病は気から
(やっぱり止めておけば良かった)
煌びやかなドレスに身を包み、キーテは酷い眩暈と吐き気に襲われていた。顔面蒼白のまま眉間に皺を寄せ、覚束ない足取りでホールを歩く。
(屋敷を出るまでは、体調は悪くなかったのに)
咽せかえるような香水の香りと会場の熱気、キツく身体を締め付けたコルセットのためだろうか。判断を誤った自分を呪いたくなる。
(姉さま、姉さま…………)
彼女の数歩先を悠然と歩む姉、デルミーラは未だ、キーテの状況に気づく様子はない。
救いを求めて手を伸ばし掛けたその時、
「大丈夫ですか?」
ふと、そう声を掛けられた。
霞む視界の中、キーテはゆっくりと顔を上げる。背の高い、優しい声の男性だった。明るい金髪と鮮やかな藍色の瞳がぼやけて見える。戸惑いながら、キーテは浅い呼吸を繰り返す。
「顔色が悪い。控室で休まれては如何ですか? 俺がご案内しますから」
有難い申し出だった。けれど、頷くこともできなくて、キーテは目頭が熱くなる。
(一体、どうしたら……)
「キーテ!?」
慣れ親しんだデルミーラの声に、キーテは胸を撫でおろす。ふわりと優しく抱き締められて、身体の震えがピタリと止まった。
「大丈夫、キーテ? 体調が悪いのね」
デルミーラがキーテの背を撫でる。安堵したせいだろうか。滞留していた血液が、巡り始める感覚がした。
「ごめんなさい、姉さま」
弱々しく呟けば、デルミーラは首を横に振る。気づけば周囲には、数人の人だかりが出来ていた。
「皆さま、大変失礼いたしました。妹は昔から身体が弱くて……今日は体調が良さそうだったので、連れて参ったのですが――――わたくしの判断ミスでしたわ」
デルミーラが申し訳なさげに目を伏せる。眩いプラチナブロンドに、エメラルドのような美しい瞳。デルミーラは、この場にいる誰よりも美しい。彼女の仕草一つで、数人の男性が息を呑んだ。
「わたくし、あまりにも妹が気の毒で……年頃だというのに、お屋敷に籠ってばかりなんですもの。どうしても連れ出してあげたかったのです」
デルミーラとて年頃だ。自分の結婚相手を見つけるのに忙しかろう。おまけにこの美貌。お荷物になるような病弱な妹等、放っておけば良いのにと、集まった男たちは、密かにそう囁き合う。
(申し訳ないな……)
直接耳に届かずとも、周りがどんな風に思っているのか、キーテは敏感に感じ取っている。頻繁に体調を崩す彼女に、まともな縁談など期待できない。伯爵家のお荷物令嬢――――本当ならば軽んじられて当然なのに、デルミーラがいつも献身的に接してくれるお陰で、屋敷でも肩身の狭い思いはしていない。キーテは姉に、とても感謝していた。
「お気になさる必要はございません」
思わぬセリフに、キーテはゆっくりと顔を上げる。
「失礼。俺はエルベアト・べーヴェルと申します。本日は我が家にお越し下さり、ありがとうございます」
クリアになった視界に、精悍な顔立ちの若い男性が映った。先程キーテに声を掛けてくれたのは彼らしい。凛々しく鋭い瞳を和ませ、エルベアトは穏やかな笑みを浮かべる。
「まぁ……! あなたがエルベアト様でしたの。お噂はかねがねお聞きしております。こちらこそ、本日はお招きいただき、光栄ですわ」
エルベアトはべーヴェル侯爵家の三男で、王宮に仕える若き騎士だ。優れた剣技と判断力から、将来を渇望されている。未だ独身で、婚約者も居ない。今夜の夜会は、彼の結婚相手を探すために開かれたものだと、この場に招かれた令嬢たち皆が知っていた。
「わたくしはデルミーラ・ヒエロニムスと申します。
この度は妹のことを気に掛けていただき、ありがとうございました。姉として、心からお礼を申し上げます」
デルミーラが恭しく頭を下げる。
「いえ、主催者として当然のことです。
それより、妹さんはまだ体調が悪い様子。控室で休まれた方が良いのでは? 俺が案内をしますから、デルミーラ嬢はどうぞ、このまま会場でお楽しみください。あなたにダンスを申し込みたい友人が、何人もいるようなので」
エルベアトはそう言って、チラリと背後を振り返る。その途端、瞳をギラつかせた男性がずいと身を乗り出した。
「まぁ……何て嬉しいお申し出でしょう。けれど、これ以上皆さまにご迷惑をお掛けするわけにはいきませんわ。わたくしには、妹の面倒を見る責任がございますから」
デルミーラが微笑む。
――――美しい。まるで慈愛に満ちた天使のようだ――――
男たちが感嘆の声を漏らす。
「本当に宜しいのですか?」
「ええ、わたくしはもう十分、楽しませていただきましたわ」
デルミーラはそう言って、エルベアトの手を握った。絵になる二人の触れ合いに、周囲が小さく息を呑む。
「また、どこかでお会い出来たら嬉しいです」
そんな言葉を言い残し、デルミーラはキーテを連れて、夜会会場を後にした。
「本当にごめんなさい、姉さま」
馬車に揺られながら、キーテは小さく息を吐く。
(もしも私が付いて行かなかったなら……)
今頃デルミーラはエルベアトや他の男性と親密になれていたかもしれない。元々、彼女の元には複数の縁談が舞い込んでいたのだし、あとはキッカケとタイミングの問題だった。
それなのに、キーテが全てを台無しにしてしまった。
そう思うと、自分が情けなくて堪らなくなる。
「何を言っているの、キーテ。気にしないで? たった二人きりの姉妹でしょう?」
けれどデルミーラは、そう言って優しく笑ってくれる。それだけがキーテにとって救いだった。
***
翌日のこと。
応接室に呼び出されたキーテは、思わぬ出来事に目を丸くした。
「こんにちは、キーテ嬢」
ソファに腰掛けニコリと微笑む男性は、昨夜彼女に声を掛けてくれた、エルベアトその人だった。昨夜とは異なり、白と濃紺のコントラストが美しい騎士装束を身に纏っている。均整の取れた体型が、際立って見えた。
「良かった。今日は顔色が良いね。安心したよ」
そう言ってエルベアトは目尻を下げる。訳もなく、キーテの頬が熱くなった。
「あ、あの……エルベアト様がどうしてここに?」
「君のことが心配だったんだ。フラフラしていたし、あの状態で馬車に乗るのは辛かったんじゃないかなって。本当は無理にでも休んでもらうべきだったのに……大丈夫だった?」
エルベアトは律儀な人らしい。ほんの少し関わっただけのキーテの様子を見に、わざわざ屋敷まで会いに来てくれたのだ。
「ご心配をお掛けして申し訳ございません。この通り、ピンピンしています」
言葉の通り、今日の体調は悪くはなかった。
元々、生まれついて身体が弱いわけではない。いつ頃からか――――恐らくは病気で母を亡くした頃から、徐々に徐々に悪くなってきた。
特に、大きな行事に合わせて体調を崩すことが多く、その度にデルミーラに迷惑を掛けている。そんな状態が続いているため、ここ数年は外出を控えていたのだが、夜会や外の世界への憧れは強い。抗うことが出来なかった。
「良かった。安心したよ」
エルベアトがそう言って、身を乗り出す。普段とは異なる心臓の騒めきを覚え、キーテは居心地悪そうに身動ぎをした。
「キーテ嬢、良かったら……」
「失礼いたします」
ノックから数秒、デルミーラが応接室に現れる。後にはティーセットを携えた侍女達が続いた。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ございません。エルベアト様、昨夜はありがとうございました」
デルミーラが美しく微笑む。エルベアトは穏やかに微笑み、こちらこそ、と小さく頭を下げた。
「お茶を準備しましたの。宜しければ召し上がっていってください」
ティーポットから温かな湯気が立ち込める。けれどエルベアトは、小さく首を横に振った。
「いえ、俺はお茶は結構です。
それよりキーテ嬢、良ければ俺と、外を歩きませんか?」
「え……?」
思わぬ申し出に、キーテは目を丸くする。
「お屋敷の庭がとても美しかったので、是非ご案内いただきたいな、と思いまして」
エルベアトはそう言って、はにかむ様に笑う。
いくら身体が弱いキーテでも、その位は可能だ。はい、と口を開きかけたその時、デルミーラが彼女の前に躍り出た。
「大変申し訳ございませんが、妹は身体が弱く、長時間外を歩けませんの。わたくしが代わりにご案内をさせていただきますわ」
大輪の華の如く、デルミーラが満面の笑みを浮かべる。
「姉さま、だけど私、そのぐらいなら……」
「ダメよ。わたくしはあなたのことが心配なの。
それに、もしも昨日みたいに気分が悪くなったら? エルベアト様にご迷惑をお掛けしてしまうでしょう? ……ほら、顔色もまだあまり良くないし、あなたは部屋に戻って休んだ方が良いわ」
至極心配そうな声音。侍女達が『デルミーラ様はなんてお優しいの』と瞳を輝かせる。
「でしたら俺は、これで失礼します」
そう言ってエルベアトが立ち上がる。デルミーラが大きく目を見開いた。
「まぁ……そんな、まだ何のおもてなしも出来ていませんのに」
「おもてなしなどと、お気になさらず。見送りも結構ですから。
それではキーテ嬢、お大事に」
最後にそう言い残し、エルベアトは颯爽と部屋を後にした。
(素敵な人だったなぁ)
快活な笑顔。けれど繊細な気遣いを見せる彼は、キーテが暮らす狭い世界では想像も出来ない程、魅力にあふれた男性である。
公の場であんな粗相をしでかしたため、デルミーラはこれまで以上に過保護になる筈だ。屋敷から出ることができない以上、彼と会うことは、今後二度と無いだろう。小さなわだかまりを抱えつつ、キーテは自室のバルコニーに立つ。
今頃彼は屋敷の門を抜けた頃だろうか――――。そう思ったその時だった。
「キーテ嬢」
エルベアトの声が聞こえ、キーテはキョロキョロと視線を彷徨わせる。
(あっ、いた!)
数メートル離れていても分かる満面の笑み。彼は手を振りながら、こちらに向かって駆けてくる。
「お帰りになられたんじゃ……」
そう口にした途端、彼は地面を勢いよく蹴り上げ、キーテの前に浮かび上がった。初めて目にする魔法。羽が生えているかのように軽やかだ。
驚きに目を丸くしていると、エルベアトはニコリと笑みを浮かべる。
「驚かせてすまない。もう少しキーテ嬢と話したかったんだ」
「私と、ですか?」
「うん。ダメかな?」
フルフルと首を横に振れば、エルベアトは満足そうにバルコニーへと腰掛ける。何故だか胸がドキドキした。
「先程はすみませんでした。姉は少々過保護な所があって。私に外出をさせたがらないんです」
「そうか。……うん、本当に残念だったなぁ。折角キーテ嬢を口説くチャンスだと思ったのに」
「…………へ?」
思わぬ返しに、キーテは目を丸くする。エルベアトは茶目っ気たっぷりに笑うと、キーテの手をギュッと握った。
「君に一目惚れをしたって言ったら、信じてくれる?」
真摯な瞳。ドクンドクンと心臓が跳ねる。火が出そうな程に顔が熱く、フワフワとして落ち着かない。それは、ありとあらゆる身体の不調に慣れたキーテにとっても、生まれて初めての経験だった。
「私に、ですか?」
「そうだよ」
「姉さまじゃなくて?」
常に美しい姉の隣にいるために霞みがちだが、キーテとて、大層愛らしい容姿をしていた。大輪の花のような美しさはないものの、華奢な身体といい、儚げな笑みといい、男の庇護欲を大いに擽る。本人に自覚はないものの、昨夜の夜会でも、幾人もの男たちがキーテのことを目で追っていたのだ。
「うん。俺はもっと、キーテ嬢のことが知りたい」
頬を撫でられ、キーテの背筋がゾクゾクと震える。
エルベアトに遊び人との噂はない。寧ろ真面目過ぎるぐらいだと専らの評判だ。そんな彼が、瞳を潤ませキーテに迫っている。戸惑ってしまうのは当然だった。
「怖がらせたいわけじゃないんだ。だけど、逃がす気も無い。キーテ嬢にも、俺を意識してほしくて」
彼からそんな風に請われて、『嫌』と言える令嬢は、それ程多くないだろう。
第一、このまま嫁き遅れれば、近い将来、父親から『不良債権』扱いされてしまうのは確実だ。病弱であることを知ってなお、こんな風に言ってくれる相手が今後出てくるとは、キーテにはとても思えない。
か細い声で「はい」と答えれば、彼は満足そうに笑った。
***
貴族の結婚は政略によるものが殆どだ。互いを碌に知ることなく、簡単に婚約が結ばれる。
けれど、エルベアトはそれを望まなかった。一目惚れを貫くことも無い。あくまで互いをよく知ってから結婚へと進みたい――――そんな風に考えていた。
(綺麗な文字だなぁ)
キーテから送られてきた手紙を撫でながら、彼はウットリと微笑む。
あの日から、キーテとのやり取りが本格的に始まった。
エルベアトは忙しい合間を縫い、せっせと手紙を送りつける。三日と置かずに届く手紙。けれどキーテは嫌がることなく、毎回丁寧に返事をくれた。
手紙には主にその日起こったことを書くのだが、彼女の日常はエルベアトのそれと違って、変わり映えが無いのだという。
外に出ることは許されず、部屋で大人しく過ごし続ける。その分、趣味は達人の域まで極めているらしく、先日は、見事な刺繍入りのハンカチを贈ってくれた。好いた相手からの贈り物は格別で、エルベアトは毎日嬉しそうに持ち歩いている。
当然、屋敷にも会いに行っているのだが、残念なことに、その度にデルミーラの邪魔が入る。妹を心配しての行動だろうが、キーテとの仲を深めたいエルベアトとしては、とてももどかしい。
このため、正式な訪問はさっさと切り上げ、バルコニーで会話を交わすのが常だった。
【実は今日、姉さまが主催するお茶会に出席したの。だけど、私は途中で気分が悪くなってしまって……皆に申し訳ないことをしたわ。折角楽しく話していたのに】
書こうか書くまいか迷ったのだろう。この部分だけインクが滲んでいる。
エルベアトの知る限り、キーテの体調はずっと悪いというわけではない。事実、逢瀬のタイミングで彼女が体調を崩したことは無く、顔色だってずっと良い。こんな内容の手紙を貰うのも、やり取りを始めて以降初のことだった。
【私はもっと、強くなりたい】
そんな風に結ばれた手紙を読みながら、エルベアトは穏やかに目を細める。彼はそのまま、勢いよく立ち上がった。
***
(やっちゃったなぁ)
満天の夜空を見上げながら、キーテは大きくため息を吐く。
ここ数日は、自分でもビックリするぐらいに体調が良かった。それなのに、お茶会が始まって数分後、突如具合が悪くなってしまった。
『わたくしが誘ったのだもの。キーテは気にしちゃダメよ?』
デルミーラはそう言ってくれたが、不甲斐ないと思うのは致し方なかろう。
実際、招待された令嬢方からは、
『大変ですわね、デルミーラ様』
『こんなに献身的に看病なさるなんてさすがだわ』
『お気の毒に』
といった声が上がっていた。
事前に予兆でもあれば対処のしようもあるだろうが、突然襲い掛かる不調は如何ともしがたい。
(もっと強くなりたい)
唇を噛み、天を仰ぐ。目頭がとても熱かった。
「キーテ」
突然の呼びかけにハッとして前を向けば、エルベアトの笑顔が飛び込んで来た。
「エルベアト様!? 一体、どうして?」
「ん? キーテとデートがしたいなぁと思って」
来ちゃった――――そう言ってエルベアトは、キーテに向かって手を差し伸べる。背中には何やら、白い布で包まれた状態の大きな荷物を背負っていた。
「だけど私、お昼に体調を崩したばかりですもの。エルベアト様に迷惑を掛けてしまうんじゃ……」
「平気だよ。俺は医療を多少かじっているし、具合が悪くなってもきちんと看病する。迷惑だなんて思う必要ない。だから、行こう」
力強い言葉。数秒躊躇った後、キーテは大きく頷く。
手を取れば、まるで羽が生えたかの如く、足が宙へと浮かび上がった。空高く昇ってしまえば、視界を遮るものはもう何もない。
「うわぁっ……!」
星空の中を二人きりで泳ぐ。地上に広がる灯りがまるで、星のように輝いて見えた。雲を搔き分け、風に乗り、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと『空を飛んでいる』という実感が湧く。けれど、不思議と怖くはなかった。
ふとエルベアトを見れば、彼は満足そうに微笑んでいる。キーテは胸を高鳴らせつつ、声を上げて笑った。
二人はやがて、小高い丘の上にゆっくりと降り立った。
泉のほとり。色とりどりの花々が咲き乱れる、美しい場所だ。月明かりが強いお陰で、夜でもハッキリと景色が見える。
「綺麗……!」
「そうだろう? キーテなら絶対気に入ると思ったんだ」
エルベアトはそう言って、背負っていた荷物を下ろす。中には、白いキャンバスと、色とりどりの絵の具が仕舞われていた。
「前に言ってただろう? もっと色んなものが見て見たい。屋敷からじゃ見えない景色が描いてみたいって。
ここじゃ描きづらいかもしれないけどさ、折角だから画材も持ってきてみた」
絵画は、病弱なキーテでもできる趣味の一つだ。以前、せがまれて作品の一つを見せたことがある。
キーテにとっては、本当に何気なく口にした一言だった。それをエルベアトが覚えてくれていたことが嬉しくて堪らない。
「ありがとう、エルベアト様」
涙を堪え、キーテは力強く微笑む。
先程まで心を支配していた淀んだ感情が綺麗に無くなり、とても晴れやかな気分だった。
それだけじゃない。
温かな何かが満ち満ちて、今にも溢れ出しそうになっている。この感情を表現するのは、簡単なようで難しい。
一晩中、夢中でキャンバスに向かい続けるキーテのことを、エルベアトはずっと見つめていた。
***
それから数日後のこと。
キーテとデルミーラは、二人の父親であるヒエロニムス伯爵と対峙していた。
「お父様、大事なお話って一体なんですの?」
ヒエロニムス伯爵は小さく息を吐くと、二人の娘を交互に見つめた。
「実は、べーヴェル侯爵家の三男から、キーテに縁談を申し込まれている」
「えっ……?」
キーテの心臓が大きく跳ねる。興奮と感動で、胸が一杯だった。
「キーテはどうしたい? 病弱なお前を妻にと言ってくれる人は、早々現れないだろう。
ただ、相手は三男で、侯爵位は継げない。分家筋の爵位を継ぐことになるらしいが、それでも構わないとお前が言うなら――――」
「ダメよ!」
声を上げたのはデルミーラだった。目を見開き、信じられないといった表情で妹のことを見つめている。
「姉さま?」
普段温厚で取り乱すことのない姉の様子に、キーテは面食らってしまう。
「キーテが結婚だなんて…………いえ、エルベアト様は爵位を継ぐべきお方です! わたくしと結婚して、伯爵位を相続していただいた方が絶対良いと思いますの。
大体、どうしてエルベアト様がキーテを? ヒエロニムス伯爵家との繋がりが欲しいなら、姉であるわたくしの方が良い筈ですもの。きっと何かの間違いですわ」
段々と落ち着きを取り戻しながら、デルミーラはそう口にする。愛娘の言葉に、伯爵はうーーんと唸りながら首を傾げた。
(言わなきゃ……私の気持ち)
キーテは意を決して身を乗り出す。
「お父様、私はエルベアト様のお申し出を受け入れたいと思っています」
「キーテ!? 一体何を言っているの!?」
いつになくハッキリとした主張に、今度はデルミーラが面食らう。けれど、キーテは引かなかった。真っ直ぐに父親のことを見つめつつ、ゆっくり大きく息を吐く。
「私はエルベアト様のことが好きです。彼と結婚したいと思っています」
「なっ……な…………」
「分かった」
伯爵の返事は明確だった。穏やかに目を細めると、キーテの頭をポンと撫でる。
「最近は体調も良いようだし、先方もお前を望んでくれている。すぐに返事をしよう」
「ありがとうございますっ」
天にも舞い上がりそうな心地のまま、キーテは微笑む。
父が使者を送るのを見届けると、すぐに部屋へと戻り、ペンを握った。
【エルベアト様、聞いてください。べーヴェル侯爵家の三男が、私のことをお嫁さんにしてくださるんですって! 私、とても幸せです――――】
部屋の真ん中には、描きかけのキャンバスが鎮座している。エルベアトが外に連れ出してくれた日に見た、地上の星の絵だ。彼への想いを込め、一筆一筆丁寧に、毎日描き続けている。
【次はいつお会いできますか? 早くあなたに会いたい――――】
「キーテ、少し良い?」
そこまで書いたその時、デルミーラがキーテに声を掛けた。
「婚約おめでとう。お茶を淹れたから、一緒に飲まない?」
彼女はいつもの様に、ティーセットを携えている。
キーテの心が落ち着くよう、デルミーラはいつもお茶を淹れてくれる。大きな行事の当日などは必ずだ。
「ありがとう、姉さま。もちろん戴くわ」
躊躇いなくティーカップを受け取り、口を付ける。デルミーラはその様子を、至極満足気に見届けた。
「まさか、あなたとエルベアト様が、結婚まで考えていたとは思わなかったわ」
困ったように首を傾げ、デルミーラはゆっくりと目を細める。
「普通は嫌がるでしょう? 病弱な妻では子を成せるか分からないし、体調を崩すたびに気を揉むことになるもの」
キーテの心に寄り添うようにして、デルミーラは言葉を重ねる。
「普通ならそうでしょうね」
「……え?」
クスリと笑う妹の姿に、デルミーラは目を丸くする。こういう時、キーテはいつも謝罪の言葉を口にしていた。『申し訳ない』と眉を下げ、己の不甲斐なさを嘆く筈だというのに。
「エルベアト様なら大丈夫。心の優しい、愛情深い方ですから。
私だって、今のままではいるつもりはありません。彼のために強くなりたい。エルベアト様を支えられる立派な妻になりたいって思うの」
キーテの瞳には強い光が宿る。今の彼女が体調を崩したとしても、誰も、彼女を可哀そうとは思わないだろう。彼女の側に居る、デルミーラのことも――――。
「それじゃダメよ」
「え?」
デルミーラの言葉に、キーテは首を傾げる。
その時、激しい腹痛がキーテを襲った。
「うっ……あぁ!?」
自分の意思ではどうにもならない程に強い波。抗いきれず、キーテはその場に蹲る。汗が滝のように流れ、身体から血の気が引いた。
「あなたが悪いのよ、キーテ。あなたはわたくしの隣で、病弱で可哀そうな妹で居続けなければならないの――――生涯、ね」
頭上で響く冷たい声。鈍器で殴られたように頭が痛み、最早目も開けていられなかった。声音は確かに姉のものだというのに、キーテには現実が受け入れられない。
(まさか……そんなことって…………!)
今までのことは、全部、デルミーラが仕組んだことだったのだろうか。外出しようとする度に体調を著しく崩したことも、熱や激しい吐き気に見舞われたあの苦しい日々も。その度に彼女が優しくキーテを看病し、庇ってくれたことさえも――――全ては可哀そうな姉妹を演出するためだったとしたら――――。
「誰か! 誰か来て! キーテが……キーテがっ…………!」
叫び声が次第に遠ざかっていく。キーテは意識を手放した。
***
エルベアトは憤っていた。
先日、キーテの父親に、正式に結婚の申し込みをした。
初めは淡い恋心だった。けれど、数か月間の交流を経て、彼女への想いは確固たるものに変わっている。キーテだって、彼と同じ気持ちだと、そう思っていたというのに。
(婚約を受け入れられないだって!?)
確かにエルベアトは、事前にキーテの了解を取ったわけではない。プロポーズは改めて――――堂々と、キーテを外に連れ出してからしようと、そう思っていた。
けれど、彼女は確かに自分のことを想ってくれている。エルベアトはをう確信していた。
(一体何が起こっているんだ)
先に訪れた使者は『結婚を受け入れる』とそう言った。
けれど、その数分後に訪れた別の使者が『結婚はとても出来そうにない』と口にする。詳しい事情を口にしないまま、使者はあっという間に帰っていった。そんなことで納得できるはずがない。
「キーテに会わせてください!」
伯爵邸の門を叩き、エルベアトは声を張り上げる。
「あぁ……! エルベアト様」
屋敷の中で、使用人たちが慌ただしく動いている。何かがあったことは間違いない。彼を迎え入れた顔見知りのものに問いただせば、キーテが体調を崩し、かなり危ない状態なのだと言う。
制止も聞かず、エルベアトは階段を駆け上がった。キーテの部屋は把握している。扉を開けると、枕辺でデルミーラが泣き崩れていた。
「どうして! どうして!? どうして神様は、いつもキーテだけに試練を与えますの? 折角、素敵な縁があって、これから幸せになれるっていう時に、どうしてこんな風にキーテを苦しめるの!?」
デルミーラの叫びを聞きながら、父親や使用人たちが涙する。ベッドの上に横たわったキーテは青白く、酷く苦し気に喘いでいた。
「こんな状態では、エルベアト様の求婚を受け入れられませんわ! それどころか、一生結婚なんて出来ない! なんて可哀そうなキーテ! あまりにも気の毒な――――」
「退いてください」
「きゃっ! エッ――――――エルベアト様!? ちょっ、ちょっと…………!」
エルベアトはデルミーラが座っていた場所を奪い取ると、急いでキーテの手を握る。
「待って! 待ってください! キーテの隣にはわたくしが居なければダメなの! この子の手を握るのはわたくしじゃなければ――――」
「デルミーラ……良いから少し、下がりなさい」
「嫌ですわ、お父様! キーテ!」
背後でそんな応酬が繰り広げられる。けれどエルベアトはそれどころではなかった。
(これは……)
冷たくなったキーテの手のひらに、平べったい石が握らされている。触れただけで瘴気を感じる禍々しい石だ。彼にはこれがなんなのか、一目で分かった。
「――――――全部全部、貴方のせいだったのですね、デルミーラ嬢!」
エルベアトは立ち上がり、デルミーラの元へ迫り行く。
「あっ…………あぁっ………………」
彼のあまりの剣幕に、デルミーラは口をハクハクさせ、その場にぺたりと座り込んだ。何のことか分からない周りの人間は、困惑しつつもエルベアトの道を遮る。
「この石はマルアリア原石。粉末状にしたものを飲めば、吐き気や眩暈、発熱症状を引き起こす、所謂毒の一種です。直接触れればその症状を加速させ、酷いときには死に至らしめる。
デルミーラ嬢……キーテを苦しめていたのは他でもない、あなただ! こんなものを妹に使うなんて信じられない。神の試練!? ふざけないでください!」
デルミーラは顔面蒼白のまま、首を横に振っていた。思わぬ事の真相に、ヒエロニムス伯爵をはじめとした周囲は、完全に言葉を失っている。
「出せ」
「へ……?」
「持っているんだろう? クイニン石を! 早く、出せ!」
クイニン石は、マルアリア原石と対になる石だ。中毒状態を緩和し、解消へと導く力がある。
これまでキーテが体調を崩しつつ、すぐに回復をしていたのは、デルミーラがクイニン石を持っているからに違いない。
「こ……これ…………これよ」
デルミーラはおずおずと左手を広げる。白い小さな石がそこにあった。すぐさまその石を引っ手繰り、キーテの手のひらに握らせる。
「ん……」
キーテが苦し気な唸り声を上げる。けれど次の瞬間、ゆっくり、ゆっくりと彼女の顔に生気が戻っていくのが分かった。
「キーテ!」
「キーテ様!」
目に見えた回復を見せるキーテに、皆が歓喜の涙を浮かべる。
ただ一人――――デルミーラだけが、まるで抜け殻になったかのような表情で、その場に屈み込んでいた。
***
キーテが完全に回復するまで、実に一ヶ月の時間を要した。飲まされた毒の量が多かったからだ。もしもあのままマルアリア原石を握り続けていたら、キーテは助からなかったかもしれない。そう思うと、エルベアトは今でもゾッとしてしまう。
デルミーラは修道院に送られることになった。数年間に渡り、妹を苦しめ続けてきたのだ。かなり寛大な措置と言えるだろう。
けれど、そんな彼女の処遇に一番胸を痛めたのは、被害者である筈のキーテだった。
『姉さまも最初は、純粋に私のことを心配してくれたんだと思うの』
母親を亡くし、失意に暮れ、体調を崩した妹を必死で看病する――――それが全ての始まりだった。
周囲はそんな彼女を『健気で優しい天使のよう』だと褒め讃える。その快感が忘れられなかったのだろう。キーテが苦しみ続けるよう、悪事に手を染めるようになってしまった。
恐らくはデルミーラ自身、母親を亡くして寂しかったのだろう。ぽっかりと開いた胸の傷を、キーテを使って塞ぐようになってしまった。キーテよりも余程、デルミーラの方が病に侵されていたのである。
『だとしても、俺は彼女がしたことを許せない』
エルベアトはそう言って、眉間にグッと皺を寄せる。
あんなことをされた後でも、キーテにはデルミーラを嫌いになれない。本気で怒ることもできない。そうと分かっていて、エルベアトは彼女の代わりに怒ってくれている。
『ありがとう、エルベアト様』
エルベアトの胸を借り、キーテはそっと涙を流した。
あれから二年が経った今日、二人は晴れて結婚の日を迎える。
「綺麗だよ、キーテ。誰よりも綺麗だ」
白いウエディングドレスに身を包んだキーテに向かい、エルベアトは幸せそうに微笑む。
会場の入り口には、キーテの描いた絵が何枚も何枚も飾られている。それはこの二年間の間に二人が訪れた数々の名所で彩られており、訪れた人々を感嘆させた。
「エルベアト様……私、幸せです。あなたに出会えて本当に良かった」
太陽が降り注ぐ青空の下、幸せの鐘が鳴り響く。エルベアトに出会う前は、満足に外にも出られなかった。結婚など、夢のまた夢だった。
(こんな未来があることを、昔の自分に教えてあげたい)
キーテとエルベアトは互いに顔を見合わせ、幸せそうに笑う。
病は気から。
キーテの身体が病に蝕まれることは、その後、二度と無かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この作品を気に入っていただけた方は、ブクマや広告下の評価【☆☆☆☆☆】、いいね!や感想等でお知らせいただけますと幸いです。
改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。