悪女で有名な伯爵令嬢は、婚約解消されてファンを増やす。
「シルビア・ヴェルファーレ! 今ここで、お前との婚約を破棄する!」
シルビアの通う王立学園の中庭で、わざわざ生徒の注目を集めるように声高に宣言したのは、子爵令息のオッティ・シモン。
彼女の婚約者である。
「あーあ、よりによって婚約した翌日に学園の中庭でそれする?」
腰に手を当てたシルビアはオッティを哀れんだ表情で見た後、ふーやれやれと息を吐いた。
何事かと中庭に集まった生徒たちは、突然の婚約破棄宣言にどよめいている。
シルビアを心配そうに見つめる数人の貴族令嬢たち、訳知り顔で穏やかに見つめる第四王子、興味深そうに傍観する大多数の学園生徒たち。
なんと伯爵令嬢であるシルビアはオッティと婚約した翌日、二人が通う王立学園で彼から婚約破棄を宣言されたのだ。
子爵令息のオッティは小ズルい男。
正式に婚約を解消するには、婚約解消に同意して書面を取り交わさなければならない。
しかし、これだけ貴族子女が集まった場で婚約破棄を宣言すれば、シルビアの面子は丸つぶれになる。
食い下がることもできず、もはや受け入れるしかなくなると思ったようだ。
フフンッと、ドヤ顔でシルビアを見るオッティ子爵令息。
だが当の彼女は、逆にヘッヘッヘと口角を上げて悪相を浮かべた。
「で? 理由は?」
婚約破棄を宣言されたシルビアは、さして衝撃を受けたふうでもなく、それよりもその理由に興味があった。
「り、理由は特にない」
「あんた馬鹿じゃないの? 理由も考えずに婚約破棄を宣言した訳? それもこんな学園の中庭で!」
「理由は……お、お前との結婚が急に嫌になったからだ」
「はいはい、分かったわ。じゃあ理由は貴方の気持ちの問題で、私には落ち度がないってことよね?」
「そ、そうなるかな……」
「へえ~、そうなの。でも、それなら婚約破棄はおかしいわ。一方的な婚約解消のお願いよね? ならばほら、ちゃんと空っぽの頭を下げて、婚約を解消してくださいとお願いしなさいな」
オッティは蔑まれ思い切り侮辱されたが、見えない力に影響されて逆らえないのかどうしても婚約を解消したいらしく、顔を歪めて頭を下げた。
「す、すみません。婚約の解消をお願いします」
「いいわよ。おかげで、馬鹿な子爵令息と結婚しないですんだし。でも、慰謝料はよろしくね」
シルビアは、人妻との関係を隠して自分と婚約した男を睨むと、自分の授かった特別な加護のお陰で嫌な男と婚姻せずにすんでよかったと素直に喜んだ。
◇
貴族邸宅の庭で優雅にお茶を楽しむのは、綺麗な銀髪でロングヘアの女性。
スタイルは良く、少し目付きはキツイが綺麗な顔立ちの貴族令嬢であった。
シルビア・ヴェルファーレ。
名門貴族ヴェルファーレ伯爵家の令嬢である。
「つまんないわね……。ねぇつまんないわ!」
「はい、お嬢様」
暇で退屈したシルビアがお付きの侍従に八つ当たりすると、侍従のバネットは慣れた様子で返事をした。
シルビアは貴族子女が通う王立学園に通っていたのだが、事情があって自主退学した。
別にオッティ子爵令息から学園内で婚約破棄を宣言されて、ショックを受けて学園に行けなくなったという訳ではない。
王立学園に通う子女連中が、ひそひそと噂し合うのに腹が立ったからだ。
「なーにが、お淑やかさに欠けるからよだ。なーにが、慎ましさに欠けるからよだ。馬ッ鹿じゃないの!」
「お嬢様。事情を知らない馬鹿どもは放っておかれたらよろしいかと」
侍従のバネットも最初はこんなに口は悪くなかった。
元々感情表現が乏しかったバネットは、シルビアの専属侍従を務めるうちに、過激な性格の彼女にすっかり感化されてしまったのだ。
「ちょっとシルビアさん! その言葉遣いはなんですの!」
いつの間にか庭でお茶をするシルビアに近寄っていたのは、彼女の母親プレセア。
母親の愛なのか、いまだにシルビアの言葉使いや立ち振る舞いの粗野を見ては注意してくる。
「貴女がそんなだから、大人しかったバネットまで変わってしまったのよ?」
「まーそこは否定しないけど」
「暇ならお見合いして結婚する努力をなさい」
「ねぇ、なんでお母様は結婚しろしろしろしろ急かすの? いいじゃない、結婚なんかしなくったって」
「あのねぇ。ウチは伯爵家で貴女は貴族令嬢なの。我がヴェルファーレ家のために良い貴族と結婚するのが娘の務めなのよ。それくらい分かってるでしょ」
「分かってませーん。嫌よ。馬鹿な貴族の令息と結婚なんかこっちから願い下げ!」
口を尖らせてそっぽを向き、減らず口を叩くシルビアにプレセアが切れた。
「シルビア! いい加減に結婚して出てってくれないと家の評判が下がるのよ! 王立学園じゃ勝手に婚約破棄されて自主退学で戻ってくるし! あんな男でも婚約するのにどれだけ根回ししたか! もうどんな男でもいいから適当に結婚なさい!」
「はあ!? どんな男でもいいって娘に言う? そもそも、私に愛のない結婚は無理だってお母様も知ってるでしょ? 私、呪いの加護なのよ!!」
最初は母親のプレセアが声を荒げたが、すぐにシルビアがそれを上回る大声で反論してテーブルを叩いた。
置かれていたティーセットは、バネットがサッと持ち上げて回避したので壊されずに済んだ。
シルビアが呪いの加護と口にした途端、プレセアは黙り込む。
呪いの加護。
シルビアが住むステラ王国は星の精霊に守護される国。
女性が生まれると、星の精霊に運命の星が定められてその加護が一生続く。
過激な性格で悪女として知られるシルビアの運命の星は、夜空に赤く輝く極星カタストロフィだった。
極星カタストロフィは聖なる星とされ、その加護は、相愛の人以外との関係が清算される不思議な力が働くというもの。
星の精霊はなんと、愛ある婚姻を見極める聖なる加護を、悪女シルビアに与えたのだ。
だけど、愛など関係なく政略結婚を望む普通の貴族令嬢からすれば、極めて不都合な加護。
愛のない婚約は不思議な力で、破棄されるか解消になるからだ。
政略のために婚約しても互いの愛がなければ、相手から見捨てられ、見放されてしまう星の加護。
一方的に別れを切り出され、悲惨な結末を強いられる運命だった。
愛のない政略婚が一般的な貴族令嬢にとっては、もう星の加護というより星の呪いなのである。
彼女は、母親が申し訳なさそうに気遣ったのを見て余計に不機嫌になった。
「同情なんかして欲しくないわ。別に私は結婚がしたくないだけ! バネット、家を出るわよ! こんなとこいたくないわ」
「はい、お嬢様」
シルビアは裕福な商家の娘風衣装に着替え、バネットにも同様の恰好をさせると屋敷の扉を開けて外に出た。
このプチ家出は最近、頻繁に繰り返されるので、外出用品は既に準備されていてすぐに出発できたのだった。
眉間にしわを寄せ、目付きを鋭くしていたシルビアは、屋敷の門を出ると表情を元に戻した。
「フフ。これでお母様もしばらく結婚結婚言わなくなるでしょ。でもすぐ帰るのはバツが悪いし、今日は街で泊まるわ」
「では宿はいつものところを手配します」
「まだ日も高いしお菓子でも食べに行きましょ」
「宿の近くに噂のおかずケーキを出す喫茶店があります」
「ナイスゥ!」
パチンと指を鳴らしたシルビアは楽しそうに笑いながら歩く。
伯爵令嬢にも関わらずプチ家出で馬車が使えないので、てくてくと歩いて商店へ向かうのだった。
◇
「ケーキへニンニクを入れるなんて、普通思いついてもやらないわよ」
「すごい臭いですね」
「ほら、あなたも座って付き合いなさい。今は町娘二人って設定なんだから」
シルビアは、横に立っていたバネットを向かいの椅子に座らせると、彼女の皿のニンニクケーキをひと欠け取って食べさせた。
「もぐもぐ……甘さを排した薄塩味の生地に動物性脂が練り込まれ、不思議とニンニクがよく合います」
「この、一見アーモンドチップに見えるニンニクチップが、思いの外いい香りね。とても食欲をそそられるわ」
今日の宿を確保したシルビアは、お付きの侍従、バネットを連れて話題の喫茶店でお茶を楽しんでいた。
この店は高価な砂糖を使った定番の甘いお菓子の他に、巷では珍しいおかずケーキというものを売りにしていた。
今までのお菓子に飽きた貴族令嬢たちにとって、今、最もホットな話題の一つである。
だが、下町にあるこの店は令嬢たちには訪れ難く、シルビアも今まで来れていなかった。
それが今日は家出のために商家の娘の恰好をしているのが幸いし、こうして念願叶ったのだ。
今はプチ家出中なので馬車ではなく、移動はシルビアとバネットの女二人で徒歩だ。
そうすると、貴族然とした如何にも金持ってますという恰好では、変な奴らが絡んできて恐喝や強盗など危険な目に合うかもしれない。
プチ家出に慣れた二人はその点を考慮して、ちょっと裕福な商家の娘風の衣装を着てきたのだ。
以前母親からは、そんな恰好でうろうろするなと小言をもらったシルビアだが「家出中の恰好にまでケチを付けるな!」と強弁したら、もう何も言われなくなった。
「やあ、めずらしいところで会ったな」
二人が丁度おかずケーキを食べ終わったところで、テーブルに近寄ってシルビアに話し掛ける男性がいる。
シルビアもバネットも黙っていれば美女であるため、プチ家出で街を歩くと声を掛けられることがある。
でも声を掛けてきた男性は、シルビアが知っている相手だった。
「ルークス殿下じゃない!」
「しー! 街へ出ているときは呼び捨てにしてくれよ」
ルークス・レイモンド。
ステラ王国の第四王子で学園時代からのシルビアの悪友。
王族だが権威をかさに着ず、男前でノリがよく、そして何故かシルビアに優しい。
本来であれば高貴な生まれの王子が、こんな下町をうろつくなんてあり得ない話。
だが彼は、その自由奔放な性格からちょくちょく身分を隠して街へ遊びに出ているのだ。
ちなみに彼の服装は下町にお忍びで来ているからか、王族然とした煌びやかな物ではなく、割と落ち着いた貴族の服である。
この辺が偉ぶらないルークス王子らしいのだが、ただ単に下町で遊び慣れているともいえる。
侍従のバネットいわく、ルークス王子はシルビアに好意があるとのことだが、星の加護が気になってまともな恋愛に臆病な彼女は、彼の好意がよく分からない。
そんなシルビアも彼には好意を持っているが、逆に自らの想いが恋心にならないよう、ルークス王子はただの友人なんだと強く意識するようにしていた。
好きになっても悲しくなるだけ。
彼女は破局の星の下に生まれた。
互いの愛がない婚約では、星の加護の力が働いて相手の方から婚約解消を言い出してしまう。
そのためシルビアは、貴族令嬢として政略婚ができるように、少女の頃から婚約相手を惚れさせるように諭されて育ったのだ。
だが彼女は、性格上計算高い恋愛なんてとても無理だし、相手に媚びて注意を引くなんて恥ずかしくてできない。
幼い頃から破局の星という特別な加護に怖気づいて、恋愛にはかなり臆病になっているのだ。
一方ルークス王子の方は、シルビアが自分で破局の星の加護持ちだと打ち明けたので、既にそのことを知っている。
打ち明けられたその話に彼は驚きはしたものの、だからどうしたという感じで大して気に留めたふうでもなかった。
「へぇ、お嬢様でもニンニク食べるんだね?」
「いいでしょ、ニンニクくらい食べたって。そもそもここはそういうお店よ。大体今日は誰とも会うつもりなんてなかったし……」
「俺と会ったよ?」
「べ、別にルークスと待ち合わせしてた訳じゃないし!」
口を尖らせたシルビアは顔を横に向けた。
彼女がニンニク臭を意識して彼から顔を背けていると、バネットが横に来てさっとハーブミントの葉を差し出してくれる。
急いで口に放り込むシルビア。
彼女は仲のいい男性からニンニクケーキのことを指摘されて、穴でもあったら入りたい気持ちになった。
「平気平気。実は俺も同じなんだ」
勝手に同じテーブルについた彼は、手の平を顔の前でヒラヒラと横に振った。
何が同じなのかとシルビアが見ていると、なんと彼にもニンニクケーキが運ばれてきたのだ。
きっと私たちを見付けたときに、気を利かせて同じものを頼んでくれたんだわ。
王子なのに気取らない、こういう優しいところが女にモテるのよね。
でも正直言うと、ニンニク料理を食べているときは、声を掛けずに放っておいて欲しいのだけど。
それでも久しぶりに、学園での悪友に会えたことが嬉しくて話が弾んだ。
「それで、二人してそんな恰好でお茶してた訳か」
「たまにこうやって家出して、私の境遇をお母様に思い出してもらわないと、結婚しろしろ言い出して大変なのよ」
紅茶の代わりにオニオンスープを飲むルークス王子は、残ったニンニクケーキを美味しそうに頬張ると軽い調子で質問する。
「破局の星の加護ってさ、相手がシルビアのことを好きなら働かないんだよな?」
「いいえ、相手だけじゃなくて私も好きじゃなきゃダメなのよ……ってちょっと! こんなとこで話さないでよ! これでも一応秘密にしているんだから。内緒だって言ったでしょ?」
「悪い。そうだった」
素直に謝るルークス王子を可愛らしく思ったシルビアは、すぐ機嫌を直すと話を続ける。
「まあ、政略婚の相手は元々実利が目的だし、好き嫌いで婚約してる訳じゃないから、愛ある婚約なんて無理な話なのよね。そもそも私みたいな女が相手をその気にさせるなんて、とてもできないわ」
「そうかなぁ。俺にとってシルビアはかなり魅力的だよ?」
「えっ、なっ! ちょ、ちょっと何言ってんの!? またそうやって人のことからかって!」
顔を赤くして抗議したシルビアをルークス王子は楽しそうに見ている。
そんなやり取りをそばで見ていた侍従のバネットは、また始まったと呆れた表情をして退屈そうに手遊びを始めた。
「このおかずケーキって結構美味いな。もう一個注文しよう」
「えーじゃあ私も食べようかな。でも品揃えが奇抜すぎてメニュー表じゃ味の想像がつかないのよね……。ねぇ、せっかくだからおかずケーキのショーケースを見に行かない?」
シルビアは笑顔で立ち上がると、ショーケースを見に行こうとルークス王子を誘った。
「バネットはテーブルにいてもらえる? 全員が席を離れちゃまずいだろうし。注文は私と同じものでもいい?」
「恐れ入ります。では私はここでお待ちしています」
主人が立ち上がり、侍従がテーブルに残るのは普通では考えられないことだが、ルークス王子と楽しそうに話すシルビアを見たバネットは、気を遣って素直にテーブルで待つことを了承した。
二人してああでもないこうでもないとショーケースの前で思案し、シルビアがトマトとチーズのおかずケーキ、ルークス王子がベーコンとアスパラのおかずケーキを注文した。
「おまたせ、バネット」
フンフンと鼻歌交じりで席まで戻ったシルビアは、表情を強張らせた。
バネットの席に彼女の姿はなく、代わりに瘦せこけた怪しい男が座っていたからだ。
「誰なんだ、お前は?」
シルビアを下がらせたルークス王子は、あくまで小声で痩せた男に問い掛ける。
彼は立ち上がると不敵な笑みを浮かべた。
「俺はただの伝言役。いいか、よく聞け。ヴェルファーレ家の令嬢、シルビア様は我が傭兵商会へ丁重にご案内した。会いたければ当主が明日の朝までに傭兵商会へ交渉に来い」
「え⁉︎ ちょっと貴方何言ってんの??」
「あくまでお嬢様はご招待しただけだ。丁寧な応対を約束する。だから通報はするなよ。通報したらどうなるか、分かってるな?」
バネットが攫われた⁉
でもこいつら、私を攫ったと思ってるの?
それって私と間違ってバネットを攫ったのよね⁉
何か交渉するのが目的みたいだけど……。
それよりも人違いだって教えて、こんな馬鹿なことをやめさせなきゃ!
「ねえ、あんた間違ってるわよ。あの娘じゃなくて私が……ムグムグ」
焦ったシルビアが間違いを指摘しようとしたが、バネットが残していったニンニクケーキを口に放り込まれてしまった。
ルークス王子が食べさせたのだ。
「何やってんだお前ら……。とにかく俺は伝えたからな」
伝言が終わったのか男は立ち去った。
眉間にしわを寄せたシルビアが、立ったままルークス王子に詰め寄る。
「ちょっと! 何で間違いだと言わないのよ」
「今間違いだと伝えて、バネットに人質の価値がないと思われたら、逆にバネットの命が危ない」
「そ、そうか、そうよね。ありがとう!」
「だが対応が難しいな……」
「なんで? 急いで家に戻ってお父様に頼めば何とかしてくれるわ」
「いや、侍従のためにヴェルファーレ伯爵が危険を冒して自ら乗り込み、直接交渉するとも思えない」
シルビアは父親であるレパード・ヴェルファーレを思い浮かべる。
彼女はあの優しい父親なら、自分が攫われたとあればきっと助けに動くと思った。
でも、攫われたのがシルビアではなく侍従のバネットならば、ルークス王子の言う通り警備隊に通報するのが順当だろう。
何せ彼女の父親は典型的な事務方で、荒事には全く向かないからだ。
「でもそれで警備隊へ通報することになったら、あの伝言男の条件に反しちゃうわ」
「俺だけで何とかしてやりたいところだが、傭兵商会の本部に行くんじゃ力ずくで奪還するのは厳しいか。期限が明日の朝じゃ、王国兵を動かすには時間が足りない」
「もし、バネットに何かあったら……。ねえ! 奴らの要望はヴェルファーレ家との交渉よね。それなら私が行くわ。私だってヴェルファーレ家の貴族なんだから!」
「やめておけ。シルビアが行ったら奴らの思うつぼだ」
ルークス王子の制止に彼女は首を横に振った。
「バネットは私の大切な侍従。絶対に奴らから彼女を助け出すわ」
シルビアは震えながらも迷いのない口調でルークス王子に答えた。
彼女の覚悟を見た彼は目を見開くと、力強く見つめ返してゆっくりと頷いた。
「決意は固いんだな? なら安心しろ。二人は俺が守ってやるから」
優しい口調で答えた彼は、店員が運んできたアスパラとベーコンのおかずケーキを受け取って一口だけ頬張ると、彼女を連れて喫茶店から出たのだった。
◇
伝言男から期限は翌日の朝までと言われたが、シルビアとルークス王子はそのまま傭兵商会へと向かう。
彼の馬車で今すぐ傭兵商会へ乗り付けて、相手の準備が整う前に決着を付けようというのだ。
傭兵商会はギルドのような組合とは違い、商会長をトップとした体育会系で利潤を追求する組織。
護衛や警備、戦争などあらゆる武力行使を有料で引き受ける武力のプロ集団として有名である。
傭兵商会に到着した二人は、訪問者向けの一階受付でヴェルファーレ家の者だと話すと、二階奥の部屋に商会長のイグニスがいると伝えられた。
早速、今回の首謀者で傭兵商会の代表、イグニスと対面である。
唇を強く結んだシルビアが、形だけのノックをして「どうぞ」の返事を聞く前に勢いよく扉を開けた。
部屋の両脇には本棚、正面奥の窓際にはこちら向きに大きな机があり、こちらを向いて椅子に踏ん反り返る三十代くらいの赤髪の男性がいる。
バネットを攫った組織の男は、シルビアが想像していた太ったオヤジではなくスタイルの良い偉丈夫だった。
クセのある赤く長い髪で、ジャケットの上からも分かる筋肉質な体、行儀悪く机の上で脚を組んでいる。
手前には応接用の低いテーブルを挟むように二つのソファが置かれ、なんとそこにバネットが座ってお茶を飲んでいた。
「あんたねぇ。優雅にお茶なんか飲んじゃって、私がどんだけ心配したと思ってるのよ」
腰に手を当てたシルビアが声を荒げると、バネットはすまし顔でこちらを見た。
「ご心配をお掛けしました。私はこの通り、丁寧に扱われています。ですからどうか今回は、程々で許してあげてはもらえませんか」
「何が程々よ。自分の心配よりも相手の心配をしちゃって」
「今までの奴らに比べますと、それほどの悪党ではなさそうですし」
「でも私、貴女を攫ったことは許せないから」
学園時代の悪友としてシルビアを知るルークス王子は、好き放題振る舞う最近の彼女を知らないのか驚いている。
「お前、いつもそんなにやり過ぎるのか?」
「そ、そんなことないわよっ」
ひょんな会話で日頃の悪女ぶりをルークス王子に知られてしまい、シルビアは顔を赤くした。
「……おい!」
いきなり部屋に入り込んで、自分たちで勝手に会話を始めたのが気に食わなかったのか、部屋の主が怒気を込めて呼び掛けた。
「どうやらヴェルファーレ家の者らしいが、俺は侍従なんか呼んでねぇ。そっちの男も当主のレパード様じゃねぇだろ」
「ごちゃごちゃ、うるさいわね! 人攫いみたいなことしておいて、偉そうに文句垂れてんじゃないわよ!」
今回の首謀者相手に一歩も引かず、正面から言い返すシルビアに赤髪の男は呆気にとられた。
「いや、お前、侍従のクセに態度デカいな……。口も悪いし……。なあ、シルビア様。あんた、侍従に一体どういう教育してんだ?」
赤髪の男は、明らかにソファへ座るバネットに向けて苦言を呈した。
それを聞いたバネットが、ゆっくりとシルビアの方に顔を向ける。
彼女は今にも吹き出しそうなのか、口に紅茶を含んだまま頬を大きく膨らませて、口先を必死に閉じていた。
シルビアが腰に手を当てて呆れた様子で指摘する。
「あはは。あんたバカね。シルビアはこの私よ。こっちの娘は侍従のバネット。反対よ」
指摘を受けた赤髪の男は「はあ?」と声を漏らすと、やれやれと憐れむような表情をして小さく首を横に振った。
「お嬢様を助けたい一心で下手な演技をするのは分かるけどよ、そんなひどい態度の令嬢がどこにいんだよ。令嬢ってのはな、ソファで優雅にお茶を飲むシルビア様みてぇのを言うのよ」
彼はソファに姿勢よく座るバネットを見て「うんうん」と小さく頷くと、満足そうに腕を組んだ。
バネットはさっきからシルビアの方を向いたままだが、頬を膨らませて目に涙を溜め、プルプルと小刻みに震えていた。
あと少しで紅茶を吹き出しそうだ。
ちっとも勘違いを認めようとしない商会長イグニスに対して、ルークス王子が一歩前へ出た。
「おい、商会長! 令嬢ってのは素行のいい奴ばっかりじゃないんだ」
「いや、この態度で令嬢だと言い張るのは流石に無理があるだろ。シルビア様は名門貴族ヴェルファーレ家のご令嬢だ。当然お淑やかに決まってる」
「イグニス、お前は何にも分かってないな。態度が大きくて口が悪い彼女こそ、まさしくシルビアじゃないか! なあ?」
「違うだろ。おい侍従、シルビア様はお淑やかだろ?」
ルークス王子と商会長イグニスの双方が同意を求めてくる。
「……それ、答えなきゃダメ?」
自分の言動が原因とはいえ、敵である商会長イグニスが主張する「お淑やか」を彼女自ら否定し、仲間であるルークス王子が主張する「態度が大きくて口が悪い」を肯定するのは、流石のシルビアも嫌なようだ。
眉を寄せた渋い表情のシルビアは、返答に窮して口をすぼめたので変な顔になった。
「ぶほぉ!」
主人の変顔を見たバネットがついに耐えきれなくなり、口に含んでいた紅茶を盛大に吹き出した。
◇
「まさか、本当に貴女がシルビア様とは……失礼した」
驚くことに赤髪の男イグニスは、シルビアの前まで来ると跪いて非礼を詫びた。
「……じゃあ、バネットを連れて帰るから」
濡れたテーブルを拭くバネットの手をシルビアが掴んだところで、イグニスが手に持ったベルを鳴らした。
「帰るのは話が終わってからにしてもらいたい」
ベルの音を聞きつけた男どもが、ドヤドヤと部屋に侵入してくる。
鎧こそ付けていないが、鍛錬していると分かる屈強な体躯の男ばかりが五人、部屋のドアを塞いだ。
「本当はレパード伯爵と交渉したかったんだが、まずはシルビア様にお話ししよう」
配下たちに威圧的な行動をとらせつつも、イグニス本人はいたって穏やかな口調だ。
それが逆に脅しになるのを分かってやっているようで、彼は口元へ微かに笑みを浮かべた。
部屋に走る緊張にシルビアとバネットが身を寄せ合うと、彼女らを守るようにルークス王子が身構える。
「その前に彼女たちの安全を保証しろ」
身構えて警戒を続けるルークス王子は、イグニスの前に出たが、怪訝な顔をした商会長は彼を足先から頭までじろりと見た後、どっかとソファに腰かけた。
「平民にしてはいい服を着てるが、お前は一体何者なんだ? 使用人かと思ってたがどうやら違うな……。もしやシルビア様の婚約者か?」
「シ、シルビアに婚約者はいない。俺は仲のいい友人だ」
「友人……ってことは貴族か。それは失礼した。お二人共まずは座ってくれ」
これまで見せたイグニスの態度は、貴族に対する礼儀が全くもってなっていない。
だが、それでも貴族とは良好な関係を維持したいという配慮が、発言のところどころに見え隠れした。
一見したら、商売相手である貴族に対して、育ちの悪い者が精一杯気を使っているように見えるけど……。
でも私には、イグニスがワザと粗野な態度をとって主導権を取ろうとしているだけで、本当は礼儀を尽くせるだけの素養があるように見えるのよね。
武闘派の傭兵商会トップであるこの男、実は交渉上手な切れ者なのかもしれない。
シルビアは周りを確認するが、現状を打開したくても扉は男どもに塞がれている。
帰るにはイグニスに従い、話を聞くしか手段がなさそうだった。
シルビアとルークス王子は顔を見合わせて頷くと、大人しくイグニスの向かいのソファに座った。
一人の屈強な男が台車を押しながらローテーブルに近づくと、三人分のティーセットを並べ、バネットが使っていた分を下げた。
「タフネスが淹れる紅茶は美味いんだ。飲んでくれ」
丁度喉が渇いていたシルビアは、躊躇せずに紅茶へ口を付ける。
「あらほんとね! 美味しいわ」
とてもムキムキの男が淹れたとは思えない美味しい紅茶に、シルビアが感嘆の声をあげる。
その様子を見ていたイグニスは、目を見開くと「へえ」と声を漏らした。
「この状況で肩の力を抜いて紅茶を飲めるとは。しかも味に正当な評価まで。てっきり紅茶を引っ掛けてくるかと思ったが」
「そんなことしないわよ。えーと、ねえ貴方、タフネスだっけ? 貴方の淹れた紅茶、本当に美味しいわよ」
急に話しかけられ、日頃紅茶を嗜む貴族令嬢に美味しいと称賛されたタフネスは、よほど嬉しかったのか顔を赤くするともじもじした。
「で? 一体なんで私を攫おうとした訳?」
「いや、攫おうなんて気はさらさら……。ちょっとした申し出があるんだが、傭兵商会の俺らじゃ、話を聞くどころか、会ってもらえ無さそうなんでな。シルビア様をご招待して話を聞いてもらおうとしただけだ」
「今さら誘拐じゃなく招待だとかそういう体裁はいいから。どうせ話を聞かないと帰してくれないんでしょ? なら聞くから早く話しなさいよ」
「ずいぶん話が早いな。もっと事情説明に手間が掛かるかと思った」
シルビアがすんなり話を聞こうとするのが意外のようで、イグニスは拍子抜けした様子だったが、気を取り直すとそれではと身を乗り出して説明を始めた。
◇
「つまり、傭兵商会がヴェルファーレ家の後ろ盾を得たいのね? 貴族の護衛やパーティの警備の受注を増やしたいけど、平民で構成された自分たちじゃ中級以上の貴族に伝手がないから、攻めあぐねていると」
「そうだ」
「それで? 傭兵商会の後ろ盾となったヴェルファーレ家には、どんなメリットがあるの?」
「傭兵商会の力を自由に使えるようになる」
貴族は社交的な付き合いを増やせば増やすほど、身の回りには危険が増える。
この王国には盗賊や兵隊崩れが多く、決して治安がよいといえない。
身を守るためにはそれなりにコストがかかる。
平民なら自らを守る武器を携帯するか、人目のない所や遅い時間に出歩かないようにする。
貴族の場合は自前の護衛を抱えたりするが、長期雇用なので当然かなりの報酬を支払わなければならず、経済的に簡単な話ではない。
ヴェルファーレ家は比較的裕福なので専属護衛を多少雇っているが、パーティなどを主催する場合には多くの人数を必要とするため、そのときに困らないよう日頃から一定数を雇い入れていて経済的な負担が大きい。
もし、必要な時だけ信用できる人材を確保できるなら、貴族側にとってもメリットが大きい。
だが警護や警備は、物理的にも内情的にも裏切られた際のダメージが深刻で、本当に信頼できなければ任せられない。
臨時の警備は信用が著しく欠ける訳だが、傭兵商会の今回の申し出は、ヴェルファーレ家にその信用の部分を担って欲しいということなのだ。
「悪くない話だけど。貴族社会はそんなに安易じゃないの。今まで何の付き合いも無かったのに、メリットがあれば急に明日からよろしくとはならないのよ」
「やはりな。有力貴族ほど、昔からの経緯などを踏まえて付き合いを厳選するんだろう。こちらも正攻法で、すんなり付き合いに加えてもらえるとは思っていない」
イグニスは目つきを鋭くしてシルビアの様子を伺った。
相対する彼女は顔を少しだけ動かすと、出口を塞ぐ男たちを目の端で確認する。
「……確かに正攻法じゃないわね」
「このような交渉で気分を害したのは謝る。だが、いかに名門貴族と付き合うのが難しいとしても、トップの俺がヴェルファーレ家と親戚になるなら事情が違ってくるだろう?」
「親戚? ……ちょっと何言ってるのか分からないんだけど。親戚って何?」
「シルビア様」
「何よ」
「俺と結婚して欲しい」
話の展開からは予想もつかない急な申し出で、シルビアはポカンと口を開けてイグニスを見つめた。
求婚される雰囲気など微塵も無かったのだから、彼女の思考が追い付かなくても無理はない。
当事者である彼女よりも、隣にいたルークス王子がいきり立つ。
「貴様! 言うに事欠いてシルビアと結婚だと!? ふざけるな!」
「別にふざけてなどいない。シルビア様に婚約者はいないのだろう? 互いにメリットがある結婚、つまり政略婚の申し込みだ」
「シルビア、相手にする必要はない。結婚とはもっと慎重であるべきだ」
「貴方はシルビア様の婚約者ではないはずだ。私はシルビア様へ正式に結婚を申し出ている。互いの問題に口を出さないで欲しい」
うぐぐと口をつぐんだルークス王子は、隣にいるシルビアの様子を横目で確認している。
彼らのやり取りを見ていたシルビアは、しばらくフリーズして目を白黒させていたが、瞬きを繰り返すと目の焦点を元に戻した。
そして、ようやく思考が再起動したのか急に目を細めると、姿勢を正してからイグニスを見つめた。
「わたくしは、日頃からヴェルファーレ家のためとなる良縁を求めておりました。貴族令嬢に生まれ数々の縁談がありながら、今まで婚姻に至らなかったのは、今日この日のためだったのだと確信致します」
「は、判断が早いな……。でも、それでこそ名門貴族の令嬢、肝が据わっている」
「書面を交わしましょう。政略婚の条件を決めて契約として残す、これはヴェルファーレ家の令嬢として必定」
「あ、ああ、もちろんだ。俺も契約書は残すべきと思うが……。なんだか、その……別人みたいだな……」
そばに控えるバネットが小さな鞄を開いてペンとインクを取り出すと、ローテーブルの前に置いた。
「ああっ、本気のときのお嬢様! 本当に素敵です!」
いつもは少し冷めた態度のバネットが、頬に手を当てて熱っぽくシルビアを見つめると、物憂げに、ふう、と小さく吐息を漏らした。
ルークス王子は、目の前で他の男が彼女にプロポーズするのを見たためか複雑な表情をしているが、当のシルビアが乗り気なため口を挟むのをやめたようだ。
シルビアはというと目の前に紙が用意されても、目線を向けただけですぐペンを握ろうとはしない。
彼女は姿勢を正したまま、正面の赤髪の男に視線を戻す。
「ですが、契約は婚姻ではなく婚約でお願いします」
「なぜだ?」
「このステラ王国の貴族が婚姻する場合、あらかじめ王家直轄の王国管理局に届け出て承認される必要があります。王国が貴族の親族関係を管理しているためです」
「自分たちの一存では婚姻できないということか?」
「そうです。体裁は貴族関係の管理ですが、実質は有力貴族の積極的な結びつきをけん制し、王家の統治を脅かさないためです」
「いや、こちらとしても国のお墨付きは是非とも欲しい。そのために王国管理局への届け出が必要なら婚約で異存ないが……」
言い掛けたイグニスはニヤリと口の端を上げる。
「保険は掛けさせてもらうぞ。特約に、ヴェルファーレ家からの婚約解消はいかなる理由があっても受け入れない、と加えてもらう」
それを聞いたシルビアも微かに笑みを浮かべた。
「かまいません。でも親族になるため婚約するなら条件は対等であるべき。こちらからも特約をお願いします」
「ほう。なんだ?」
「わたくしは、当家の侍従バネットに働いた貴方の振る舞いを忘れておりません。もし、イグニス様の方から婚約を解消する場合、わたくしの侍従としてバネットの下で働いてもらいます」
イグニスは目を見開くと、声を出して笑いだした。
「あーはっはっは! なんだその特約は? 俺の方から婚約を解消する訳ないだろ」
すんなり了承したイグニスは、笑いながら婚約書面にサインをした。
終始、表情を変えず微笑を浮かべたままのシルビアは、まるで仮面を被ったように感情を表に出さず、淡々と婚約書面にサインをすませる。
その様子をルークス王子とバネットが無表情で見守っていたが、二人とも努力して無表情を維持しているのかほんの僅かだけ震えていた。
「さあ、これで貴方の希望は叶ったでしょ? いいかげん、私たちを帰らせて頂戴!」
契約が終わり元の調子に戻ったシルビアが、さっと席を立ち上がると腰に手を当てて要求する。
「いや、悪いがこちらも慎重なんでな。このメイドは婚姻成立まで預からせてもらおう」
それを聞いたシルビアは腰を手に当てたまま、「また意味のないことを……」とつぶやいて首を横に振った。
「お嬢様すみません。お手間をお掛けします」
バネットも面倒くさそうにイグニスを見た後、すまなそうにシルビアへ謝罪した。
二人の様子を見守っていたルークス王子も、やれやれという感じで立ち上がると目つきを鋭くしてイグニスを正面から見据えた。
「貴族との関係を得たければ、メンツを重んじる貴族との付き合い方を覚えろ。今ここでバネットを返さなければ、別の貴族を敵に回すことになるぞ」
彼は今までとは違う低く強い口調で、要求の多い商会長に対して物申した。
言葉の意味や本気度を感じ取ったイグニスは、一瞬だけ沈黙した後に作り笑いを浮かべる。
「……それは本意ではないな。分かった。メイドは返す。まあ、既に契約書があるんだからな」
ルークス王子から視線を外したイグニスは、顎で指図して扉の前にいた配下たちをどかせた。
ようやくイグニスの部屋を出ることができた三人は、三様の表情で傭兵商会の中を進むと建物の外に出る。
シルビアは口角を上げて含み笑いをしながら。
バネットは無表情を装うべく目を細めて。
ルークス王子は吹き出しそうなのを我慢して。
三人揃って傭兵商会を出るとルークス王子の馬車に乗り込む。
客車の扉を閉めて三人無言で顔を見合わせると、ようやく表情を緩めた。
「バネットが無事でよかったわ」
「皆様にはご迷惑をお掛けしました」
「シルビアはもう侍従に間違われないように、令嬢らしく振舞わないとな」
「う、うるさいわよ、ルークス!」
「でも俺は正直気に食わないな。後で婚約が解消されるにしても、体裁は奴の方から婚約解消を言い出す訳だから」
「本人が気にしてないんだからいいのよ。本当に好きな相手から婚約解消されたらショックだけど、ワイルド系は別に好みじゃないし」
その言葉を聞いたルークス王子は一瞬嬉しそうにした後、すぐに表情を戻す。
「で? 奴はいつ婚約解消を言い出すんだ?」
「それはあいつの根性次第。いつまで私の加護の力に逆らえるか見ものね」
「お嬢様。せっかくですから、イグニスに侍従になる約束を守らせましょう。そろそろ私も後輩が欲しいと思っていましたし」
「もちろんよ。あいつはいろいろ使い道がありそうだもの」
「では、さっきの喫茶店で婚約解消の申し出を受けてはいかがでしょうか」
「俺は反対だな。シルビアが婚約解消されるのを、他の客や従業員に知られるぞ」
「あらルークス、優しいのね。でも全然平気よ」
シルビアがにやにやと口角を上げてバネットを見ると、バネットも目を細めて冷笑する。
心配したはずのルークス王子は、二人の怪しい微笑みに背すじをぞくりと震わせた。
「まずは宿へ行って服を着替えるわよ!」
自分の恋愛以外だと強気のシルビアは、これから起こるイベントを前にして貴族令嬢らしいドレスへ着替えることにした。
◇
先に馬車を降りたルークス王子が、続いて馬車を降りるシルビアをエスコートする。
宿で着替えたシルビアは鮮やかな青のドレスで、彼女の長い銀髪が良く映える。
「なあ、もう夕方だが本当に奴は今日来るかな?」
「どうかしらね。でも加護の力は精神へ影響するみたいだから、あいつは今日来ると思うわ」
シルビアに続いて侍従のバネットまで、ルークス王子のエスコートを受けて馬車を降りる。
彼女が申し訳なさそうに「私まですみません」とお礼を言って歩道へ降りた後、腰に手を当てて待っていたシルビアへ質問する。
「えーとお嬢様、今日来ると思われるのはどうしてでしょうか?」
バネットも商人の娘の格好をやめて、いつものメイド服に着替えている。
「この加護は頭の切れる人ほど精神への影響が大きいみたいなの。前に婚約解消してきた阿保のオッティ・シモンは、翌日の昼過ぎに言ってきたのよ。でも、イグニスはいろいろ考えて動いてるみたいだったから、多分すぐ加護の力に耐えられなくなるんじゃないかなと……」
「お、おい……や、やっと見付けた……。はあはあはあ……」
シルビアが言い終わるかどうかというところで、息せき切らせて駆け寄ってきた男がいる。
さっきまで自分の商会で偉そうに踏ん反り返っていた、赤髪の偉丈夫イグニスだ。
「ほーらね。流石、私の呪いの加護。凄いパワーだわ」
彼女は腰に手を当てて踏ん反り返ったが、ルークス王子もバネットもネタが微妙なため、同意はせずに苦笑いですませた。
「な、なあ、シルビア様! ちょっと話がある!」
「こんなところで話は聞けないわ。喫茶店の中で聞きましょう」
「いや、そこじゃ人が多い。俺たちだけで話したい。貴女だって人が多いと困ることだ」
「ダメよ。店の中じゃなくちゃ聞かないっ」
イグニスは人の多い所を嫌がったが、無視しておかずケーキの喫茶店に入るシルビア。
ルークス王子とバネットもすぐ後について店へ入る。
自分の要求をまるで聞いてもらえないイグニスは、従うしかないと諦めたのか先に入店した彼らの後を追って入店した。
まあ普通女性なら、話の内容が分からない状況で、人に聞かれて困ることだと言われれば素直に従うんだろうけど。
でも、私の場合はぜんぜん逆。
まずその話が婚約解消だと想像つくし、その上で皆の前で告げてもらいたいと思ってるんだし。
だってギャラリーがいなくちゃ、イグニスが特約を無視するかもしれないじゃない?
彼女は特約を婚約書面で定めたからといって、それだけでイグニスを従わせるには弱いと考えていた。
特約を守らない場合は裁判所へ持ち込んで強制してもらうことになるが、そんな面倒で時間のかかる手順は踏みたくない。
ならば傭兵商会という、信用が大切な商売を人質にしてやればいい。
契約を反故にするなど商人としては最も信用を失う行為で、そんなことを大衆の面前でできる訳がない。
商会の評判が下がれば、売上が下がって運営に支障をきたすだろうから、経営者であれば絶対に避けたいはずだ。
公衆の面前で自己都合により婚約解消するのだとイグニスに宣言させ、特約の実行について居合わせた第三者の前で認めさせたいのだ。
「うふふ。今回も楽しみ」
口角をあげて笑みを浮かべ、テーブルにつくシルビア。
それを聞いたルークス王子は、またぞくりと体を震わせたが表情には出さずに同じテーブルについた。
バネットは椅子に座らず、シルビアの横について背筋を伸ばし立っている。
端から見れば貴族の男女がメイドを連れて入店したように見えるが、三人ともこれから起こるイベントに備えて表情を引き締めていた。
三人が準備万端待ち構えているところに、長い赤髪の男が焦りをみせて近寄ってくる。
「いや、だから困るって言ってるだろうが。もっと人気のないところで……」
「私からの話はないの! 貴方がどうしてもって言うからここで聞くって言ってるのよ。ここで話せないなら別に帰ってもらってもいいけど? ねぇ、未来の旦那様?」
シルビアは最後の部分だけワザと大きい声で言って、イグニスを突き放した。
ただでさえ下町の喫茶店に貴族が入店して注目を集めているのに、婚約者同士の痴話喧嘩なのかと店の客たちの視線がさらに集まる。
「そ、そうかよ!!」
どうしてもこの場で婚約解消を言いたくないのか、吐き捨てたイグニスは入ってきたばかりの扉に向けて引き返す。
彼は理解しているのだ。
自分が婚約解消を切り出せば、当然に彼女から特約を主張され、それを居合わせた客たちに聞かれてしまうということを。
それが分かっているからこの店での話し合いを拒否したい訳で、イグニスが今、大変な葛藤と戦っているであろうことは、怒りを露わに扉まで歩いて行った彼が、いそいそとまた彼女の元へ戻ってきたことから想像がついた。
シルビアの加護の力による婚約解消の欲求と、その欲求に従うことで訪れる特約による侍従落ち(しかも攫ったメイドの部下)という絶対避けたい事態。
イグニスの精神が相当追い詰められているだろうことは、彼の落ち着きのない様子からよく分かる。
「おおお! も、もう我慢ならん! 今言う、すぐ言う、ココで言う!」
ついに耐えきれなくなったのか、イグニスがシルビアの正面から立ったままテーブルにバンと手を突いた。
「すまない! さっきの話は無かったことにしてくれ」
イグニスの振り絞るような訴えにニンマリと口の端を上げたシルビアは、ゆっくりと脚を組み替えると一呼吸置いてから語り掛ける。
「さっきの話って何?」
一瞬言葉を失った彼は眉を寄せて黙り込んだ。
すぐに「さっきの話」が何を指すのか説明すればいいのに、口を閉じて具体的な説明を拒んでいる。
やはり婚約を解消したいと頼むところを、周りの客に聞かれたくないのだろうと三人には容易に想像がついた。
それでもなお彼女は彼を追い込む。
「ほら、どうしたの?」
「うぐぐぐ……」
「言いたいんでしょう? 言ったら楽になるわよ」
「言う、言うが、特約は……侍従だけは勘弁してくれ……」
許しを請うイグニスの態度を見たシルビアは、目を細めて顔を近づけると声のトーンを一段下げて小声で言った。
「特約を勘弁してくれ? 貴方、私の大切なバネットを攫って監禁しておいて、許してもらえるとでも思ったわけ?」
「う、くう。も、もう耐えられん。さっきした俺とシルビア様の婚約! 解消してくれ!」
店の客全員がこの一部始終を注視していたが、ついにイグニスが婚約解消を主張したことでどよめきが起こった。
ガガっと立ち上がり尻で椅子を下げたシルビアは、両手を広げて店内の客たちにアピールする。
「皆! 聞いててくれた? 傭兵商会のイグニスは、さっき私と婚約したばかりなのに解消したいんだって! もし婚約解消をするなら私の侍従になるって書面に書いたんだけど、今彼はそれでも婚約を解消したいと言ったのよ!」
客たちは互いに顔を見合わせて、彼女が言ったことを咀嚼していたが、徐々に状況が飲み込めてくると客同士でしゃべり始めて店内が大きくざわついた。
「おい、聞いたか? 婚約解消だとよ!」
「お貴族様の婚約が解消されるなんてあるのね! びっくりだわ」
「でもあの令嬢、なんであんなに嬉しそうなんだ」
「それは愛の無い結婚をしないで済んだうえ、さらに侍従をゲットしたからじゃない!」
恋人と来ていた女性の言葉が核心をついているのか、それを聞いたシルビアとバネットが顔を見合わせてニンマリした。
「……くっそぉおお!!」
膝をついて床を叩き悔しがるイグニスは、それでも組織のトップを張るだけあって、暴れたりせずにただ地団駄を踏んでいた。
落ち込むイグニスの肩を叩いてルークスが苦笑いする。
「ま、ああ見えて彼女は優しいから悪いようにしないさ……多分な……」
ざわざわと店内が騒がしくなったが、騒動に貴族が絡んでいるためか店員は止めることもできずにあたふたしていた。
◇
「なあ、シルビア様……」
「なあに? イグニス」
ヴェルファーレ家の庭でシルビアが優雅に紅茶を飲みながら返事をする。
プチ家出から戻った彼女は、早速イグニスを呼びつけて侍従として働かせているのだ。
「俺はずっと侍従として貴女のそばに居なきゃならんのか?」
シルビアの斜め後ろにはバネットが立ち控え、その隣に執事服を着込んだイグニスが並んで立っていた。
クセのある長い赤髪に執事服、普通は見ない組み合わせだが意外にも似合っているのか、他のメイドたちの反応はいい。
ちなみにシルビアのお茶の相手はルークス王子だ。
彼も人攫い事件の関係者なので、イグニスの初出勤に合わせてお茶会という名目で招待された。
「何言ってんの。当たり前でしょ、侍従なんだから」
「マジか……」
「ところでシルビア、イグニスには何をさせるつもりなんだ?」
優雅にお茶を飲むルークス王子の姿は、付き合い易い気さくな口調とは違って、洗練されていて品位に溢れている。
「そりゃ傭兵に頼みたいことだもの。護衛くらいしかないでしょ。四六時中よろしくね!」
「し、四六時中か……」
軽く俯いてしょげるイグニスを見たシルビアはウフフと笑った。
「嘘よ。貴方がいないと傭兵商会がまとまらないでしょ。それは私にも不都合。普段は自分の仕事をしてて頂戴」
「でもそれだと侍従の仕事はできないぞ」
「いいえ、してもらうわ。ウチが護衛を必要なときに部下を連れて駆け付けなさいっ。つまり、傭兵商会はヴェルファーレ家の言いなりということ。それが侍従としての貴方の仕事!」
「ほ、本当か! それなら助かる。……っていうかヴェルファーレ家御用達の扱いなら、それだけで貴族たちから凄い信用が得られるぞ。俺の最初の要望通りじゃないか!」
「はあ? そんなの知らないわ。私は侍従程度の給金で、必要なときに頼りになる護衛を頼めればそれでいいだけよ」
「おおおお!! マジか! それって護衛代金をくれるって意味だよな!? シルビア様、ありがとう! 貴女、最高だ!!」
感激したイグニスがシルビアの前に出ると、跪いてから彼女の目を見て礼を述べた。
その様子を見たバネットが、シルビアへの評価を当然とでも言いたそうにうんうんと頷いている。
「べ、別に貴方のためじゃないんだから……。感謝される覚えは……。ちょっと! 跪くのやめなさいよっ!」
「いや、それだけじゃ足らない!」
そのままシルビアの手を取ったイグニスは、彼女の手にキスをしてしまった。
「えっ、ちょっ、急に何なの……」
「まいった。俺は完全に貴女を誤解していたようだ」
「誤解?」
「ああ。シルビア様って控えめに言っても凄くいい女ってことだ!」
正面切って褒められたシルビアは、男性からのアプローチに慣れていないため徐々に顔を赤くすると、きゅっと唇を結び横を向いて目を逸らした。
シルビアが照れて恥じらうのを目撃したルークス王子は、慌てたように立ち上がるとイグニスに近付く。
「おい、イグニス!」
「なんだ? ルークス様」
「なんだ? じゃないだろ! お前は急に何を言いだすんだ!」
「ああ、シルビア様が魅力的だと言ったんだ。彼女ってさ、頭が切れるし判断力もある。一見キツそうでいて実は優しい。そして何より美人だ」
「そ、それは俺もそう思うが……。だが、あんなことがあったのに、お前がそれを言っちゃダメだろ」
「いや、彼女と俺はお互い独身だし今度は本気の恋愛を……」
「許される訳ないだろ!! そもそもシルビアは俺が……イヤ、何でもない! とにかく絶対にダメだっ!!」
シルビアがいくら自分の恋愛に臆病で恋愛経験に乏しいとは言え、目の前でこうもあからさまに二人からアピールされては、それが自分への好意だと気付かない訳がなかった。
え!? 何!? 何なのこの状況!!??
お、お願いだからやめて!
は、恥ずかしくて死んでしまう……。
いい男二人の言い合う姿を見ていたシルビアは、色恋で男性から褒めそやされることに慣れていないため、顔をこれ以上ないほど赤くしてふるふると小さく震えていた。
了
最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました。
もし少しでも「によによ」していただけましたなら頑張りが報われます。