中二(い)世界へようこそ 1話
「うおおおっ!」
俺はとても興奮していた。
どのぐらい興奮しているかといえば――闘牛士のような情熱が、俺の心を包み込んでいる。
生命は野生の炎のように輝き、熱い息づかいが唇から漏れた。
鼓動は荒々しく、その胸に宿る炎は風を切り裂く、まるで雷鳴のよう。
俺は、燃え盛る太陽の下で躍動し、その興奮はまるで嵐の前触れのように空気を席巻するが如く。
「ははは!」
辺りを見回す。
太陽は穏やかな笑顔で天空に輝き、その光が全てを包み込む。
見たこともない色とりどりの花々が風に揺れ、その香りが心地よく漂う。
近くの池には煌めく水面が広がり、小さな滝が陽光を浴びて虹を生み出す。
空は澄み渡り、雲一つない青空が俺の心を軽やかにさせる。
奇妙な生物たちが歌い、樹々はやわらかな葉をそよがせていた。
この明るい世界では、喜びと平和が満ち溢れ、心安らぐ安息の場が広がってるらしい。
「つまり、ここは――異世界! ついに俺はやってきてしまったのか」
もう一度見回すが――危険は感じない。
美しい花が咲き、小さな虫や、鳥が飛んでいるぐらい。
「異世界にやって来た――ということは! 俺のやるべきことはただ一つ!」
俺は、全身全霊の力を込めて、叫んだ。
「ステータスオープン!」
静寂が空間を包み込むように広がり、時は微かな響きを忘れる。
風は静かにささやき、葉っぱはそっと揺れた。
その穏やかな静けさが心の深いところに響き渡り、言葉にならない感情が静かに踊る。
なにを言いたいのかといえば、なにも起きなかった。
「くそ――ステータスオープンがないとは……」
それじゃ、魔法はどうだ?
異世界といえば魔法だろう。
ステータスもチートもないとなると、とりあえずそれがないことには始まらない。
それがなければ――時は停滞し、空間は静寂に包まれたまま、未来の兆しはなく運命の輪は動きださない。
「むう!」
俺の目は一点を見つめ、周囲の騒音を遮断する。
まるで瞬きさえも忘れたかのように、集中の極致を示し、心は静かな湖のように澄み渡り、その中に漂う雑念を一掃した。
俺は右手を前に差し出し、心に浮かんだ呪文を唱えた。
「炎よ! 我が呼び声に応えよ。燃え盛る炎の力を我に与えよ! 炎!」
俺の掌の上に、炎が宿った。
「おおおお! 魔法キター!」
喜んだのもつかの間。
掌の上に炎が出ただけで、それを投げたり発射したりできない。
「くそ! くそ!」
手を振り回してみたりしても、燃える炎は俺の手から離れない。
「もしかして呪文が駄目なのか? もっと長い呪文にしてみるか――むー!」
俺は再び、精神を統一した。
「燃ゆる炎よ! 我が叡智を照らし暗闇を焼き払え! 赤き火焔よ、我が手に宿りて、敵に猛る怒りをふりまき、全てを焼き尽くせ! 火炎!」
今度は俺の掌に火の柱が立った。
「おおおお!」
紅蓮の火柱に、これまた喜んだのはいいが、そこから先に進まない。
「なんだこりゃ――もしかして、火を出す魔法と、投射する魔法が別なパターンか?」
色々と試してみるが、上手くいかない。
やはり現地の人に接触して、この世界の魔法のことを教えてもらわないと駄目か?
まず基本を知らないからな。
「ふっ……やはり俺は、天才だったか」
基本を知らなくても、魔法を発動させてしまった俺の才能が恐ろしくなるが……。
異世界にやって来た無謀なる俺が手にしたのは、古びたアーキテクチャ。
文字を読むことなどもできず、その呪文を唱えることさえも未熟なままなはずだが、唇から零れる言葉は、まるで星空に舞う煌めきのように美しかったに違いない。
その呪文は力強く、俺の周りに炎の輪を描き、この世界に顕現した。
俺はなにも知らぬままに、この世界の奇跡を成し遂げたのだ。
「ははは!」
俺は両手を広げて、天を仰いだ。
いける! そう思ったのだが――。
「ゴアァァ!」
森の静寂が突然破られ、大地が揺れ動く。
樹々はその巨大な姿を揺らし、枝葉が風に舞い散ると、鳥たちは急速に空へと舞い上がった。
俺は、森の中に響く動揺の音に耳を傾ける。
森がまるで眠りから目覚めた巨人のようだ。
俺の眼前に立ちはだかったのは、巨大な四脚の竜。
その体躯は山のように堂々としており、輝く鱗が日に照らされている。
こちらを見る眼差しは燃え盛る炎のよう。
その存在は圧倒的であり、まるで自然そのものが肉体化したかのように見える。
「ゴアァァ」
巨大な竜が口を開けると、その顎は深淵のような暗黒に広がる。
その口内には燃え盛る炎が揺らめいた。
「ヤバい!」
直感した俺は、その場から飛び退いて、地面に転がった。
その刹那――灼熱の息吹が空気と地面を焼き尽くす。
まるで地獄の門が開かれたかのように、その口からは恐怖と滅びの予感が溢れ出したのだ。
巨大な竜の四脚は、地に根を張った巨木のよう。
その爪は地面に深く食い込み、堅固な岩肌を押し広げる。
姿勢は堂々としており、地に立つ姿はまるで山のような不動の存在。
――圧倒される。
いや! 俺とて、この世界で奇跡を起こした男。
そう思ったのだが、脚が動かない。
腰が抜けている。
「おわぁぁ!」
俺は再び、転げるように炎の射線から飛び退いた。
「ゴァァァ!」
まるで眼の前でチラチラしているウザい虫けらを火炎で焼くよう。
「ハァハァ……どうする?!」
虫けらだと思っているのなら、見逃してくれてもいいじゃないか。
そう思ったりしたのだが――どうも相手を見ていると、そのつもりはないらしい。
ドラゴンは大きな目で、じっとこちらを見ている。
その瞳には深い知性と力強さが宿っており、その存在感は圧倒的。
大地を踏みしめ、堂々とした姿勢で立ち、体表には鱗が輝く。
動きが止まったのかと思ったのだが、魔物が再び口を開けた。
「くそ! やるしかねぇ!」
どうやら、知能は高そうだし図体はデカいが、動きはあまり鋭くない。
懐に飛び込んだら、なんとかならないか?
火炎を吐く瞬間に、隙が生まれるはず。
その僅かな隙に飛び込むしかない。
ドラゴンの口内に、赤く燃え盛る炎が噴き出している。
その炎は燃え盛る炎の舌のように舞い上がり、煌めく炎はまるで踊るように見えた。
「いまだ!」
俺が駆け出した瞬間、火炎が襲う。
その炎は一瞬で周囲の空気を灼熱の炎に変え、その熱さはまるで太陽そのもの。
吐き出した火炎は、急には止められないだろう。
その隙をついて、俺は巨大な魔物の懐に飛び込んだ。
「うぉぉ!」
俺の魔法は打ち出すことはできないが、火柱を起こすことはできる。
それはつまり、零距離射撃なら敵にダメージを与えることができるはず。
俺は魔法の詠唱を紡いだ。
「大地より湧き上がる炎の躍動よ、天空に舞い昇りし燃え盛る炎よ、我が手に宿りし魔力から解き放たれ、
敵を焼き尽くせ!」
掌の中で、微かな光が輝き始める。
その光は次第に強くなり、熱を帯びた赤い色に変わっていくと、その中心には小さな炎の粒が浮かび上がった。
炎は徐々に大きくなり、掌の中で躍動し始める。
俺は、そいつをドラゴンの鱗に押しつけた。
「おりゃぁ!」
熱気が掌全体を包み込み、その炎はドラゴンの鱗を溶かし始める。
「グォォォ!」
さすがの覇者も、鱗が溶けるほどの熱量なら、ダメージがあるだろう。
強固な防備を突破すると、巨大な魔物の体内で火炎が炸裂した。
まさか、火炎自慢のドラゴンが、体内を炎で焼かれるとは思ってみなかっただろう。
巨大な魔物の前に、大地が震えるほどの轟音が響き渡り、突如として眼の前が裂け、巨大な火柱がその姿を現す。
体の中が高温になり、膨張して爆発したのだろう。
衝撃波は周囲の大地を揺るがし、火に包まれた内臓と肉片が四方へ飛散する。
「ガォォンン!」
さすがのドラゴンも、体に大穴が開いては、絶命するしかないだろう。
咆哮を上げたかと思うと、こちらをチラ見したような気がする。
こいつは、ここらへんの覇者だったはず。
負けるはずがない――それがこんな虫けらに負けるとは思っていなかったに違いない。
巨大なドラゴンが力尽き、その長い首がゆっくりと地面に崩れ落ちた。
その姿は威風堂々としたままでありながらも、力を失った証として地面に重く横たわる。
鱗の光沢は依然として輝いているが、その眼光は失われ、静寂が彼を包み込む。
周囲には静寂が広がり、彼の死はまるで自然そのものが終わるような感覚をもたらした。
「はぁ……」
俺は深呼吸をすると、その場に倒れ込んで大空を見上げた。
これで俺も、ドラゴンスレイヤーってやつか?
落ち着くと、右手を痛みが襲ってくる。
見れば、掌は黒く焼けただれて、皮がめくれていた。
痛みは次第に増してきて、我慢できないほど。
「く、くそ……そりゃ大やけどだからなぁ……」
しかし、命と引き換えに右手で済んだのは儲けものなのか。
それにしても痛え!
異世界にやって来て、冒険が始まる!
――と思っていたら、マジで始まったのだが、いきなりドラゴンはゲームバランス崩壊しているだろ?
ここは、初手スライムじゃないのか?
責任者出てこーい!
ブツブツと独り言を言っても、手の痛みは増すばかり。
痛みもそうだが、この先感染症などで命の危険もある。
いったいどうしたもんかと考えていると、俺の視界に白いものが入った。
四角くて――そう、馬車の幌のように見える。
もしかして、すぐ近くに道があったのか?
その馬車から人が降りてきて、こちらを窺っているように見える。
これは、天の助け!
――そう思った俺は、手を振って声を上げた。
「おお~い! 助けてくれ!」
向こうも気がついたようだ。
手を振り返してくれている。
俺はハッとした。
ここは異世界だから、手を振ったら戦闘準備の合図!
――みたいなこともあるかもしれない。
一瞬心配したのだが、そうではないらしい。
どこぞの異世界では、白旗を降ると徹底抗戦の意思表示というのもあったしな。
なにがあってもおかしくない。
それが異世界。
「おお~い!」
馬車の人に駆け寄ろうとして、俺は歩みを止めた。
言葉が通じなかったらどうしようか……。
一瞬、そんなことも思ったのだが、手の怪我もあるし、ボディランゲージでも誠心誠意尽くせば、たとえ異世界人でも解ってもらえるはず。
そう思った俺は、再び馬車に向けて走り始めた。
「なんかすごい音がしたけど?!」
女の声だった。
初めて聞いた異世界の住民の声が、女の声。
いや、その前にに言葉が通じる?
「はぁはぁ……言葉が通じる?」
「どうしたの?!」
やっぱり、言葉が解る。
顔を上げて、彼女の姿を見た。
彼女はまるで翠の森から抜け出したような色彩で輝いていた。
丈が短く白いパンツが清涼感を与え、緑のベストが彼女の存在感を際立たせている。
浅黒い肌は太陽の光を受けて輝き、その鮮やかな色合いはまるで大地から生まれたように感じられた。
黒光りする髪は、彼女の強さと柔らかさを象徴しているよう。
「つまり、美人だな」
胸はあまり大きくない。
だが、それがいい。
「……はぁ?! 口説くために、わざわざこっちの気を引こうと大きな音を出したとかないよね?」
俺は彼女に自分の手を見せた。
「なにか薬を持ってないか?」
「うわ、ひどい! いったいなにが」
彼女が俺の手のやけどを見て、飛び上がった。
「そこでドラゴンに襲われて――」
「え?! ドラゴン?!」
「ほら、そこでくたばっている」
「ほぇ!」
彼女は俺のほうばかりを見ていたので、木の間に横たわっているデカい躯に気がついてなかったらしい。
女性が俺を押しのけて、ドラゴンのほうへ走り出した。
「お、おい! 薬を――」
聞いているのかいないのか。
とりあえず、今の俺に頼ることができるのは彼女しかいない。
「ほぇぇぇ! 本当にレッサードラゴンじゃない」
森の中に放置された魔物の小山を見て、彼女が叫んだ。
「レッサー? ああ、これでレッサーなんだ……」
――ということは、マジもんのドラゴンも別にいるってことか。
「これって本当にあなたが倒したの?」
「ああ、だから手がこうなって……」
「ねぇ! このドラゴンを売るつもりはない?!」
まるで深い森の中に秘められた宝石のように輝く緑色の瞳が俺に迫ってくる。
その輝きはまるで植物の新緑が春の光に輝くかのように美しく、清らかなエネルギーを放っていた。
ギリギリまで迫ってくるので、野性的で刺激的な体臭が漂ってくる。
漂う香りは、まるで未知の森林を探検しているような興奮を呼び起こす。
草木の香りや地の匂いを混じり合わせ、俺の鼻腔をくすぐってくる。
「ちょ、ちょっと近いんだけど……」
「そんなことより、売るの?! 売らないの!?」
「売る! 売るよ! だから、薬を持ってないか?」
「やったぁ! これで一儲けよ!」
元気いっぱいの彼女は、喜びに満ちた笑顔を浮かべながら、軽やかに飛び上がった。
その姿はまるで飛ぶ鳥のように自由で、元気な跳ねる動きは周囲に活気を振りまいている。
「人の話を聞きゃしねぇ……」
「聞いてるわよ! 回復薬でしょ? 今、馬車から持ってくるから」
彼女は自分の馬車に戻っていった。
「回復薬? そういうものがあるのか……よくあるファンタジーみたいに、すぐに治るんだろうか?」
心配していると彼女が戻ってきた。
「はい!」
ニコニコした彼女が、ピンク色の液体が入った小瓶を差し出してきた。
「……悪いが金がない。そのドラゴンの買い取りから引いておいてくれないか?」
「あはは! サービスよ、サービスぅ!」
サービス? 英語も通じるのか?
翻訳されているのか? ちょっと万能すぎね?
ちょっと疑問だが、普通に会話に気を使わなくても済むのはありがたい。
小瓶をじっと見つめる。
果たして飲んで大丈夫なものなのだろうか?
「どうしたの?」
「い、いや……」
俺は意を決して、それを飲むことにした。
口をつけると、一気に喉の奥まで流し込む。
味は――薬臭い液体で、正直美味くはない。
まぁ、薬だし。
いったいどうなるのかと身構えていると、身体が熱くなってきた。
「ちょっと、大丈夫なのか?」
ビビっていると、焼けただれた掌から白い煙が上がり始める。
黒くなっていた皮膚が崩れ落ちて、新しい皮膚が再生してくる。
「おおっ? すげー!」
「え? まるで、初めて回復薬を使った人みたいだけど」
「ああ、初めて使った」
「はぁ? どこか、山奥で暮らしていたとか、そんな感じ?」
あ、その設定使えそうだな――と、思った俺は、彼女の考えを拝借することにした。
「そうそう、そんな感じなんだよ」
「へ~、そんな人もいるんだね」
疑ってはいないようだ。
まぁ、他の世界からやってきたとか言っても信じてもらえないだろうし。
「ふう……」
手の治療が終了した。
完全に元どおり――こんなの元世界の医療でも無理。
「さて、忙しくなるわよ!」
「どうするんだ?」
「大急ぎで街に戻って、仲間を集めてくる」
「こいつを解体するのか?」
「そう! 魔法の袋はあるけど、こんなデカいのは入らないからねぇ」
「魔法の袋?」
「見たことない?」
「ああ」
彼女からそいつを見せてもらう。
なんでも入る魔法の袋――ファンタジーでよく出てくるやつだ。
かなり高い代物らしいが、商人なら持っているものだという。
「へぇ、すごいな。俺も欲しい……」
「このドラゴンを売れば、そのぐらいの金は余裕で出るよ」
「……その前に、ちょっと前借りできないかな? ノーマネーでフィニッシュなんだよ」
「どのぐらい必要?」
これでも、普通に通じるのか。
「そうだなぁ……1ヶ月暮らせるぐらい?」
「なんだ、そのぐらいなら大丈夫だよ」
彼女が袋から貨幣を取り出して、俺によこした。
ずしりと重い貨幣は、多分銀貨――銀貨の冷たさが掌に伝わってくる。
1枚1枚を数えると、それぞれが過去の物語や取引の歴史を背負っているように感じる。
手のひらに握りしめれば、金属の質感が指先に伝わった。
全部で4枚――つまり、この金額があれば普通に1ヶ月ぐらいは暮らせるという金額なのだろう。
「サンキュー、助かるよ」
「デカい儲け話に比べたら、たいしたことないし」
すぐに街に向かうというので、馬車に乗せてもらうことにした。
「急がないと、他のやつに見つかっちゃう」
「確かにそれはある」
「まぁ、あれを一発で運べる魔法の袋はないから、大丈夫だと思うけど」
「鱗を剥がすぐらいかな」
「その鱗が高いんだけどね」
鱗はスケイルメイルなどに加工されるらしい。
「はい!」
馬車に乗り込むと、彼女が馬に気合を入れた。
馬車を牽いているのは、普通の馬だ。
脚が六本あったり、角が生えてたりしない。
2人を乗せた馬車はスピードを上げて走り始めた。
――といっても、元世界の車にくらべたら、大したことはないが、生き物が牽いている乗り物は初めての経験だ。
荒々しく馬車が揺れる様は、逆に生き生きとした動きで溢れているように感じる。
馬の蹄の音がリズミカルに道を打ち、車輪が不整な地面を通過するたびに、軋む音が聞こえる。
馬車は前に進むたびに揺れ、その動きは時に穏やかで、時には激しく。
のどかな風景が流れる中、馬車の揺れる音と振動は、疾走するリズムと共に俺たちを包み込む。
しばらく走ると、大きな川に出た。
そこには石造りの立派な橋が架かっている。
その向こうには、城壁に囲まれた都市らしきもの。
「あれが街か?」
「そうよ!」
喋っていると舌を噛みそうだ。
大きな城壁に囲まれたファンタジーな街が、まるで夢の中から飛び出してきたかのように近づいてきた。
城壁は高く堅固で、その上には複雑な模様や装飾が施されている。
――城壁をくぐる。
その内側には建物が立ち並び、錯綜した路地や広場が広がっているようだ。
彩り豊かな旗や標識が風に舞い、市場や広場では人々が賑やかに交流している。
その街は、まばゆいばかりの色彩と活気に満ちていて、俺を夢と冒険の世界へと誘っているようだ。
馬車が止まったので降りた。
「ついでなんだが、オススメの宿などないか?」
「猫は好き?」
「藪から棒だな――好きだけど」
「それじゃ大丈夫ね。ここをまっすぐ行くと、『黒猫亭』って宿があるよ。料理に毛が入っていることがあるけど、美味しいから」
「それはオススメなのか?」
「もちろん」
「ありがとう、行ってみるよ」
「あっ、そうだ! あなたの名前は?」
「……」
俺は一瞬迷った。
せっかく異世界に来たんだ。
本名じゃつまらん。
自分が好きな名前で始めよう。
「どうしたの?」
まさか、神様の名前とかマズいよな。
この世界で通用したりするかもしれんし……。
「俺の名前は――カオスだ」
「カオスね! 私はメイメイ」
「メイメイか、今後ともよろしくな――その前に、あとの金はもらえるんだろうな?」
「あはは! 大丈夫よ! 商人は信用第一だし! ドラゴンを倒すようなカオスの信用を失いたくないんだけど」
「そうか、わかったよ」
彼女と別れて、石畳の街の通りを歩いていく。
通りを歩けば、色とりどりの服装を身にまとった通行人たちが目に飛び込んでくる。
1人は明るい赤のローブを纏い、頭には鮮やかな羽根の飾りをつけ、次の人は青や緑の衣装を身にまとい、踊るように歩く。
色彩の鮮やかさがまばゆく、街並みに活気と喧騒をもたらしているようだ。
赤や黄色、青、緑、紫など、様々な色の衣装が交錯し、まるで虹のように輝く。
その中を通り過ぎると、香り豊かな花やスパイスの香りが漂い、音楽や笑い声が俺の耳を包み込んでくる。
一瞬のうちに、多様な文化や背景を持つ人々が、その個性的な服装で独自の物語を語りかけてくるよう――。
俺は、彼らの間を歩きながら、自分もこの多彩な世界に一部として溶け込むような錯覚に陥った。
異世界の景色に酔っていると、メイメイが言ったとおり、黒猫亭と書かれた看板が見えてきた。
文字も読めるのは助かるなぁ。
俺の異世界ライフが、今始まるぜ――と、思っていたのだが、街の人々が俺をじ~っと見ている。
「なんだ? なにか変か?」
黒いドレスを身に纏った妙齢の美しい女性が、優美な動きで俺に声をかけてきた。
その女性は黒い髪をなびかせ、瞳には謎めいた輝きが宿っている。
大きな胸は、ドレスから優雅に浮かび上がっており、俺の視線を釘付けにする魔法のようだ。
「あなた、ずいぶんと汚れているわねぇ……」
女性にそう言われて、俺はハッとした。
ドラゴンと戦闘して、血やら体液で汚れたままだったのをすっかりと忘れていた。
あの商人の子も言ってくれよなぁ……