鏡花の夢
落選作供養
リンカーネーションを添えましょうか。それとも昔、本で・・・図鑑で読んだ、かもしれない、フォスフォレッセンスでも添えましょうか。あの冷たくて硬い、石でできた忌々しい柱に。誰もいないはずなのに、冷たくて、幽かに温かい、あの柱に。
ひなは酔っていた。ジョッキほど大きく深いグラスにウイスキーを七八杯呷った挙句、調子に乗ってジンを水のように飲んだ。翌朝になっても醒めない酔いが彼女を一層微睡の中を彷徨わせていた。目を閉じながら部屋の中を徘徊し、所々草臥れたソファに体を預ける。テレビの向こう側では、今の彼女とは比べ物にならないほど暗く、悲しいニュースが流れていた。
「粗暴だ。根拠のない出鱈目ばかり、ああ嫌だ。嫌だね。これだから、本当」
雛は画面に映し出されている、名前も知らぬキャスターに向かって、あるいはその手前の見えない指揮者に向かって、独り言を吐き散らした。当然、誰も聞いていない。同じ部屋には、誰もいない。
時計の針が数字の二を指し、窓を塗る黒が一層深まった頃、ようやく、部屋が静謐を造り出し、ベッドの上の雛がすうすうと寝息を立てた。途端、その瞬間を見計らったかのように、浴室の鏡を隔てた、そこにはいないはずの雛が声を上げた。
「ようやっと、自由に動けるようになった。真似をしているとどうも、体のそこらが凝り固まって仕方がないわ。今日、昨日、どっちでもいいや。酒を口から溢すほど飲んでいたし、まあ、七時間は自由になれるかしら」
すると鏡の中からゆっくりとこちら側へ浮き出ていき、部屋の中を泥棒かの如く物色し始めた。
「何か新しいものは増えていないかしら、あ」
ピタッと止まると、手に掴んだルービックキューブをまじまじと見た。
「すごい。すごいわ、このルービックキューブ、色が付いているのね、六面全部、しかもバラバラに」
彼女はさらに物色を続けると、ルービックキューブが入っていたであろう箱と、取扱説明書を見つけた。
「こっちのルービックキューブは、揃った色を一回ごちゃごちゃにしてからまた揃えるのね。変わっているし、とても難しそう。でもきっと、おもしろいわ。私のいる方だったらこんなんじゃなくて、キューブが透明で、ガラスみたいで、概念的で、ややこしいもの。あんなもの、誰がやったってつまらないわ。おもしろがるのはきっと、自分を特殊な人間だと思い込んでる厄介な人だけね。こっちのこのキューブを見してあげたいわ。文字通り、色のついた世界になるはずだもの」
彼女は興奮のあまり、いないはずの誰かに話しかけるように独り、声を跳ねさせていた。
少し遠くで、布が擦れる音が聞こえる。雛が寝返りを打った音のようだ。酔いがしっかりと回っているのか、やはり目が覚める気配はない。
静かな部屋の中でカチャリカチャリと音が鳴り続ける。ルービックキューブの色が一面揃っては崩れ、また揃っては崩れを繰り返し、六面の色が揃ったときには外が薄く、赤く染まりだしていた。
疲れと満足感からか、鏡雛は喜びを少し噛み締めてからすぐに、無言のまま鏡の中へ入っていった。
鏡雛が帰ってから約三時間後の午前十時、厚い掛け布団から脱皮をしたかのようにもぞもぞと這い出てきた雛がリビングへ来た。こくりこくりと首をを前後左右へ振り、右頭を手で押さえながら千鳥足でソファへ腰を下ろすと、机の上に完成したルービックキューブが置かれているのが眼についた。これを机の上に置いた記憶もなく、揃ってもいなかったはずのものがなぜここにあるのだろう、と疑問に思いながらも、酔いの勢いで揃えたのだろうと独り納得した。そしてルービックキューブの色をバラしてから入っていたはずの飾り箪笥へ戻した。
「ああ、なんでこっちはこんなにつまらないのかしら」窓の縁に肘をかけ、頬杖をつきながら鏡雛はぼそっと呟いた。その表情には嫉妬や寂寞、憂いもが読み取れ、どこか気怠げであった。雛が鏡の前やガラスの反射、水面の付近などに近づかないときも、鏡雛は雛が鏡外でもほとんど同じ動きで、ほとんど同じ生活をしていた。が、往々にして行動の仕方が逸脱してしまい、目下動きが変わっていた。感情も例外なく同じにはならないようで、雛が楽しいと感じていたとしても、鏡雛は大して楽しいとは思っていないということが屡々あった。でも、雛のことを想う気持ちは人一倍、百倍、星千倍にまで大事に想っていた。雛はそんなことなど露知らず、ましてや何の疑問も抱いていなかった。鏡雛も雛も、命が共有されていること、どちらもそれを知ることはなかった。
「いつか無理でも、話してみたいなあ」
ぽそぽそと静かに口を動かしながら、切れかけのフィラメントからぼやける明かりを静かに、ただ静かに見ていた。
雛は黙々と身なりを整えていた。これから山手通りの、木造の萎びた居酒屋へ、友人である柊茜と飲みに行く。影が薄いその友人は悲しいことに、自動ドアに反応されないことが多々あった。
朝起きてからこの間までに、飲酒時とは打って変わって一言も発していない。頭が痛くて、準備がなかなか捗らない。愚図々々しているうちに約束している時間になり、私は慌てて家を出た。
「最近、どこもかしこも自動ドアで嫌になっちゃうよ」半笑いで柊が言う。
「びっくりしたよ。この居酒屋、自動ドアになってるなんてね。君が来るまでこの中に入れなかったよ」
「ごめん。でもおもしろかったよ」
正直、店の前でおろおろ行ったり来たりしている姿は滑稽だった。そう思いつつ、唾を飲み込んだ。萎びた外観とは不釣り合いなほど便利で綺麗な自動ドアがゆっくりと開き、いらっしゃいませと嗄れた声が元気よく聴こえる。この声を聴くといつも、なんとも言えないような心地よい心持ちになる。店内に入ると、昼時とは思えないほどの酒飲みで溢れかえっていた。鼻を刺激し、咽喉を暴れさせる匂いが充満し、席を案内される時間さえも煩わしかった。店員の一人が
「お久しぶりですね」と言ってきたので、柊が「席、空いてる」と尋ねると、奥の畏まった個室へと案内された。頭が痛いことなど疾うに忘れており、お通しが来る前に酒の注文をはじめていた。一杯目はビール、二杯目はハイボール、三四杯目は緑茶ハイと、実に居酒屋らしい飲み合わせで計九杯ほど飲んだ時には、柊はとっくに瞑れており、十杯を超えたころには実質一人で飲むようになっていた。結局、柊は五杯、雛は十三杯と一寸のところで瞑れてしまい、その日一日を居酒屋の個室で過ごした。
カタン、カタン。机の上に置かれた空のグラスが、突っ伏して寝る柊の右の手の甲に倒れてきた。にもかかわらず柊は、目を覚ますことはなかった。
「柊さん、行きましょう。もう、七時ですよ。夜の七時ですよ。起きてください。寝てないで、早く起きてください」
泥酔状態の雛が必死に柊の肩をゆする。平日の昼間から飲み続けても追い出されないのは、半常連の特権だった。が、長く居座り続けるのもやはり迷惑だと理解っていたので、また必死に柊の肩をゆすった。
「柊さん、そろそろ帰りましょう。直に、照明が落ちて、グラスが倒れて、てんやわんやです。私だって、眠たいんです、帰って、寝たいんですよ。でも、柊さん、あなたが起きてくれなきゃ、私は心配で帰れないんです。今日は相当に酔って、楽しかったです。酔っている内に、楽しい気分でベッドに飛び込んでしまいたいんですよ。起きないと、帰らないと。いい加減、怒りますよ。自分だけ溶けた顔して、うらやましいったらないですよ」
体が右往左往激しく揺れ動き、箸が転がり落ちてなお柊は起きることなくにたにた微笑んでいる。次第に怒りが募っていき、揶揄う口調になっていった。
「やいライジリー、一人勝手に戯けやがって畜生、いや、騒ぐのはよしましょう。すいません、お勘定」
店員を大声で呼び、水をくっと飲むと、雛は一人で帰り支度をした。視界が斜めに映る様はさながら壊れかけのテレビであり、自身は故障したテレビ本体などと馬鹿なことを考えているうちに段々と浮き立つ足音が近づいてきた。
勘定を柊の分と合わせて済ますと、そろりそろりと部屋を出て店員に一言、あの人は悪い人です、と謝罪代わりにバッグに入っていた未開封のルージュをそっと手渡した。
帰り道、カーブミラーの隣に突っ立っている電信柱に書かれている赤くて、井のような形を見つめ、何が可笑しいのか解らないまま独り狂い笑った後、ピタッと牛丼屋の前で立ち止まった。
「そういえば、飲みばかりで食いはしてないね。眩しい」
胃に入れたのはお通しだけだった。牛丼屋には入らず、さっと踵を返して斜向かいのとんかつ屋にそぞろ歩いて暖簾を掻き分け、こんばんはと入っていった。このとんかつ屋、名を北奥屋というらしい。
こじんまりとした厨房が見え、女将がこちらへ会釈したので、私は赤くなった目を見開いたあと三日月にして笑い、ここは良い店であることを確信した。右から三番目、入口からやや遠く、揚げを見られる位置に陣取ると、女将に尋ねた。
「この店の一番おいしいのはやっぱり、とんかつですか・・・それとも、コロッケですか。何にせよ、美味しそうですね」
「そうでしょう。このお店、結構美味しいんですよ」
返事をしたのは女将ではなく、常連であろう少し年を喰った男だった。店の声より客の声の方が、内実良く解るだろうか。女将でないところからの横槍が気に食わなかったが、
「なら、看板の一番目立つとんかつ定食でも食べてみようかしら」
と場を壊さないようにしつつ注文した。はいよ、と声が聞こえた刹那、ガラガラと戸が開いてのっそりと背丈一・六米程の女が寒い寒いと震えながら入ってきた。どこか見覚えがあるなとよくよく見てみると、置いてきたはずの柊だったので、口悪く酔いに任せて捨てた言葉に若干後ろめたくなって、来ていたパーカーのフードを勢いよく被り、バレないように、祈りながら下を向いた。
「もう七時半なんですね」
柊が女将に笑いかけた。結局、起こしても起こさなくても、どっちでもよかったんだ。
「いやあ、さっきまで飲んでたんですよね、友達と。私が先に瞑れちゃって、置いて行かれちゃいましてね。でも、会計はしてくれてたので、ありがたいなって。多分、あの人は、酒を飲むのに夢中で、帰り際に空腹を感じて、この店に入ってくるんじゃないかって思ってたらね・・・」とこちらの方をちらりとし、
「いるんですよ。やっぱりね、付き合いが長いと、分かっちゃんですね」
とにやにやしながら肩をたたいてきたので
「なんだ、気づいてたの」
素っ気なく返しながらフードをふわりと取ると、柊の半酩酊という言葉をそのまま表したかの如く仄赤い顔がよく見えるようになった。柊の手には紙に包まれた花がそっと握られていた。
「あー・・・その、ごめんね。私、迷惑かけちゃったみたいで、これ、詫びの花。リンカーネーション。きれいでしょ」
差し出してきた花は白く、無機質で、とても美しかった。私はそれを受け取ると、バッグから花弁を覗かせるようにしまい、ありがとうとだけ伝え、俯いた。知らず体が熱くなって、今にも火傷しそうで、妙に小っ恥ずかしくなって、もじもじしているうちに、下の方を催してきて、逃げるようにトイレへと駆け込んだ。
ドアに体を任せ、静かに深呼吸をすると、頭からすうっと熱が顔を通り、胸、臍、足を伝って地面へ流れ出ていった。正面の鏡の中の私の表情はやけに落ち着いていて、私のはずなのに私でないようだった。
戻った頃に丁度とんかつ定食が運ばれてきて、猛々しく濛々と匂いを散らしていた。
「ねえ、鏡のあっち側ってさ、別の世界が広がってるとか、そういうのって在ると思いますか」
席についた途端、柊が脈絡もなく言った。私は柊のそれに何故かと問うと、
「よくさ、動画とか、生配信とかであるじゃないですか。人形が動いたり、ちびっ子が遊ぶ様子を写した鏡に、別の行動やら、遅延した様やら。そんなのが本当に在るのなら、おもしろいんじゃないかって、思いまして」
「在ったらいいね、楽しそうだ・・・」
味噌汁を一口、キャベツを頬張る。頭の中枢、海馬の灯台の中で小柄な雀がほろほろと舞を踊り、悪辣な視界から覚醒していく。
「美味しいね」
「そう、おいしいんだよ、ここのは。いつもあっこで飲んだあと一人できてたんだけれども、今日は二人だ」
「ねえもう、さっきの話はいいの。夢のあるようなないような、そんな話の続きはもういいの。私、あなたがそんな考えをもつことができる人なんだっていうのが初めて知れて、違うね、久々だ。久々に知れて、そこはかとなく嬉しいわ」
露に隠れた水を飲み干し、食べながら喋る。一寸、ほんの少し、マナーが悪くても誰も気にも留めなかった。そんな空間が木の香りとともに私の手を取り、笑いかけているようで心地よくて眠くなってきた。
「嬉しいなんて言われちゃあ、仕方ないわ。でも、鏡の中にこことは違う世界が広がってて、私たちとは違う私たちがいて、それできっと、形とか方向とか、堅っ苦しい概念なんてのはないんだって。そんなこと言ったって、理屈馬鹿には笑われてしまうのでしょう。だから、夢なんてのは大人になっていったり、賢くなっていったら消えていくんでしょうね。阿呆らしいったらないわ」
「なんで鏡の中は方向とか形とか、堅苦しい概念がないなんて思うの」
「だって、皆が考えるもしも鏡の世界が会ったらってやつは、大体逆なんでしょう。右が左、北が南、錯覚を使って四角が丸。そんなの、都合がいいわ、右が左とか、単純なやつを逆にしたり、文字を反転させたり。馬鹿みたい。ならいっそ、こっちに有るものはあっちには無い。それでいいじゃない。この方が、簡単でしょ」
幾許かの疑問とともに、確かにと思った。きっと私は今、呆けた顔で柊を見つめているに違いない。この人は、頭こそ普通の人よりネジが二本ばかり取れかかっているような人であるが、発想が凝り固まっておらず、奇想天外とまでは全くもっていかずとも日常とは少しだけ乖離したような考え方をする。
「確かに、そっちの方が単純で、都合がいいね。(この瞬間だけでも、私は柊の見方が変わったのである)確りしてるね」
目頭が熱くなるのを我慢しつつ、悟られないようにとんかつを流し込み、米を掻っ込んだ。この調子でずっと会話が進むと、私の中の言い表せない嫌な何かがぽろぽろと湧いて流れていきそうで怖かった。
「そろそろ私、帰りますね」
あれから一時間余、午後の九時程度まで話し込み、時間を言い訳にして店を出た。ちらりと降る雪が道路を隠し、ベルベットの袖のようにやわらかく、ひっそりと積もっていた。空が心情を写すような表現が小説なんかにはあって、それが定型の雅として語られているのだが、それなら私のこの情は空が表現しているのだろうか。きっと、私の心臓が抱える悪、ましては憂だろうが、それはこんな儚い雪景色なんかではなく、バケツをひっくり返したほどのスコールのほうが似合っている。
鏡の中に、こことは違う世界が広がっていたら、どうする。柊の発想を、問いかけをあのときはほんのり受け流したが、心では怖がっていた。北奥屋のトイレで私が私でないと、そう思ったのは初めてで、酔いが回っていたから怖かったのだと言い聞かせせても、心根ばかりは落ち着くことなどできず、耳にまで伝わってきた鼓動が離れない。鏡の中に、違う世界があったら・・・気づいたら、自宅マンションの駐車場に呆然と立ち尽くしていた。
目が覚めると、ベッドから足を放り出していた。外にはギラめく雪がふわりと積もり、雪達磨が三体、服を着てにこりと笑って銀杏を見ていた。頭が痛い、というよりも最近、痛くない日がない。酒を控えてみようと、残っている酒瓶を柊に押し付けるべく、黒いエコバッグに入れ、朝食の準備をした。片面の焦げたトースト、バター、砂糖を皿に乗せ、ローテーションで食べていく。この朝食ばかりは、柊を家に泊めたときに変な食べ方だと再三馬鹿にされ、沼に滑り入った犬のような顔をしたのを覚えている。一緒に食べた方が美味しいと鼻を荒げられても、私はこの食べ方が気に入っているので、特段変える気にはならなかった。テレビをつけると、相も変わらず○○が不倫していたとかそれは嘘だったとかどうでもいいことしかやっていない。夢が見れなくなるのは、賢人や大人。柊の声を浮かべながらテレビを見続けた。いくら見続けても暗くてどうでもいいような内容が流れるテレビを見ていくごとに、なんて無駄な時間を過ごしているのだろうと独り憂いた。テレビの下に置いてある三葉虫が反対になっている気がした。
家を出て、駅へ行き、列車を四駅乗った紅羅駅が柊の家の最寄り駅だ。改札を出て左へ曲がり、街路を暫く進み、信号を渡ってまた暫く行くと、昨日飲んだ居酒屋に着く。柊の家はこの居酒屋から近く、前を通過して左へ曲がり、三軒歩いたところにあった。
昔ながらのチャイムの音が響き、ガラガラと柊が扉を開け出てきた。
「どうしたの、こんな朝から」
顔が亡霊ではないかと見間違うほどに青冷め、梟よりもか細い声で
「まあいいや、上がりなよ」
と言うのでさすがに私も可笑しくなって、ニヤリと笑いながらプレゼントだと言って例の黒のエコバッグを手渡した。あてつけかと零され、また可笑しくなった。
台所を借り、ここへ来る途中に買ったインスタントの蜆汁を作って渡すと、かたじけないと武士の口調で受け取って、亡霊というより落ち武者のようであった。汚く散らかった部屋だ。塵袋が散漫としていて、足の踏み場こそあれど床の識別がなまじ困難であった。
「掃除したらどう、流石に汚いですよ。歩くのが厳しいったらない」
「いやいや、ごめんね。しようしようと思っててもやらないんだよね。あら、あれ、どこにやったかしら」
柊はゴソゴソと押し入れを掻き回し、人形や布団が雪崩てきた。その中に混じって蒼い花が一輪転がってきたのでひょいと拾い上げて聞いた。
「これ、造花ですか」
「そうですよ」
「見たことない花ですね。青というか蒼というか、綺麗で」
「でしょう。それ、この世に存在しない花なの」
存在しない花というのはどういうことか私には解らなかった。
「存在しない花っていうのは、どういうことですか」
「それはね、昔、と言っても二年くらい前かしら、図鑑だったか、小説かなんかで読んだのだけれども、名前が確か、フォスフォレッセンスだったかしら。図鑑じゃなくて、小説で読んだんだった。斜陽とかを書いた有名な人の小説のタイトルの一つにあったの。それを想像しながら造ったやつね」
「私が欲しいくらいね」
「いつか、あげるわ」
酔っていなくても敬語がついたり外れたりするのは長い友人関係が披露する演目の一節であり、信頼の裏返しであった。
二人とも珍しく飲まず、一緒に旅行へ行こうと話したり、昔は雅、今は離といった何気ない気取った会話をして、部屋へ差し込む光が茜色になった頃に、
「そろそろお暇しましょうか」
と立ち上がり、確認でくる足場を踏みしめて玄関へ着くと、
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
と後ろ手に扉を開き、向き直って外へ出た。
積もり積もった雪も大分溶け、側溝へ細やかな河を作り、紅く反射している。滑りやすく、微かな麗を嗅いだ。ずっしりと踏みしめ歩みを進める。遠くの方で豆腐屋のラッパの声が木霊し、古い街道の起源にタイムスリップしたかのように聴き入り嚏をした。一寸回り道をしようと居酒屋を背にし、気の向くまま足の行くままに習う。冬が終わりを告げるための準備をして春が挨拶に来る。新種の鳥がまた顔を出す。私が掘った足型だけが長く続いていた。
頭の痛みが息を殺し、寒そうに路傍から猫が飛び込んできた。温かかった。
肩を突然叩かれ、振り返ると雪達磨に近い恰好をした柊が立っていた。雪道の黄昏時に一人で帰すのは危ういと思ったらしい。
「寒いねえ」
「息が白いもん」
身を震わせながらも送ってくれるこの人を、心から優しく覚えて、反対に顔をやりながら息を長く吹き出した。
「煙草を吸ってるみたい」
「吸ったことあるんですか」
「数回だけね・・・味が合わなくてすぐにやめちゃった」
「へえ、吸ってみようかな」
「やめな、お金ばっかり喰らっていく。いいことはあんまりだよ」
「そっか」
「雪の上を歩く癖は変わらないね」
「まあね。癖ってほどでもないけど、楽しいじゃん」
言い終わる前に、真っ白の光が脳裡に被さった。息が詰まる。
遠くで幽かに声が聞こえた。聞き慣れた声だった。
「大丈夫、頑張って、もうすぐだから」
どうやら私は、氷道をスリップした車に突っ込まれたらしい。ぼやけた視界の隅にどこかで見たような、赤黒い井があり、カーブミラーが深くお辞儀をするように垂れ下がっていた。柊は二歩ばかり前を歩いていたため無事だった。泣き声が五月蝿すぎて耳を塞ごうにも、腕が動かない。車は私をクッションしたからかあまり外傷がなく、そそくさと走り去ってしまった。
「雛、雛、わかる、私だよ、応えてよ、雛、雛」
心配しないでと笑いかけるが一向に効果がない。カーブミラー越しの私がすごい顔でこちらを覗いている。泣き顔のようで、他人かのように私を心配しているようにも見えた。一時柊と話したことがあったっけ。昨日だっけ。鏡の世界。きっと今柊には見えてないんだろうな。あったよって口にして伝えたいけども、動かない。表情で伝えられるかな。
「そんな顔しないで」
あれ、なんで、なんで、微笑んだだけなのにな。
雛がいたあの柱には、静かに猫が丸まって幸せそうな顔で優雅に眠っていた。
「あなたは今、どこらへんにいるの。私の家、鏡の中、あなたの家、どこらへんにいるんだろうね。でも一つだけ解るのは、あなたはここにはいないことだけですね」
そう声をかけると、名残惜しく、静かに去っていった。僅かに歪んだ柱には、綺麗な二輪の花が別々に添えられ、淑やかに凭れ掛かっていた。