バーの情景《氷の数式》
『bar se calmer』
奥まった路地のテナントビルの地下に隠れ家のようにひっそりと営業しているバー。今宵もこの店で一つの物語が紡がれる。
『チリィーン』
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
若いバーテンダーに出迎えられたのは見た目が50歳くらいの男性。紺の背広にワインレッドのネクタイ。白いものが混じった髪を短く刈り上げ柔和で落ち着いた印象を与える面貌であった。
「お好きな席へどうぞ」
店内のカウンター席にはまだ客の姿が見えない。その男性客はいつものようにカウンターの1番左の席に腰をおろした。
ここが彼の定位置だった。
「お飲み物は何になさいますか?」
「いつもの……ソルティドッグをオールドスタイルでお願いするよイケテン君」
「塩谷様。私はイケテンではなく小池天磨です」
「いいじゃない。イケメンバーテンダーでも小池天磨でもイケテンなんだから。知ってるよ。イケテン君も僕のこと塩爺って呼んでるの」
塩谷治郎。塩塗れの甲板員のオールドスタイルをフェバリットカクテルにしている彼は名前とカクテルを捩って『塩爺』と呼ばれていた。
さすがにバーテンダーたちは面と向かってあだ名を呼ぶことはないのだが、裏でそう呼んでいることはとっくにバレていたようだ。
イケテンはバツが悪そうな顔をしながらも誤魔化すように冷凍庫から『ビーフィーター』を取り出し、氷柱をクリスタルカットにしてロックグラスでリンスをし、続いてジンをシェーカーにグレープフルーツジュースと塩を一緒に混注してよくシェイクする。それをグラスに注いで完成だ。
シェーカーに適当なサイズの氷を入れてシェイクして作る方法もあるが、塩爺はクリスタルカットの氷を好むので、ここではもっぱらこの作り方だ。
「ソルティドッグ・オールドスタイルです」
「ありがとう」
コースターに置かれたロックグラスを掲げて礼を述べながらコクリと一口飲む塩爺。バーとロックグラスの似合う爺と呼ぶにはまだ早い中年男性だ。
「今日も暑いねぇ」
「ええ、蒸しているのがまた不愉快指数を上げますよね」
そんな取り留めもない言葉のキャッチボール。
これもまたバーの日常。
そんないつものやり取りを2人がしていると……
『チリィーン』
再びドアベルが鳴った。
2人の男性が入って来た。
40代の中年と20代の若者で、どちらもスーツ姿。おそらく会社の上司と部下だろう。初めてのお客を見て、イケテンは瞬時にそう判断した。
「おう!雰囲気のあるいいオーセンティックじゃねえか」
「そ、そうなんですか?」
「そう畏まんなって」
「で、でも高そうなお店で……」
「大丈夫だって。俺に任せとけ!」
何やら騒がしいお客のようだ。
若者はバー初心者といった感じで、高級そうな店内におっかなびっくりといった様相だ。中年男性は一見バー慣れしている風の態度だ。
「いらっしゃいませ」
「おう!2名だ」
まごまごしている若者に大物ぶっているところを見せるためか、中年男性は7席ある真ん中にドカリと座った。
おいおい!そこは店員に席を勧められるまで待つところだろう。だいたい静かなバー店内で大声で喋るのはいかがなものかとイケテンも塩爺も思ったが、賢明な2人は全くその素振りを見せなかった。
「お連れの方もどうぞこちらの席に」
イケテンは不安そうに佇む青年に柔らかい表情を作って席へ誘導した。中年男性の隣、塩爺側の席だ。
「は、はい……」
「そうビビンなって」
緊張しながら席に着く若者の背中をバシバシ叩く中年男性。頼むからあんまり騒がないで欲しいとイケテンと塩爺は思う。
「お飲み物は何に致しましょう」
「俺はバーボンで」
「僕はあまり知らないのでメニューとかないんですか?」
「バカ!バーにメニューなんてないに決まってるだろ」
中年上司のツッコミに、いやメニュー置いてるバーもけっこうあるけどなとイケテンと塩爺は思ったが、客に恥をかかせるわけにはいかない。
「申し訳ありません。当店ではバーテンダーがお飲み物を提案するスタイルでして、メニューを置いていないのです」
「すみません。よく知らなくて」
「いえいえ。メニューを置くバーも最近では多いんですよ」
「えーと。じゃあカクテルをお願いできますか?カシスオレンジみたいなのを」
「カクテルなんて女子供の飲むようなもんじゃなくてリカー頼めよ」
中年上司の言葉にカクテルをこよなく愛す塩爺の眉がぴくりと動く。イケテンはおいおい勘弁してくれよと心の中で溜め息をついた。
「カクテルにも色々ありますよ。アルコールも数%からハードリカーと変わらないものもございますので、男性でも楽しまれる方は多いですよ」
「そんなもんか?」
少し不満顔の上司に、少しホッと安堵する青年。
当然カクテルを楽しむ年配男性も少なくありません。
「それではお任せしてもよろしいですか?」
「もちろんでございます。バーテンダーはそのためにいますので……オレンジを軸に……炭酸はお入れしても?」
もうこの中年上司には喋らせまいとイケテンは一気に青年に話しかけた。
「はい、問題ありません」
よし!彼の飲み物は決まった。次は問題中年オヤジだ。
「バーボンとのことでしたが何か銘柄のご指定はございますか?当店ではバーボンはローゼス、ハーパー、ターキーなどのメジャーどころ以外にもいくらか置いてございますが……」
「おう!バーボンって言ったらジャックダニエルだろ」
「……飲み方はロックで?」
「バーボンはやっぱりロックだよな。ウィスキーならストレートでもいいんだが」
「……」
「あ、それからチェイサーもくれよ」
「はい」
「課長、チェイサーって何ですか?」
「何だ知らないのか?バーで出すお冷のことだ」
「……」
間違ってはいない。間違ってはいないのだが……
ジャックダニエルは広義ではバーボンであるが、テネシーウィスキーとして親しまれている。そしてバーボンもウィスキー。この上司はスコッチウィスキーならストレートと言いたいのだろう。まあ、その考えもどうかと思うが。
そして勘違いしている人も多いが、チェイサーはお冷ではない。酒精の強い酒を飲む時に、口直し用として続けて飲む水分のことである。主体となる酒よりも酒精が弱ければよいので、水に限らず炭酸水だろうがジュースだろうが、それこそワインやビールでもよいのだ。
まあ、日本では一般的に水が提供されるので、確かに『チェイサー=水』で大きな間違いにはならないのだが……
イケテンはオレンジを絞るとゴードンジン、モナンシロップ、ウィルキンソン炭酸を並べ、オレンジ、ジン、シロップを混ぜて味を調整すると氷を入れて一気にシェイクする。
最後は氷柱を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸で割って完成。
「どうぞ、テキサス・フィズでございます」
若い部下の前にコースターを置いて、その上にタンブラーを載せてカクテルを紹介する。細長いタンブラーの中に同じく細長い四角柱の氷が薄いオレンジ色の液体に浸かっている。その氷にもグラスの壁にも強い炭酸の気泡が沸いていた。
今日は蒸し暑い。
このテキサス・フィズというチョイスは食指が動く。良い選択だと塩爺は思った。
続けてイケテンは丸氷を入れたロックグラスにジャックダニエルを注ぎ同じ様に上司の前のコースターに載せた。
「バーボンウィスキーのジャックダニエルです」
琥珀色の液体に透明な、美しい氷が浸かっているグラス。透明でキラリと輝く丸い氷と美しい琥珀色の液体のなんとも感動的な組み合わせ。これは確かに心が踊る。
「チェイサーのお水です」
あえて『ウィスキー』と『お水』を強調してみたイケテンだが、彼のささやかな抵抗も虚しく中年上司には全く意図が伝わっていないようだ。代りに部下の若者の方が何かを感じ取ったのだろう、小首を傾げている。
中年上司はクイッとグラスを傾け、トンとコースタに戻せば、中の透明な球体がカランと音を立てて転がる。その様子を若い部下は感慨深げに眺めていた。
「丸い氷って雰囲気いいですよね」
「ああ、丸氷な。表面積を小さくして溶けにくくしてるんだ」
「へぇ……」
ドヤ顔上司に感心して相槌を打つ若い部下。
「こほん!と、言われてはいますね」
イケテンはわざとらしい咳払いをして、中年上司と若人部下の話に割って入った。さすがに間違いばかりを伝授されては堪らないと思ったようである。
突然の乱入に上司はムッとし、部下は首を傾げた。
「違うのですか?」
部下の疑問にイケテンは頷いた。
「プロのバーテンダーの方でも勘違いされている方が多いので知らなくても無理ないことなのですが、実際には丸氷の方が早く溶けてしまいます」
「そんなバカな!球体の方が角がない分だけ表面積が小さいだろうが!」
塩爺に救援のアイコンを送るイケテン。塩爺苦笑いだ。
「目の錯覚ですよ」
塩爺は持っていたグラスをコースターの上に置くと、ふっとニヒルに笑う……と本人は思っている。バーの似合う中年だが、どこまでいっても中年。カッコつけても似合うものではない。
「同じグラスに入るサイズの球体と正六面体では球体の方が表面積が大きいですよ」
「なんだアンタは?」
会話に突然乱入してきた塩爺に中年上司は訝しげに尋ねた。
「私は数学教師です」
「数学?じゃあ、この氷の表面積が分かるのか?」
「ええ、まあ……イケテン君、紙とペン貸して貰える?」
塩爺は渡された紙に何やらサラサラとペンを走らせる。
その紙を中年上司と部下の2人に渡すと、2人はまじまじとそれを見た。
書かれていた内容は、
『4πr^2』(よんぱいあーるじじょう)
「これは?」
中年上司には意味が分からない。
「えーと……確か球体の表面積の公式?」
何とか受験の記憶を呼び起こした部下が恐る恐る塩爺に確認した。
「その通りです」
塩爺は部下の解答に満足気に頷く。
「計算しやすいように直径10cmとしましょう」
「πは約3.14ですから4×3.14×5の2乗ですね」
「えーと?いくらだ?」
直ぐに計算ができない衰えの見える悲しき中年上司は塩爺に尋ねた。
「314㎠です」
「だとすると……四角い氷の場合だと直径10㎝だから、10×10の6面で600㎝!ほら見ろ球体の方が表面積が小さいじゃないか!」
塩爺はあまりの中年上司の出来なさ加減に苦笑いだ。
「直径10㎝の球体がギリギリ入るグラスに一辺10㎝の正四角柱は入らないでしょう。それこそあなたが言う角のせいで」
「あ!そうか……一辺ではなく対角線が10㎝と考えないといけないんですね」
中年上司と違って出来の良い若い部下に塩爺は再び満足気に頷いた。中年上司は面白くない。
「それじゃどれ位になるんだよ」
「正方形の表面積は対角線をaとしてa^2/2(えーじじょうぶんのに)ですから、一面50㎤ですね」
「それじゃ6面で300㎠ですね」
「確かにちょっと小さいんだな……」
「いえ、だいぶんですよ」
塩爺は中年上司に追い打ちを掛けた。
「正四角柱の場合は上面が浮いているでしょう?」
「そうか。5面になるから250㎠……だいぶん小さいんだ」
「ええ。水は空気より熱伝導率が20倍いいんです。置いておけば丸氷の方が先に溶けますよ」
中年上司と部下は黙ってバーボンの中の氷を眺めた。
「じゃあ、なんで丸氷なんて無駄なものを作るんですか?」
ふいに部下がぼそりと呟いた。
「無駄……ですか?」
イケテンが疑問を呈すると部下は彼に顔を向けた。
「だってそうでしょ?この氷の球体は作るのだって大変でしょうに、先に溶けちゃうじゃ意味がないじゃないですか」
「意味ならあるよ」
塩爺は部下に向けてニコリと笑った。
「先ほどの数式は美しいと思わないかい?円や球体の数式はどれもこれもとても綺麗だ。それら数式から出来上がった球体はやはり見事だ。見てごらん……」
塩爺が指し示す中年上司のバーボンを皆が黙って見詰めた。
「お酒と丸氷が織りなす情景はバーにとてもマッチしているんだ。君も言ったじゃないか雰囲気がいいと」
「バーはね、お酒を飲みに来るところではないんだ。お酒を楽しむために来るんだよ」
「そのための演出にバーテンダーは苦心しているのさ」
塩爺は自分のカクテルに再び口をつけた。
ロックグラスを優しくコースターに戻す。
「バーで我々客にとって最も重要なことはお酒を飲んで、酔っ払う事ではないんだよ」
「バーという空間に酔いしれて、その中でお酒を嗜むことなんだよ」
中年上司も若い部下も塩爺が語る言葉をただ黙って聞いていた。
「だからバーでの一番大切なマナーは苦心して作られた空間を壊さないことさ」