わたし、負けません
「婦好さま。最近どうされたのです? ぼおっとされて」
婦好は同級生かつ親友のリツにそう言われて振り返った。
リツは陸上部の部長にして、短髪黒髪の生徒会副会長である。
「ん、そうかな」
窓辺で頬杖をつく婦好は絵になる。
生徒の憧れを一身に集める彼女の覇気なき言葉に、リツはため息をついて言った。
「くれぐれも下級生に手はださないでくださいね。生徒会長としてのイメージがありますし、相手に迷惑がかかるのですから」
「では、同級ならいいのか?」
彫刻のような美しい人に腕を取られ、ずい、と顔を近づけられて、リツは赤面する。
「そ、そういうわけでは」
「ふふ、冗談だ」
「単刀直入に言います。南乃サクとの噂。校内に目撃情報が出回っております。日曜日に、その……、手を、つないで出かけたなどと……。かつて前例がないと」
副生徒会長たるリツの咎めに、会長は飄々と答える。
「手をつなぐなど、幼稚園の時にリツとすませているではないか」
「そういう問題ではありません」
「前例がなければ、わたしの行動は制限されるのか」
「みなの嫉妬心の問題です」
厳格な性格のリツは、ぴしっと身を正して諫める。
「とにかく、今後。南乃サクには近づかないでください。この忠告は、相手のためです」
◇◇◇
その頃。
体育館裏にて、婦好を慕う者が集まり、婦好のお気に入りとなった新入生の悪口を口々に吐いていた。
「なぜ、あんなやつ! 新入生のくせに生意気な」
高校2年生のうち、キツネ顔のキビが提案した。
「あらあ……、それは気に入らないわね。それなら、学校をやめさせちゃえばいいのよ、そんなヤツ」
彼女はにやり、と口角を上げた。
◇◇◇
日曜デートの翌々日のことである。
朝、サクが登校すると、下駄箱の上履きが泥だらけとなっていた。
「サクちゃん……! なにこれ、いじめ?」
「はい。どうやら、そのようです」
親友のシュウの心配をよそに、淡々と上履きを洗った。サクは泥を片付けて、職員室でスリッパを借りる。
シュウがサクへ問う。
「なんでサクちゃんがこんな目に?」
「心当たりは……、あります」
「え?? あるの?」
「婦好さまと日曜日にお会いしたことが、誰かの耳に入ったのでしょう」
「え、ええ??? 日曜日に? 婦好さまと??」
その日、サクが昼休みに廊下を歩いていると、バケツの水をかけられた。
くすくす、といった笑い声がする。
「ああら。ごめんなさいね。掃除していて手が滑っちゃったの。わざとじゃないのよ」
古典的な、いじめである。
「気にしません。大丈夫、です」
◇◇◇
強がってはみたものの、サクはジャージ姿で帰る羽目になった。
帰り道に婦好とすれ違う。
「ふこうさま……!」
サクは日曜日のお礼をまだ言っていないことから、婦好に話しかけようとした。
しかし、婦好の取り巻きに遮られて話すこともできない。
サクは婦好と一瞬目があった気がしたが、婦好はそのまま通り過ぎる。
(日曜日の婦好さまなら、話しかけてくれるはず。では、無視をされているのはなぜか)
胸元をぎゅっ、と握りしめた。
「あの! 婦好さま!」
「なんだ」
二度呼んだところで、婦好が素っ気なく振り返る。
「先日はありがとうございました」
「そうだったな」
感情なく放つような言葉。サクの胸は、ぐさり、と抉られるようだった。
(しかし、)
「婦好さま……そのように冷たくなさるのは、わたしを守るためでしょうか」
「なんの話だ?」
「でしたら、いらぬ配慮です」
サクは腹に力を込めて発言した。
「わたしは必ず、文字で、みなさんの心を動かして見せます!」
なぜ、こんなに熱く言葉を紡いでいるのか、サクにはわからない。ただ、目の前の麗人に届けたい想いだけがそこにはあった。
「だから……! 婦好さまは、誰かに命じられることなく、その心の赴くままに行動してください」
取り巻きの学生たちが、サク注目する。
婦好は視線を斜め下に落とした。
「心の赴くまま、か……」
つかつかと、ローファーを響かせながら、婦好はサクに近づく。
そして、ジャージ姿のサクの手を取り、握り締めた。
「わかった。では、誰に何を言われようと、わたしの好きにする。わたしは遠慮はしないぞ」
「はい、もとより遠慮など、無用です」
「このジャージ姿は、誰かにやられたものだな」
婦好はサクを抱きしめた。
サクの顔は婦好の豊かな胸に埋まる。
「はい……、しかし、この程度のこと、大丈夫です」
「サク。わたしが必ず守る。いまは少しだけ、辛抱してほしい」
「いいえ。わたしはわたしの力で、この状況から脱してみせます。だから……みててください。わたしの、文字を……!」
婦好と別れ帰宅したのち、サクは己の部屋に閉じ篭もった。
お気に入りの墨と筆、半紙を取り出す。
サクは仮説を立てていた。
(桜蔭学園の生徒であれば。
婦好さまを敬愛する人々であれば)
(美しいものを無碍にはしない。奥底に、美しい文字を愛する心を宿しているはず。だから、美意識を刺激する)
(婦好さま。必ず心を動かしてみせます! 負けません!)
サクは筆を走らせた。
◇◇◇
「サクは、すごいな」
一週間後。
婦好は校外新聞を見ながら、サクを褒めた。
サクはいじわるの対策として、いじめを受けたその場所に文字を飾りつけたのである。
『楚辞』『詩経』など、古典の一節を、である。
そのほか先生の許可を取り、あらゆる場所に書を掲示した。
学校中に、サクの文字が飾られた。
サクの書いた文字は、誰かがSNSで投稿したのだろうか、校内の出来事として拡散される。
結果として、校内新聞だけではなく、校外の新聞にまで掲載された。
それ以来、サクをいじめる者は居なくなる。
「みなが、サクの文字に心動かされた。本当に、驚いた」
サクは、にこり、とした。
「文字はいつもわたしの味方です。生まれたときから」
サクがそう言うと、欠けることのない美しさを誇る強き人が、やわらかく微笑んだ。
艶やかで色素の薄い髪が、白いカーテンからそよぐ風に揺れる。
春の香りと、どこからかピアノの音がふたりの空間を包んだ。
サクは目の前の麗しい人に問いかける。
「婦好さま。わたしの文字は婦好さまの心を掴むことができたでしょうか」
「サク、なにをいってるんだ?」
アーモンド型の形の良い目が、サクを見つめる。
「わたしは最初から、好きだよ」
婦好の魅惑的なささやき声に、サクは返答した。
「わたしも……、あなたが、好きです」




