昭和53年怪談 モンスター
私は怪談や都市伝説のような不思議な話しが好きで、知り合った人から、そういった話を聞き出すのが趣味のような男です。
いろいろな方々から、かなりの数の話を聞いていますが、その数々のお話の中から選りすぐりを、皆さまに御紹介いたします。
今回は昭和53年、当時子供だった私の知人が帰省先の祖父の家で体験した不思議な話です。
田舎の家の家具調テレビからは、当時、大人気だったピンクレディーの歌声が流れています。
曲は「モンスター」です。
子供の頃の知人は、その曲に、いざなわれるように不思議な世界へと迷いこみます。
これは私が行きつけのバーで、つい最近に意気投合した知人の男性が話してくれた不思議なお話にです。
それは、その知人が子供だった時に体験したことでした。
知人は東京の出身で、子供のころは夏休みに父方の実家に家族で帰省することがとても楽しみだったそうです。
実家は北関東の田舎町で、東京とは正反対の緑豊かな自然に囲まれたところでした。
いつものように知人の父が運転するスプリンターのセダンで実家に向かいます。
優しいお爺さんとお婆さん、そして年の近い従姉弟たちと会えると思うだけで幼い知人の気持ちは高まったそうです。
「ミーーーーーン、ミーン、ミーン、ミーン」
子供のころの知人はいつも田舎のセミは都会より元気に鳴いているような気がしていたそうです。
そんな田舎の景色のなかを知人と両親の3人が乗った車は進みます。
お爺さんの家についたのは、お昼を少し過ぎたあたりでした。
去年と同じようにお爺さんとお婆さんは長旅をねぎらい、知人家族を優しく迎えてくれました。
その日は雲一つ無い快晴で容赦なく日差しが降りそそいでアスファルトには逃げ水が出来ていました。
当時の知人の父の車はエアコンがついておらず、実家に着いたころには知人は暑さで少し気分が悪くなっていたそうです。
カランッ、カランッ、カラッ、トクトクトクッ、シュワ————
お婆さんが赤色と黄色の花柄のガラスコップに氷入りのサイダーを、いれて飲ませてくれました。知人はサイダーを飲むと風通しの良い部屋の畳の上で横になります。
その部屋には立派な仏壇が置かれていました。
祖父が用意してくれた扇風機が首を振り知人の火照った体全体に風を送ります。
気分はすぐれないまま知人はボーっと薄目をあけて部屋から縁側の向こうにある庭と、その向こうの山に続く杉林を見るとはなしに見ていました。
夏の午後の強い陽光は、のどかな風景のコントラストを際立させていて、杉林の奥の影は濃く、こことは違う異界へと続いているかのようでした。
何故か、さっきまでうるさいくらいの蝉の声がやんでいました。
知人は暑さによる気分の悪さとは別の気味の悪さを感じていました。
「モンスタ〜♪ 満月だわ〜♪ ワーオ ワオッワオッワオ〜♪」
家具調のブラウン管テレビから流れるピンクレディーの曲と両親と祖父母の話す声が襖をあけ放った隣の部屋から聞こえてきます、ですが、その時の知人の耳にはやけに遠くに聞こえていたそうです。
眠るでもなく知人は、ぼんやりと庭と杉林を見ていました。
そうすると不思議なことに杉林の影の闇がどんどん濃くなっているように感じるのです。
ギラギラの太陽の下で、眩しいと思えるほどの明るい景色が影を際立たせ、その影が光を侵蝕していくように見えました。
さっきまでの、のどかな印象は消え去り不穏な景色へと変貌をとげたのです。杉林の闇がどんどん広がっていきます。
「モンスターがきたぞ♪ モンスター♪ モンスター♪」
テレビの音や両親達の声は知人の耳に入らなくなっていました。
その代わりに、知人には甲高い耳鳴りが聞こえ始めました。
耳鳴りがしだしてからは、杉林の影は杉林を飲み込み杉林全部が闇となっていました。その闇は巨大な黒いかたまりとなり、空の色も爽やかな水色から、どんよりとした灰色へと変わりました。見たことのない光景に知人は愕然とします。
闇が杉林を覆ったように知人の心も恐怖に覆われてしまいました。
怖い!助けてっ!と知人は声をあげた、つもりでしたが声は出ませんでした。
金縛りです。
初めての体験でしたので知人は何が起こったのか分かりません。
起きあがろうとしても、声をあげようとしても、まったく体が言うことをきかない。
少年だった知人は、ただただ、怖かったそうです。
恐怖の中で全体が黒い闇となった杉林から目が離せない。
逃げ出したいのに動けない。
助けを呼びたいのに声が出ない。
知人は、杉林だった闇が実体化して黒い巨大な生き物が呼吸するかのように膨らんだり縮んだりしているように感じました。
その考えに知人はとらえられてしまって、それは巨大で禍々しい生き物、いやっ、怪物や妖怪にしか見えなくなりました。
その巨大な生きている闇の中心に小さな白い点が浮き上がりました。
知人は見ていたくないのですが、その白い点に注意がいってしまいます。
絶対に良くないものと分かっているのに、悪い予感しかしないのに、その白い点から目が離せないのです。
その白い点は、黒い闇の表面を移動しはじめました。
そして少しずつ大きくなっているようでした。白い点にしか見えなかったものが何か実態のある生き物の様に変化しています。さらに、それは消えたり現れたりを繰り返すのです。
知人はその白い点の正体に気がつき、さらなる恐怖に打ち震えました。
それは、目でした。
消えたように見えたのは、まばたきをしていたからでした。
一つの目が黒い闇の表面を動き回っているのです、まるで何かを探しているかのように。
血走った目は黒目が極端に小さく、時折動きを止めると、その小さな黒目をキョロキョロとせわしなく動かしていました。そして、その最中も目は大きくなっています。
知人は直感的に見つかっては終わりだと感じましたが、視線をそらすことも、逃げることもできませんでした。
ああ、見つけないで!知人はそう祈るしかなかったのです。
極限の恐怖の時間は永遠とも思える長さに感じました。
ああ、なぜ大人たちは自分を助けてくれないんだ?恐怖と絶望が知人を包み込みました。
闇の目は、自動車ぐらい大きくなっていました。
その目が動きを止めて、黒目をキョロキョロとさせました。
そして、ゆっくりと知人のほうに黒目が動きます。
ギロリッ!
その黒目は、知人を視線の先にとらえたようでした。
そして、その目は狂暴な笑みをたたえたのです。
圧倒的な悪意が知人に向けられて、知人の思考を吹き飛ばしました。生命の危機は本能を呼び覚まします。
知人の本能は、とっさに退避行動をとりました。後方に飛び上がり距離をとったのです。
知人は立ち上がっていました。
勇気を振り絞って闇の怪物を見上げます。
圧倒的な存在感で闇の怪物は同じ場所にいました。
闇の怪物のひとつ目は、さらに大きくなったようです。
いやらしい笑みをたたえたまま、知人を見据えています。
闇の怪物の、ひとつ目の下に長くて赤い線が横に一本浮き出てきたと思った刹那、赤い線がパックリと裂け大きな口があらわれたのです。
家を呑みこむほどの巨大な口の両端からはヨダレのようなものがあふれ、大きくあけた口の中は並びの悪いガタガタの汚い歯と、うねるイボだらけの舌が見えました。
知人は恐怖と同じぐらいに嫌悪の感情が大きくなりました。
グワァー!
闇の怪物は雄叫びを上げました。
雄叫びは空気を震わせ、凄まじい衝撃となって知人を襲いました。
知人は、飛ばされないように両足をふんばったのでした。
衝撃がおさまると知人は前のめりに倒れかけて両手をつきました。
衝撃にたえた知人でしたが、闇の怪物の口からの強烈な臭気に吐き気がして空えずきが続き、苦しくて仕方ありませんでした。
さらに、闇の怪物からは冷気が漂ってききます。
恐怖と寒気で知人は震えが止まりませんでした。
闇の怪物のほうを見ると、闇の怪物が大きくなったように感じます。知人は闇の怪物が近づいてきたのだと理解しました。
知人は、すぐ目の前に倒れている人に気づきました。その人は左肩を下に顔を闇の怪物に向けているので後ろ姿しか見えません。知人と同じくらいの子供のようでした。
まさか……、そんな!知人はさらなる、恐怖に打ちのめされます。
その倒れたている子供は、知人自身でした。
僕は死んだの?体から魂が抜けてしまったんだ!絶望的な気持ちになった知人は思考が混乱します。
ああ、僕の体はあの闇の怪物に食べられるんだ……。恐怖と嫌悪とともに、あきらめの感情が強くなってしまい、知人は、その場にへたり込んでしまったのです。
知人は闇の怪物を見上げます。あまりの絶望感に考える力は無くなり、感情も麻痺してしまったように知人は感じました。
「あきらめるな、気持ちをしっかりと持つんだ」
知人の心に若い男の人の声が直接響きました。
強さと優しさを感じる声に知人は少し心が落ち着いたそうです。
その声と同時に、線香の香りが漂ってきて知人の周りの冷気が徐々に薄れていきました。
そして、後ろから力強い手が知人の両肩をつかみました。
その手から温かく、優しい波動のようなものが知人へと伝わってきます。
肩をつかんでいる人物の顔が知人の顔の横にあり、知人はその人物を見つめました。
その人は若い男の人で昔の軍人さんがかぶるような帽子をかぶっていて、精悍な顔立ちに優しい表情で知人を見ていました。
深みのある表情はどこか寂しげでしたが、強い信念のようなものが伝わってきます。
なぜか知人は、この若い男の人を、どこかで見たことがあると感じていました。
若い男の人を感じてから、知人の心の中の恐怖は徐々に小さくなって、耳鳴りは止んでいました。
「怪物に囚われていた心を取り戻したな。よく頑張った」
若い男の人の優しい声が知人の心を温めます。
その人は知人から視線を移すと眼光鋭く正面の闇の怪物を見据えます。
知人も、その人にならい正面に顔を向けると、おやっ、と声が出てしまいました。
闇の怪物が、ずいぶんと小さくて遠くに見えたからです。
闇の怪物は、そこからどんどん小さくなり、まるで萎んでいく風船のようでした。
やがて、それは見えなくなりました。
知人は、若い男の人に顔を向けました。
若い男の人は、厳しい表情を杉林に向けていましたが、やがて穏やかな表情に変わり知人のほうへ顔を向けたのです。
端正な顔立ちに柔らかい笑みで、その人は知人に言いました。
「偉いぞ、諦めなかったな。これからも諦めずに生きるんだぞ。そう、生きるんだ」
知人は、その人を見つめたまま、
「はい」
と返事をしました。
その人は、大きくうなずくとニッコリと笑いました。
知人は、その人のとても明るい笑顔を見つめながら、泣いていました。
その人の深く澄んだ黒い瞳の奥に溶けることのない硬い氷のような悲しみがあることを知人は感じとり、涙が溢れてきたのです。
知人の視覚がぼやけて、その人の顔がわからないくらいになります。それは、涙のせいではありませんでした。知人の意識が遠のいていったのです。
「チーン、チーン」
仏壇のリンの音が響いて知人は目を覚ました。
ピンクレディの歌声はもう聴こえてはきません。どれくらい時間が経ったのかも分かりません。
ぼやけていた知人の視界が、やがてゆっくりと戻り焦点が合い、杉林がハッキリと見えました。
バッ!
怪物の恐怖が甦り知人は素早く体を起しました。
しかし、杉林は最初に見たとおり、のどかに夏の太陽の光を浴びながら佇んでいました。いつの間にか大きな入道雲が杉林の後ろに湧き上がっています。
「ふっー」
知人は、大きく息を吐くと、体から力が抜けて、仰向けに寝転がりましたた。
先ほどの出来事は夢だったのかなと知人は頭で考えましたが、心は感じとっていました、あれは間違いなく本当に起こったことだ。あの怪物の不快で強烈な臭い息吹、恐怖に囚われた自分、暖かくて優しいお兄さん、そして、お兄さんの深く澄んだ瞳の奥の悲しみ、全て本当のことだ。
先ほどと同じ線香の香りが漂ってきます。香りのする右のほうに知人は顔を向けます。仏壇に向かって知人の両親が座って手を合わせているのが見えました。
「こっちに来て手を合わせなさい」
知人の父が手招きをします。仏壇の前の両親の間に座る知人ですが、強烈な経験のためか、まだ心と体が合ってないようなフワフワとした感じでした。
「ボーっとしてないでシャンとしなさいっ」
知人の母はそう言って知人の背中ポンっと叩きます。それでも知人はフワフワとした感じのままです。
「わかったよう」
知人は母に上の空で返事をして仏壇に向かって手を合わせました。田舎の家によくある大きく豪華な仏壇に遺影が3つありました。
そのうちの1枚の写真を見た途端フワフワした感じは吹き飛ばされました。知人のひいおじいさんとひいおばあさんであろう遺影の横に立てかけられた写真には、さっき知人を助けてくれた優しいお兄さんがそこに写っていたのです。胸から上が写っている写真のお兄さんは昔の軍人さんの姿でカメラに目線をむけて写真におさまっています。知人はその写真に顔を近づけ、まじまじと見つめます。
(やっぱり、さっき助けてくれたお兄さんだ)
知人は確信します。写真の中、端正な顔立ちでカメラを見つめる澄んだ瞳に先ほど感じ取った悲しみの色はありませんでしたが、間違いなくさっきのお兄さんです。
不思議な感覚が知人を包みました。
「どうした、その写真が気になるのか」
知人のお父さんが知人に言いました。
写真から目を離さいまま知人はコクリと、うなずきました。
「その写真は、お父さんの叔父さんだよ……」
お父さんは、写真のお兄さんのことを話します。
写真のお兄さんは知人が生まれる何十年も前に戦争で亡くなっていた、お爺さんの弟とのことでした。
「まだ分からないだろうが、昔に戦争があって大勢の人が死んだんだ。この叔父さんも、その戦争で亡くなったんだ」
と最後にお父さんは静かに言いました。
知人はお父さんに言います。
「た、助けてもらっ…たん…っだ……」
何故だか悲しくて、言い終わらないうちに知人は涙があふれてしまいました。
お父さんとお母さんはビックリしてしまいます。
お父さんとお母さんは知人をなだめようとしますが、知人は涙が止まりません。
自分でもなぜ泣いているのか分からないのですが悲しくて仕方なかったのです。
泣き止まない知人に、お父さんとお母さんは途方に暮れてしまいます。
「そっか、会ったんだな」
いつの間にか知人の後ろに立っていたお爺さんが知人の頭に手を置いて優しく、そう言いました。知人はお爺さんを見上げて
「助けてくれた」
と言いました。
「そっか、あいつは優しくて強くて自慢の弟だからな……」
そう言うと、お爺さんは仏壇の遺影を見つめます。
お爺さんの瞳の奥には、助けてくれたお兄さんと同じような悲しみのカケラが宿っていました。
「カナカナカナカナーッ」
ひぐらしの声が杉林から聞こえてきます。
泣く少年を抱く、お爺さん。
それを優しく見守る、お父さん、お母さん、お婆さん。
輝く太陽と青い空、大きな入道雲。
そして線香の香り。
知人は生涯、その夏を絶対に忘れないと言ってました。




