あなたに会えた
「父が出張?」
婦好はサクを誘い、昼休みをともにしていた。
「ええ。そうなんです。父は昨年まではわたしが小学生ともあり、地方の書道展を控えておりました。しかし今年からは出張に出るようになり、一週間の不在なのです」
「確か、サクは父親と二人暮らしだったな。一週間も一人で過ごすのか」
「はい」
「心配だから、うちに泊まるといい」
「え……? しかし、ご迷惑ですので、大丈夫です」
「サクの父上に電話をかけて」
「え、でも……あっ……!」
婦好は手慣れた手つきでサクの携帯電話を奪い、父親に連絡をする。
婦好はいとも簡単にサクの父を陥落した。
「我が家で預かることになったから、安心しなさい」
◇◇◇
生徒会長の社長令嬢は、東京都港区に一軒家を構える。
二階建ての和風の家は名家の佇まいであり、まるで老舗旅館のようである。
サクの住むコンクリート建てのマンションとは異なっていた。
「立派なお宅ですね」と、サクは感嘆のため息をつく。
「遠慮はいらない。あがって」
「お邪魔します」
趣ある掛け軸の飾られた玄関を上がる。
そのとき、サクは左目を前髪で隠した少年と目が合った。
彼はポテトチップスの袋とコーラを抱えて階段を登る。
「弓弦。帰ってたのか」
「おう。部活をさぼってきた。……ん?」
「見ない顔だな。姉貴、どこで拾ってきた」
「後輩の南乃サクだ。こちらは弟の弓弦だ」
「幼いな。小学生か? いや、姉貴のところの制服だな」と、弓弦は片側だけの鋭い目で見る。
「はじめまして。中学一年の、サクと申します」
サクは丁寧にお辞儀をした。
弓弦はサクを無視して、婦好に向かって話す。
「姉貴が後輩を連れてくるなど、めずらしいな」
「一週間預かることになったから、仲良くしてくれ。このとおり、女子生徒だから風呂場は覗かぬように」
「誰が覗くか。それに……。なんだかこいつを見ていると、イライラする」
「恋か。弓弦」
「ふざけろ。俺は女に興味はない」
「なんだ。男になら興味があるのか」
「黙れ、クソ姉貴」
「このとおり、両目がみえるのに片目を隠す、反抗期の十六歳だ。むかしは可愛かったのだが……」
「誰が反抗期だッッ!」
「きょ、姉弟仲がよろしいのですね……」
弓弦は、サクに向かって人差し指を向けた。
「おい、お前に忠告する。
この家までたどり着いたことは誉めてやろう。
ただし、姉の心を得ようとは思うな。
恋に敗れ、屍となった女どもを山ほど俺は見てきた。
博愛主義者に恋をしても、虚しい思いをするだけだぞ」
「弓弦。客人に失礼だぞ。それに、姉貴ではなく昔みたいに、お姉ちゃん、と呼んだらどうだ」
「死ね!」
弓弦はドタドタと二階に駆け上がり、バタン、と戸を閉める。
「弟が、失礼をしたな」
「いいえ。婦好さまの新たな一面を見られて、不思議な気分です」
「わたしの部屋に案内しよう」
◇◇◇
婦好の部屋は二階の洋室であった。
十畳ほどの部屋には、生活感は少ないものの、婦好の過ごした時間が詰まる。
婦好の華の香りに包まれ、サクの胸はきゅ、と音を立てた。
「本がたくさんありますね」
「本は良い。すでに死んだ者も、時間を超えて、師となりうる」
「女性の伝記が多いように思います」
「女として生を授かったのだ。女の歴史を知りたいと思うのは当然だろう。武則天。ジャンヌ・ダルク。エカテリーナ2世。クララ・バートン。みな、尊敬する女性たちだ」
「そうですね。素晴らしい女性たちです。しかし……」
「多くの功労を得ながら、歴史から忘れ去られた女性もおります……」
そう言ったところで、サクの瞳から大粒の涙が溢れる。
(なにか、大事なことを忘れている気がする)
魂が、叫ぶ。
この書棚の伝奇に、並ぶべき人がいたのではないのか。
伝えられなかった女性。
残らなかった文字。
残らなかった、残せなかった、残したかった。
ただ、知ってほしかった。遠き日々があったのではないか。
「うっ……、う……ひくっ……」
「サク。なぜ、泣く」
「わかりません……わかりませんが、涙が……涙が止まりません」
「サク」
やさしい声が、サクの身体を制した。
「サクの涙を見ると、どうしようもなく愛おしい」
サクはぐい、と引き寄せられ、婦好の突き出た双丘に顔が沈む。
手のひらのぬくもりがサクの背中を柔らかく包みこんだ。
「ふ、こうさま。制服が濡れてしまいます」
「構わない」
婦好の手がサクの頬に触れる。
指ですくった涙を、婦好はぺろりと舌で舐めた。
「校舎の屋上でサクと瞳を合わせたときから、おかしいのだ。我々には、過去の記憶がある。前世の記憶とも言うべきか」
「過去の……記憶?」
「しかし、わたしは過去を生きる気はない。今を生きたいのだ」
「わたしは……、いまも過去も、あるがままの婦好さまをお慕いしております」
「すまない。わたし自身は過去に支配されたくはないのだ。しかし、いまは、もうひとりのわたしが、目の前で涙する少女を求めている。だから、もう少しこのままで」
サクの耳は婦好の胸の鼓動を捉えた。
ドキドキ、という音が早まる。
過去の婦好。今の婦好。過去のサク。今のサク。
この心音が誰のものか、サクにはもうわからなくなっていた。
「ふ、こう、さま……」
サクは婦好の背に手を回した。
「サクに出会えて、よかった」
「わたしも、わたしもです。そして、お慕いしています」
「過去も、いまも……!」
「サク……」
その日、ふたりは唇もあわさずに。
ただ、制服越しにお互いの体温を確かめ合うように。
夕陽の落ちるシーツの上で抱きしめあった。
◇◇◇
サクが帰宅してから間もなく、婦好の家の玄関に文字が飾られた。
「これは……あいつの文字か」
「宿代、だそうだ」
「破りたいほどに、イライラする。あいつは、姉貴のなんなのだ?」
「弓弦。それがわからぬようでは、まだまだ未熟ということだ」
「ふん。そうやってはぐらかすときは、姉貴自身がわかっていないときだ」
「ふふ。弓弦。なかなか言うようになったな。己を律することのできぬ人間に、他者を律することなどできない、ということだ」
「姉貴は何を律している?」
「過去、だ」
「わけがわからん。ところで、この文字は」
「甲骨文字だ。後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿だそうだ」
「ふん。『愛』か。反吐が出る」
「嫉妬だな、弓弦」
「誰が、嫉妬など。しかし確かにこの文字は、姉貴に欠けているものかもしれん」
「そうみえるか」
「むかしから姉貴には執着心や独占欲というものがないからな」
「そうか」
美しい姉は、困惑したようにふわり、と微笑んだ。
弟は去り、掛け軸に新緑の風が舞う。
麗人は墨の滲みを指で追った。
「弟の言うとおり、この文字は、もともとわたしには欠けていた感情かもしれない。しかしいまは」
手に入れてみたいと、まるで喉の渇きに水を欲するように心が騒ぐ。
こんな気持ちは初めてだった。
「きっと、ゆっくりでいいのだ。戦禍によって人の血が流れない世で、出会えたのだから」
今世では、傷つけぬように、壊さぬように。
穏やかに、己の心のままに、ともに歩みたいと強く願う。
完