4
嫌な夢だった。
眠る前に見た満月の丸く白い面輪が、夢の中で膨らんだりしぼんだりする。
夏祭りの風船よろしく、するすると月から下がる銀糸を持ったのはあの娘で、にっこり笑いながら『クレッセント』と口を動かした。クレッセント………と、俺は夢の中で繰り返しながら、自分が二つに分裂していくのを感じた。
一人の俺がベッドから起き上がる。コートを羽織り、どこかへ出かける。どこなんだと別の俺が考えている間に、始めの『俺』は目的地に達したらしい。もやもやと白く淡い光が『俺』の回りを取り囲んでいて、視界はほとんどきかない。
夢うつつで『俺』はある所まで来ると立ち止まり、靄の中に両手を差し入れた。
何をする気だ、と俺が問う。『俺』は応えない。
しばらく靄の中で探っていて、目当ての物に辿り着いたらしい。『俺』はその円柱状の生暖かいものをぐっと両手で掴んだ。じわじわと力を入れていく。
『俺』の手の中のものがもがき始める。低く遠いうめき声……がっともやの中からいきなり手が飛び出し、俺の手にすがってぎょっとする。
(人間じゃないか!)
なんてことだ、『俺』は人の首を絞めているのか。
狼狽して俺は『俺』を相手から引き離し、何とか止めさせようとした。
だが、『俺』は強かった。
あの娘の声のように、逆らい難い力で掴んだ首を絞め続ける。
(んなろくそ!)
主人の命令に主人が逆らいやがって!
俺は激怒して、『俺』を殴りつけ、蹴りつけた。だが『俺』は手を放さない。冷淡な殺人者になり切ったように首を絞め続ける。
その感触が俺の手にも伝わってくる。被害者の腕から力が抜けてくる。するりとその手が『俺』の体を掠め、ぱたりと落ちる。
(放せっ!)
俺は渾身の力で『俺』を引っ張った。『俺』はようやく一、二歩後ずさりし、ゆっくりと歩き出す。途中でびっ、とコートが何かに引っ掛かる衝撃があったが、『俺』は構わず先に進んだ。
再び気づくと俺は自室に戻っていた。
俺も『俺』もベッドにのそのそ潜り込み……目覚ましの音が鳴り響く。
「……うえ……」
起き上がってがんがんする頭に唸って抱えた。
なんかとんでもない夢を見たぞ。
「うう」
人の首を絞めた夢だったぐらいしか覚えていないが、生々しいことこの上なく、特に、あの絞めていく手の感触はひどい。夢に悪酔いした気分だ。
カレンダーは休みの日だと告げていたが、もう眠る気にはなれなかった。
「うぷ…」
口を押さえて吐き気をこらえつつ、部屋を出て食堂へ向かう。
「……これが唯一…」
入ろうとする直前、ひそひそ声が聞こえた。
「手がかり…」
てがかり?
「……一体誰でしょう」
心配そうな高野の声に立ち止まる。
「それなんだ、ぼくの気になるのは」
周一郎が静かに応じた。
「ぼくはあの時、何の殺気も感じなかった……いや、それどころか目覚めることもなかった…」
不安げというよりは不思議そうな声だ。
「どうしてだろう?」
「………あるいは……」
高野が何か言いかけたのに、ドアに近づき過ぎて思わず扉を押し開けてしまった。溢れ出た眩さに思わず目を細める。
「おはようございます、滝さん」
その光の中から、周一郎が声をかけてきた。
心なしか青白い顔、サングラスが染みのように黒々と沈んでいる。珍しく、白いタートルネックのセーターに焦茶のスラックスという出で立ちだ。
「あ、おはよう……どうかしたのか?」
「え?」
「顔色が悪いぞ」
「ええ、実は…」
「にゃああ〜〜〜ん」
言いよどんだ周一郎の足下に、青灰色の光がじゃれついた。
ルトだ。
「ルト」
呼びかけて周一郎はルトを抱き上げた。気持ち良さそうにルトが一瞬目を細め、周一郎の腕に体をすり寄せる。その光景がまるで映画の一場面のように綺麗で、思わずぽかんとしてしまう。
と、ルトがはっと首をもたげ、忘れていた、と言いたげに周一郎の膝から滑り降りた。
「ルト?」
サングラスの奥の瞳を一瞬きらりと光らせ、周一郎はルトの後を目で追った。
外へ走り出て行ったルトは、何かをくわえてずるずるひっぱって来、小猫には荷が重いのだ、さっさと手伝えと言いたげに数歩向こうで立ち止まる。
「にゃっ!」
「何だ?」
警告するような鋭い鳴き声に、周一郎が緊張した声を返し、すらりと立ってルトの側へ近寄った。
「何をお前……」
ふいに、こちらに向けた周一郎の背中がぴくんと強張った。ことばが宙に途切れる。周一郎がゆっくりとそれを持ち上げる。
「あれ?」
思わず頓狂な声を上げてしまった。ルトが引きずってきたのは、他でもない、俺の一張羅のコートなのだ。
「……滝さん、これはあなたのものですか?」
俺に背中を向けたままじっとそれを眺めていた周一郎が、低い声で尋ねてきた。声が微かに震えているように思える。
周一郎の手の中のコートをもう一度見る。
確かに俺のだ。
「うん……けど…上から三つ目のボタンは千切れてなかったぞ?」
「っ!」
続けたことばに、周一郎は弾かれたように肩越しに振り返った。
顔は蒼白、唇も真っ白だ。サングラスの奥で瞳が揺れている。何かを言いたげに開かれた口が、ふわふわ動く。
「どう…し」
「周一郎?」
俺の声に周一郎は顔を背けた。そのまま、眩んだ視界をはっきりさせようとでもするように、二、三度首を振る。妙に幼い仕草だった。まるで、小さな子どもがいやいやをするような……やがて、妙に沈んだ表情でこちらへ向き直る。
「あなたの……なんですね…?」
縋るような声、そう感じた。周一郎が縋ることなどあり得ない、そのはずなのに。下唇を小さく噛む、その動きもどこか頼りない。
「ああ、でも…一体ルトはどこから持って来たんだ?」
俺は首を捻った。
「確か、昨日の夜はタンスに入れたし…」
「……っ」
周一郎が俺を詰る、一瞬、そんな気がした。く、っと顔を振り上げた相手が体を強張らせたまま、俺を貫くように凝視する。
それがあまりにも訴えかけるようで、そろそろと尋ねる。
「……どこかに落ちてた、のかな…?」