薬木の林_3
森に差し掛かると、月明かりも完全に遮られて闇が増した。
馬が怯んだように嘶いたが、ドゥカイはそれを上手くなだめて、メナに振り返る。
「灯りをお願いできますか」
メナは、燃料の節制のために火を消していたカンテラを取り出して掲げる。
「火よ」
彼女の「起音」に合わせてカンテラの内部に火が灯り、森の影が少し薄れる。
ドゥカイはそれを受け取り、高く掲げて先を照らしながら馬を促した。先までと比べればゆっくりだが着実に馬車は進み始めた。
森道は想像以上に見通しが悪い。
道幅は十分にあるので道を外れる心配はなかったが、木立の奥を見ようと目を凝らしても幹から伸びる影に遮られ、ほとんど何も見えない。
「―――こうも暗いと待ち伏せなど分からないではないですか」
「確かに、気づきようがありませんわ」
メナとギノーがぼやくと、ドゥカイは小さく声を上げて笑った。
「木が灯りを吸いますからね。こういう時は目より耳を使うのがいい」
ドゥカイの言葉はもっともだが、視界による警戒を完全に捨てるのには、なかなか勇気がいる。
「それでは後手に回りませんか?」
メナが訊ねると、ドゥカイは真剣な表情でメナに振り返った。
「―――そもそも、待ち伏せが考えられる時点で後手に回っているのです。こちらに考えられるのは被害をなるべく抑えること、それに尽きます」
「何故です?」
ドゥカイは正面に向き直り、森の奥を指差した。
「たとえば、あの木の裏に何者かが潜んでいたとしましょう。ですが、この角度からではその姿を見ることはできません」
メナはドゥカイの示す先を見て、確かに見えないことを確認する。見えるのは木の幹とその後ろの黒い影だけだ。
「相手はそれがわかっていて、そうしている訳です。探したところで見えるはずがないでしょう?」
メナは思わず「あぁ」と声を上げた。
自分が待ち伏せをする側なら、しっかりと準備をしてから相手を待つ。
隠れるならば道からは見えない場所を探す。
言われてみれば当然の話だった。
だからこそ「耳」なのか。
メナは感心してドゥカイの背中を見つめる。この場において彼がいて良かったと、心の底から思った。
「―――それに待ち伏せをするなら、こんな入口ではしませんよ」
「それは?」
「急襲とは、油断を突くものです。緊張して辺りを警戒している時より、緊張が解けて気が緩んだ瞬間を狙えば、もっと効果的だ」
メナはそれを聞いてはっと閃く。
「森の出口が怪しいと、そういうことですね?」
「さすが姫様、物分かりが良い。森が終わり視界も開けて、もう待ち伏せなどない、なんて考えている時は一番やりやすいでしょう」
彼の言う通りならば確かに、いま気を張りすぎることは得策でないように思えた。
「はぁ。待ち伏せ一つにしても、奥が深いものでございますのね。私にはさっぱり―――」
ギノーがメナの横で感心したように呟いた。
彼女がそういった物事とは無縁に生きてきたことがわかる、気の抜ける、だが忘れかけていた日常を思い出す一言だった。
メナとドゥカイは思わず吹き出すように笑いだした。
いままで緊張していただけに、一度決壊すると止まらなかった。
ギノーはしばらく目を丸くしてふたりを見ていたが、笑い続ける二人に釣られ笑い始める。
ひとしきり笑って目元の涙を拭き取るころ、森の出口はもうすぐそこにまで近づいていた。
幸いにも、その間には獣による襲撃も、追黒服による待ち伏せもなく、平穏無事に森を抜けることができた。
「―――そろそろ、切り替えましょうか」
ドゥカイは切り替えも早く、気づけば目元の鋭さが戻っている。
メナとギノーもそれに倣い、周囲の警戒を始めた。
辺りの物音を聞き逃すまいと、全員が意識を集中させる。
「―――……」
馬車が進むにつれて葉がまばらになり、空が透けて見え始めてきた。
「―――……」
隠れられるような茂みや樹木がなくなり、遠景の望める草原が見えてきた。
冷たい風が吹き抜けて、背後の茂みをガサリと揺らした。
「―――……!?」
メナは勢いよくその方向に振り返った。
しかし、そこには何もいない。
三人は何事もなくあっさりと森を抜けたのだ。
「―――何も、ありませんでしたわね」
ギノーの呟きに頷いて、メナは改めて辺りを見渡す。あまりに拍子抜けの状況が信じられなかった。
しかし周りの開けた草原には、人影はおろか、鳥獣ひとつの気配すら感じられなかった。
「考えすぎだったのかも知れませんな」
ドゥカイもそう言って笑う。
未だ緊張の色は見えるが、少なくとも先ほどのような張り詰めた雰囲気はない。
「それはそれで、複雑な気持ちではありますが……」
追手も待ち伏せも存在しないということは、メナが上手く逃げ切れたのか、そもそも追手の必要がなかったのか、そのどちらかだ。
ドゥカイは、メナの言わんとしていることを察したのか、話を少し脇に逸らした。
「何にせよ、教会領であれば助かる希望も見えてくるというものです」
「そうですね」
メナは顔を上げて道の先を見た。
白んでいく空の下、白亜の岩肌を晒した、まだらな緑の小高い丘と、その裏に見える楼閣の先が見える。
「行きましょう」
貴石教会の本拠地、大聖堂はもう目と鼻の先だ。
彼女たちはたった一夜の、されども長い旅路の終わりを感じ、互いに頷きあったのだった。
メナは夜が明けていく様子を馬車の上で静かに見上げていた。