつけることも、囚人の監視や管理もイグニスはやりたくなかったので手を抜いている。

そのことにイグニスの主が気がついたとしても、彼はイグニスを罰しないだろう。彼はイグニスにことさら甘い。

しかし、故意に囚人を逃がしたとしたら話は別だ。


慈悲深い主とやらでも二度目の慈悲は流石にないだろう。


ディナは、胡乱な眼差しでイグニスを見て、はーっとため息を吐いた。


「とにかく!ミストお姉ちゃんを泣かせたら承知しないんだから!」




扉の前で、ディネは立ち止まる。

「おじちゃん。…死ぬのって怖いの?」


幼い子供は毅然と死の恐怖を乗り越えようとしていたが、やはりというべきか、ポロポロと涙を溢しはじめる。


「…今から死にに行くわけじゃない。…少しの間、眠るんだ。」


「死の眠りってわけね。おじちゃん詩人だね。バカ。アホ。悪魔。」

「――悪魔はないだろ…。」


イグニスは息を吐いて左手を額にあてて、やれやれと首をふった。


「…僕の親友も眠っているんだ。」


ディネは弾かれたようにイグニスを見た。


「ずっと、何年も前になる。


それでも僕はこのままになんてするつもりはない。

アイツへの借りも返せてないしね。


…これで少しは怖くなくなりましたか、お嬢さん?」


ディネは、嘘だったら許さないから!針千本飲ますからね!と涙をふいて勢い良く扉を開けた。


扉が閉まる寸前、「うわっ!」とディネの驚いた声と、ちゃぽんという水面が跳ねたような音が聴こえた気がした。







「交代の時間だ。」


イグニスは同僚に事務的に交代だと伝える。

相手は顔を盛大に歪めて、イグニスへの嫌悪感を隠そうとしない。


「お前が担当してる牢屋の囚人たち、きちんと躾とけよ?」


「痛めつけることは指示されてない。」


イグニスの返答が相手には納得いかなかったようだ。


「脱走しようとする気力を折るのは看守の仕事だろ。鞭で簡単に大人しくなるんだから、サボってんじゃねぇよ。

…お前のとこの囚人たちは、ありゃあ全員で何か企んでやがるぜ。きっとな。」


イグニスは鼻で嗤う。


「流石に考えすぎだろう…?

己の損得でしか動かないのが人間という生き物だ。

そんな人間たちが、同じ1つの目的をかかげて一丸となることなんて本当にあると思うか?


例えば、同じ牢屋に囚われた囚人同士だとしてさ…」


少し嘘臭く言いすぎたかもしれない。

牢屋の囚人たちが何かを企んでいるのはイグニスも察している。十中八九脱走を計画しているのだろう。


相手はストンと無表情になり、


「同じ境遇にいる人間が、同じ1つの目的をかかげて一丸となることはごく稀に起こりえるだろう?


今だって、気にくわないてめぇと俺がこうしてここにいる。」


イグニスは「そうだな。」と頷いた。


「忠告をどうも。」


相手が去った後、イグニスは自嘲気に呟く。「僕とお前が同じ目的だったら世界はもう少しマトモになったのかな?」








「俺の微かに思い出せた記憶はな、

舞台の中央に立って客の歓声を浴びて立ってたって光景だけなんだけどよ…。


その客の顔が、良いもん見たっていう満足げな顔なんだよ。


拍手喝采。


んで、感動した!って花束が飛んできたりしてさ。


それで、俺はなんとなく思ったわけよ。

ここにいる囚人の俺たちって、他の奴らと比べても結構上手い方なんじゃねえかって。


どれくらいって言われたらこれで飯を食ってきたって言えるぐらいの上手さなわけよ。


…と、まぁ、俺たちがすげぇって話がしたいわけじゃないんだ。


俺が言いてぇのは、俺たちは客を感動させることができる腕前を持った凄い奴だったのかもしれねえが、


ミストはそれよりずっとすげぇってことだ。」


ギリーという囚人は、目の前の看守に自慢するようにニンマリと笑った。


「俺たちは客を"感動させる"ことは出来た。

けど、"奇跡"なんて起こしたことはねぇんだ。

少なくとも俺はそうだ。


けど、あの日、あの嬢ちゃんは、奇跡を起こしたっ…!」


ギリーは興奮が隠しきれないような上擦った声で話した。


ミストが、起こした奇跡とは、

彼らが注射によって忘れかけていた自身の記憶を取り戻させたあの一件だろう。


それがどれほどの奇跡なのかを知っているのはこの場にいるイグニスだけだ。


「一体、誰が出来る?!

1人の記憶じゃない。ミストは、皆の記憶を取り戻したんだ!

誰がそんな奇跡を起こせる?!



俺は、俺たちはな!!!

ただ馬鹿みてぇな楽観さで自分の命を投げ捨てたわけじゃねぇんだ!


…賭けたんだよ。



脱走が"今"難しいなら、今じゃなくていい。

あの娘なら、また奇跡を起こせるんじゃねぇか…?ってな?」


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