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汚れたコートを放置していた、それで怒ってるんだろうか。それとも、コートが妙なところに落ちていて、それが周一郎の仕事に何かまずい影響でも与えたんだろうか。
「あの…ごめんな?」
とりあえず謝っておこう、と続けると、周一郎は表情をなくした。
「……滝さん…」
「ん?」
「………食事が終わったら…散歩でもしませんか」
口調は問いかけ、けれど有無を言わせない響きにおどおどと頷く。
「いいけど…」
「コートのボタンをつけさせておきましょう……ちょうどぴったりのがありますから」
「あ、うん?」
さすが朝倉家だ、そういうものも常備してるんだろうか?
頷きつつ、コーヒーを傾けると、
「お呼びですか」
姿を消していた高野がすぐに現れた。
「滝さんのコートのボタンが千切れたそうだ。つけておいてくれ」
「かしこまり……」
高野が周一郎の手からコートを受け取り、固まった。
「これは」
高野が呆然とした顔で、俺と周一郎を交互に眺める。ついに見つけられた幻の秘宝、そう差し出されてもこれほど驚いた顔にはならないだろう。俺は思わずパンを食いちぎるのを中止した。
「坊っちゃま」
「ちょうどいいのがあっただろう」
「で、では、坊っちゃま!」
「高野」
珍しく反論しかけた高野を鞭のようにぴちりと押さえて、周一郎は続けた。
「ぼくは、滝さんのコートを直してくれと言っている」
「し、しかし…」
「…」
今度は無言で、周一郎は高野を制した。じっと高野を見つめる目に激しい光が走った気がしたが、俺が横顔を見ているのに気づいたのか、すぐに瞳を伏せて顔を戻す。
「かしこまりました」
高野が苦しそうな声で引き下がった。
「すぐにお持ちします」
「?」
高野がじろりと俺を見る。コートの修理を押し付けられたから、だけではないような冷ややかさにきょとんとすると、
「滝さん……構いませんか?」
「あ、うん」
残ったパンをコーヒーで流し込み、オレンジを一切れ口に放り込んで席を立つ。
周一郎らしくない性急さ、散歩というのは理由付けで、何か話したいことがあるんじゃないかと想像はつく、がその内容となると見当がつかなかった。
玄関から外へ出る。秋の空は高く青く澄み、常緑樹の緑と紅葉しつつある木々に、その下縁を僅かに削られている。
俺と周一郎はなんとなく、大悟の墓のある場所へと続く小道を歩いた。木漏れ日が独特の哀愁に満ちた色に染まっている。
「いい天気だな」
俺は大きく伸びをして呟き、日差しに気づいて周一郎を振り向いた。
「大丈夫か?」
「……」
頷く周一郎の顔色はやはり青かった。気分が悪いというよりは、何かの緊張感で血の気が引いている、そうも見える。だが、それほど周一郎を緊張させる出来事など、そうそう世の中にあるとも思えない。切り出してくるのを待つしかないようだ。
しばらく無言で歩いた後、周一郎が、らしくない、ためらうような口調で尋ねた。
「滝さん……昨日の夜……何か……していましたか?」
一瞬奇妙な感覚があった。周一郎は今、違うことを尋ねようとしたような気がしたのだ。
「いや…何も?」
唐突に夕べの夢が浮かんだ。
そういや、あの夢の俺はコートを着ていなかったか?
「すぐに眠ったんですか?」
「あ…うん」
どうも勝手が違う。
周一郎の尋ね方は、聞きたいことの中心を微妙に外しているように思える。
「変わったことはなかった?」
「ああ……まあ、嫌な夢は見たけどな」
「夢?」
ぎくん、と周一郎が体を固めた。
「それがさ」
人を殺す夢なんだ。
思い出してちょっとげんなりする。
「……殺す相手は?」
「それがわからなかった……靄の中だったし」
誰かの首を絞める感触、それは掌にまだはっきりと残っている。
「どんな……感じの?」
珍しく周一郎は重ねて尋ねてくる。
「どんな感じのって……それがさ」
俺の夢の話を、周一郎は食い入るように聞いていた。緊張していた表情が話が終わりに近づくにつれ、感情をどんどん削ぎ落とされていく。やがて、
「…どうして」
微かな呟きを漏らして、周一郎は押し黙った。振り返る俺に、ふいに奇妙な笑みを浮かべ、
「滝さんは……僕みたいな人間は……」
掠れた優しい声音、突然日差しが紅葉に跳ね、風が梢を鳴らし、続いたことばを呑み込んだ、それとも、何も言わなかったのだろうか。
「周一郎?」
「…」
俺の声に相手はなぜか遠い瞳になって、くるりと頭を巡らせた。促すような背中に、そちらを向けば、その視線の先には、朝倉大悟の眠る白い墓碑がある。
それを見やった視界に、ふいに全く別のものが飛び込んできた。
背けた周一郎の首についた、赤黒い痣。
おいおい、その歳でもうキスマークかよ、そう思ったのは一瞬、何かが違うと囁く声に、目を凝らして気づく。
まるで、誰かに締め付けられたような、食い込むような内出血の痕、だ。
(締め付けられた?)
見えない冷たい手に背中を撫でられた気がして、ぞくりと体を竦めた。
重なったのは、夢の中の細い首の感触。
(まさか)
まさか、そんなことは、ないよな?
まさか、夢が現実と重なることなんて、ない、よな?
「あの墓碑…」
ふわり、と柔らかな声が届いた。首を振って、頭に湧き上がった考えを打ち消そうとして、周一郎が伸ばした腕の先を見つめる。
白く鮮やかに墓碑は立っている。まるで、それが、何かの啓示であるかのように、周一郎は見つめ続け、やがてぽつりと呟いた。
「あれは、僕の墓碑でもあるんですよね」
問うように聞こえた。
教えるようにも聞こえた。
うすら寒いものが足先から、体の内側から、なぜか煙ったように鈍く霞む脳のどこかから広がってくるのを感じて、俺は黙ったまま、そこに立っていた。