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そんなふうに思っていたその時、
「……やれやれ、典型的な拐かしとは、久方ぶりに見たな」
場違いなほどの、低くて落ちついた声が耳にとどいた。
慌てて前を見ると、目の前に誰かが立っていた。
暗くてよく見えないけど、声からして男のひとらしい。
「今すぐ彼女を解放すれば、それですませてやろう」
偉そうな言いかただけど、そのひとには似合っている気がした。
声に無理をしたところがないから、そう聞こえるんだろう。
だけど、私の腕を握っていた男は、離すつもりはないらしい。
「杖ついたヤツが一人でなにができるってんだ」
言われてよく見れば、そのシルエットは左手に杖をついている。
何歩かこっちに近づいてくる時にも、杖を使いながら歩いてくるから、おしゃれってわけじゃないらしい。
歩く時も、左足を少し引きずるようにしている。
近くまできて、やっと、ちょっと顔とかが見えてきた。
私よりずっと年上で、背も高い。背に関しては、私が低いだけっていうのもあるだろうけど。
黒っぽい髪の毛をざっと後ろに流していて、深い緑色の目をしている。
服装は襟の詰まったなかっちりしたもので、装飾もあんまりない。
あんまり色々な職業を知らないけど、官吏のひとっぽい気がする。
そのひとは無表情に男のひとたちを見渡すと、なんでもないことのように距離を詰めて、さらに私の手をとった。
「さて、行くか」
「え……」
そのまま自然に歩いて行こうとするので、慌ててしまう。
だって、まわりにはまだ男のひとたちが、恐い顔をして見ているのに。
「行かせると思ってるのかよ!」
まさかそんな行動をとるとは思わなかったらしく、うっかり私の腕を離してしまったひとが、叫びながらそのひとにつかみかかろうとした。
……けど、その一瞬後、その男は地面に転がっていた。
ええと……速すぎてよく見えなかったけど、杖で足を払った……ような?
それからさらにごつ、と鈍い音がして、地面の男は静かになった。き、気絶しただけなのかな……
そのひとは一人倒しても全然態度を出さずに、行くぞと私の手を引いた。
いいのかな、と思いながらついていこうとすると、残りの三人がはっとしたように囲んできた。
「はいそうですかと行かせるわけがないだろ!」
「……実力差は明らかだと思うがね?」
面倒くさそうに呟くが、彼らには聞こえなかったらしい。
中の一人はいつのまにかナイフを持っていて、きらりと刃先が光る。
ひっと小さく悲鳴をあげると、大丈夫だと言うように一度きゅっと手をにぎられた。
それから手を離されて、少し後ろに下がらされる。
すぐさま三人が一斉に飛びかかってきたけれど、そのひとは杖を上手に使って、あっというまに全員倒してしまった。
ほとんど動きもしないで、どうやったのか、見ていたけど全然わからない。
すごく強い、ということだけははっきりしたけど……
「さて、お嬢さん」
あんなところにいても気分が悪いだろう、と大通りまでまた手を引かれた。
そこで、そのひとが手袋をしていることに気づいた。
通りに出て、ほっと息をつく。さっきの路地よりも明るくて、それだけで泣きそうになった。
「私の名はシジェス、お嬢さんは?」
「ええっと……」
名前を訊ねられて、少し悩む。
なぜなら、普段は名前で呼ばれたことがないからだ。
お前にはそんなもの必要ない、と言われて。
だけど、母はちゃんと考えてくれていて、二人だけの時はいつもそう呼んでくれた。
昔読んだおとぎ話のお姫様の名前なんだよって、優しく微笑みながら。
「ちゃんとした名前は、ないんです、旦那様にはおい、とか、お前とか呼ばれていたので」
……旦那様には捨てられたんだから、隠さなくてもいいだろう。
正直に伝えると、シジェス様の眉が寄った。
「ただ……母は、トゥーリと呼んでいました」
「なるほど。それならそう呼ぼう」
ひそめられていた眉がもとにもどったので、ちょっとほっとする。
それから、慌てて頭を下げた。まだ、ちゃんとお礼もしていない。
「あの、助けてくれて、ありがとうございました」
シジェス様がいなかったら、と思うと……ぞっとする。
「日が落ちると治安は一気に悪化する。こんな時間まで出歩くのは、感心しないな。……使いの用事だったのか?」
私の見た目と、さっきの旦那様という言葉から判断したんだろう。
服装は質素なワンピースにエプロンで、髪の毛はまとめたキャップ姿。
どこからどう見ても女給だから、その推測はごく当然。
でも、そこを追いだされた私は、どう答えていいか悩んでしまう。
「邸まで送っていこう、どこかわかるかな?」
そのひとは私がまだ恐くてなかなか声が出ないと思っているのか、根気強く聞いてくる。
あんまり表情は動かないし、言葉も淡々としているけど、怒っているとかではないみたいだ。
どうしようか悩んだけれど、ここで誤魔化してもしかたがない。
「ええと……その、帰る邸は、ないんです」
どうにか絞りだした声は、情けないくらい震えていた。
口にしたことでなおさら心細くなり、目の奥がつんとしてくる。
シジェス様にはあんまり見えないといいな、と願いながら言葉を続けた。
「邸を、追いだされて、その時にはもう、暗くて。教会にたすけてもらおうと思ったけど、道もわからなくて。とりあえず下町に出てきて、そうしたらあのひとたちに囲まれて……」
一度喋りだすと止まらなくて、要領を得ない言葉を羅列する。
途中から我慢できずに涙声になったから、きっとすごく聞きづらかっただろう。
それでもシジェス様は私が話し終えるまでなにも言わなくて、しばらくしてから、そうか、と呟いた。
私はポケットから慌ててハンカチをとりだして、涙を拭う。きっとひどい顔ろう、恥ずかしい。
「訳ありということか。それなら、ひとまず私の家にくるといい」
こっちだ、とすぐに歩きはじめたので、慌ててついていく。
「あの、教会の場所を教えていただければ……」
そこまで迷惑をかけるわけにはいかないと慌てて言うけれど、シジェス様は歩みを止めない。
歩幅が違いすぎて小走りになってしまったら、すまない、とゆっくり歩いてくれるようになった。
「教会は今から歩いて行くと遠すぎる。私の家はすぐそこだ、そこで落ちついてから、話を聞かせてくれ。今夜はそのまま泊まるといい」
……なんだか泊まることが確定しているけど、いいんだろうか。
質素だけどちゃんとしたつくりの服だから、それなりの家柄のひとだと思う。
さっきの邸みたいに、身元不明の怪しい人間なんて、入れてくれないんじゃないだろうか。
私の、って表現から、主はシジェス様みたいだけど……奥様とかには嫌がられるに決まってる。
「でも、いきなり……私みたいなのが、行ったら、ご迷惑です」
話しにくいから横を歩くように告げられて、そのとおりにしながら、思ったことを言葉にする。
追いだされたいわけじゃないけど、たすけてもらった上に、迷惑をかけるのは嫌だ。
ずいぶん高い位置にある顔を見上げていると、
「主人である私がいいと言っているのだから、問題ない。……それに、私の家は少々普通とは違うのでね」
きっぱり遠慮するなと断言されてしまった。
普通と、違う? どういうことだろう。
首をかしげていると、そもそも貴族ではないから、とつけ加えられた。
ということは、お役人なんだろうか。
たしか、有能なひとには邸が与えられて、貴族と同等の地位がもらえると聞いたことがある。
平民のくせに忌々しい、と、言っていたのを聞いたから知っているのだけど。
むかっているところがどこかよくわからないけど、そこそこ大きなお屋敷ばかりだから、官僚とか、商人とか、そういうひとたちの住宅区じゃないかと思う。