婚約破棄、それぞれの行く末
レナートはフォージオンの王子として生を受けた。
側妃制度のある国だ、王妃、側妃合わせ三人も母親がいれば、唯一の後継者、というわけではなかったが、レナートからすれば愚鈍な兄も、身勝手な姉妹たちも、王位を争う敵ではなかった。
実力主義のこの国では、長子相続や正妃腹が正統であるなどといった決まりはない。実際、兄王子は隣国の次期女王の王配となることが決まっていたし、姉妹たちも嫁入り前提での婚約が幼くして結ばれていた。
すべては能力を鑑みての父王の判断だった。
となれば、残るのはレナートのみ。
仮にこれから先に弟妹が誕生したとしても、結局は同様だろう。五歳時に行われる適性検査を経て、次期国王の自覚を持って生きてきた。
それは不慮の事故により父親が亡くなり、当時レナートがまだ子供だからと中継ぎに末の王弟であった叔父が王位を引き継いでからも変わらない。新国王となった叔父エルナンドは王太子としてレナートを指名し、諍いを起こさないためにと自身の結婚は甥に王位を譲り渡してからと公言、婚約者も恋人も作らずにレナートの成長を見守ってくれていたから。
だから。
「オリビア・アイバー・シーロ! お前との婚約を破棄するとここに宣言する!」
幼い頃に決められた婚約を覆すことも、次期国王たる立場なら何も問題などないと考えていた。
自身の誕生祭の会場で衆人環視の中、指を突きつけた先で、豊かな黒髪の令嬢がわずかに目をみはったことにレナートは笑みを浮かべる。
「……まあ、レナート殿下。それはまことですか」
どことなく揺れる声音。口元を覆う扇を持つ手が震えているようにも見えた。
二人の婚約は政略的に結ばれたものであったが、オリビアは王妃となるべく努力を重ねてきていた。しかしそれこそがレナートの癪に障る。
「ああ、お前を僕の妃にはしない。適性が王妃に向いていて、学生時代の成績がトップ、学外では奉仕活動? 慈善事業? 出来すぎだろう!」
「そうは申されましても」
「僕は真実の愛を見つけたのだ、お前のような上辺だけの偽善とは違う、心優しく誰より愛らしい僕の女神を! 僕は彼女と結ばれる!」
おいで、とレナートが手を伸ばすそこには、小柄な少女。ためらいがちに一歩、一歩と進み出るのは学生時代に出会った運命の相手。
澄んだ青い瞳を潤ませた彼女は男爵令嬢と下位の存在ではあったものの、巡り合ってからの日々はレナートにとってかけがえのないものであり、愛のないオリビアとの政略的な関係では幸せは得られないと決意させた存在だった。
「お前は事もあろうに僕のアルマを侮辱していただろう。そんな者は僕に相応しくない!」
王妃どころか側妃にもしたくはないとの気持ちで吐き捨てるレナートに、周囲がざわつく中、恋人のアルマは泣き出しそうに微笑み、
「まあまあまあ!」
オリビアはそれ以上の満面の笑顔で目を輝かせた。
不審に思い怪訝な表情になるレナートだったが、オリビアは畳んだ扇を捧げ持つように両の手を合わせる。
「真実の愛! 素晴らしいですわ!」
今にも駆け寄ってきそうな圧を感じ、レナートは思わず一歩退く。
「アルマ様は男爵令嬢でしたかしら。王太子と縁づくには身分が足りませんが、レナート殿下はそれでも構わないとおっしゃるのですね!」
「あ!? ああ、身分に何の問題がある! そんなものは僕たちの愛の前では障害になどならぬ!」
男爵令嬢、とオリビアが口にしたことに反応したレナートが、先ほど退いた分を詰めるように前へと踏み出す。自分の侯爵令嬢という立場と比較してまたアルマを馬鹿にするつもりなのかと思い、負けじと胸を張って言い放つ。
しかしオリビアの口から飛び出したのは「素敵!」という賞賛の声だった。
「レナート殿下は愛をお選びになった! なんとロマンティックなストーリーなのでしょうか! 身分も立場も関係ない、ご自身がお持ちであったすべてのものよりもアルマ様を! ただ一人のお相手を!」
想定外の反応に戸惑っている間にも、オリビアは言葉を繋いでいく。
「想いを成就させるため約束された将来をお捨てになる覚悟のほど、感動いたしました」
「……は!?」
「これぞまさしく真実の愛ですのね」
うっとりと、 レナートの恋物語に酔いしれるように。
「なに、を、言っている……」
その物言いにどうしたことか嫌な汗の噴き出したレナートは、すぐそばまで来ていたアルマの腕を取り引き寄せる。どこか縋り付くような自分の行為に動揺するが、アルマは潤んだ瞳でレナートを見上げて抱きついた。
「レナート様、まさか本当にあたしを選んでくれるなんて!」
「い、いや、僕が愛するのは君だけだと前から、」
「それでもあなたは王太子だったのに、あたしのためにそこまでしてくれると思わなかったの」
そう言って泣き出したアルマと抱擁を交わしたものの、レナートは妙な緊張に呼吸が浅くなるのを感じていた。
王太子……だった、のに?
まるで過去の話であるかのようだ。王位を継ぐべき存在は自分だけであるはずなのに。
「アルマをオリビアから守ろうとだな、」
「どういった立場になるにせよおそばに置かれるのなら、ある程度の嗜みは必要であろうと指導してはおりましたが」
「あたしオリビア様のようになりたかったのに全然思うようにいかなくて、泣いちゃうくらい悔しくって」
アルマは拗ねたように唇を尖らせ、レナートが顔を上げた先のオリビアは、扇を頬に添え優雅に微笑む。
「わたくしももったいないと思っておりましたの」
ゆったりとした口調には威厳のようなものまで漂っていて、レナートは焦燥感を覚える。
「王妃たらんとするわたくしと、国王になって然るべきと思い上がったあなたとでは、釣り合いがとれませんものね」
「なにを、」
「あなたに自分からそのお立場を放棄してくださる決断力がおありでよかったですわ。さすが陛下の甥御様です」
「レナート様、あたしレナート様が後悔なんてしないよう幸せにしてみせますから!」
しがみついて大泣きするアルマは相変わらず令嬢らしくなく、好意をひたすらにまっすぐ向ける様は愛おしいと、今も感じている、はずなのに。
「……ぼ、くは……」
王太子、そして次期国王としての地位を捨ててまで彼女と結ばれるつもりではなかった。妻として迎える気持ちはあっても、王位継承権を返上するだとか、何かを犠牲にする覚悟などなく。
自分の立場は確固たるものだと信じていた。なのに望まぬ方向で話は進んでいく。自らそれを求めたかのように。
「真実の愛。とても美しくおめでたいことでございますわよね、陛下?」
オリビアの言葉にハッとしたレナートは、いつの間にか人々が割れて作られた道を歩んでくる姿を見つける。
「……お、おじうえぇ……」
情けない声が漏れたが、気にしている場合ではなかった。
叔父であり現在の国王であるエルナンドの表情は、どうにも険しい。三十路を超えて幾許か、父子と言うには年齢差はないはずではあったが、国主として過ごしたここ数年での苦労あってか、随分と鋭くなった顔つきに今更気づく。
――叔父はこんな顔をしていただろうか。
近づいてくるその様は厳しいほどで、かつて親しんだ朗らかな叔父はそこにはいない。
「レナート、背筋を伸ばせ」
エルナンドは淡々と呼びかける。泣きつかんばかりだったレナートは、頬を引き攣らせた。
味方をしてくれるものと思っていたのに、叔父の瞳の奥には諦念が宿っているのが見て取れた。
「それでは、陛下」
「ああ。当事者である三名が納得しているのであれば、私から言うことはない」
オリビアに促され、エルナンドは頷く。
その背後に現れた母親である先王妃たちも、揃って微笑みを浮かべてただ見守る姿勢を見せた。
「王太子であったレナートとアイバー侯爵令嬢との婚約は解消、レナートの王位継承権を消滅とし、オラサ男爵令嬢と婚姻、婿入りすることをフォージオン国王としてここに認める」
宣言が行われた。その内容にレナートは呆然とし言葉を失う。
誕生祭の会場は婚姻への祝福の声で満ち、そこここで起きた拍手が、次第に大きくなっていく。
そんなつもりではなかったと、言い出せる空気ではなかった。
「世継ぎについてはどうにでもなる、気にせず己の責任を果たせ」
王家に残っていた先王の子供はレナート一人であった。しかし王位継承権を持つ者はいないわけではない。王女たちの中には婚約しているもののまだ婚姻には至ってはいない者もいるし、先王と現王兄弟の甥姪も国内だけでも複数人いる。
それにエルナンド自身もまだ若い。それこそ今からでもどうにでも出来るだろう。
「レナート様、めいっぱい幸せになりましょうね!」
レナートは自分に抱きついて満面の笑みを浮かべる恋人、もはや妻であるアルマに、ぎこちなく頷くことで精一杯。
こうして王太子は男爵家の入婿となったのであった。
「レナートの王子として最後の夜だ。誕生日、婚姻、レナートの門出を祝ってやってくれ!」
誕生祭から結婚祝いへと姿を変化させたパーティー。
本日の主役は主役のまま、しかし主役を置き去りに宴は進む。
楽団の演奏は予定よりも幸福めいた曲を奏で、学友たちはパートナーとともにダンスで華を添え、側近候補だった令息たちはレナートの決意に感動の涙を浮かべていた。
エルナンドは先王妃たちに無言の目礼で詫びる。
妃を迎えていない現王家、だからといって妃たちが担う政務が無くなるわけではない。王太子妃として教育を受けてきたオリビアもいくらかは仕事をこなしてはいたものの、それだけで回るはずもない。そこを補ってきたのが先王妃たちであった。
だというのに、その息子であるレナートを王太子として導けず道を違えさせてしまった。母親の忠告すら真摯には聞き入れなかった者とはいえ、その責任を重く受け止めて。
「陛下」
「ああ、オリビア嬢」
そっと呼びかけたオリビアに、エルナンドは疲れた顔を垣間見せる。
王太子との婚約のなくなった今、ただの侯爵令嬢から国王へと声をかけるのは不敬ではあったが、彼女の年齢とほとんど変わらないほどの年月を、時に厳しく、時になごやかに、過ごしてきた。いずれは父娘のようになる予定だった関係。咎める者がいるとしても、今夜くらいは見逃されるはずだ。
慣れ親しんだエルナンドの態度に、オリビアは先ほどまでのやり取りで強ばった目元をやわらげる。
今回の件に限らず、レナートの優秀は優秀であったがゆえの自尊心の高さから来る言動には、会うたび疲れを感じていた。今日でそれも終わるかと思うと、心底から表情もゆるむというもの。
「きみには苦労をかけた」
エルナンドの下がった眉尻に、オリビアは微笑む。
彼が気にかけてくれていたことは知っていた。甥の様子を把握し、窘めていたことも察している。
レナートは、次期国王だから、中継ぎの現王ではなく自身こそが先王の正当な後継だからと、叔父すら軽く見積もって行動を起こした。
男爵令嬢であろうと二人で認めさせる功績を見せさえすれば、王妃か側妃かという立場は置いておいて、妃となることは可能だったかもしれない。だというのにレナートは恋人を愛でるばかりで、自身の研鑽さえもを怠った。
すべては本人の責任だ。
「あら。過去形ということは、わたくしはお役御免ということでございますの?」
「レナートが王家を離れたからには他の血縁から迎える他ない。きみに相応しい者がいれば支えてやってくれたならとは思うが、ただでさえ奪ってしまった時間をさらに寄越せとは私には言えんよ」
エルナンドの頭の中では、未婚の王女や、自身の兄姉たちの子らの顔を浮かべて検討に入っているのだろう。
国内だけでも年頃の釣り合う者はいるとオリビアもその顔が浮かべられるが、彼らに婚約者がいることも知っている。国王になるのなら側妃制度もあるのだから婚約者とオリビアどちらも娶れはするが、どちらを正妻である王妃とするかといった問題も浮上する。側妃が嫁すのは王太子妃を迎えて一定期間経過後となること、側妃は二名であると定められている点も揉めるに違いない。
「王女様はともかく、甥御様方は基本的には王位から離れた人生を生きられるおつもりであられたでしょうし、突然このような展開を突きつけられてもお困りになられるのではないでしょうか。もちろん中にはお喜びになる方もおられるでしょうが」
「……私こそがそのつもりもなく王位に至ったからには反発も予想はしているが、国を守るためなんとか協力を得なければ」
先行きを憂いエルナンドが嘆息する。
「かと言って野心ばかりあっても困りものですわ」
そこに声をかけたのは先王妃だ。長く妃教育を通して親しくなり可愛がっていたオリビアの手を取る。
「あなたを娘に迎える日を楽しみにしていたのだけれど、肝心の息子の育て方を間違えてしまったわね」
「統治者としての素養はあったはずですのにねぇ」
「オリビア様は懸命に取り組んでくださっていましたのに、申し訳ないこと」
「そんな、レナート様はご自分の意志を貫かれたのです、それはとても尊いことですわ」
「ふふ、そうだといいのだけれど」
我が子が王位につくことがなくなり複雑な思いを抱えているだろうに、先王妃たちは揃ってオリビアに寄り添う。時折レナートの縋るような視線を向けられているのを感じてはいるものの、誰もがそれを受け流す。
「陛下におかれましては、今度こそ間違いのない世継ぎをお願いしたく」
先王妃は扇で口元を隠しつつ「わたくしたちが言えることではないけれど」と自嘲し、続ける。
「血縁の中から、としてしまえば世代を遡る者も出てきたりと混乱も起きましょう。ご自身の血を受け継ぐお子を成されませ」
「義姉上、」
「そうですわねぇ、早急に、お願いいたしますわぁ」
「むしろ陛下が端からそれを除外してお考えなのが解せませぬ」
エルナンドは先王妃たちに囲まれ、わずかに眉間に皺を寄せた。
「そうは言われても、今から相手を探し子を育てることを考えるとかなりの長期戦になります」
「あら。子育てとはもともと長期戦ですわ」
「お相手だって……ねぇ?」
「ええ、探さずとも、ね」
うふふ、と扇の下から漏れる笑みにエルナンドは首を捻り、オリビアはため息をひとつ。
「妃殿下方、わたくし自分で口説き落とすつもりでしてよ」
そう言ってオリビアは、エルナンドと対峙するかのように立ち、たおやかに微笑んだ。仁王立ちのごとき気迫であることは、先んじて相談を持ちかけた先王妃たちには察せられているだろうけれど。
咳払いをして、口を開く。
婚約者がこの日を画策していると気付いた時から考えていたこと。
「恐れ多くもエルナンド陛下に申し上げます」
レナートの本来の目論見は、オリビアとは婚約破棄、アルマを婚約者として王妃に据えること。加えて、あわよくば政務を押し付けるためだけにオリビアを嫌々側妃とすること。
宣言を遮りオリビア主導の流れに修正しレナートが自ら継承権の返上をしたように見せたが、もしもその稚拙な計画通りに事が運ばれたとしてもオリビアを押しのけて一介の男爵令嬢が王妃になれるわけがなく、その場合は男爵家に婿入りどころか幽閉といった結末もあったかもしれない。
どちらにせよ宣言を発した時点で王太子が不在となることは確実。ならば。
「わたくし、オリビア・アイバー・シーロを陛下の妻にしていただきとうございます」
オリビアは王妃になるため研鑽を積んできた。幼くして婚約を定められた、その時から。
結婚に愛はなくとも、国を、民を、その分も我が子として愛する覚悟はすでにある。それは王太子から国王と、相手が替わっても。
「現段階においてわたくし以上に王妃に相応しい者はいないと自負しております。もちろん妃殿下方は別ですし、陛下が御三方をそのままお迎えになられるのであれば、各種経験値は比較にならないと存じますのでわたくしの出る幕はございませんが」
先王妃たちの小さな笑い声がさざめく。「いやだ、わたくしもうお役目は果たしましたもの」「どうしてもと望んでいただけるのなら、やぶさかではないですけどぉ」「形ばかりの側妃としてなら支援はいたしますが」と。
「オリビア嬢、申し出はありがたいしきみの才覚は認めるところだが、私たちでは年齢差が」
「あら、十と少し離れているだけではございませんか。国内にはその倍ほどのご夫婦もおられましてよ」
「まあそうだが……」
「真実の愛など求めません、愛がなんたるかを知りませんし、知らぬままで結構です。ですが陛下のことは尊敬しておりますし、国のことなら愛していますもの。この気持ちだけでお支えするには十分ですわ」
困惑を見せるエルナンド。オリビアが向けた渾身の微笑みに、しばし沈黙が落ちる。
華やかな楽団の音色に合わせ盛り上がる会場の中で、ここだけがまるで異空間。
――と、エルナンドの表情が諦めたようにゆるむ。
「あなたを妃に迎えよう。無論、王妃として」
その声は朗々と。
ダンスに興じていた者も、食を楽しんでいた者も。近く声を耳にした者から驚嘆と祝福の声が上がり、ざわめきがさざ波のように会場中に広がっていく。
元婚約者が愕然とした顔をしているのが見えたのは、たぶん気の所為。
「王妃としての活躍には期待しているが、まずは後継者を得ることが急務となる。しばらく公務は休み、そちらに集中してもらうことになるが」
「国を思えば当然のことですわ、陛下。かしこまりました」
望み通り王妃となったオリビアは、しかし自身の発言とは異なりいつしか愛を知ることとなる。それはもう少しだけ、未来のこと。