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春夏秋冬の公式企画のテーマを入れ替えて作品を作ってみた(2023年版)  作者: 大野 錦


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もしも秋の歴史2023のテーマが「帰り道」だったら  【題名】:空を鑿つ、博望侯伝

 続いてはかなり真面目な歴史小説です。

 これをコメディに入れてしまう私って…。

もしも秋の歴史2023のテーマが「帰り道」だったら

【題名】:空を(うが)つ、博望(はくぼう)侯伝



 (前)(かん)の武帝こと、劉徹(りゅうてつ)が第七代皇帝として即位したのは、前141年。劉徹の生年は前156年(景帝元年)だから、数え年で十六歳の少年皇帝だったので、政務は劉徹の祖父の第五代皇帝の文帝(劉恒(りゅうこう))の妻の(とう)太皇太后が握っていた。

 因みに翌年の前140年に所謂「建元」が中華初の元号として使われている。


 劉徹の即位時、漢帝国は「文景の治」と呼ばれる文帝、景帝(劉啓(りゅうけい))の名君たちにより良く治まっていたので、国内的な問題は抱えていなかった。

 だが、対外的な脅威が残っていた。其れは漢帝国の高祖劉邦(りゅうほう)の時代からの懸案事項で、北方の強国匈奴(きょうど)に漢帝国は長らく圧迫され続けていた。


 以前より其れを苦々しく思っていた劉徹だが、対匈奴政策をしようにも、頭の上の瘤である竇太皇太后に伺いを立てないといけない。この少年皇帝に出来るのは大規模な軍事行動では無く、些細な外交策であった。


 ある時、劉徹は匈奴と敵対して敗れた「大月氏(だいげつし)」なる国の状況を知る。

 月氏と云う匈奴の西に在った強国だが、匈奴の老上単于(ろうじょうぜんう)冒頓(ぼくとつ)単于の子)に敗れ、月氏の王は殺され、其の頭蓋骨は酒を注ぐ盃にされた。

 敗れた月氏は更に遠く西へ逃れ、其の地で「大月氏」と呼ばれ、匈奴への恨みを持っている。そう劉徹はある匈奴人の降伏者から聞いた。


「朕は西方の大月氏の王と同盟を結び、匈奴を共に討とうと思う。誰か大月氏へ赴きたいと思わぬ者は居ないか?」


 劉徹の言葉に郎中の張騫(ちょうけん)なる者が、其れに応じた。郎中とは左程高い官職では無いが、皇帝の側近で、将来の高官の候補者が付く役職である。

 張騫の生年は不明だが、皇帝の側近で将来の高官候補なのだから、劉徹の十歳程上と云った処か。


 そして、恐らく前140~139年頃に張騫を使節長とする、百名の使節団が西方の大月氏へと向かった。

 出発地は涼州は隴西郡。ここから西へ行けば、もう漢の地では無くなる。

 さて、張騫の使節団の中に、甘父(かんほ)なる胡人が居た。彼が主に道案内や通訳を務める。

 又、腕っ節の強い甘父は途上、自慢の弓で獲物を捕え、食料の供給までしていた。

 彼は張騫に忠誠を誓っていて、又張騫も甘父を信頼していた。



 北部はゴビ砂漠が広がり、南部は山脈に挟まれた平原を一行は通る。河西回廊と呼ばれる公路(ルート)だ。

 だが、この辺りは匈奴の勢力圏である。

 百名の使節団なので、当然目立つ。張騫たちはあっさりと匈奴の一軍に捕まり、張騫は時の匈奴の君主の軍臣(ぐんしん)単于(老上単于の子)の元に連れて行かれた。


「もし余が漢の南の(えつ)へ使者を出したいと思って、漢は其れを許すか?」


 軍臣単于にそう言われた張騫は抑留生活を送る事と為る。此処で彼は匈奴人の女性を与えられ、息子を儲けた。

 これは少し説明が必要か。

 遊牧民の匈奴はある意味、利で動いている。

 物資でも家畜でも財宝でも、そして人材でも得と為りそうな物は全て奪い活用する。

 有名なのは漢の宦官で、匈奴に嫁ぐ公主の守役として強制的に送られ、漢に対して怒りと不満を持ち、老上や軍臣に仕え、対漢政策に活躍し、重用された中行説(ちゅうこうえつ)だ。

 軍臣単于は張騫を第二の中行説と為る様に厚遇していた。


 張騫の匈奴での抑留生活は十年余り続いた。息子も山野を走り回れる程に育った。

 そして、張騫は妻と息子、そして信頼する甘父を連れて、脱出をした。

 息子の成長だけで無く、この間に張騫は匈奴や其の周辺の地理を把握し尽くしたので、脱出は容易だったのだ。



 張騫一行は大宛(だいえん)(現在のウズベキスタン共和国東部)と云う国に到着した。

 何と大宛の王は張騫との面会を許可した。

 大宛王は以前より漢との通商を望んでいたからだ。張騫もこれには喜んだ。


「若し、王が我々を大月氏へ送って下されば、帰国の際には其の旨、我が主上に申し上げます」


 大宛王は張騫たちを大月氏の隣国の康居(こうこ)(現在のカザフスタン共和国南部)に送り届けた。

 処が、この康居と云う国は問題を持っていた。東に匈奴、南に大月氏に挟まれ、双方に顔色を伺っていた小国だったのだ。


 遣って来た張騫たちを大月氏に送るか、匈奴との友好を優先して匈奴に送り返すかで、一悶着あったが、既に張騫が西方へ旅に出て十年以上。漢帝国では青年と為った劉徹が親政を執り、対匈奴攻勢を始めていたのだ。


 前129年(元光六年)。衛青(えいせい)の第一次匈奴遠征が開始され、匈奴は康居を初めとする西方諸国への圧迫どころでは無くなっていた。

 こうして康居は張騫たちを隣国の大月氏へ送り届け、張騫は念願の当初の目的である、大月氏の王への謁見を求めた。



 大月氏は豊かな国であった。特に商業が盛んで、大夏(だいか)国(バクトリア地方)を属国とし、強勢を誇っていた。だが、曾ての王が匈奴に敗れ頭蓋骨が盃にされたのは、何十年も前。現王は匈奴に対する恨みは持って無く、其の様な軍事行動で、折角の国力を消耗する事にも消極的だった。

 張騫の軍事同盟外交は、つまり失敗に終わった。


 張騫は帝都の長安に帰る事にした。

 帰り道は慎重を期し、匈奴と関係を持っていない、(きょう)族が住む範囲の西域南道を使って帰国の旅へと出る。


 処が、この張騫の持っていた情報は古かったのだ。

 漢帝国と全面的な抗争をしている匈奴は、漢の西方の羌族と手を組んでいたのだ。

 こうして匈奴と誼を通じている羌族に張騫は又も捕まり、抑留生活を送る羽目と為った。


 だが、この抑留生活を張騫は一年程で脱する。

 其れが可能だったのは、匈奴の軍臣単于が死に、匈奴の混乱が同盟国の羌族にまで及んでいたからだ。

 こうして張騫は帝都長安へと無事に戻った。出発してから十三年の時が経っていた。

 但し、出発した時の百名の部下たちで帰国出来たのは、信頼する甘父のみで、其の代わりに出発時には居なかった妻子と共に戻った。


 皇帝劉徹は大月氏との同盟に失敗した張騫を罰しなかった。

 単に彼を西方へ送った事を忘れていたのか、現状対匈奴の軍事作戦が上手く行っているので、問題視しなかったのか。

 其れ処か、張騫の持つ西方の情報にすっかり興味津々の劉徹。

 張騫は太中大夫、甘父は奉使君と任ぜられ、彼らから西方の情勢を聞きいるのが、劉徹の楽しみだった。



「……南には身毒(インド)、更に西には波斯(ペルシア)大秦ローマがございます」


 長安の宮中の一室で張騫は劉徹に西方世界の説明をする。

 彼は実際に訪れた地域だけで無く、其の国々と交易を持っていた国々の情報すら持って帰国していたのだ。


「ふむぅ、そうそう例の交易の件。大宛か。本朝(わがくに)の絹が欲しいとか」


「左様で御座います、陛下。助けられた恩が有りますので、如何か差配の程を」


「うむっ!分かった。其れと今言った身毒だがな。何と(しょく)の地の物産が、身毒を通して西方に届いてる、と卿は言っていたな」


 張騫の旅は公式な国家間の遣り取りなので、記録に残る。

 だが、名も無き商人たちが古くから様々な通路を通って、東西の交流をしていたのだ。

 蜀の地の物産が、身毒経由で西方に届いていたのは、現在のビルマ・ミャンマーを通してインドに達していたと思われる。

 劉徹はこの地の公路開拓に乗り出したが、当地の勢力の妨害に遭い失敗している。

 一方、張騫は対匈奴の情報将校として、衛青の軍に入り、半ば軍人としての道を歩む。


 衛青の勝利に貢献した張騫は、「博望はくぼう侯」に列せられた。「廣博瞻望」(広い博で以って望みを見る)と云う意味合いで付けられ、これが一種の漢帝国の外交官の正式名称とまで為る。

 無論、張騫は純粋な軍人では無かった。

 ある匈奴との戦いで、衛青の別動隊と為った李広の軍中に居たのだが、この別働隊は道に迷い、戦に間に合う事が出来ず、然も戦自体は衛青の本隊だけで勝利していた、と云う醜態を犯した。

 恥じた李広は自刎。張騫も「博望侯」の位を剥奪され、死刑を宣告されたが、以前より金銭を溜め込んでいた張騫は金銭にて罪を贖い、庶人に落とされるだけで済んだ。

 前119年(元狩四年)頃の事である。


 庶人と為ったが、劉徹は張騫を気に入っていたらしい。

 度々密かに宮中に呼び寄せては、張騫の西方の話を聞くのを楽しんでいたのだ。



 ある時、張騫は「烏孫(うそん)」なる国の話をした。

 烏孫とは匈奴の一部だったが、この頃はほぼ独立し、匈奴とは敵対関係に有った。

 張騫は烏孫との軍事同盟を勧め、劉徹は其れを了承し、張騫を元の「博望侯」に復帰させ、三百人の随員で烏孫へ行く事を命じた。

 進路は初めに大月氏へ赴いた時と同じ、河西回廊だが、この頃の河西回廊は霍去病(かくきょへい)(衛青の甥)に因って奪取していたので、烏孫まで何の妨害も無く、張騫一行は辿り着いた。


 だが、烏孫王は漢と同盟して匈奴を圧倒出来るかを疑った。

 如何も漢帝国の国力を大した物で無い、と思っているらしい。

 其処で張騫は烏孫王に提案をする。


本朝(わがくに)に王の信頼する方々を使節として、入朝して頂く事は出来ませんか?同盟の件は本朝を知ってからでも宜しいです」


 了承した烏孫王は、帰国する張騫一行に数十人の随員を付けさせた。

 漢に到着した烏孫の人々は驚く、其の人口、圧倒的な富。

 彼らは烏孫に帰国すると、漢との同盟を強く烏孫王に説いた。


 さて、この烏孫の随員を連れた帰国直後に張騫は亡くなっている。(前114年、太初元年)

 享年は凡そ五十代前半と云った処だろう。

 烏孫との本格的な同盟は、張騫の死後に行われ、先ず匈奴の攻撃を恐れた烏孫は、漢の公主を王の嫁として遣す事を要求し、漢側には烏孫の精強な軍馬千匹を送る事で纏まった。


 公主とは皇帝の娘の事だが、この様な外交で異国に嫁ぐ場合、実際の皇帝の娘では無く、遠い縁類や女官を「娘」と称して送るのが、中華の王朝では一般的だ。

 この烏孫王に嫁ぐ事に為った公主も、劉徹の実の娘では無いが、比較的血統が近い。

 劉徹の甥の娘に当たり、劉細君として知られている。彼女の父、つまり劉徹の甥は反逆を企み自害させられた人物だ。

 劉徹からすれば謀反人の娘なので、身内とは云え、異国に嫁がせる事等痛痒を感じない。



 さて、この様に西域の外交に活躍し、西方世界を中華に知らしめた張騫は大変尊敬され、其の旅は「空を(うが)つ」とまで表現された程だ。

 また、先にも記したが、「博望侯」が漢の使者の正使が名乗る物とされ、この名が付く漢の使者は西域諸国での信頼の証とされた。


 時を飛ばして、敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)なる仏塑像や仏教関係の壁画が、四世紀頃から造られるが、何故か仏教と全く関係の無い張騫の壁画が描かれている。

 長らく西域諸国で張騫が広く尊崇を受けて来た事を現わす逸話である。



もしも秋の歴史2023のテーマが「帰り道」だったら

【題名】:空を(うが)つ、博望(はくぼう)侯伝 了

 最後の方の公主が烏孫に嫁ぐ話は、東郷しのぶ様が秋の歴史2022で書かれた「烏孫の王妃」で読む事ができます。(N9313HW)

 素晴らしいので、ぜひともご一読を!



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